観察からの心の理解

乳児は自分の反応にものに対して、心があると考えるようです。そして、かなり奇妙な姿をしたものでも、心があると考え、鳴き声や光、動きのパターンはそれが見たいもの、したいことを表しているのだと思い、それに応じて振る舞ったのが分かりました。赤ちゃんが心があるかどうかを判断する基準はそのもの自体がどういった反応をするのかを観察するところにあるのですね。

 

では、次に幼児はどのような心の理解をしているのでしょうか。4歳児になると他人の心を統計的パターンから推論できるようになるとゴプニックは言います。これもブリケット探知機と同じ手法で確かめた実験があります。この実験ではブリケット(ブロック)ではなく、おもちゃのウサギを使います。ウサギをバスケットに入れて、子どもに「ウサちゃんには怖い動物と怖くない動物がいます。怖いのはどれでしょう?」と聞いて、バスケットに他の動物のおもちゃを入れたときのウサギの反応をいろいろなパターンで見せます。バスケットにシマウマが入るとウサギは怖がって震えます。しかし、ゾウが入ったときには、ウサギは喜びます。次にシマウマとゾウが一緒に現れると、ウサギはまた震えます。ここまでのパターンを見た子どもはゾウという要因を排除して、ウサちゃんが怖いのはシマウマだという正解を出せるかを実験しました。そうすると4歳の子どもは、パターンを正しく分析し、正解を答えました。それだけではなく、ウサちゃんが安心するようシマウマをバスケットから出してあげることもできます。つまりこれは、得たばかりの知識に基づいて、介入を行いウサギの世界を変えられたのです。

 

子どもは人の性格もこれと同じように判断していることもわかりました。このほかにもゴプニックはエリザベス・シーヴァーと共に4歳の子どもにトランポリンと自転車で遊ぶ人形のアンナとジョシ―の様子を見せる実験をしました。その内容は子どもたちを2つのグループに分けます。半分にはアンナはトランポリンで楽しそうに跳ね。自転車に4回のうち3回飛び乗れました。ジョシ―はトランポリンで跳ねれず。自転車にも4回のうち1回しか乗れません。次にもう一方の子どもたちにはアンナもジョシ―もトランポリンで4回のうち3回楽しそうに跳ねますが、自転車には4回のうち1回しか乗れないのを見せます。

 

その後、子どもたちにアンナとジョシーがこのような行動をした理由を説明してもらいます。すると、最初のグループはアンナは勇敢でジョシーは臆病だからだと言いました。さらに、見ていない場面、たとえば、飛び込み合いに上ったときも、アンナは勇敢に飛び込むだろうと予測しました。後のグループはアンナとジョシーがこのようにふるまったのは、トランポリンは安全で自転車は危ないと思ったからだと答えたのです。つまり、行動パターンの観察から性格を推論したのがわかります。

 

ただ、このような推論は当たることもありますが幼児であっても、大人であっても、乏しいデータから人の性格を判断しようとすると、間違いも起こると言います。確かに、一見、良い人のように見えても、実際のところはそうではないということはよくあります。詐欺なんかもこういった推論の間違いをうまく使って言える犯罪です。イランのアブグレイブ刑務所で囚人を虐待して罪に囚われた米軍の看守たちは、世間から悪魔のような奴と決めつけられましたが、心理学者が行った実験によれば、これと同じ状況に置かれたら、多くの人がこの看守と同じことをするだろう言ったのです。

 

この様子から見ていると4歳の子どもであっても、大人と同じくらいの相手の性格の推論を行っているということが見えてきます。また、ゴプニックは子どもの心の理解において、観察だけではなく、実験を通じても心を理解すると言っています。

乳児の心の理解

ゴプニックは1歳の赤ちゃんでも、物事への反応によって、人と物を判別していると言います。心理学者スーザン・ジョンソンはどう見ても人間ではない土くれのような塊を作り、赤ちゃんが声を立てれば鳴き返し、赤ちゃんが動けば光るというふうに、赤ちゃんの行動に随伴した反応をさせました。さらに、まったく同じものをもう一体作り、こちらは赤ちゃんの行動とは無関係に勝手に鳴いたり光ったりするようにしました。塊の行動と赤ちゃんの行動の関係を変えたのです。

