寺院教育と寺子屋

寺子屋の起源となるものに、中世の寺院教育は少なからず関わっています。しかし、それは庶民の生活の中に浸透していった寺院教育が発展して寺子屋になったというわけではないようです。むしろ、場合によっては封建的な領主政策によって寺院教育を否定する形で行われる場合もあったようです。一般的に近世に登場する寺子屋は、中世の寺院教育とその経営主体や教育内容および、目的など質的に異なるものであると説明されています。

 

近世の「寺子屋」は商品経済の発展にともない、庶民の生活に「読み・書き」能力が欠かせなくなってきたときに、民衆の中から自然発生的に開設されるようになってきたと考えられています。たとえば、農村では、農業技術の改良や新田の開発などにより生産性が高まり、種々の商品経済が日本の津々浦々にまで浸透し、契約書の作成や送り状などの書類作成が必要となってきました。また、訴状の作成など、自分たちの生活を守るうえで文字学習は欠かせないものとなったのです。

 

また、社会組織が複雑になってくると、為政者の側からも法律によって庶民の生活を規制する必要が生じてきます。江戸時代に犯罪などの連帯責任の負担や貢納確保を目的として、五戸を一組として創設された五人組が、守るべき法規や心得が書かれた五人組帳前書や法度や掟書などを記して町や辻や人の集まる場所に立てた高札などを教材化して、庶民に文字の学習を進めるところもあったのです。

 

この様子などは、よく時代劇の中で表されていることが多いですね。よくよく考えると「号外」といった街に紙を投げながら走っている庶民の様子などを見ていても、まずそれだけ庶民全体が文字が読めなければ、そんなことをしても意味がないのです。そして、それと同時に文字の読み書きを学ぶ「寺子屋」が出来た来たのですね。当時の庶民の生活にはそれだけ文字を読むという力が自然と生活の中で親しまれ、養われていたということが見えてきます。

 

では、その当時、否定されてさえいた寺院教育というのは全く途絶え、寺子屋が登場したのかというと、そうではないようで、むしろ寺院教育が世俗化されていく過程と並行して、そうした名残をとどめつつ、新しい種類の教育機関がその世俗化を徹底させて登場してきたと考えたほうが妥当であると沖田氏は言っています。

 

寺子屋というのは庶民が必要として自然発生的に起きたのですね。それも面白い事実です。日本人にとって文字というのは、必要にかられて浸透していったのですね。これは島国であったことも影響しているのかもしれません。大陸では戦争によって王朝や主権がとって代わられることがあり、その都度文化も入れ替わることが多かったかもしれません。それに比べ、日本の場合江戸幕府が出来てから長い期間平穏な時代が過ぎています。文字文化においてもそれが浸透するまでの時間をしっかりとれたということも識字率や読み書きの発展に大きく関わったのではないかと私は感じています。

寺院教育

日本の教育の始まりは仏教の教義の「聞き学び」から始まったと言われています。面白いですね。「聞き学び」というのは、乳幼児教育においても、歌を覚えたり、お話を覚えたりというのは「聞いて学んでいる」ことが多いです。では、次に「聞く」から「書いてあるものを見て学ぶ」といった文字を使った学びというのはいつごろから始まったのでしょうか。

 

物語を文字を通して学ぶ「文字学び」の広がりは、鎌倉時代ごろから一般化する寺院教育の世俗化によって加速されました。武家政権が確立する中世において、貴族に代わって僧侶が新しい知識の担い手となってきます。これらの知識僧のなかには新しい武家政権から手厚い保護を受けたものがあったが、なかには 権力抗争の渦巻く世俗から離れて、奥深い山中に寺院を建立して弟子の養成にあたったものもいました。

 

こうした寺院教育はそもそもは僧侶の養成が目的としたものです。しかし、全員が僧侶になるわけでもなく、一定期間、寺で基礎的な教育をうけたのち、元の生活に戻る(還俗)するものも出てきました。この世俗教育の先鞭を切ったのが武家です。たとえば、源義経も幼少期の牛若丸のときに鞍馬寺に預けられていたというのは有名な話です。これとは別に武家が寺院で基礎的な教育を受けるものも少なくはありませんでした。

 

とはいえ、武家だからといって、すべての武士が寺院教育を受けるわけではありません。それは一部の上級武士の子弟に限られたものでした。彼らは厳しい戦乱の中で、棟梁としてふさわしい見識と人格を養うことが必要とされたのです。これにおいては、武田信玄は8歳から甲斐長禅寺に入っています。他にも上杉謙信は7歳から春日林泉寺、徳川家康は10歳の時、駿府智源院に入っていました。

 

その後、時代が進んでいく中で、上級武士だけではなく、武士以外の庶民も入学するようになります。その頃、公家や武士、庶民に至るまでを対象とした教訓書である「世鏡抄」(せきょうしょう)には「貧卑・孤独の人の子であってもしっかり教えよ」とあり、さらに「侍のこの悪事は三度まで許し、それ以上は父母の許に返し、凡下(庶民)の子どもならば十度まで教えよ」と記されていました。この内容を見ると、寺院教育においては、庶民の子どもより侍の子どもを厳しく扱っていたことが分かります。

