逆境に対する対処

教員の質にばらつきがあることが生徒たちの成績の差に及ぼす影響はせいぜい10%以下だと結論付けられています。そして、教育改革の中で大きな成果を上げている多くが、低所得者層の中でも上層の子どもたちの間でうまく機能しているがそれよりも下の層の子どもたちにはあまり機能していないのです。結果的にその場しのぎのシステムにすぎず、子どもの時代の一部、思春期の一部を断片的に支援することしかできていないのが現状だとタフ氏は言います。

 

こういったとぎれとぎれの子どもたちのシステムの問題は結果的に児童福祉局を含む様々な社会福祉事業や学校においても影響があり、まともなスキルを身につけないまま高校を卒業してしまうようなことも起きてしまいます。低所得者層の子どもたちは救われる手立てから漏れてしまっているのです。このシステムには里親家庭や少年院、保護観察官なども含まれています。

 

こうした機関がうまく運営されていたり、力のあるスタッフが集められていたりすることはほとんどないと言います。そして、彼らの仕事ではたいてい連携不足も起こっていると言います。子どもやその家族についていえば、これらの機関と関わることでストレスがたまり、疎外感を覚え、屈辱すら感じるというのはよくあることです。システム全体を眺めても、莫大な費用がかかるわりにひどく効率が悪く、成功の度合いは極めて低い。このシステムを通過して育った子どもに大卒者はまずいなく、幸福と成功に満ちた人生を示す他のしるし(やりがいのある仕事や健全な家族。安定した家庭など)もほとんど見られない。

 

このことは日本に置き換えてみるとどうなのでしょうか。日本においても貧困と虐待などの子どもの逆境との関連は無縁ではなく、全国児童相談所長会の「全国児童相談所における家庭支援の取り組み状況調査」(2009)によれば、虐待につながると思われる家庭・家族の状況として、「経済的な困難」33.6%「不安定な就労」16.2%であり、約半数が貧困家庭であり、社会保障審議会児童部会の報告では、児童虐待による死亡事例として都道府県を判断したケースを対象に家庭の経済状況を調査しています。そこには虐待で児童が死亡したケースのうち、「生活保護世帯」「市町村民税非課税世帯」を合計した割合が2005年で66.7%2006年で84.2%とされています。様々なデータから親の労働や貧困の問題が児童虐待にも深く結びついていることが見えてきます。

 

日本においても、低所得層と子どもたちの幸福と成功に満ちた人生への取り組みは非常に重要な意味を持つようにもおもいます。保幼小中の連携においても、ずいぶんと前からそこにおける連携には大きく課題があり、それぞれが分断された教育のあり方に固執するあまり、子どもの様子や発達へのアプローチが置き去りになっているように思います。このことはどの国においても大きな課題になっているのですね。

貧困と教育の課題

様々な研究者の研究によって、教員の質にばらつきがあることが生徒たちの成績の差に及ぼす影響がせいぜい10%以下だろうと結論付けています。それはどういったことなのでしょうか。これは教育の議論と貧困の議論を一つにまとめることのマイナス面であるとタフ氏は言います。なぜなら「どうやって教員の質を改善するか?」が唯一の重要な問題であると考えたくなるからです。しかしそれははるかに大きくて深い問題(大勢の貧しい子どもたちがチャンスを得らえられ、現状を劇的に改善するために国家規模で何ができるのか)のほんの小さな一部に過ぎないからなのです。

 

貧困をめぐる議論が教育改革の議論へと融合して消えた課程で、もう一つ重要な事実を見失っているというのです。大きな成果をあげているチャーター・スクールを含め、最も復旧している学校改革の多くが、低所得者層の中でも上層の子どもたちの間でうまく機能し、最下層の子どもたちの場合には機能しないことがたびたびあるという点です。本当に貧困な家庭で育っている子どもたちがアメリカには700万人以上いるわけだが、そういった家庭の子どもたちは考えなくてすむような学業への障害に数えきれないほど直面することになります。

 

