赤ちゃんの利他的行動

ゴプニックは道徳において「共感」は大切であるといいながらも、それだけでは足りないと言っています。考えてみたらわかることではありますが、いくら相手に共感したとしても、それが相手にとって苦痛を取り除かなければ、何の解決にもなりません。つまり、利他主義の本質は、共感できなくても、相手が苦痛を感じているのであればそれを取り除こうとするところにあるのです。そして、その力は乳児の頃から宿っていると言います。

 

ブロッコリーとクラッカーの実験で、生後14カ月の赤ちゃんは相手と自分とが同じものが好きだろうと考え、自分の好きなクラッカーをあげました。ところが1歳半の子どもは、相手の感覚や願望は自分と違う場合があることを理解していて、相手がブロッコリーを好きならブロッコリーを、相手がクラッカーが好きならクラッカーを渡しました。つまり、利他主義の行動であると14カ月の子どもでも差し出すことをしますが、相手が何が欲しいのかを理解し、それが手に入るようにしてあげること、相手の表情を読み、欲しいものをあげるということは1歳半の子どもたちはできることを示しています。そのうえ、14ヶ月の赤ちゃんとは違い、相手が欲しいものが仮に自分が嫌いなものであっても、相手が欲しているものを差し出すという高次のやり取りをしているのです。

 

この実験とは別にフェリックス・ワーケネンが行った実験で、14ヶ月の赤ちゃんが必死で他人を助けようとした実験がありました。その実験では、実験者が届かないところにあるペンを取ろうとしているところを見た赤ちゃんが、部屋を横切ってクッションを乗り越えてまで助けに来たのです。また、誰かがいたそうにしている様子を見ると、おろおろするばかりではなく、何とか痛みを取ってあげようと、撫でたりキスしたりするのでした。

 

こういった行動を赤ちゃんが起こすのは、持ち前の因果的推論により、相手の気持ちを予測し、反実仮想の能力を使い、「こうなったら、こうなるだろう」といった見通しを持つことで、他人を幸せにしようとするのです。ゴプニックの行ったブロッコリーとクラッカーの実験では、1歳半になると相手がブロッコリーをあげると喜ぶことを理解していました。フェリックスの実験では、14ヶ月の赤ちゃんは相手がペンに手を伸ばしていれば、その人はペンを欲しがっているということ、その人がペンを手に入れるには、部屋のこっち側にいる自分がクッションを越えて向こう側へ行かないといけないことを理解していたのです。

 

保育をしていても、よく見る光景ですし、家庭の中でもよくある光景です。しかし、この光景の中で行われていることがどれだけ高次元のことを行っているかという事を考えてみたことがあるでしょうか。自分自身、こういった研究の内容を見ていく中で、改めて赤ちゃんとはかなりすごい存在で、思っている以上に世界に働きかけているという事を感じます。かなり能動的に働きかけていくことで、世界を理解し、物事を理解し、知識として蓄えていく様子を見ていると、赤ちゃんとの関わり方もおのずと「してあげる」ことから「できる環境」を用意する必要があるという事を感じます。

共感の影響

子どもがもつ共感や模倣を通して、自分の心も他人の心も仕組みは同じであるということを理解していきます。そして、そういった関係性の中で、道徳性も得ることになっていくとても重要な能力です。しかし、この共感や模倣は好ましい反応ばかりではなく、困った反応を呼び起こともあるとゴプニックは言います。「自分の心も他人の心も仕組みは同じである」ということは、喜びは喜びを生むというポジティブな反応もあれば、それとは逆に、悲しみが悲しみをよび、怒りは怒りを呼び起こすことにも繋がってしまうのです。喜びを分かち合うのが博愛への道なら、怒りの連鎖は暴力への道です。幼児期の攻撃性のほとんどは、このような「反応的攻撃性」であり、他人から受けた脅威に対抗して起こる攻撃や怒りであると言っています。それは時に暴力の形をとることもあるのです。

 

ゴプニックは攻撃的な子は、他人の怒りに非常に敏感だと言っています。混みあった運動場で子ども同士がぶつかっても、平均的な子どもは不運な事故だと思います。ところが、反応的攻撃性の強い子は、相手が自分をつけようとしてわざとぶつかったと思いがちです。このような子は相手から怒りをぶつけられたと考え、自分も怒りや威嚇で応じます。しかし、当人からすれば、自分は何も悪くなく、悪い相手に対抗しているにすぎないのです。

 

こうした相互作用はたちまち悪循環を生みます。怒りに怒りで答えるのは、幼児に近い共感反応のようです。小学生の研究で、ある子どもが意地悪かどうかをものの数分で判断することを示した研究があります。その子どもが意地悪であると判断されたら仲間からイジメられる傾向があるようです。その理由は「あっちがひどいことをするから、こっちはそれに対抗しているだけ」という、攻撃的な子どもの言い分と同じことが起きていました。それでも幼いうちはまだ、物理的に大きな危害を加えることはできないのですが、子どもが青年期を迎え、反応的攻撃性に大きな体、不安定なホルモン分泌、未完成の前頭葉、そして簡単に手に入る武器が加われば、自己破壊的な暴力衝動の爆発が起こりかねないというのです。このことはアメリカのハイスクールにおいても起きていることのようです。また、こういった行為の先にたとえば、バルカン半島から中東に及ぶ恨みと報復の連鎖まで、そう遠い距離ではないというのです。道徳的に最善の衝動が、相手の情緒を真似ることから始まるなら、最悪の衝動も同じなのだろうとゴプニックは言います。まさに「目には目を、歯には歯を」ですね。

