幼児

子どもからの影響

ゴプニックはペリー就学前教育のように幼児期に保育をされた子どもはされなかった子どもより、経済的に豊かで、教育程度が高く、健康で、刑務所の入所率が低かったと言います。これは幼児期の体験は後の人生に直接影響するという見解と共に、その子どもの親にも良い影響を与えると言っています。では、それはどういったことなのでしょうか。

 

ゴプニックは、経済的に貧しい親たちは、プログラムを通じて自立と連帯の感覚を養いました。それは子どもだけではなく、親のほうも変わり、しかもその変化は持続したのです。子どもに自信がついて好奇心が高まるにつれ、親や周囲の人たちによる子どもの扱いも変わったのです。ペリー就学前教育のような早期教育が成果をあげるのは、これが子どもに直接豊かな体験を持たせるだけでなく、子どもの環境に、大人になるまで続く連鎖的な改善効果をもたらすからなのだとゴプニックは言っています。

 

この部分を読んで、保育をしていて感じることが多くあります。保育をしていく中で子どもが変わってくると、その親も変わってくるという姿をよく見ます。かえって、保護者の苦情をそのまま受け取り改善するよりも、息の長い改善になることもしばしばあります。そうなるのも、保護者にとっては子どもは大きな存在であり、大切な存在であるからこそ、その子どもたちがすくすくと成長している実感が分かるとかえって信頼関係を作ってくれるように感じます。そのため、幼稚園や保育園において、苦情解決というのは非常に難しく、大変なことが多いのですが、だからといって、苦情にだけに向き合うのではなく、自園の保育力という者に目を向ける必要があるのではないかと思うことが多いのです。それだけ、子どもの体験を通した成長というものが保護者に与える影響があるということを実感として感じます。

 

ゴプニックも「人間には周囲の環境に介入する能力があるということも合わせて考える必要があります。」と言っています。それは子ども自身には環境に影響を及ぼしたり、新しい環境を思い描き、作り出す能力があるということを同時に言っています。大人ばかりが影響を与えるのではなく、子どもからも影響を受けているのです。つまり、これまで考えられていた大人から子どもといったサイクルの逆に、子どもから大人へのサイクルも大いにあるということです。そして、親や第三者は、そこにうまく介入することで、このサイクルが悪い方に行かないように食い止めたり、悪い循環を良い循環に好転させ、強化することができるようになるのです。

 

このことからみても、世界中でなぜ「子どもの社会への参画」というものが広まっているのかということが見えてきます。子どもは決して大人の従属物でもなければ、一つの人格を持った個であるという事をもう少し、考えなければいけないのでしょう。そうなったときに子どもに迎合するのではなく、抑圧するのではなく、あくまで一人の人格者として向き合う必要があるのですね。

悪循環の連鎖と克服

子どもの遺伝的リスクと環境リスクは往々にして同時に子どもに降りかかるとゴプニックは言います。なぜならそれは、遺伝子ばかりでなく、環境も親から受け継ぐからであるからです。経済的に貧しい家庭に生まれた子どもは、経済的に貧しい子どもになってしまうのです。しかし、時に赤ちゃんの存在そのものが、親の抱える問題をいい方向に転換させてくれることもあります。赤ちゃんは密接な親子関係、喜び、そして、生きる意味を与えてくれるのです。優しく愛に満ち溢れた赤ちゃんに救われた貧しいシングルマザーはたくさんいたことでしょう。しかし、母親が抑うつ的なので赤ちゃんも憂うつ、赤ちゃんが憂うつであると母親ももっと悲観的になるというように悪循環に陥り、環境リスクと遺伝的リスクが増幅し合ってしまうことも少なくありません。

 

このように赤ちゃんと母親の相互作用のように発達過程で、良い循環や悪い循環が生まれるのも、私たち人間に、学習と介入の能力があるからです。赤ちゃんは親のすることを見て世界を学習し、そこから得た知識を使って周囲に働きかけます。そのため、悲しげな母親を見て、赤ちゃんが悲しいものなのだと学び、自分もそのように振る舞い、それを見た母親はより悲しくなってしまうようになるのです。このような悪循環が起こる環境が出来上がってしまうのです。このことからみても、学習と働きかけの能力があるがゆえに、もともとの遺伝的要因が増幅されてしまうことになってしまうのです。

 

しかし、このような悪循環はルーマニアの孤児の事例を見ていくと、打ち破ることができるとゴプニックは言います。人間の運命は、遺伝子と幼児期の体験だけで決定されるわけではありません。学習と働きかけの能力を、プラスの方向に転じればいいというのです。

 