 

寺院教育では、7歳頃から4~5年寺院に入り、寺院教育を修了するのが一般的であった。そして、「読み書き」といった基礎的な教育、和歌や連歌、管弦などの音楽教育、教科書としては仏教関係の書物の他に、「童子教」「実語教」「庭訓往来」(ていきんおうらい)といった、近世の寺子屋教育に継承されるものも用いられた。また、戦国大名の代表的な家訓書である「多胡辰敬家訓」(たごときたかかくん)では寺院教育の目的は単なる読み書き能力の習得にとどまらず、そこに集まる人間との交流を通して「立ち振る舞い」を学び、将来貴人に仕えるにふさわしい行動様式を学ぶことにあると述べられています。

 

とはいえ、この寺院教育が庶民にも降りてきたことが、寺子屋につながるのかというとどうやらそうではないようです。では、寺子屋の起源とはどういったところにあるのでしょうか。

教育の原点

寺子屋は昔から庶民の文化から根差した教育体系であるということが分かっています。日本は過去の歴史から見ても、非常に識字率の高い国であると言われています。大陸から漢字が伝来し、漢字はかな文字を生み出します。このように日本では、中国や朝鮮で使用された漢文とは異なる文体を作り上げてきたのです。こうした漢字文化の改良と発展によって18世紀の末には、日本の識字率は世界の先進国と比べても驚異的な高さに到達しました。

 

その後、文字学びは中世末期ごろより、庶民の中で普及し始め、近世に入ると「読み・書き」を中心とする庶民の文字学びの「場」として、寺子屋が自然発生的に登場してきました。こうした寺子屋の普及は庶民経済の活況と町人文化の台頭が、日常的に「文字」を使用する生活を成立させていたことを物語っていると沖田氏は言います。

 

ではそもそも、「文字」というものはどこから来たのでしょうか。古代社会において、文字文化が朝鮮から渡来人によってもたらされたことは、古代の大刀や鏡に刻まれた文字から明らかになっています。しかし、古代の法律である「大宝令」に定められた「学令」によると、学校教育を受けて、文字文化を学び、それを共有したのは、最初は朝廷周辺の限られた人々であったそうです。その後、文字文化は貴族から上級武士、さらには庶民へと徐々に広く伝わってきたと言います。

 

また、庶民が「学ぶ」原点は鎌倉新仏教の登場から始まっているようです。難解な仏教の教義を分かりやすく民衆に理解させるために、様々な工夫を生み出されました。この頃行われたのが、高僧の行状や地獄図・極楽図などの絵画を見せてその教えを説いたり、僧侶が街の辻に立って、民衆に語りかける「辻説法」と呼ばれる方法などで教義を教える「聞き学び」を浸透させました。

 

絵画を見せてその教えを説く方法は「絵解き」といいます。これは今の教育学で言うところの「直感教授法」であり、現在でいえば、視聴覚教育といえると沖田氏は言います。このような「聞き学び」という方法が、教育の原点であり、やがて「文字学び」へと発展する前段階の学びの形態であるのです。たとえば、「御伽草子」も、身分の高い貴人の側にいて様々な話を聞かせて慰めることを「御伽」というがその言葉の通り、その原初は「聞き学び」にあるのです。読み物として普及してくるのは近世に入ってからです。

 

日本における教育の始まりは「聞き学び」から始まったのですね。この様子を見ていると、「漫画」の起源もこういった説法からの絵解きからつながっているように思います。それと同時に、こういった「聞き学び」が説法から入ったということですが、そもそもこういったことを聞く人が多かったというのもあるのでしょう。こういった伝承されていく知識というのは古代からあったのだと思います。人間はこうやって過去の知識を得て、今に生かすことで生存戦略を生き延びてきたのです。「学ぶ」というのは人間における「生きる力」でもあるのです。

 

保育においても、最近はあまり聞きませんが「素話」という文化がありました。その文化は園本の普及とともに聞かなくなりましたが、私は自分の経験上、寝る前にお話を読んでもらっていました。まさに「御伽草子」ですね。こういった文化は今でも残っていますし、学ぶプロセスというは今においても昔においても変わらないものがあるのですね。

過去から学ぶもの

学制が1972年に日本に導入される以前は寺子屋や藩校といった庶民の中で学ぶことがあり、庶民の生活の中で教育というものが行われていました。民俗学者の柳田国男は前近代の教育つまり、学制が行われる前の教育について「一人前になる教育」といって再評価をしていました。柳田国男は「前近代では家や村や地域共同体には、1人の人間の誕生から人生の終焉を迎えるまで、さまざまな行事や祭りを通して「学び」を経験する「場」が存在した。子どもは家の子どもであるばかりではなく、村の子どもでもあった。遊びや労働など生活を通して人は絶え間なく学んでいた。」といっており、「近代の学校教育は「学び」を「教え」に変換し、教育を学校に閉じ込めてしまった」と言っています。