まず、そもそも経済上に問題があります。おそらくまともな場所に住めないだろうし、栄養のある食事もとれません。新しい服や本や教育効果のあるおもちゃが買えないことは言うまでもありません。しかし実際、直面する学習への障害の最たるものは、家族が何を買えるか買えないかといった問題を超えた深刻なものである可能性は高くあります。家族にそれだけしか収入がないとなると、家庭内にフルタイムで働いている大人がいないのはほぼ確実になります。それは単に仕事がないだけかもしれない。親、あるいは両親に障害があったり、うつ病だったり、何かの依存症だったりといった雇用の妨げになる原因があるかもしれません。アメリカにおいて、こういった家庭の保護者はあまり教育を受けておらず、一度も結婚したことのないシングルマザーである確率が高くあります。そして、統計的に見て、あなたの保護者は虐待、あるいは育児放棄の疑いがあるとして児童福祉局に報告されたことのある可能性も高くあります。

 

神経科学者や心理学者の研究からわかっているところによれば、こうした家庭に育っている生徒はACE(子ども時代の逆境)の数値が高く、保護者との安定した愛着(ストレスや心的外傷の緩衝材となるもの)を築いている可能性が低い。これによって実行機能の能力も平均より低くなる傾向が強く、ストレスの多い状況に対処するのに困難を覚えるケースが多い。教室では集中力が低く、対人スキルに欠け、じっと座っていられなかったり指示に従うことができなかったりするそうです。結果、教師の目には問題行動と映るのです。

 

こういった環境下におかれた子どもたちは助けを必要としているにも関わらず、アメリカンの学校改革で作り出された方策はきっちりと機能しているとはいえず、低所得層のなかでも比較的余裕のある、年収4万1千ドル前後の家庭の子どもに有効であっても、それより深刻な状況にある子どもたちにはまだ、有用性は至っていないのです。結果的に、その場しのぎのプログラムや政府の期間になり、子ども時代の一部、思春期の一部を断片的に支援することにしかならなかったのです。

教師の質 2

改革者たちがよりよい教員集団を生み出すにはどうしたらいいのか、そして、教員の質に関する国の支援策を進めている中で異論もかなり起きているとタフ氏は言います。たとえば、教職組合は、自分たちがこれまで数十年かけて勝ち取ってきた職業上の保護の多くを露骨に侵害する試みであると危惧していました。そして、組合に関する意見はどうであれ、実は教員についての教育のいくつかの大事な部分でまだ結論が出ていないとも言っています。

 

まず、与えられた期間内にどの教員が高い成果をあげることができるかを判断する確実な方法が分かっていないのです。怠慢に見えた教師が生徒とともに突然大きな進歩を遂げることがあります。反対に有能な教師が突然坂を下り始める事だってあります。それに優秀な教員の一団なら低所得層の生徒の成績に効果を積み上げていけるのかどうか、ほんとうのところはまだわかっていません。3年間たてつづけに優秀な教師が担当すれば、一年だけ見た場合の3倍の成果をあげることになるだろうと考えるのは理にかなっているように思われる。しかし、そうはならない可能性もある。もしかしたら効果は一年で消えてしまうかもしれない。どちらに転ぶか、今のところ確固たる証拠がないと言います。

 

確かに、これと似たようなことが保育をしている中でありました。以前、まだ自園が一人担任で一クラスを見ていたころの話ですが、ある優秀な先生が一つのクラスを持っていました。周りから見ると先生の話をよく聞いたり、静かにしていたりと行儀のいいように見えたのですが、ある時、その先生が体調不良で休んでしまいます。その時に代理でフリーの先生が入ったのですが、いつもの行儀のいい様子がうそのように落ち着かない様子になっていました。つまり、子どもたちはその先生の話は聞くのですが、他の先生の話は聞けなくなっていたのです。多くの人はそれは「フリーの先生の能力不足」と思っていたそうです。しかし、逆を言えば、その休んだ先生の影響が子どもたちにとって非常に重いもので重要だったとも読み取れます。つまり、特定の人の価値観に縛られていたのかもしれません。つまり、あたる人によって様子が変わってしまいかねないということです。それでは「身についた」とは言いません。ましてや、これから社会においては多様性が叫ばれているように一つの価値観に縛られると多様な社会の中で柔軟な発想はできなくなります。

