乳幼児教育

子どもの発想

赤ちゃんは、科学者と同じように推理力を働かせ、豊かな想像力で常にトライ&エラーを繰り返しながら現実把握にいそしんでいると言われているそうです。そして、ある意味、大人よりも賢く、想像力に富み、思いやりがあり、意識も鮮明であるとも言われており、脳科学でこういった知見が解明されています。

 

アリソン・ゴプニック著の「The Philosophical Baby(哲学する赤ちゃん)」には子どもと大人の間には進化的に一種の役割分担が出来上がっていて「子どもはいわば、ヒトという種の研究開発部門に配属されたアイデアマン。大人は製造販売担当です。子どもは発見し、大人はそれを実用化するのが仕事です。子どもは無数のアイデアを提案しますが、実際はほとんどのものは使えません。実行可能な案はほんのわずかです。(中略)それでも、斬新な変革能力、それをもたらす想像力と学習能力で競えば、負けるのはきっと大人の方でしょう」これを受けて藤森氏は「世の中で天才と言われる人の多くは、大人になってもなお、子どものような自由な発想をいつまでも持ち続けられる人かもしれません」と言っています。

 

こういった子どもたちの自由な発想は幼稚園や保育園でもたびたび見られることです。しかし、その反面。大人の尺度でいうと煩わしかったり、面倒であったりするものも多くあります。以前、ドイツの保育を視察させてもらった時に「子どもが触ってほしくないものはどう伝えますか?」といった質問に対して「そもそも子どもの手の届くところに置きません」と言っていました。これこそ、「環境を通して」といった見方なのかもしれませんね。「子どもたちは自由で様々な発想をするもの」という前提で子どもを見ることと、「子どもは大人の指示で動かすもの」といった前提で見ることとは大きな違いがあります。子どもの発想に大人がついていけないことはたびたびあります。「いやそれは無理でしょ」と思うものも、子どもは挑戦しようと本気で思っています。

 

赤ちゃんの脳は想像することと学習することに特化するために、大人の脳よりたくさんの神経回路があるのではないかと言われています。そして、そのためおとなより可塑性や柔軟性がはるかに高く、変化をよく受けると言います。それは、新しい社会にいち早く順応して、そのなかで生きていく力をつけていく必要があるからなのだと言われています。そのため、OECD(経済協力開発機構)では、こういく投資の効率は乳幼児が最大なので、就学年齢を引き下げ、乳幼児教育への投資を増やす必要があると言っています。そして、この「教育」というものの考え方も「教え育てる」という意味あいではなく、本来の「educate」の意味の「持っているものを引き出す」という意味で捉える必要があるように思いますし、そう考えるとドイツの社会法にある「子どもは生まれながら教育される権利がある」という考えに至るのも分かります。やはりドイツなど欧州は「白紙論」で子どもを見ていないのでしょうね。

与える喜び

『The Giving Tree(大きな木)』(作:絵:シェル・シルヴァスタイン)という絵本があります。1964(昭和39年)に出版された作品で、日本では1976(昭和51)年の初訳出版依頼、複数の訳で読み継がれてきた名作です。この話はりんごの木と少年のやり取りの話です。

 

私ははじめ専門学校の時にこの本を紹介されましたが、あまりいい印象を持たなかったのを覚えています。徐々に成長していく当時の「ちびっこ」が買い物のためにお金が欲しいからといってりんごの木からりんごの実をもらい、家のために枝をもらい、船のために幹を与えてます。そして、年老いたかつての少年は切り株に腰を下ろして最後に安堵する。りんごの木はかつての少年に安らぎを与えたことに満足する。という内容でした。その時はその少年の身勝手さと木の従順な態度において、「この本は何を伝えたいのだろうか」と思うことのほうが強かったのです。

 

この絵本について、藤森先生は作家の鈴木光司さんの「与えることの喜び」という朝日新聞の記事を紹介しています。《ひたすらあたえることに喜びを得るというのは、愛のレベルとして、最高度のもの。まったく見返りを期待しないで、人に尽くせるかどうか、自分の心に問うてみれば、その難しさがわかる。親の、子に対する愛だけ、かな》このことについて、藤森先生は「「GIVE」は「与える」という意味ですが、それに進行形のingがつくと「惜しみなく与える」「優しい思いやりのある」という意味になる。原初では「she loved a little boy」とあるように木は女性のようです。やはり最高度の愛は、子どもに与え続ける母の愛なのかもしれません」と言っています。

 

