教育の原点

寺子屋は昔から庶民の文化から根差した教育体系であるということが分かっています。日本は過去の歴史から見ても、非常に識字率の高い国であると言われています。大陸から漢字が伝来し、漢字はかな文字を生み出します。このように日本では、中国や朝鮮で使用された漢文とは異なる文体を作り上げてきたのです。こうした漢字文化の改良と発展によって18世紀の末には、日本の識字率は世界の先進国と比べても驚異的な高さに到達しました。

 

その後、文字学びは中世末期ごろより、庶民の中で普及し始め、近世に入ると「読み・書き」を中心とする庶民の文字学びの「場」として、寺子屋が自然発生的に登場してきました。こうした寺子屋の普及は庶民経済の活況と町人文化の台頭が、日常的に「文字」を使用する生活を成立させていたことを物語っていると沖田氏は言います。

 

ではそもそも、「文字」というものはどこから来たのでしょうか。古代社会において、文字文化が朝鮮から渡来人によってもたらされたことは、古代の大刀や鏡に刻まれた文字から明らかになっています。しかし、古代の法律である「大宝令」に定められた「学令」によると、学校教育を受けて、文字文化を学び、それを共有したのは、最初は朝廷周辺の限られた人々であったそうです。その後、文字文化は貴族から上級武士、さらには庶民へと徐々に広く伝わってきたと言います。

 

また、庶民が「学ぶ」原点は鎌倉新仏教の登場から始まっているようです。難解な仏教の教義を分かりやすく民衆に理解させるために、様々な工夫を生み出されました。この頃行われたのが、高僧の行状や地獄図・極楽図などの絵画を見せてその教えを説いたり、僧侶が街の辻に立って、民衆に語りかける「辻説法」と呼ばれる方法などで教義を教える「聞き学び」を浸透させました。

 

絵画を見せてその教えを説く方法は「絵解き」といいます。これは今の教育学で言うところの「直感教授法」であり、現在でいえば、視聴覚教育といえると沖田氏は言います。このような「聞き学び」という方法が、教育の原点であり、やがて「文字学び」へと発展する前段階の学びの形態であるのです。たとえば、「御伽草子」も、身分の高い貴人の側にいて様々な話を聞かせて慰めることを「御伽」というがその言葉の通り、その原初は「聞き学び」にあるのです。読み物として普及してくるのは近世に入ってからです。

 

日本における教育の始まりは「聞き学び」から始まったのですね。この様子を見ていると、「漫画」の起源もこういった説法からの絵解きからつながっているように思います。それと同時に、こういった「聞き学び」が説法から入ったということですが、そもそもこういったことを聞く人が多かったというのもあるのでしょう。こういった伝承されていく知識というのは古代からあったのだと思います。人間はこうやって過去の知識を得て、今に生かすことで生存戦略を生き延びてきたのです。「学ぶ」というのは人間における「生きる力」でもあるのです。

 

保育においても、最近はあまり聞きませんが「素話」という文化がありました。その文化は園本の普及とともに聞かなくなりましたが、私は自分の経験上、寝る前にお話を読んでもらっていました。まさに「御伽草子」ですね。こういった文化は今でも残っていますし、学ぶプロセスというは今においても昔においても変わらないものがあるのですね。

過去から学ぶもの

学制が1972年に日本に導入される以前は寺子屋や藩校といった庶民の中で学ぶことがあり、庶民の生活の中で教育というものが行われていました。民俗学者の柳田国男は前近代の教育つまり、学制が行われる前の教育について「一人前になる教育」といって再評価をしていました。柳田国男は「前近代では家や村や地域共同体には、1人の人間の誕生から人生の終焉を迎えるまで、さまざまな行事や祭りを通して「学び」を経験する「場」が存在した。子どもは家の子どもであるばかりではなく、村の子どもでもあった。遊びや労働など生活を通して人は絶え間なく学んでいた。」といっており、「近代の学校教育は「学び」を「教え」に変換し、教育を学校に閉じ込めてしまった」と言っています。

 

確かに「学校」というものが始まるまで、人が学ぶというのは村や家庭、いわゆる伝承といった形で教えられることが多かったのではないでしょうか。つまり、「家を継ぐ」という概念も強くあったでしょうし、地域のつながりというのは今の時代よりももっと濃密であり、生活そのものが学ぶ場であったのです。

 

そして、そういった生活の中にある学びの場と共に変化していったものは「教育が金銭で売買される」ということです。今の時代、「学校に通う」ために金銭のやりとりがあるのは当たり前になっています。しかし、人間の心と魂が金銭で売買できないのと同様、心と魂を研くことによって人格を形成する学問や教育も、決して金銭と等価に扱うことができないと人々が信じて疑わなかった時代もあったと沖田は「日本国民をつくった教育」の中で言っています。つまり、「学校の存在しなかった時代には、人生を生き抜くためのさまざまな学びの形態があった。」というのです。そして、こういった時代の豊かな教育を振り返ることによって、新しい教育のイメージを書き出すことができるかもしれないと言っています。