 

しかし、もう一方で「フリーの先生の能力不足」というのが事実の場合もあります。しかし、それもどうなのでしょう。逆に言えば、その先生にあたってしまった子どもたちはうまくできることが少なくなってしまいます。つまり、「はずれ」を引いたことになるのです。この低い能力の先生にあたってしまう環境というのがアメリカでは普通になっていたのです。タフ氏は現行のシステムでは、上手に教えることの最も必要な生徒たちに最も能力の低い教員が割り当てられる自体が長年の間続いていたと言っています。そして、このことは深刻な問題として考えられていました。

 

このように貧しい子どもたちがより良い人生を送れるための国家的な取り組みにおいて、教員の在職資格の改変が政治の中心的な話題になっていました。しかし、現在の研究においては、教員の質のばらつきがあることが生徒たちの成績の差に及ぼす影響はせいぜい10%以下だろうと結論付けています。それはどういったことなのでしょうか。

教師の質

「ベル曲線」の研究から、学校の成績や標準テストの結果が後の人生におけるあらゆる成果を予測する良い指標となる点が見えてきました。そして、貧困の家庭にいた子どもでも、優秀な教師の元、学力テストのスコアを大きくあげることができること。つまり、こうした学校が生徒の成績を上げることを達成できれば、成功を阻害する困窮に大きな穴を穿つことができるということが分かってきたのです。

 

では、どこを改革するべきなのでしょうか。まず、ビジョンとしてはKIPPの学校が低所得者層の子どもたちにしたのと同じことを国中で行うことです。しかし、このビジョンを実現するための最善の政策はどうしたらいいのでしょうか。これについてはこの改革運動の提案者のなかで意見は一致しませんでした。保証人だろうか?国家規模のカリキュラムか?一クラスの規模を小さくすることだろうか?チャータースクールを増やすことだろうか?10年が経った現在、提案者たちの関心はある特定の問題に寄せられています。それは「教師の質」です。そして、ほとんどの改革提唱者が共通して言うのは「期待通りの仕事のできる教員があまりにも少なすぎるということです。特に貧困率の高い学校で生徒の出す結果を改善するには、教員の採用、研修、給与、解雇の仕組みを変えるしかないと言っています。

 

このことは1990年代の後半から2000年代の前半まで経済学者や統計学者によって発表された一握りの研究論文でも言われたことでした。この論文によれば、付加価値分析として知られる統計的な手法によって二つの教員を見分けることが可能でした。それは生徒の学力を徐々に上げていける教員と、ずっと生徒が遅れるがままにしておく教員です。この考え方から、どう変えればよいかが導き出されていきます。もし成績の悪い低所得層の生徒が続けて何年かにわたり能力の高い教員に担当してもらえば、その生徒のテストの得点は継続して上がっていくはずです。そうやって3年、4年、5年と経ったのちには、裕福な同年齢の生徒との学力差はなくなっているかもしれません。もし学校のシステムや教員との契約を徹底的に見直してすべての低所得層の生徒が能力の高い教員にあたれば、学力差を完全になくすことができるというのです。ここ数年でこの考え方は政府高官の間でも受け入れられています。

 

結果、連邦政府の申し出を受け、各州が教員の給与、評価、在職資格にかんする様z愛実験的思考が国中の学校システムにおいてあらゆる形で試されています。様々なところで良質な教え方とはどういったものか、よりよい教員集団を生み出すにはどうしたらいいのかという疑問に確実な答えを出そうとしています。

 