 

こういった衝動は誰しも経験したことであると思いますし、どこかでそれだけの痛みを与えないと事の重大さを伝えることはできないと思っているかもしれません。これは保育において、保護者のクレームにおいて、最近感じるところでもあります。園長と保育者の関係、保育者同士の関係と同じようなことが保護者関係にもつながっていたり、影響していたりするように思います。園の文化や雰囲気、風土といったものは保護者にも伝わってしまっているように思います。特に保育というものは人間関係でなりたっています。人と人との関係が非常に重要でもある仕事です。だからこそ、マネージメントする側はそのことに気を配らなければいけません。どういった環境でどのように関わりをもつことが出来るのか、それは結果として、様々なところに影響が出る内容であると感じられます。

親子関係と道徳規範

ゴプニックはミラーニューロンが人の共感行動に影響しているというのを否定しています。その理由は前回話した通りですが、それと同時に赤ちゃんはそもそも自己と他者との境界がないのではないかと話しています。つまり、自分の苦痛と他人の苦痛の違いが本当に分からないかもしれないというのです。であるから、赤ちゃんは誰のものであっても、苦しみを無くしたいのかもしれないのです。

 

大人は赤ちゃんとは違い確固たる自意識、つまり「自分と他人とを隔てている感覚」を持っています。しかし、その感覚も赤ちゃんと濃厚に触れ合ううちに溶けていってしまいます。また、その時、親は自分が良い気持ちになりたいだけで赤ちゃんの苦痛を取り除こうとしているとは到底思えません。赤ちゃんの苦痛はダイレクトにこちらの心を揺さぶります。それは自分の苦痛と同じように胸を刺します。我が子をいたわろうという衝動は、自分の苦痛を取り除こうという気持ちと全く同じように、自動的に沸き起こります。このように親と赤ちゃんとの関係は、自他の境界を溶かしてしまうほどに親密で深いとゴプニックは言います。

 

また、共感は愛着とも関りがあるとゴプニックは言います。共感は、赤ちゃんと愛する人との親密な関係から生まれるからです。親子の愛には揺るぎない道徳的堅固さがあります。親が、我が子を育てると思ったとたん、その子が自分にとって最大級の道徳的な思いやりの対象になるのです。それは自分の睡眠も、生活も、幸せも、時には命までも、赤ちゃんのために犠牲にすることを厭いません。愛着研究からは、赤ちゃんの方も、そんな大人に深い愛着を抱くことが分かっています。

 

我が子への深く、直接的で、無条件の愛と、子どもが親を強く慕う気持ちは進化的に不可欠なものでした。なぜならば、無力な赤ちゃんは、両親といった近親者の愛がなければ生きていけないからです。このようにして、親子間の愛は道徳的な模範の一つとされてきましたし、偉大な道徳哲学者の多くは無私の愛を説いています。

 

よく昔から、「目の中に入れても痛くない」と言われるように、どんな目にあっても我が子はかわいいということは自明の理であります。これこそ、遺伝的にそういったメカニズムが人間には埋め込まれているのかもしれません。よく、赤ちゃんが丸っこくプニプニした体形で生まれてくるのは人は潜在的に人は丸っこいものを好むからと言われています。赤ちゃんの間は白目がないのはどこを見ても目が合っているように感じているからだといいます。赤ちゃんは生きている中で、かわいがられるように生まれてきているということは聞いたことがあります。赤ちゃんはひとりで生きていけないために、親に守ってもらうという生存戦略を使いました。それと共に、大人はそういった赤ちゃんの存在を大切にするように遺伝子情報が組み込まれています。道徳規範においても、こういった大人と赤ちゃんとの相互作用によって生まれてくる共感性や愛着から関係性があり、そこが始まりとしてあるのですね。

ミラーニューロンの矛盾

最近の神経科学者の中で人の共感する力に関わるものとして「ミラーニューロン」の存在が非常に注目されていました。このミラーニューロンはこれまでもたびたび登場していました。このミラーニューロンは自分がある行動を取るときも、他の個体がそれと同じ行動をとるのを見たときも、同じように活性化するというのが特徴です。つまり、このニューロンの働きにより、他者の感情や、動き、感覚、情動を自分の内部で起こっているかのように感知することができ、人の感情や情動に共感することが出来るようになると言われているのです。ただ、ゴプニックはこの理論について誤りではないかと言っています。その理由には3つあります。

 

その一つはこのミラーニューロンはサルの研究から見つかったものですが、サルは他のサルを模倣することはないということです。このことから見るといくらミラーニューロンがあるからといって、人間の赤ちゃんが普遍的に見られるあの素晴らしい模倣能力がミラーニューロンのおかげであるとは到底言えないのではないかとゴプニックは言うのです。