 

これは最近私も同様に思うことです。なので、今回、この沖田行司氏の本を通して、ブログを書くことにしたのですが、教育基本法には「人格の形成」ということが書かれていますし、乳幼児教育においても「人格形成の基礎」という文字が書かれています。教育や保育というものは本来そういったことが求められているのです。しかし、いつの間にか、そういった「生きる力の基礎」となるものから、成績や評価といったものに教育の主体かが変わってきているのではないかと感じることが多くなりました。それ自体、社会において必要なものである一方で、知識偏重になってしまうというのもどうなのかと思うのです。

 

柳田国男氏の話の中にあった「生活の中にある学びの場」というものが少なくなってきている昨今で、教育現場というものはそういった元々は地域や村にあった「子ども同士の関わり」や「遊び」というものを提供する場も考えていかなければいけないのではないかと思うのです。そこで、過去の教育現場がどうであったのか、今よりももっと「主体的」な環境で勉強していたのではないかと思います。過去の教育に目を向けることで、今の教育でもう少し意識しなければいけない部分も見えてくるように思います。

「学校」の始まり

日本の近代教育の契機はペリーの黒船来航から始まっているようです。この時期、多くの情報が海外からもたらされ、日本からも多くの留学生が海外に出向き、西洋の進んだ教育情報を日本にもたらしました。その中でも、今の学校のような学制は1972年にもたらされ始まることになります。当時のこの学制はフランスの学区制とアメリカの教育内容を取捨選択して導入したものであったそうです。

 

当時の学制の理念を明示した太政官布告の「学事奨励に関する被仰出書(おおせいだされしょ)」では、「旧来の士農工商の身分制社会から四民平等の世の中をむかえ、日常生活に役立ち、しかも能力によって立身出世をめざす実学」が唱えられました。さらに「子どもを学校に行かせないのは父兄の落度である」という強制就学の方針が取られたのです。そして、このことはその後、納税・兵役と並んで国民の三大義務となりました。この学制は自由な学びの場であった江戸時代の寺子屋や私塾とはまったく異なる、強制された教えの場というように国から言われることになったようです。

 

それまでの庶民の教育は先ほど紹介した私塾や寺子屋が中心です。そして、この寺子屋や私塾は庶民の中から生まれた教育文化であり、教育伝統です。こういった庶民の中で親しまれた寺子屋教育が、「国(お上)」により学校にとってかわられたのです。このことから小学校に対して学制反対一揆がおきたほどです。そして、「隠れ寺子屋」というものが明治の中頃まで存続しました。

 

しかし、その一方でこの学制はこれまでの庶民に新たなチャンスを得る時期でもありました。なぜならそれまでの日本は「士農工商」のように封建的な身分制社会でしたが、明治維新において建前上は「四民平等」であり、明治政府は「現実の社会階層の差は『学ぶと学ばざる』とによって決定される差」と説き、教育を通して「立身出世」につながるとうたったのです。結果、明治国家の富国強兵策と結びつき教育における幻想を生み出しました。

 

今回参考にしている「日本国民をつくった教育」を書いた沖田行司さんは、この立身出世主義と教育が結びついたことにより、日本の近代教育を一貫してして支配してきたのは競争の原理だと言っています。そして、国家主導型の教育システムにおいて、立身出世とは個人と国家との距離感を縮めてゆくことを意味し、学問や教育だけではなく、経済・文化に至るまで、国家によって公認されたもの庶民も価値意を見出すという思考パターンが国民に浸透していくことにつながったのです。

 

今の学校制度というのはペリーが来航したころから入ってきた文化であったのですね。その頃から子どもに教育を受けさせるということが当たり前になってきたということが見えてきます。ではそれ以前の教育はどのような変遷を受けてきたのでしょうか

昔と今

以前から、保育のことを考えていくなかで、学校教育に疑問を感じることが多くなってきました。保育では、「主体性」や「自主性」というものをもとに「環境をとおした」保育を考えていき、実践していこうとしているのですが、よく保護者から、「そんな保育をして小学校でやっていけるのでしょうか」という質問を受けます。

 

「勉強」と聞いて私たちはどう感じるでしょうか。ベネッセが2014年に行った実態調査に「勉強をする理由」のアンケートを行いました。そこで76.3%の小学生は「勉強しないといけないと思うから」と回答しました。それが中学生になると「将来いい高校や大学に入りたいから」に78.4%が答えました。どうやら、今の時代学校教育を受ける生徒たちは「知る楽しさ」や「勉強することの楽しさ」よりも「しなければいけない」という義務感で勉強していたり、「将来何をしたいか」というよりも「いい大学に入る」というように大学に入ることが「手段」ではなく「目的」になっていることが多いようです。

 