この文章を読んでいると自分自身は見返りを求めるような考えで子どもたちを見ているのかもしれないと反省しました。保育で考えてみるとあくまで「子どもがプレイヤー」です。そして、保育者は「サポーターであり、フォロワー」なのだと思います。つい、保育の世界では「保育者が主役」なイメージを持ち、「子どもが作品」という意識になる人もいるとは思いますが、よくよく考えていかないといけないですね。そして、その根底には「大人は完成された人間で、幼児は未発達で無垢な存在」といったイメージがそうさせているようにもおもいます。

 

しかし、この「白紙論」こそ、最近では否定されてきています。藤森平司氏は著書「保育の起源」の中で「赤ちゃんの知的な活動は大人より活発で、想像力や学習能力はおとなよりはるかに高いのです。赤ちゃんはおとなより多くの情報を収集し、自由に発達する能力は持っていますが、それはまだ概念や分類で整理されておらず、抽象的なカテゴリーに情報を整理することができません。」と言われています。そして、「次第に言語を習得するにつれて、自由な思考は概念化され、いろいろな行動の記憶として残し、それに対する責任を感じるようになる。つまり、従来の幼児教育が想定していたように、幼児教育は白紙に知識を描いていくのではなく、無秩序で豊かな子どもの想像力を社会のルールで整理し、具体的な形に整えていくものなのです」と藤森氏は言います。

 

考えてみると、赤ちゃんはその泣き声で大人を使います。そして、大人も赤ちゃんをほっとけないのです。これは遺伝子的にもそういった性質があるということを聞きますが、すでに赤ちゃんは母子関係や周りの社会にすでに能動的に働きかけているともいえます。これまでの赤ちゃん観や子ども観は今の時代見直さなければいけないところに来ているように思います。

保育をする上で

「保育」と聞くとどういったことが思い浮かぶでしょうか。私は保育士になりたてのときは保育士は子どもたちにいろんなことを「教えなければいけない」仕事だと思っていました。そのことに何も疑問を持つことはなかったのですが、見守る保育を知っていく中で、一つの疑問に当たったのを今でも覚えています。そして、「子どもの主体性」というものがイメージつかなかったのです。

 

実際、「子どもの主体性を保障する」ことを目的とするならば、自由遊びになるだろうし、設定保育ありきの保育を専門学校で習ってきた私としては「設定保育のどこに主体性があるのだろうか?」と疑問に思うことばかりでした。そして、「大人が導入をしっかりすれば、子どもたちが楽しんで遊びだす。その子どもからその遊びに参加することが主体性」と半ば強引にそう思い込もうとしていたのも事実です。そして、嫌がる子どもが出てくるのは「保育者の能力不足だからだ」とも思っていました。しかし、それは結果として「子どもの主体性」ではなく、「保育者のエゴ」でしかないのです。

 

では、そもそも教育の原点とはどこにあるのかというと教育基本法の「教育の目的」にある「人格の完成を目指し、平和で民主的な国家および社会の形成者として必要な資質」を備えるための基礎を養うことが教育の目的であり、保育はその基礎を培うということが目的になっています。つまり、教育や保育をする上で社会を知ることは非常に重要です。

 

現代社会では今、かつてない少子化に直面し、AIの発達、グローバルな社会などが予想され、これまでにない社会の形態に変化していこうとしています。それに伴って、産業界や市場の望む人物像の変化(自分の頭で考え、想像し、責任をとれる人)、IT環境の発展など育つ環境の多様性に応じて、従来の学びと違うシステムの必要性、一人親家庭などの家族履歴の多様性など社会問題が起きています。また、子どもの社会でも不登校やひきこもり、若者の現代うつ、いじめ、小1プロブレムや学級崩壊なども問題になっています。

 

つまり、これまでの教育や保育の内容がばっちりというのであれば、これらの問題は起きなかったのかもしれません。特に最近の脳科学の飛躍的な進歩において、乳幼児期の教育の重要性は増していると感じています。しかし、そのアプローチはどうあるべきなのか。

 

新宿せいが保育園 園長の藤森先生は著書「保育の起源」の中で「一番重要なのは、子どもを全面的に信じることです」と言っています。そして、「社会を構成するひとりの人間として子どもを尊重し、子どもが自ら自身の力を存分に発揮できるよう環境を構成し、子どもの発達を保障すること」といい、それが「見守る保育」に一番重要だと言っています。

現在、自園ではこの「見守る保育」を実践したいと思っていますが、その目的は「見守る保育」の形を求めることではなく、教育基本法にも書かれている通り、「社会の形成者として必要な資質」を備えた人材となるという目的は保育をする上で忘れてはいけない事柄ですね。