 

2つ目にサルで見つかったミラーニューロンの活性化は、たぶん行動の原因ではなく、結果ではないかという点です。どういうことかというと、サルが自分の手を動かすと、サルはその手が動くのを見ることになります。すると、そのうち手を動かしたときの感覚が、手が動くのを見る感覚と関連付けられてきます。それがニューロンを活性化させるのだろうと言います。ミラーニューロンによって手の模倣になるというのではなく、手の模倣を見ることがニューロンを活性化させているということです。

 

3つ目は脳の一部には物の形を識別する働きがあることは知られていますが、一方で、ごく単純な脳の動きにも、数百種類ものニューロンの複雑な相互作用が関わっていることも知られています。必ずしもミラーニューロンだけで起こることではないということですね。

 

こういった視点から見ても、赤ちゃんの模倣に、脳の何らかの仕組み、神経学的な働きが関わっているのは間違いないとしても、ミラーニューロンだけでは説明しきれないのです。しかし、そうはいっても、神経学的な起源により共感という心の動きがあるのであれば、人間の道徳的行動もそこから発している可能性はあります。他人の苦痛を見た赤ちゃんが自分も苦痛を感じるのであれば、赤ちゃんは自分が楽になるために他人の痛みを取り除いてあげたくなります。他人が喜んでいるのを見ると自分もうれしくなるならば、他人を喜ばせようとします。自分が良い気持ちになるために他人の苦痛を取り除くのは、一見利己的に見えますが、結果的に利他的行動の動機になります。

 

しかし、ゴプニックは共感という心の作用は、これとは違ったふうに利他的行動を動機づけている可能性もあります。赤ちゃんはひょっとしたら、自分の苦痛と他人の苦痛の違いが本当に分からないかもしれないというのです。つまり、赤ちゃんは誰のものであっても、苦しみを無くしたいのかもしれないというのです。偉大な思想家は「自他の境界を無くすことが道徳の基本」と言っています。つまり赤ちゃんはその境地に居るのではないかというのです。

赤ちゃんの共感

赤ちゃんが他人の心を理解するのは、自分の心の動きが分かってきてからだとゴプニックは言います。自分の心の動きを理解することで、自分の心と他人の心の仕組みは同じということを想定するのです。また、このことは情緒だけに限らないと言います。たとえば、1歳児になれば、他人の願望や意図も理解できるようになりますし、同じ頃から、他人の情緒だけでなく願望も模倣し始めます。このことを示す実験としてあるのが、実験者が頭を箱にコツンとぶつけて光らせてみせれば、子どもも同じことをします。1歳半になると、目的が果たされなかった行動も模倣します。実験者がおもちゃのダンベルをいくら切り離そうとしてもできないのを見て、自分もやってみようとします。他人の願望や目的を取り込んでいるのです。そして、2・3歳児になると望みのものが手に入ればうれしい、手に入らなければ悲しい、といった基本的な心の理論を身に付けます。

 

よくこのことを保育の中で考えてみると、赤ちゃんでも手を出して「イエーイ」というと、その手にそっと重ねるようにするようになります。私の子どもが今8か月なのですが、その頃から差し出された手の意図を汲んでいるようにも見られました。つまり、赤ちゃんの頃でも、相手のしてほしいことを予測して、それにこたえるということはやはりわかってきているようです。一歳になってくると名前を呼ばれると手を挙げるようになります。自分の名前の認識のみならず、返事をするようになるというのは何とも不思議なものですが、これも相手の意図やしてほしいこと、願望と目的を理解しているということなのでしょう。ゴプニックは「2・3歳になると、望みのものが手に入ればうれしい、手に入らなければ悲しいといった基本的な心の理論を身につける」と言います。「物を手に入れる」という活動は1歳児でも見られる活動ですし、取り合いによるトラブルも起きます。ただし、確かに1歳児の場合は物に対する執着という意味ではあまり意識はされていないかもしれませんね。奪ったとしても、次の玩具に手がのびていることがほとんどで、本当にそれが欲しいのかというとそうではないようなことが多くあります。比べて2歳児になるとそのものをしっかりと所有するという意味で奪うことがあるのは確かです。「目的をもってとる」ということでしょうか。こういった感覚は単純に自我として捉えていましたが、実は「共感」というものもその内側には見え隠れしているのですね。

 

ゴプニックは「他人に共感するとは、自分の感覚も相手の感覚も同じであることを前提に、相手の心を自分に招き入れることです」と言っています。初めの方でも語られていた通り、共感をするためにはまず、自分の気持ちを理解していなければいけないということなのでしょう。そうすることで、相手にも自分と同じような気持ちがあることを当てはめて考えていくのです。誰かが悲しい顔をしたり、箱を光らせたり、オモチャを切り離そうとしているのを見た子どもは、同じように悲しくなり、箱を光らせ、オモチャを切り離そうとするというのです。つまり、相手の体験においても自分が体験するかのような感覚を持つというのです。そして、こういった話の中できっても切り離せないのが「ミラーニューロン」というものの存在です。