 

次にそれぞれの塊をクルリと回し、赤ちゃんと正反対を向かせました。すると赤ちゃんは自分に反応して鳴いたり光ったりする塊が「見ている」方向は目で追いますが、そうではない塊の「目線」は追いませんでした。赤ちゃんは、自分に反応する塊だけに物が見えていると考えたのでしょう。赤ちゃんは自分に反応する塊に対して、より多く発声したり、体を動かしたりしました。さらに赤ちゃんは、自分に反応する塊には意図があり、願望を持つとも考えたようでした。

 

以前紹介したダンベル実験でも、大人がおもちゃのダンベルを切り離せないのを見た赤ちゃんは、その人がやろうとしていた意図を理解し、ダンベルを受け取るとこれを切り離しました。ジョンソンはこれと同じことを機会にやらせ、それを赤ちゃんに見せても、赤ちゃんはダンベルを切り離そうとはしませんでした。ところが、その機会に反応性をもたせ、鳴いたり、光ったりできるようにすると、赤ちゃんはその機械がおもちゃを切り離したがっているかのように振る舞いました。このように赤ちゃんは、反応するものであれば、かなり奇妙な姿をしたものでも心があると考え、鳴き声や光、動きのパターンはそれが見たいもの、したいことを表しているのだと思い、それに応じて振る舞ったといいます。

 

人と物との区別というのはあまりこれまで考えたことはなかったですが、確かに赤ちゃんはものと人とを明確に区別しているというのは分かります。しかも、反応するものであれば、光でも泣き声でも、動きのパターンでも、その意図を理解し、それに応じて振る舞いをしたと言います。それだけ、物においても、「心」があったり、「意図」があるということを理解しているのです。

 

では、次に幼児はどのようにして心の理解を示すのでしょうか。赤ちゃんにおいては相手に意図や心があるということが先ほどまでの様子で見えてきました。幼児は4歳になると「他人の心の統計的パターンから推論できるようになる」ということがブリケット探知機と同じ手法で行われた実験で見えてきました。

人と物との違い

これまでゴプニックらの実験をもとに歯車のおもちゃやブリケット探知機の実験を通して、赤ちゃんの物理的因果関係の学習を見てきました。では、次に今度は物理的なものの因果関係ではなく、心の因果関係を赤ちゃんがどう学習していくのかということにゴプニックは言及しています。子どもは物理的な因果関係と同様に心理的な因果関係も熱心に学びます。当然、生まれたばかりの赤ちゃんはまだ、感情と行動の関係は当然ながら分かっていません。しかし、そのご、成長するにつれて、願望、知覚、信念、性格、気分、偏見といったものから「源氏物語」やプルーストの小説に描かれるような人間心理の機微まで理解するようになります。こうなっていくにあたって、子どもたちはどのように他の人の心を理解していくのでしょうか。

 

ゴプニックは「これも、物理的な因果関係を学ぶときとよく似ている」と言います。つまり、ブリケット探知機や歯車オモチャと同じように心の理解においても統計的なパターンをもとに相手に心を持つかどうかを判定していると言います。つまり、「人ともの」をこの統計的なパターンから判定しているというのです。

 