 

確かに「学校」というものが始まるまで、人が学ぶというのは村や家庭、いわゆる伝承といった形で教えられることが多かったのではないでしょうか。つまり、「家を継ぐ」という概念も強くあったでしょうし、地域のつながりというのは今の時代よりももっと濃密であり、生活そのものが学ぶ場であったのです。

 

そして、そういった生活の中にある学びの場と共に変化していったものは「教育が金銭で売買される」ということです。今の時代、「学校に通う」ために金銭のやりとりがあるのは当たり前になっています。しかし、人間の心と魂が金銭で売買できないのと同様、心と魂を研くことによって人格を形成する学問や教育も、決して金銭と等価に扱うことができないと人々が信じて疑わなかった時代もあったと沖田は「日本国民をつくった教育」の中で言っています。つまり、「学校の存在しなかった時代には、人生を生き抜くためのさまざまな学びの形態があった。」というのです。そして、こういった時代の豊かな教育を振り返ることによって、新しい教育のイメージを書き出すことができるかもしれないと言っています。

 

これは最近私も同様に思うことです。なので、今回、この沖田行司氏の本を通して、ブログを書くことにしたのですが、教育基本法には「人格の形成」ということが書かれていますし、乳幼児教育においても「人格形成の基礎」という文字が書かれています。教育や保育というものは本来そういったことが求められているのです。しかし、いつの間にか、そういった「生きる力の基礎」となるものから、成績や評価といったものに教育の主体かが変わってきているのではないかと感じることが多くなりました。それ自体、社会において必要なものである一方で、知識偏重になってしまうというのもどうなのかと思うのです。

 

柳田国男氏の話の中にあった「生活の中にある学びの場」というものが少なくなってきている昨今で、教育現場というものはそういった元々は地域や村にあった「子ども同士の関わり」や「遊び」というものを提供する場も考えていかなければいけないのではないかと思うのです。そこで、過去の教育現場がどうであったのか、今よりももっと「主体的」な環境で勉強していたのではないかと思います。過去の教育に目を向けることで、今の教育でもう少し意識しなければいけない部分も見えてくるように思います。

「学校」の始まり

日本の近代教育の契機はペリーの黒船来航から始まっているようです。この時期、多くの情報が海外からもたらされ、日本からも多くの留学生が海外に出向き、西洋の進んだ教育情報を日本にもたらしました。その中でも、今の学校のような学制は1972年にもたらされ始まることになります。当時のこの学制はフランスの学区制とアメリカの教育内容を取捨選択して導入したものであったそうです。

 

当時の学制の理念を明示した太政官布告の「学事奨励に関する被仰出書(おおせいだされしょ)」では、「旧来の士農工商の身分制社会から四民平等の世の中をむかえ、日常生活に役立ち、しかも能力によって立身出世をめざす実学」が唱えられました。さらに「子どもを学校に行かせないのは父兄の落度である」という強制就学の方針が取られたのです。そして、このことはその後、納税・兵役と並んで国民の三大義務となりました。この学制は自由な学びの場であった江戸時代の寺子屋や私塾とはまったく異なる、強制された教えの場というように国から言われることになったようです。

 

それまでの庶民の教育は先ほど紹介した私塾や寺子屋が中心です。そして、この寺子屋や私塾は庶民の中から生まれた教育文化であり、教育伝統です。こういった庶民の中で親しまれた寺子屋教育が、「国(お上)」により学校にとってかわられたのです。このことから小学校に対して学制反対一揆がおきたほどです。そして、「隠れ寺子屋」というものが明治の中頃まで存続しました。

 

しかし、その一方でこの学制はこれまでの庶民に新たなチャンスを得る時期でもありました。なぜならそれまでの日本は「士農工商」のように封建的な身分制社会でしたが、明治維新において建前上は「四民平等」であり、明治政府は「現実の社会階層の差は『学ぶと学ばざる』とによって決定される差」と説き、教育を通して「立身出世」につながるとうたったのです。結果、明治国家の富国強兵策と結びつき教育における幻想を生み出しました。

 

今回参考にしている「日本国民をつくった教育」を書いた沖田行司さんは、この立身出世主義と教育が結びついたことにより、日本の近代教育を一貫してして支配してきたのは競争の原理だと言っています。そして、国家主導型の教育システムにおいて、立身出世とは個人と国家との距離感を縮めてゆくことを意味し、学問や教育だけではなく、経済・文化に至るまで、国家によって公認されたもの庶民も価値意を見出すという思考パターンが国民に浸透していくことにつながったのです。

 

今の学校制度というのはペリーが来航したころから入ってきた文化であったのですね。その頃から子どもに教育を受けさせるということが当たり前になってきたということが見えてきます。ではそれ以前の教育はどのような変遷を受けてきたのでしょうか