親ガチャ

「親ガチャ」という言葉を聞くことがあります。これは「子どもたちが親を選ぶことが出来ない」という最近のスマホゲームからきた言葉だと思いますが、なかなか衝撃的な言葉です。では、親は子どもたちにとってどれだけの影響があるのでしょうか。このことの研究はいくつかあります。

 

一つは1970年代の社会学で注目された「文化的再生産論」です。これはフランスの社会学者のピエール・ブルデューが提唱した「子どもが育つ家庭の文化資本の違いが子どもの資質能力の差となって現れ、その差が子どもの社会的地位の差となって再生産される」という考えです。具体的に言うと「親が学歴も高く、教養もあり、社会的地位も高く、それに見合って、経済的にも余裕があり、豊かで文化的な生活を営んでいる家庭の子は、親と同じような学歴と教養と文化を身につけ、結果的に親と同じような社会的地位を得る」ということです。そして、この逆もあると言われています。そして、これは学歴だけではなく、趣味などの教養も同様であると言えます。

 

これとは別にイギリスの言語社会学者のバージル・バーンシュタインは両親の言葉に注目した学者もいました。親の言葉がけを「限定コード」と「精密コード」とに分け、より言葉がけの描写が細かく、聞いている人がその場に居なくてもどういう内容化ほぼ正確に理解できるような言葉がけが「精密コード」で「限定コード」は聞いている人もそこの場に居て、実際に見て居なかったらどういったことが起こったのか、詳しいことが分からない言葉がけを指します。こういった言葉がけの違いは子どもの頭の中で思い描く図柄や具体的な中身に大きな違いが出てくると言います。結果、子どもの脳の形成過程に影響を及ぼし、能力差となって学校の成績につながってしまうとしました。

 

これらのことを踏まえた時に、大人は子どもたちにどのような影響をあたえるのでしょうか。「親ガチャ」はどちらかというと文化的再生産論に近い考え方であるように思いますが、どちらかというと経済的なところに重点があるように思います。しかし、文化的再生産論においてもバージルの論においても、それだけではないように思います。経済的なものが無くても、親の興味や関心、趣味といった教養に子どもたちは影響を受けているということが分かります。そして、それは親との関わりにも大きな影響を与えられるのです。そう考えると経済的な格差というのは最後の問題であるのかもしれません。

 

しかし、そうはいっても、親の経済格差というのは子どもの学力であったり、成績などの格差になるのは間違いないようです。

社会的自我論

人はどのようにして「自分」というものを知っていくのでしょうか。なかなか難しい問題です。こんなことがありました。職場で陰口や噂でストレスを感じる人がいました。その人はそういった言葉に対して、周りの人たちに疑心暗鬼になってしまいより深い悩みにハマってしまいました。しかし、意外と噂している人自体は自分がその原因になっていると思いっていなかったり、そんなつもりで行ったのではなかったり、大げさに言ってしまったことを自覚していないこともしばしばあります。ヒトは悪い噂に敏感です。

 

私自身も過去に対人関係で悩んだことがありましたが、その頃は何を注意されても何を言われてもどちらかというと「私は頑張っている、相手が分かってくれないんだ」と相手のせいにしている事ばかりでした。しかし、そんなときも私の話を聞いてくれた仲間や先輩たちと話をする中で「自分も悪いところがある」と聞いてくれる中に叱咤されることもあり、自分と向き合うことで、自分の殻が破けたように思います。結果、今の生活において、過去の対人関係のトラブルはいい教訓となり、繰り返しトラブルがありながらも、ポジティブに捉えることが出来るようになった気がします。このような経験から自我というのは自分と向き合うことで磨き上げられるのではないかと私は思っています。逆に、人のせいにすると言った姿勢ではいつまでたっても自分が磨かれることが出来ず、最悪、世の中に絶望してしまい心を病んでしまってしまうように思います。

 

この自我を理解するにあたって研究した心理学者がいます。それがアメリカの社会心理学者G・H・ミード氏です。ミードは「社会的自我論」を提唱しました。それは人格形成にあたって「他者」の存在と他者との関わりは大切であるといったのです。ミードは自我を「I(自我)」と「Me(客我)」に分けて考えます。「I」がどんな中身のものか実は本人にもわからないもので、他者と関わる中で、他者から「あなたは○○な人ね。すごいですね」とか「せっかちね」など、声を掛けられていくなかで、自分「Me」を自覚できるようになると説明しました。そのため、人との多様な相互作用(行為のやり取り)を通して、自分がどんな能力や特性を持った人間かが分かるというのです。そして、「多様な他者との頻繁な交流無しには社会的自我が形成されない。」といい「他者あっての私(自我)」だといったのです。

