乳幼児教育

共に生き、共に育つ

これまでの脳科学の内容で人間を人間たらしめる最大の要素が大脳新皮質にあるということを紹介してきました。そして、その進化は人間が厳しい自然状況や環境を乗り越えるため生存戦略として脳が進化してきたのです。しかし、そのためには社会を形成しなければいけないく、その中で起こる諍いや軋轢といたトラブルを乗り越えるためにより高度な社会的フリーによる「社会的知性仮説」です。そして、1990年、英国の進化人類学者レスリー・ブラザーズが初めて人を対象にした「社会脳」(social brain)という言葉を使い、「ヒトの脳の大脳皮質が極端に発達しているのは社会集団の中で生き抜く社会性を身につけるためだった」とい「社会脳仮説」を提唱したのです。一方、同じく1990年代英国の人類学者ロビン・ダンバーは様々な霊長類を比較し、大脳新皮質の大きさは群れ(集団)の大きさと相関関係があることを見出した。そして、その研究の中でも、「共感」の研究は最先端のテーマの一つなのです。

 

ここで藤森氏は「日本では、バブル期における経済市場原理、個人主義の進行によって『共感』『信頼』『公共性』という感覚を後回しにしてきた。私は、経済成長は過去の物語となり、2度の大震災と幾多の災害に見舞われている現在の日本においては、もう一度『共感』『信頼』『信頼』『公共性』の機能と、それが育つ環境を見直す必要がある」と言っています。

 

そして、「人類において知識・教養・人格は、いずれも個人から社会全体へと拡大し、また逆に社会全体から個人の内部へと浸透し、拡大と収縮を繰り返しながら柔軟に発育・発達しているので「自分の子どもだけはよい子に育つように」というのは親心として無理ないことですが、社会脳としての観点からはそのように考えることはプラスにはなりません」と言っています。では、現在社会で子育てで最優先されなければならないものは何か。それは「自分の子どもが人類社会の一員であり、社会全体の知識・教養・人格と共同体を構成しているのだという『共に生き、共に育つ』意識を、社会全体と養育に関わる全ての人たちが共通の認識として持つことであり、同時にその意識を子どもたち自身にも持たせることなのです。」

 

確かに現在の社会の様子を見ていても、地域環境の希薄化や地域の子育て力といっ事柄は社会問題になっていますし、そういった問題が子どもに与える影響もも課題になっていることが多いです。そして、教育環境を見ていても、年齢別での学級が日本はまだ主流ということや兄弟が少ないということもあり、子ども集団の環境も同年齢といった限定された子ども集団の中で遊んでいること多いように思います。それによっておこる弊害も保育をしていると見えてくるように感じます。子どもたちを社会の中にいる個人というとらえ方ではなく、個人と社会が分けられている社会でもあるように思います。その中で子ども自身が「社会の一員」として自分を認識するのはなかなか難しいのかもしれません。

 

藤森氏はこの内容をこう締めています。「『他人のことは関係ない』という考え方や人生観は、子供の成長や、社会脳にとって最も有害であり、今後の生きていく上で子どもたちには最も好ましくない考え方であるということをすべての人々が強く認識することが、人類の遺伝子を未来につないでいくことになるのです」まず、自分自身がそうなっていないか考えてみるのが子どもを育てる第一歩なのかもしれませんね。

新生児社会性

赤ちゃんは生まれてすぐの新生児でも、他の赤ちゃんの存在を意識し、微笑み合おうとします。生まれてすぐに歩くような動作をする原始歩行や新生児模倣という行為のように、それを「新生児社会性」と言ってもいい行為ではないかと藤森氏は言います。そして、それはヒトが社会を形成して生き抜いてきた種であり、遺伝子の中に社会を形成するものをもって生まれるからなのです。

 

しかし、他の行為同様、新生児社会性といったものはすぐにやめてしまいます。それはその後、意識して、心情、意欲をもってその行為を行うための準備をはじめるからです。そして、そのための環境が整っていれば、社会を意図して関係を構築しようとし始めます。ですから、私たちは子どもたちが社会性を獲得することができるような環境を用意しなければならないのです。それには決して、母子だけしか存在していないような家庭ではなく、広い社会での経験が必要になります。同時にその経験は、まだ権威からの影響を受けない、権威に依存しようとしない乳児期から必要だと思います。3歳からではすでに「先生」という権威を感じ始めているような気がするのです。

 