たとえば、アメリカで行われた実験で、経済的に貧しい子どもたちへの早期教育事業として、ペリー就学前教育やカロライナ・アベセダリアン・プロジェクトがあります。そのいずれも、幼稚園に幼児を通わせ、献身的な大人の保育係や多様な環境があり、その子での保育を行います。そして、同じ地域でこうした幼稚園に通った子どもと通わなかった子どものその後を追跡調査し、科学的に比較すると、はっきりとした違いが見られたのです。プログラムに参加した子どもたちは、20、30年経ったとき、そうではない子どもたちより、経済的に豊かで、教育程度が高く、健康で、刑務所の入所率が低かったのです。そのため、この種のプログラムに投資することの経済効果は株式投資を上回ることが分かったのです。

 

一見、この結果を聞いたときにどう思うでしょうか。この結果だけを見ると、やはり乳幼児期の子どもの体験や経験が大切であるということが見えてきます。しかし、見方を変えると、この影響は子どもの環境だけではなく、子どもを取り囲む社会的環境、特に親にもいい影響が出ているのではないかとゴプニックは言います。

子どもの気質と親

保育士をしていると自分が保育をしている側にも関わらず、子どもたちからも影響を受けていることを感じます。それは親にとっても同じことで、自分が親になることで「親として、子どもに育てられている」ことは多くあります。人は子どもがいることで親になりますが、それと同時に「親としても育てられるのです」。ゴプニックは「子どもは親からの影響を受けるばかりではなく、自分の方からも親に影響を与えることが分かってきた」と言っています。そのため、子どもの行動の違いは、親の行動にも違いをもたらすと言います。

 

子どもが二人以上いる親は、きょうだい間であつかいにかなりの差が出ることがあるそうです。児童虐待においても、このことが言えるそうで、きょうだいのうち誰か一人に虐待が集中します。特に病弱な子や神経質な子は虐待を受けやすいそうです。虐待のような極端な例には及ばなくても、子どもによって親の接し方に差は出ることはよくあります。

 

たとえば、要求が多く気難しい子どもとの親の関わり方と、おっとりして手のかからないその子のきょうだいの母親とは同じ人物でも違う人物ように感じるかもしれません。性質の違う子どもに同じように接するのは無理というものですし、仮に同じ接し方をしたとしても、それがもつ意味は子どもによってまるで違ってしまいます。たとえば、バウンサーに入れて遊ぶことを子どもに進めたとしても、活発な子どもと臆病で気の小さいでは、反応は大きく違います。

 

このように子どもの生まれつきの性質と環境の相互作用については、色々な研究があります。心理学者は養子やふたごの研究から、「反社会的行動」「神経症的傾向」「薬物依存傾向」などなど、様々な形成と環境の関係を研究してきました。みじめな親のもとに生まれても、その後、健全な養親に育てられた子どもは、みじめな大人になるリスクがわずかに高いだけになります。逆に健全な親のもとに生まれ、みじめな養親に育てられた子どものリスクも同じ程度です。ところが、みじめな親から生まれ、みじめな養親に育てられると、両方のリスクを足したより遥かに大きなリスクを背負ってしまいます。遺伝的リスクと環境リスクは単純に足されるのではなく、掛け合わされるのです。さらに不運なのは、遺伝的リスクと環境リスクは往々にして同時に降りかかります。なぜならば、たいていの子どもは遺伝子ばかりでなく、環境も親から受け継いでしまうからです。

 

遺伝的素養というのは変えることができませんが、環境要因というものは変えることができます。逆にいえば、大人ができることというと子どもに合った環境を作ることが一番重要なことであるのかもしれません。以前にもゴプニックの遺伝と環境にあったように時として、遺伝子要因を環境要因によって変えることができるのです。このことについて、ゴプニックはどのように考えているのでしょうか。

志の教育

齋藤氏は「新しい学力」や「問題解決型の学力」はこれからの変化の激しい状況の中で、確認が適切な判断をしていくことが求められているが、伝統的な学力も新しいが学力に向かうために必要であり、その力が「新しい学力」を下支えするものであると言っています。そして、そのためには教師や親においても熟練のスキルと教育への情熱、また生徒や子ども一人一人に寄り添う丁寧なケアが必要となるのです。それは決して子どもを放置することではないと齋藤氏は言っています。

 

このことは保育でもそうです。子どもを「見守る」というとよく勘違いされるのが、「ただ子どもを見る」ということと取り違え見られることです。「見守る」という言葉には「見守れるから見守る」ということが言えます。つまり「見守れない」のであれば、見守ってはいけないのです。「見守る」という言葉には見守れるくらい自立していることが条件になるのです。そのため、ただ「見ている」というのは「見守る」わけではなく、「放置している」のと変わりません。大切なのは「見守れない子ども」をどう「見守れる子」にするのかを考えて保育をしていかないければいけないのです。そこにはアクティブラーニングにもある「主体的な」部分は必要ですし「個性」も尊重されるべきです。しかしそれと同時に集団への意識も持たさなければいけません。この「個性」とか「ひとりひとり」という言葉が独り歩きをして、集団が抜け落ちている考えはどこか変だと思います。

