未来のためのルール
ゴプニックは「道徳の本質をなすものは、親しい人への情緒的共感とそこから広がる人を助けたい、人に危害を加えたくないという願いです」と言っています。そして、赤ちゃんであっても人を助けたいと願っていると言っています。しかし、願っているだけでは助けることはできません。そのため、赤ちゃんが道徳的に有能な主体となるには、この衝動を世界と他人についての因果的理解と結びつけることが必要になってきます。つまり、「自分がこう動くと、物事はこういった変化が起こる」と理解していなければ、自分が人を助けるために行動することも、人に危害を加えるということも予想して動くことが出来なくなります。こういったことを理解することで、赤ちゃんは幼い功利主義者になり、善をもたらし悪を除く効果的方法を考えるとゴプニックは言っています。こういった因果的理解と共に、ルールが及ぼす因果的な作用も知っておくことで初めてルールを使うことが出来るようになるのです。
道徳的なものとは少し違いますが、以前、私の子ども(9ヶ月)が階段を上るようになった時に、必ず、声を挙げたり、後ろを振り向いたりしていました。それは自分が階段を上るときに目を合わせたら大人が上らしてくれると言わんばかりに、目線をこちらに送ります。もちろん、気づいたら上っていることもありますが、それに至るまでも必ず目線を通じて、何かしらのサインを送っていたことだろうと思うのです。赤ちゃんは何かを起こすときサインを出しているように思います。つまり、それは因果的理解をしている証拠なのでしょう。そう考えると、赤ちゃんが生まれて間もなくでも「泣く」という行動を行うことで、抱き上げてもらったり、落ち着かせてもらうことで泣くことをやめます。この行為自体が因果的な理解を起こしているのかもしれません。つまり、生まれてすぐに赤ちゃんはある程度の物事の理解をすでに始めているのでしょう。ただそれが生理的なものか意図的なものかは分かりませんが、早い段階でこういったやり取りを通し、因果関係をまなんでおり、道徳に通じているのであれば、赤ちゃんの頃から、しっかりと愛情を通して、大人が関わってあげるということは道徳を子どもに教える一番初めのやり取りであると言えるのかもしれません。
ルールは人間の選択を心理的にコントロールするうえで絶大な効果を発揮します。たとえば、どんなに複雑で分かりにくいこともルールがあればすんなりできます。誰かに行動を改めてもらいたいときも、説得することや無理強いすることもなく、決まったルールは守ろうと言えばいいのです。ある意味で、ルールがあるということは問答無用に相手に納得させることが出来るだけの効力があるのです。そして、ルールには変更が聞くという利点もあります。幼い子どもも、人に危害を加えてはいけないというような基本的な道徳原則は変えられないけれど、ルールなら変えられることを理解している。一度決まったことであっても、そこに不都合が生まれればそれを改訂し、より良いルールを作り出すことを知っています。
このようにルールを改訂や変革を行うことで新しい世界を構想し実現していきます。このことは人間特有の能力であり、ゴプニックはルールを作ることでこういった能力の本領を発揮すると言っています。ルールを作ることは未来のことを予測していなければ作ることが出来ません。「こういったことが予想されるから、こう変える。そうすればこういった社会になる」と予測するからルールが改訂されるのです。そのためにはその世界を予測し、予見し、かつ実現するようなものを考え出すという「見通し」を持つ力が必要になり、其れこそが人間特有である力なのですね。そして、それは乳幼児期から始まっているというのはよく考えて、保育の中にも意識していく必要がありますね。