この権威を感じ始めるというのは、たとえば強いストレスを受ける環境下では、脳が後天的に獲得した倫理観や行動規範はすっかり剥げ落ち、無責任に環境や状況が求めるままの振る舞いに陥ってしまう危険性を持っているというのです。いじめから派閥抗争までこういったことは人の集まるところで必ず生じてしまう不幸な事態は、人間の脳の構造的な問題を根源に持っているというのです。そして、そのような状況において、加害者は虐待の意識が生まれにくく、被害者は声を上げにくいというのです。

 

こういった権威における行動抑制は後天的に獲得されていると言われています。そして、そこで獲得される行動規範はその個体が所属する文化的バックグラウンドの影響を強く受けるそうです。そのため、権威に依存しない乳児期から広い社会の中での経験というものが重要になるというのです。

 

乳児期の期間、赤ちゃんはまだまだ「何もできない存在」ということが言われ続けています。しかし、実際の現場の赤ちゃんを見ていても、目を合わせると笑いますし、他児が遊んでいるのを見ている中で、模倣することや試してみる活動を行っています。そこには確かに社会があります。乳児期の権威に依存しない期間のうちに行う社会的な関わりが今の少子高齢化社会ではこういった環境が作れなくなっているのです。子どもの社会性は赤ちゃんから始まっているということを意識していかなければいけませんね。

人形文化

宮本は人形にも注目しています。「近頃、都会の玩具店や、土産店にたくさん並べて、人気のあるこけしは、もともと東北地方の木地師たちがつくって温泉地の土産として売ったものである。木地師たちは椀や盆を作るのがその主業であったが、その余った木屑で、人形をつくったのである。コケシというのは、木屑を意味する言葉のようであり、西日本にもあった。つまりロクロをつかって木地ものをつくるところでは、そうした人形を子どもたちのためにつくる風習があったのであろう。その人形をオボコともネブリコともいっている」

 

日本における「人形」というものを考えると一番にコケシが出てきます。このことを受けて藤森氏は「子どものころ、コケシは旅行のお土産の定番で、家には日本各地の大小さまざまなこけしがケースの中に所狭しと並べられていました。そして、その形は、顔が少しずつ違っていました。今の子どもたちは(コケシではなく)人形をもって遊ぶことが多いようです。子どもが人形をもって遊ぶというのは世界共通なのでしょうか。ドイツでも人気です。」と言っています。

 

柳田国男氏の「こども風土記」には「買うて与える玩具、これが現今の玩具流行のもとで、形には奇抜なモノがおおく、小児の想像力を養うには十分であったが、いかんせん、そういう喜びを味わう折が以前は極めて少なかったのである」つまり買い与える玩具の一つが「おみやげ」だったのですね。そして、「あんなオシャブリのような小さな玩具でも、やはり最初は、御宮笥(おみやげ)であり、すなわち日本人の信仰からうまれて、発達したものだったということである。」とあります。そして、コケシもその一つであったのでしょう。

 

この人形の信仰について、宮本氏は「もともと人形は神の依代(よりしろ)としてつくられたり、人間の災厄をはらうときに用いる。形代としてつくられたのが起源であろうが、こういうものが子どものモチアソビになっていた歴史は極めて古いと思われ、ヒイナ遊びのごときは、平安時代以来の文献にしばしば見えるところであり、それが3月3日に行われるもとは決まっていなかった。そして、今日ではヒイナ遊びとよばず、ヒナ祭りというようになってしまって、モチアソビとは違ったものにまでなっている」元々のお雛様も子どもたちのモチアソビやネブリコといった弄びものから始まったのが、いつのまにか高価になり、見るだけのものになってきたのですね。

伝統的な社会から学ぶ

藤森平司氏は「保育の起源」の中で、米国の進化生物学者ジャレド・ダイアモンド氏の著書「The World Until Yesterday(昨日までの世界)」の「子育てについて伝統的社会から学ぶべきである」という文章を紹介しています。

 

そこには現在の社会は素晴らしいものでおおむね安心で安全な社会に暮らすことができる半面、「子育て」という文化を実践し子孫に残し、伝えていくという、太古からずっと遺伝子レベルで受け継がれてきたことが、明治以降の国家主義と西洋化によって机上の学問になってしまったというのです。そして、伝統的社会から学ぶものとして、少子高齢化社会を迎えた現代社会における子育てと高齢者の問題をダイアモンド氏はあげています。日本やアメリカでもこういった問題が取り上げられていますが、「30年から40年後には持続的社会をきちんと構築しておかなければ、地球という存在自体をも危うくすることになる」と言っています。そのため、その時期の社会を中心的に支える現在の乳幼児をもっと大切にせよと言います。

 