 

齋藤氏はさらに重要なことは「志の教育」を挙げています。いくら学習やスキルや知識を入れたとしても、「その人物の核心に、学問を愛する情熱や良きことを求める倫理観がなければ、それはまさしく単なるスキルに過ぎず、何の意味もない。」というのです。磨いた学力で、何を考え、何を求めていくのか、本当に大切なのはそこであろう」といっています。このことは特に大切なことです。松下村塾においても、やはり学ぶその根底には目的があるのです。何のために学んでいるのかが教師自身が見通せていないと学習者である子どもたちも学ぶ意欲が出てこないのは明白です。

 

今の時代、受験や学歴を生徒たちが求めがちになるのも、もしかすると「何のために学んでいるのか」を探している結果なのかもしれません。社会において何の役に立つのかもわからないものを授業だからといわれ学んでいるのはなかなかモチベーションを保つのは難しい。だから、テストの点数などを通して、「学んだ実感」が欲しいのかもしれません。しかし、それは実社会において、必要とされるものでもありますし、そこで学んだ成果というのは、齋藤氏のいう「粘り強く学ぶ」力を得ることになるのかもしれません。しかし、目的のない粘り強さが果たして、本来の意味の粘り強さを生むのでしょうか。社会において重要な粘り強さは「答えを出すことで社会に貢献する」ために頑張れることではないのでしょうか。今の時代に必要な力はそういった一つ一つの能力をつけていくことを目的とした教育ではなく、子どもたちが「夢」や「目標」を持って教育を受けることでもあるように思います。ただ単に、粘り強さを得るというのはロボットを作り出すのと変わりません。そのため、教師などの教育関係者は子どもたちにとって、精いっぱいやってみたい、なりたい自分を探す手伝いと、そのための援助をしてあげることが目的であるように思う。

所有物と不安衝動

所有物は子どもが母親とは別の独立した自我を持っていることを認識し始めると、母親の代わりとなる「移行対象」によって安心感を高めるといったように、所有物は大切な人の代わりとして安心感を与えてくれるというのですが、どうやら、それ以外にも意味があるそうです。それはどういったことかというと「所有物は自分自身の延長である」とみなしているところです。つまり、自分のエッセンスが所有物に何らかの形でしみ込んでいると信じている。あるいはそのように振る舞っているというのです。だから、それらの所有物が傷つけられたり、失われたりすると自身も傷ついたり喪失感を味わったりするのです。自分の大切にしているものが壊されたり、無くしたときに感じる喪失感はその所有物に対して、自分自身の延長として感じているからなのですね。

 

英ノーザンブリア大学の進化心理学者ニーブは「人はみな物を所有しているし、所有物に慰められている」と言っています。そして、「これは進化の過程の課程で受け継いできたものだ」と言っています。人は食べ物(特にようやく手に入れたもの)を取っておくことは、今でも重要な生存戦略だとニーブは説明しており、それは武器や道具にも当てはまるというのです。「人は何も持たずに世間に放り出されると無防備に感じる」「生き延びることを可能にする所有物が必要」なのです。生きていく中で所有物というのは人間にとっては非常に重要なもので、物を準備しておくことで安心感を得るのです。

 

しかし、人間は社会的な動物です。そのため、安心感を得るために必要となるものは、単に肉体的生存を可能にする基本的な事柄よりも複雑です。この説明にはマズローの欲求階段(欲求ピラミッド)が役立つといいます。1943年に発表された欲求ピラミッドでは、生理的欲求(食物や空気、水)が底辺を占め、その上に肉体的な安全(隠れ家や武器)。愛と所属(人間関係や社会)、承認(強い自我)の各欲求が積み重なり、自己実現の欲求(自分の潜在能力を最大限に発揮している情緒的に最適な健康状態)が頂点を締めています。人は生存していくために、こういった欲求を持っているのですが、その中でも、自己の安全や人間関係における自信といったすべての領域にで、所有物は安心感をもたらすのに一役買っているといいます。

 

ヒトにとって、所有物というのは思いのほか、必要な要素なのですね。確かに、もしものために大目に買っておくというようなことをすることもありますし、あることでなくなった時のことを考えなくてもいいといった安心感があります。これは今回の新型コロナウィルスでも、マスクやアルコール、手洗い石鹸などが売り切れたりしましたが、それも新型コロナウィルスに対する不安から起きた行動なのだと思います。普段であれば、それほど多く買わなければ、まんべんなく配給できるにもかかわらず、無くなるかもという不安から大量に買い、結果として、すべての人にとっても希少なものになるということにつながり、人の起こす衝動的な行動の裏には、こういった欲求が隠れているのです。そして、この欲求に対して所有物というのは大きく関わってくるのですね。