 

この一文は「自分と向かうか他者のせいにするかで磨かれる」ということにも繋がるように思います。そして、噂や陰口をする人に対しても、もしかしたら、自分のことを気付かせる環境が無かったからや、人のせいにして、自分と向き合うという事をしてこなかった人だから、起きてしまった関係なのかもしれないと思いました。改めてヒトは社会の中で生きており、社会において育てられるのだということが分かります。そして、困難があっても、謙虚に自分に向き合い、自分自身を改善へと変化させていく過程にこそ学びがあるということが言えるのだと思います。それと同時に、子どもたちを保育していくにあたって、言葉がけを考えていかなければいけません。私たちが思っているよりも子どもたちは敏感に言葉を受け取っているかもしれません。不用意に言った注意や指導が子どもたちの自信を失わせている可能性があるのです。

 

改めて、子どもたちと関わるにあたって、大人こそ、子どもたちをポジティブにとらえ、夢を載せていくような愛のある言葉を掛けなければいけないのでしょうね。

 

集団の運営における言葉というのは常にポジティブであらなければいけないということをこの社会的自我論から読み取れます。

必要な活動

ある保育士の先生と話をしました。その質問であったのが、クッキングの活動での選択についてで、その活動を年齢別でするか、選択制にするかということでした。そして、その先生は子どもたちのやりたいことを尊重して包丁を使うのかどうかを年少児から選択させてあげたいといった内容でした。しかし、その反面、他の職員はやはり包丁は危ないから年齢別で行った方が良いのではないかという意見が出たそうです。そのうえで、やりたくない子はやらなくてもいいというような柔軟性をもたせて、やるかどうかを選ばせてあげたほうが良いのではという意見がでました。結局、後者の年齢別での選択に決まったのですが、これについてどう思うかと意見を求められたのです。

 

そこで私はこの質問に対して、どちらの意見も考え方はわかるようと返答しました。ただ、問題はその活動のねらいや内容をどう考えるかによって取る方法を考えなければいけないと思います。そのため、何を目的とするのかという整理が必要です。この先生が考えた方法は「子どもたちに選択させる」ということです。これは「子どもたちの習熟度であったり、やりたい気持ちを尊重する」ということが大きな目的になります。比べて、後者のやり方の利点というのは「年長児なので話が伝わりやすく怪我しにくい」ということが大きな利点ではありますが、それと同時に「年長の子どもたちは包丁を使うという特別感がある」ということもあります。そして、それは「年長になったらこれができる」といった年少・年中児にとっては期待を持つ機会になります。そして、年長児に憧れるという意味合いでもあります。

 

では、デメリットとしてはどうでしょうか。「子どもたちの選択」を優先した場合、問題となるのは年少や年中児が危険にならないように配慮しなければいけないということがあるように、前提として「ルールが守れる子ども」というのが条件になってきます。後者の「年齢別」の場合は、「子どもたちのやりたい気持ちを我慢させなければいけない」というところにデメリットがあります。

 

こうった条件を踏まえて考えると、どちらもメリットがありデメリットがあることが分かります。結果、「どちらも正解で、どちらも不正解」というのが結論になります。では、そういった場合、どう考えたらいいのか、ここからが保育をする上で大切なことになってきます。

 

大切なのは、クッキングで子どもたちに何を感じてほしくて、何をすることが今必要かということを考えることが重要になってきます。何が言いたいのかというと「何が正解か」というのはその先生が「正しいと思ったこと」ではなく、「どちらの方が今の子どもたちにとって必要な活動であるのか」を考えることです。これは当たり前のことなのですが、わりと陥りがちになってしまうことが多いように思います。そうなると「活動をすること」が目的になってしまい、その活動と子どもの実態とがズレてしまうことが起きてしまうのです。そうならないためには今の子どもの状況をしっかりと見極める必要があります。子どもに目が向いていないと必要な活動も的が外れてしまうのです。

 

そのため、保育に大切なことは絵本を読むことやピアノを弾くということではなく、「子どもの状況をしっかりと見極める」ことや「子どもに共感してあげる」という力が保育士として磨いていかなければいけない力なのだと思います。

他者の喪失とコロナ禍

門脇氏が言う「他者の喪失」を招いた理由の一つが、社会構成の変化と農村部の過疎化に伴う地域社会の崩壊、そして、最後の一つが「テレビゲームやゲーム機の普及による直接的な人的交流の減少」です。

 