では、人間とものとの違いはどこにあるのでしょうか。ゴプニックは物体を操作した時の結果は、たいていが「全か無か」、つまり白黒がはっきりしていると言います。たとえば、ボールを持つと、ボールは人の体に合わせて動きます。しかし、ボールを下に置くと、人の動きに動じることはなく、一切応じることはなくなります。一方、人間の場合、反応は複雑で微妙なものになります。赤ちゃんが母親に笑いかければ、母親は笑い返すこともあれば、ぼんやりしていたり、忙しく笑ってくれたりしないこともあります。母親が笑顔を返せば、赤ちゃんも笑顔を向け、母親はさらに笑顔を返します。こういったように反応に複雑に連鎖するのが人間の特徴なのです。では、何も待たない物体が、人間のような反応をした場合、どう感じるのでしょうか。こういった場合、私たちはこういった反応を返されるとそれは物体であっても、心を持っているような気になると言います。確かに、以前流行った「ペッパー君」なんかもそうですね。あの機器は決して有機的な心があるわけではありません。無機質なプログラミングをされたものです。しかし、こちらの言葉に的確に言葉が返ってくるのをみていると、相手に心がないのを理解しても、まるで生きているものであるかのように感じてしまいます。もっというと、バイクや車をよく人に見立てることをします。「今日は猿人の機嫌がいい」とか、時にはまったくかからない時もあったり、とまるで人のように機嫌を持っているかのような動きをします。

 

こういった人の動きの予測とは違う動きをしたものに人は心があるように感じるようです。では、赤ちゃんはこういった心の機微をどのように理解しているのでしょうか。このように感じることは赤ちゃんのころから理解しているのでしょうか。

模倣と遊び

これまでの実験を通してわかることは、子どもは赤ちゃんと言われるころから、他の人や養育者の行動を見て、因果学習をしているということが分かります。つまり、幼児に何かして見せたり、真似をさせることが、因果学習を促しているというのです。これは様々な文化特有の技術や道具の使い方もこうした「実演」によって受け継がれてきたというのです。

 

この「実演」による教育は何も工業化された現代だけに言えるものではありません。例えば、グアテマラのマヤ族の母子を研究したバーバラ・ロゴフは、マヤの子どもたちがごく幼いうちから複雑で危険な道具を使いこなす点に注目しました。すると、マヤの子どもたちは赤ん坊のときからいつも道具を使う大人たちと一緒です。それは村の広場が仕事場であり、保育園でもあるからで、そういった環境の中においては、子どもたちは常に大人のすることを見ながら育ちます。そして、この種の実演は、伝えるためだけではなく、変革の手段としてもとても有効だと言います。なぜなら、時としてたまたま発想か運に恵まれた人が思いついた技術によって、集落全体や子どもたちに伝わると、次世代ではそれが半ば天性のようになっているかもしれません。こういった技術革新は今の時代でも数多く起きています。

 

子どもは人のする特定の行動が何をもたらすか、他の人のする実験や介入が何をもたらすかを観察し、それを因果マップにして取り込みます。こうして頭の中に描かれた因果マップは、同じ結果を何度も出せるだけでなく、それとは違う可能性を検討したり、計画を立てたり、色々なことに応用できるのです。大人が歯車オモチャを操るのを見た子どもはそれを真似しているうちに、歯車の仕組みを覚えました。子どもは真似をしながら道具の仕組みを覚えます。基本的な仕組みさえ押さえてしまえば、初めての作業にも応用が利くのだとゴプニックは言っています。

 

こういった子どもの学習のプロセスを見ているとやはりモデルの存在というのは大切ですね。現在、自分が勤務する園では異年齢での保育を行っています。乳児においても、クラスで別れるというよりは子どもの発達によって分けることや、遊びによってクラスを行き来することがあります。幼児になると3~5歳児までを一つの教室で見るので、その中ででも真似をすることや遊びが広がることが多々あります。その中で起きる真似はよく見ると発達にあったものであるということが伺えます。いくら真似をすると言っても、自分が全くできないものはすぐに飽きてしまいます。子どもたちにとっては「もう少しでできそう」というものに一番楽しみ集中する様子を考えると、その答えは、近くに居る大人の環境もあるでしょうが、少し先の発達を見せる年齢の友だちの重要性もあるように思います。大人においても、子どもにおいても、憧れを持つことが真似の意欲にもなるのではないでしょうか。

 

また、遊びの中で、いろんなことを試し、不思議なことを自分なりに検証しつくせるような環境も必要なのだろうと思います。ゴプニックは「時としてたまたま発想か運に恵まれた人が思いついた技術」とありますが、このようにふとした瞬間に遊びの幅が広がる姿はよく見られます。子どもの遊びにおいて、こういったちょっとした発見をたくさんすることが、その先の学習意識や動機にもつながっていくのでしょうね。そう思うと、乳幼児期にしっかりと遊び込む経験というのが後に学習意欲につながるというのも分かる気がします。