そして、大切な乳幼児の育児を、ただ母親だけに押し付けたり、働いている母親の都合だけに合わせその子の入れものとしての(量だけを満たそうと)保育所をつくったり、近代からの国家主義の、西洋化の流れの中で考えられた古い(現在社会に合わない)方法を変えようとしなかったりすることは、持続的社会を構築するうえで見直さなければいけないことと言っています。

 

そこで、ダイアモンド氏はこれから親になる人に向かって伝統的社会で行われてきた育児方法を取り入れるように提案します。

・求められるたびに授乳する(現実的に対応可能であれば)

・離乳を遅くする

・乳児に複数の成人とスキンシップをさせる

・添い寝をする(固めのマットレスか揺り籠を寝室に置き、小児科医と相談することが必要

・乳児を抱きかかえ、正面を向かせる

・グループ育児を増やす

・子どもの泣き声にすぐ反応する

・体罰を避ける

・子どもに自由に探検させる(子どもから目を離さないように)

・異年齢の子どもと遊ばせる(小さい子どもにも、大きくなった子どもにも効果がある)

・出来合いの教育玩具やテレビゲーム、そのほかのお仕着せのごらくではなく、自分たちで楽しむ方法を学ぶようにさせる

 

こうやって、これらの項目を見ていると決して特別なことを提案していることではないように感じます。しかし、最近では異年齢での遊びや自由に探検できる場所、自分他tで楽しむ方法を学ぶようにすることなどは難しくなっているように思います。また、乳児期においても複数の成人とスキンシップさせることやグループ育児など家庭の中に複数の大人がいないことが多くなっているのも今の社会の特徴のように思います。家庭でこういった環境が作れないのであれば、その時期を預かる施設などが、あえてその環境を作らなければいけない時代なのだということも改めて感じます。今でも日本の保育や教育は多子社会のままという話も聞きます。これらの提案を受け、考えるところはたくさんあります。

進化と共同保育

チンパンジーやオラウータン、ゴリラといった霊長類は離乳が3以上になっていることに対して、人間の赤ちゃんは1歳頃に離乳を始めます。しかし、離乳したといっても1歳の赤ちゃんなので、まだ一人で生きていくことはできません。そのため、父親や祖父母などいろいろな大人に抱っこをされて育つようになったと言われています。

 

 

このように赤ちゃんを母親だけで育てず、近くにいるみんなが手伝う。赤ちゃんは生まれてすぐに家族の手に委ねられて、家族みんなに育てられる。他の動物と違い、なぜ人類だけがこのように進化してきたのかという長い間考えられてきた問いへの答えの一つが、この「協同保育」という形にあることが最新の類人猿研究によって明らかになってきたのだそうです。

 

 

そして、私たちの祖先は家族みんなで育児をしてきた中で、特に育児を中心的に担ったのは祖母だったと言います。他の動物の寿命が出産可能期間と大差がないのとは違い、人類は、出産期が終わった後に長い適齢期が続きます。その理由も、共同保育であると考えられているのだそうです。人類が出産可能期を終えても長生きするようになったのは、この脅威どう保育の暮らしの中で、孫の育児を手伝ってきたからではないかというのです。実際のところ、健康寿命という視点からも、孫の世話をして感謝されることで老人の免疫力が高まるとも言われているそうです。一緒に子育てをする最小単位としての家族が集まり、もう少し大きな集団である「ムラ(村)」が形成されてきました。家族からムラ=社会で共同保育をしていくなかで、人類はコミュニケーション能力を持つようになり、赤ちゃん自身も社会の一員となるための「社会脳」をおのずから学んでいき、その中で、共感力や感情をコントロールする力、自己抑制力などの「非認知的能力」を身につけていったと言います。

 

 

最近、「非認知的能力」という言葉はかなりいろいろなところで聞きます。それは乳幼児期だけに限らず、以前紹介した「学校の当たり前をやめた」といった本の中でも、すこしだけ触れられてもいました。コミュニケーション能力や問題解決能力、これらのことが教育の中で注目され、重要視されているということはとても考えなければいけないように思います。なぜならば、それ自体がヒトの進化の中で非常に特徴的な能力であり、「ヒトがヒトである」ということにつながるからです。この能力が今、その特徴的な能力が失われているということはとても危機感のあることなのかもしれません。藤森先生は保育の起源の中で「乳幼児教育の大切さは人類の始原にルーツを持っている」と言っています。本来の人間の能力を「そもそも」といった視点で見ていくことで、保育にもつながるものがたくさん出てきます。

 

 

「人を育てるには、そもそもヒトを知らなければいけない」そんなことを感じます。