テレビやゲーム機の子どもに対する悪影響というのはこれまでもずっと言われてきましたし、多くの大人はそれが子どもの発達について「良い」とは思っている人は少ないのではないでしょうか。このことについて門脇氏は東北大学教授の川島隆太氏の「やってはいけない脳の習慣」(青春出版社、2016)を紹介しています。ここには「テレビを見たりゲームをしているときは脳の前頭前野、物事を考えたり自分の行動をコントロールする力にとって非常に重要な部分の血流が下がり、働きが低下します。そのため、テレビやゲームで長時間遊んだ後に本を読んでも理解力が低下してしまうというデータも報告されています。テレビを長時間視聴した子どもは、思考や言語を司る部分の発達が悪くなってしまうことも分かっている」と書かれています。それと同時に門脇氏は「メディア聞きにしろ、IT機器にしろ、機器と関わる時間が長くなればなるほど、生きた生身の人間と直に関わる交流や接触の時間がそれだけ少なくなる」と言っています。つまり、単に脳の働きの低下だけに限らず、人と関わる時間もゲームやテレビに費やされてしまい、社会力すらも育ちづらい環境になってしまうのではないかというのです。

 

この考えは新型コロナウィルス感染症による子どもの自粛生活への影響としてもよくよく考えていかなければいけない考えであるように思います。緊急事態宣言下においては子どもたちは家での保育を行っていました。当然、保護者と一緒に居たのだろうと思いますが、兄弟がいない子どもたちは一人で遊ぶしかありません。保護者の方々の話を聞いていても、なかなか外にも出られなかったと言います。なおかつ、ずっと保護者と関わるということもできないでしょうから、こういった自粛生活が長ければ長いほど、門脇氏のいう「他者の喪失」という時間がより多くなってきてしまうと思うのです。

 

そして、この他者の喪失が起きたときにどうなるかというと、門脇氏は「他者の喪失がもたらした社会的な病理現象として、私はとりあえず、いじめと、ひきこもりと児童虐待増加の3つを挙げておく」と言っています。まさに、ひきこもりと児童虐待の増加はコロナ禍で問題になった事柄です。ただ、この問題はコロナ禍以上に、これからの社会で最も問題になってくることかもしれません。日経新聞の11月15日の日本経済新聞に不登校の増加が記事になっていました。特に低学年での増加がみられ、幼稚園・保育所の段階から登園渋りの傾向があると書かれていました。

 

これから起きてくる問題において、社会力が関わるような問題の増加はおきてくるかもしれませんね。それと同時に、幼稚園などの教育・保育機関のあるべき姿というのはこれまでとはまた違った質を求められてくるもののように思います。

他者と日本語

門脇氏は「社会力を高めようと自覚する」ということと同時に「ヒトと何かを一緒にしたり、やれることを誰かのためにやってあげ、良い関係を作り、お互いの理解を深めるように心がければ社会力は上がるといっています。」と言っています。つまり、人と関わり合うことで社会力は育つということを言っているのです。

 

このことにおいて、門脇氏は日本人はもともと社会力が高い民族であると言っています。それは「自分」という言葉の多さです。英語では私に相当するのは「I」です。ドイツ語では「Ich」フランス語では「Je」で、誰であろうとも「私は~~」と伝えるときには、これらの単語を使って表します。しかし、日本語であると、自分が相手している相手によって変わっていくというのです。たとえば、目上にたいしては「わたくし」であったり、同僚や仲間であれば「ぼく」、生徒であれば「せんせい」、家庭といった環境だと、妻には「おれ」や「じぶん」、子どもに対しては「おとうさん、おかあさん」、近所の子どもには「おじちゃん」といったように、呼び方が変わってくるのです。日本語のこういった特徴から見ても、いかに他者を優先する考え方が文化としてあるかということが見えてきます。

 

こういったことについて 慶応大学の名誉教授であり、言語社会学者の鈴木孝夫氏の言葉を紹介し門脇氏はこう言っています。「日本人は相手の出方、他人の意見をもとにしてそれと自分の意見をどう調和させるかという相手待ちが得意であるとか、他の人が意見なり願望なりを言葉で行動で明確に表明しないうちに、いち早くそれを察知して自分の行動を相手にあわせていくことが少なくないとか、『察しが良い』『気が利く』『思いやりがある』などという言い方が今では誉め言葉になっていることなどを引き合いに出し、そうした日本人の感性を大事にしなければならない」と言っています。こういった言葉を見ても、確かに日本において、相手の気持ちを読み取ることや他者の心情を理解するということが美徳とされている部分があります。

 

思い返してみると、確かに日本語というのは、常に他者に向けられて話がされている文面であるということが伺えます。これは日本の誇るべき文化ですね。それらが無くなっているというのはあまりにも寂しいことです。では、なぜ、「他者の喪失」というものがおきてしまっているのでしょうか。そこには3つの要因があると門脇氏は言っています。