話は変わりますが、以前NHKの歴史ドラマで「坂の上の雲」を見ました。明治維新の頃、主要産業が農業といった列国とは大きく遅れた日本が世界に名を連ねるほどの大国になり、日露戦争でその頃最強と言われたロシアのバルチック艦隊やコサック師団を破っていくほどの発展を遂げていきます。その日本が発展していく過程を見ていくのは胸を熱くする思いです。そして、劇中の登場人物は日本が発展していくことに夢を見て、切磋琢磨していきます。その頃の人たちにとって「勉強」や「学習」といったものはどうだったのでしょうか。そこには「勉強しなければいけない」という思いはなかっただろうと思います。

 

このことを例に挙げたのは決して戦争を理想化するのではなく、今の時代の「勉強はやらなければいけないもの」と明治時代の日本国の発展における人々の「学び」の意味を比べると、明治時代の人々は日本が世界に向かう国になっていくことを「夢」に見、発展し、時代が進んでいくことに「わくわく」したのではないかと思うのです。そして、なにより、なぜ、これほどまで急速に日本は発展していくことが出来たのだろうかということです。

 

2016年の内閣府の「今を生きる若者の意識~国際比較からみえてくるもの~」の調査に置いて、自己肯定感において諸外国の子どもたちが70~80%くらいなのに対して、日本は44%しかおらず、諸外国に比べると低いことが分かりました。将来の希望に関しても、諸外国が80%~90%なのに対し、日本は66%とこれも低いことが分かります。日本において若い人たちは将来に対してや自分に対してネガティブな印象をもっているのです。悲観的になるのではなく、将来にポジティブになっていくにはどうしたらいいのでしょうか。保育や教育において、子どもたちにどういったことを伝えることが、将来明るい印象を持って、社会に生きる力を与えることになるのでしょうか。

言葉の発達する環境

最後の言葉の獲得につながる土台は「物の認知」です。言葉の発達は物の認知にも大きく関わるのです。これは前回のコミュニケーションの内容でもお伝えしていましたが、赤ちゃんの関係性は発達するにつれて、1項関係から2項関係、それからものを介した3項関係になっていきます。物というのはそれ自体を介在として、大人や他者との関わりをもたせるツールとなります。また赤ちゃんは物を通して、触ったり叩いたりします。その中で、物について知識をつけていき、それが増えてくると、様々なものや出来事を分類し、それに名前を付けて整理していきます。

 

1歳頃になると、歩行も可能になり、身近なものや人間に能動的に働きかけます。そして、動作模倣や音声模倣を通して、周りの世界を取り込んでいくのです。言葉を獲得していくなかで物をどう認識していくのかというと、その過程の中では、子どもは物をいくつかの事物に共通の意味を見出して同じグループのものとして扱ったり、同じ名前で読んだり、同じやり方で反応したりする能力が必要としていきます。1歳児頃になると、この「言葉(記号)」と「言葉(記号)によりあらわされるもの」とが対応してくるのが分かり、少しずつ語彙を増やしていくことになります。そして、物の名前や特徴を記憶するとともに、「あるものを、それとはことなるものであらわすはたらき」であるとみなす「象徴機能」を使って、「砂」をつかって、「ケーキ」をつくるといった物のイメージを広げていくことになるのです。

 

このようにこれまで、紹介した4つの言葉を獲得する土台を通して、子どもたちは言葉を使えるようになり、語彙を増やしていくことにつながっていきます。どの機能も当然のように必要になってくる能力です。こういった土台を使うことが出来る環境が多いほうが子どもの言葉の獲得というのはよりよく伸びていくのだろうと思います。

 

では、一番初めの要因「幼稚園に3歳児から入園した子どもの課題」として、私が感じた子どもの語彙の少なさを照らし合わせるとどうでしょうか。私はこれまでの土台としてあった。①音声を聞く(音声知覚)➁音声を発する(音声表出)③コミュニケーション(対人関係)④物の認知(対物関係)といったものの経験が少ないということも少なからず関係しているのではないかと思います。少子社会になり、家庭において子どもが少ない核家族家庭が増えてきているように思います。そういった環境の中で、子どもたちが言葉や会話に触れる機会や使う機会が母親とだけでは少なくなって入りするのではないだろうかと感じます。それに比べ、乳児期からの保育を経験した子どもたちは子ども同士の関係性や関わり、そして、保育者との関わりを通して、言葉に触れる経験が多いことも要因としてあるのではないだろうかと思います。しかし、これには一つの条件があります。よくある担当制で子ども対大人といった関わりだけを中心にするとこういった言葉の発達は見られないかもしれないということです。大人が子どもと関わることについて、こういった土台をどう保障し、保育の中に落とし込んで考えていくのか、こういった環境構成をしっかりと捉えなければ、子どもたちにとって経験や体験を増やす機会になりません。様々な研究から見えてきたことを「生かす」ということもしっかりと考えていきたいと思います。