日本においてはこの点についてどうでしょうか。以前のブログにも書いたように、貧困と教育の観点は繋がっているように思います。しかし、そこを改善するような動きはまだまだ進んでいないようにも思います。とはいえ、アクティブラーニングなど、さまざまな手立てを打っていますが、あまり効果が出ているようには思いません。教師の質や教育現場の質。これは保育においても同様で保育の質というのはずいぶん前から言われています。このことはよく考えていかなければいけません。しかし、アメリカにこういった動きで教員の質における国の支援が行われている一方で異論も上がっています。

アメリカの貧困と対策 2

アメリカでは貧困についての議論が無くなってきた理由があるとポール・タフ氏は言います。その一つは政策によるものでした。しかし、そういった政府の支援だけをアテにしていては貧困は解消しなかったといいます。

 

そして、また別の理由があると言います。それが教育問題の議論に溶け込んでしまったということです。以前なら、教育と貧困は公共の政策の中でまったく別の二つの話題でした。一方で「新数学(ニューマス)」や「ジョニーはなぜ読めないか」の議論があり、他方にスラムや飢餓や福祉や都市再開発の議論があった。けれどもだんだんとそれが一つにまとまり。裕福な人々と貧しい人々のあいだの学力格差の話になった。貧しい家庭で育った子どもたちは学校でうまくやっていけないというまぎれもない現実についての議論である。

 

個の融合の背後にはいくつかの理由がある。まずは『ベル曲線』1994年に出版され、おおいに議論を呼んだチャールズ・マレーとリチャード・ハーンスタインによる著書で知能指数について書かれたものでした。この『ベル曲線』には非常に重要な新しい観察も含まれていた。学校の成績や標準テストの結果がのちの人生におけるあらゆる成果を予測するよい指標となる点であるということが見えてきたというのです。どこまで上の学校に進むか、学校を出たあとにどの程度の収入を得られるかといったことだけでなく、犯罪をおかすことになるかどうか、ドラッグに手を出すかどうか、結婚するかどうか、離婚するかどうかまで表されると言っています。『ベル曲線』が示したのは、学校でうまくやれる子どもたちは貧しい家に育ったか否かにかかわらず、その後の人生でもうまくやれる傾向にあるということだったのです。

 

これは興味深いアイディアであり、政治の領域にいる改革者たちを惹きつけました。貧しい子どもたちが学業スキルや学業上の成果を改善するための手助けができれば、子どもたちは余分の施しや保護がなくても自分の能力で貧困の悪循環から抜け出すことができるのです。1990年代後半から2000年前半にかけて二つの重要な現象があったためにこのアイディアは勢いを得ました。

 

1つ目はNCLB法によって州や市や個々の学校に対し、生徒の成績に関する詳細な情報を集めることが法律によって命じられたのです。このことでマイノリティの生徒、低所得層の生徒、英語が母語でない生徒などといった小群ごとのデータが分かりました。それによって、低所得の家庭は中流家庭の生徒よりずっと成績が悪かったのです。前者は中学を卒業するころには平均して2学年か3学年分遅れており、その差は年々広がるばかりだったと言います。

 

2つ目の現象は学力の差を埋めようとする学校群が現れたことです。KIPPなどの学校でこうしたディビット・レヴィンやマイケル・ファインバーグなどの教師たちの助けで生み出された驚くべき成果が最初の波となって社会の注目を捉えました。こうした教師たちは都心の学校の成功モデル、しかも信頼のおける、しかも真似のできる見本であるように思われた。

 

このような事象を踏まえて、貧困を気にかける人々の中で三段論法が形成されました。第一に学校の学力テストのスコアは生徒のバックグラウンドに関わらず、その後の人生と深いかかわりがあるということ。第二に低所得家庭の子どもは中程度の収入の家庭や高収入の家庭の子どもに比べて学力テストのスコアがはるかに悪いということ。第三に従来の公立学校と全く異なった形式の学校群が低所得家庭の子どもたちの学力テストのスコアを大きくあげることができたということ。結論として、こうした学校の達成を国中で真似することができれば成功を阻害する困窮に巨大な穴を穿つことができるしたのです。

 

これはいままでとはまったく異なる貧困の見方でした。