宿題よりも本質

麴町中学校でははじめ工藤氏が校長で赴任した当時、宿題の多さに驚いたそうです。そして、その後、段階的に宿題を無くしていき、4年を迎えるころに「全廃」に至りました。

 

当初は宿題の全廃には一部疑問を持ち、抵抗感を出す教員もいたそうです。そう言った教員の方に工藤氏は「批判や誤解を恐れずに言えば、教員が宿題を出すのは子どもたちの『関心・意欲・態度』を測り、評価(通知表)の資料とするためではないですか。もっと私たちは専門性を発揮しないといけない」と説明したそうです。そして、この問題には一つの流れがあるといい。そもそも「評価」が、かつての相対評価から絶対評価へと変わっており、その中で「関心・意欲・態度」という観点別評価を行うようになっています。通知表には、学習の理解度・到達度だけではなく、学習に対する「関心・意欲・態度」は目に見えない尺度だけに、評価するのが難しいものです。そのため、宿題の提出量や授業中の挙手回数などをカウントし、それを評価に活用していることは珍しくありません。

 

本来であれば、そうした数字に頼らず、子どもの成長や可能性を読み取るのが専門職たる教師の役割です。と言っています。そして、宿題のために学習机に向かうことで保護者は安心はするが、本当に大切なのは勉強時間よりも勉強内容であり、自律的に学ぶ経験をつけないと、決して工夫して仕事をする人にはならないと言っています。

 

「関心・意欲・態度」は保育においては「心情・意欲・態度」です。その本質を知ると決してその活動そのものに意図はないのです。「その活動で何を意図するか」のほうが大切なのです。中学校でこのことを行うのはとても容易なことではなかったのですが、多様な社会の中で生きていくためには、その中心となる意図をシンプルに考えることはとても必要とされているように感じます。やはり意図や理念、先の見通しといったものを意識することは大切です。

手段が目的化

保育を行っていても、いつの間にか始めは子どもたちがやりたいものややってみたいものから始まった活動や作品作りでも、それがいつのまにか「去年やっていたから」とかいつしかそれが「伝統」という形をなしていくことがあります。そうなってくるとそのもの自体が「やらなければいけないこと」になってきます。

 

こういったことに対して工藤氏は著書「学校の当たり前をやめた」の中で現在の教育において「手とり足取り丁寧に教え、壁に当たれば過ぎに手を差し伸べる。喧嘩や対立がおきれば、担任が仲裁にはいり、仲直りまで仲介する。そうして手厚く育て挙げられた子どもたちは、自ら考え、判断、決定、行動できず、「自律」できないまま、大人になっていきます。」と言っています。

 

それは結果として大人になってから、何か壁にぶつかると「会社がわるい」「国が悪い」と誰かのせいにするような大人になると言っています。そして、それは学校教育の根本に問題があり、それが「手段が目的化」してしまっているからだと言っています。

 

「例えば国が示す学習指導要領は、大綱的基準にすぎないのですが、多くの教員はこれを「絶対的基準」と考えがちです。その実、学習指導要領を読み込んでいるわけでもなく、教科書に従って授業をしている教員が大半である。つまり、子どもたちに必要な力をつけるための「手段」であるはずの学習指導要領が「目的」となり、消化してこなす対象となってしまっているのである。」というのです。そして、工藤氏は「目的と手段を見直し、学校をリデザインするといった改革を始めます。それは「目的の本質を見極め、適切な手段を考え抜いてきたことを長い教員生活の中で感じてこられたからであるのです。そして「学校教育は多くの法令等で規定され、廃止することができない部分もあるが、大半の部分は、法令よりも「慣例」によって動いているだけで、校長が覚悟をもって、自らの学校が置かれてた立場で何が必要かを真剣に考え抜くことができればいくらでも工夫できる。」というかんがえのもの教育内容を変化させているそうです。

 

これらの話を聞いていてもすべては生徒が「社会の中でよりよく生きていけるようにする」ことが意識されているのを感じます。私は保育をしているうえで、上記の工藤氏の話は学習指導要領を幼稚園教育要領や保育所保育指針、幼保連携型こども園教育・保育要領に置き換えれると思っています。そして、常々「理念なき教育はない」とも思っていますし、理念は学校ではなく、社会を見据えたものでなければいけないと思っています。そして、目的があるからこそ手段を行使します。手段だけがあって目的がないのは、英語が喋れても、喋る機会がないのと変わらないのではないかと思います。いくら勉強ができてもそれを生かせなければいけません。特に乳幼児教育は成績がないだけによりその本質を見つめなければいけないのではないかと感じています。