民主主義とは・・・

教育基本法の第一章(教育の目的)の第一条に「教育は、人格の完成を目指し、平和で民主的な国家及び社会の形成者として必要な資質を備えた心身ともに健康な国民の育成を期して行われなければならない。」とあります。そして、保育や教育の勉強をしていけばしていくほど、この内容の重要性を感じます。そのため、今行われている保育や教育が果たして「平和で民主的な」ものに向かっているのか、「社会の形成者」を育成する枠組みになっているのかと考えるようにしています。

 

麴町中学校の工藤勇一氏は著書「学校の『当たり前』をやめた」という本の中で度々、「学校は社会でよりよく生きていくために学ぶ場」と言っています。そして、社会の中で多様な人と生きていくために感情のコントロールをし、対話を重ねながら納得できる目的を探り当てて手段を生み出すことが大切だと言っています。そして、これこそがよりよい民主主義社会に成長させることにつながると考えられています。もちろん、そのなかで対立も起きます。民主主義において、この対立を解決するためにルールや法律がありますが、その法が間違っているならば適切な手続きで変える必要があると言っています。

 

また、民主主義の定義においても多数決の原理がすべてではないと言っています。「選挙で代表者を選ぶ仕組みは当然必要なものだと思いますが、選挙で多数派となれば、何をやっても許されるという話ではありません。多数決の原理と同時に、少数意見を尊重することが、民主主義社会の真の姿でしょう」と言います。しかし問題なのが、少数派の意見をどのように取り上げ合理形成を図っていくかです。このプロセスに我々が慣れていないがゆえに、無駄に対立したり、議論がこじれて思わぬ方向へ行ってしまったりすることがあるというのです。

 

対話を通じて上位目的の合意形成を図るには「ルールを踏まえて建設的に主張する」「意見の対立や理解の相違を解決する」「感情をコントロールする」といった力を一人一人がたかめることで健全な市民性が育み、民主主義社会を気付く土台となるのです。そのため同じ目的を目指して話し合いを解決していく経験をすることで、対立を恐れることなく、協働して何かを決めることができるようになります。そして、その経験値を上げていくために学校教育が果たす役割は大きいと言います。

 

現在、リーダー指向が弱まっている感があると工藤氏は言います。そして、その背景には「責任者」「当事者」として、矢面に立ちたくないという心理が働いているかもしれない。それは学校が児童生徒を「お客様扱い」し、自律する機会を持たせないまま、おとなにしてしまったことこれまでの教育のあり方を考えなおさないといけないのかもしれないと言っています。

 

「自分自身に自信があるか?」といった問いにどれだけの人が手を上げれるでしょうか。その裏には「自分で決める」「自分で問題を解決する」といった経験値が足りていないからなのかもしれません。以前、私はある人に「頭で考えるよりもまず行動だよ」と言われました。しかし、自分の中では行動している「つもり」だったのです。今の現状は自分が動かざるを得ない状況になったので、その意味が分かるようになってきました。子どもたちも一緒で「自ら」動いているのではなく、大人に「動かされている」ようでは自律はしていかないのだと思います。そして、結果的にそれは民主主義にもつながらないのです。子どもたちにとって必要な距離感を考えることは教育や保育にとって、知識や技能をつけさせるよりも大切なことだと思います。