真似る。模倣。環境

赤ちゃんは「観察」をもとに、人の行っている行動を自分の行動と認識し、他人のする実験や介入の結果から学ぶことができるようになることで、学習の範囲が一気に広がると言います。こういった観察を通して、物事の因果学習をしているとゴプニックは言います。それは赤ちゃんも同じく行動から学ぶと言っています。

 

この様子は保育の中でも様々な場面で見ます。今自園では、昼食時、自分のエプロンやタオルを汚れ物袋に1歳児クラスの子どもたちはいれています。その様子を見て、0歳児クラスの子どもも先生の手を借りながらですが、同じようにタオルやエプロンを入れているのを見ているとそれだけ、模倣が起きていることが見えてきますし、模倣がおきるということはそれだけ観察を通して学んでいるということでもあるのが伺えます。

 

アンディ・メルツォフは模倣研究の第一人者です。1970年代にはすでに赤ちゃんは生まれたときから、他人の仕草や行動を真似することを研究によって示してきました。9ヶ月の赤ちゃんは模倣を使った因果学習もできます。他人の行動を漠然と真似るのではなく、それをしたらどうなるか知ったうえで、同じ結果を起こそうとして真似をしてみるのです。まさに、0歳児クラスの赤ちゃんの起こしている行動ですね。実験では、研究室にやってきた1歳の子に、実験者が自分の頭で箱を小突くと箱が光るのを見せます。すると、その1週間後に再び研究室にやってきたその子は、机の上に箱があるのに気づくや、自分の頭でそれを小突き光らせようとしたのです。

 

1歳半になるともっと洗練された学習ができるようになります。ジェルジ・ゲルゲイは、先ほどの模倣実験を2つのパターンに分けました。一方は先ほどと同じ、もう一方は毛布で体をくるみ、両手を使えない状態にして行います。この両方を赤ちゃんに見せると、先ほどのように手が使える人が頭で箱を小突いたのを見た赤ちゃんは、真似をして頭を箱につけます。しかし、毛布にくるまれた人が頭で箱を小突くのを見たときは、赤ちゃんは頭ではなく、手を使ったのです。これはつまり、同じことをするだけでなく、手が使えるときは手を使って、手が使えない時は頭を使うのだということも学んだのです。

 

メルツォフの別の実験では、2つに切り離せるダンベルを使って、実験者がそのダンベルを切り離せない様子を赤ちゃんに見せます。それからダンベルを赤ちゃんに渡すと、何と赤ちゃんはこれをあっさり切り離してしまうのです。子どもは他人の成功からだけではなく、失敗からも学ぶことができるのです。赤ちゃんはこのように誰かの真似をしながら、人間がもつ意図、それを果たすための行動、その結果が織りなす複雑な因果関係を徐々に学んでいくのです。

4歳になると、他人のする実験、介入から得た情報をもとにとても複雑な因果推論ができるようになるとゴプニックは言います。たとえば、前回、ゴプニックとシュルツが行ったスイッチを押すと歯車が回る「歯車おもちゃ」実験では、子どもたちはオモチャの仕組みが分かるまで自分自身でいろいろな介入をしたというのを紹介しましたが、大人がやるのを見るだけでも、その仕組みを学べることができたのです。

 

幼児になるにつれ、乳児とは違い、複雑な模倣ができるようになる姿はよく見ます。そこには乳児からの因果構造を知る活動を行っていくことで、次第にその力が深まっているからできるのでしょう。そして、そのためには多くのモデルを見なければいけません。よく、保育において、兄弟がいる子どもと、一人っ子の製作を比べると、兄弟児の方が割と面白いことをすることが多いのはそれだけモデルを見ているということなのだろうと思います。模倣というの活動は今後の子どもの力を伸ばすにあたって非常に重要な「環境」であるということが見えてきます。