乳幼児教育

安定群と不安定群

エインズワースが研究していた愛着関係の研究の中で、「慣れない状況」での子どもの行動は生後1年間の親の反応の感度と直結していたということが見えてきました。そして、こういった幼少期の愛着関係が与える精神的な効果は一生続くということを言っています。しかし当時、幼少期の愛着関係が生涯にわたる影響をうむというエインズワースの主張はあくまで一つの理論に過ぎませんでした。

 

その後、エインズワースの研究助手のエヴェレット・ウォーターズとアラン・スルーフが「慣れない状況」の実験がおこなえるラボを準備し、ミネソタ大学の研究所は愛着理論の研究の中心になっていくのです。スルーフは同じ大学で低所得の母子について長期の研究をするために連邦政府から助成をうけていたバイロン・エゲランドという心理学者と協力することになります。ふたりは267人の妊婦を研究対象として採用しました。その妊婦たちは全員がもうすぐ初めて母親になるところで、全員が貧困ラインより下の収入で生活していました。そして、80%が白人で、3分の2が結婚しておらず、半数が10代でした。エゲランドとスルーフはこのグループの子どもたちを出生時から追跡し始め、以来ずっと研究対象としてきました。そして、その被験者たちは現在30代後半になっています。この研究から得られた根拠をエゲランドとスルーフと他の2名の共著者が本にまとめ、2005年に出版したものが『人格の発達』(The Development of the person)です。これは幼少期の母子関係の長期効果に関するデータを包括的に評価した著書です。

 

彼らの発見によると、アタッチメントの分類は決定的な運命ではないというのです。子ども時代のうちに愛着関係が変わることもあれば、「不安定群」に分類された子どもが大人になってから成功する例もありました。しかし、多くの子どものケースで、「慣れない状況」やその他のテストでわかる満一歳時点での愛着関係が、その後の人生を広範囲にわたって推測できる指標となっていたのです。アタッチメントの安定した子どもたちは人生のどの段階でも社会生活を送るうえでより有能でした。就学前も友だちとうまく遊ぶことができ、児童期にも親密な友人関係を築くことができ、思春期の複雑な人間関係もより上手に切り抜けることができたのです。

 

ラットから人間の発達に研究は進んできていくなかで、長いスパンでの研究の結果が出てきました。そして、「不安定群」と「安定群」の違いを追っていくと、確かに「不安定群」だから成功しない、「安定群」だから必ず成功するというものでもありません。研究はその日、その場だけの短期的な場面を切り取ったものではなく、長期的なスパンを見て、経過的に観察が必要になってくるものです。こういった息の長いスパンで子どもたちを研究することはなかなか根気のいることです。しかし、それだけ私たちが行っている「保育」という仕事は長期的な予測を基におこなっていかなければいけないことをしているのです。

慣れない状況

エインズワースは1960年代から1970年代にかけての研究で、幼少期の愛情をこめた育児は行動主義者たちが思っているのと正反対の効果をうむことを示しました。それは生後1か月ほどの間に親から泣いたときにしっかりとした対応を受けた乳児は、1歳になるころには、泣いても無視された子どもよりも自立心が強く積極的になった。就学前の時期には同様の傾向がつづいた。つまり、幼児期に感情面での要求に対して親が敏感に応えた子どもは自立心旺盛に育ったのです。エインズワースとボウルヴィの主張によれば、親からの温かく敏感なケアは子どもが外の世界に出て行けるための「安心基地」となるのである。まるで、この様子はラットの毛づくろいやなめるといった行為と同じような様子が見えてきます。

 

1960年代の心理学者たちは様々な検査をおこなって乳幼児の学習能力を評価してきたが、情緒的能力を測る確実な方法はなかったのです。エインズワースはまさにそれを測定しようとして「慣れない状況」(ストレンジ・シチュエーション)と呼ばれる方法を開発しました。それはどういった手法かというと、エインズワースが教えていたメリーランド州ボルチモアのジョンズ・ポプキンス大学に、母親が生後12カ月の子どもを連れてきます。ラボを遊び部屋に仕立てて、しばらくの間母子でともに遊んだ後、母親は部屋からいなくなります。しばらくして母親が戻ってきます。エインズワースと研究者たちはマジックミラーを通してその一部始終を観察し、子どもたちの反応をアタッチメントのパターンごとに分類しました。

 

ほとんどの子どもは戻ってきた母親を喜んで迎え、時には泣きながら、時には嬉しそうに駆け寄ったり抱き着いたりしていました。そして、こういった様子を見せる子どもたちを「安定群」としました。その後数十年続いた実験で、アメリカの子どもたちのおよそ60%がこの範疇に入ると分かったのです。それとは逆に温かい再会にならなかった子どもたち、母親が戻ってきても気づかないふりをしたり、母親をたたいたり、床にうずくまって動かなかったりした場合には「不安定群」と分類しました。そして、幼少期の愛着関係が与える精神的な効果は一生続くとエインズワースは言っています。

 

いまでこそ、当たり前のように保育の中で言われる「安心基地」という言葉はこういった研究の中で生まれてきたのですね。このことを見ていると幼稚園や保育園のお迎えの様子からも「安定群」や「不安定群」というものが見えてくるのかもしれません。こういった実験の様子を踏まえて保育や子どもたちの様子を確認していくというもの大切なことなのかもしれません。

愛着理論

保護者と話していると、英語教育や体操教室をしてほしいと言われることがあります。まだまだ、課外教室への需要とはかなり多いのですが、私はそういったことを乳幼児からやることにそれほど重要があるとは思っていません。「それをやったからできるようになる」と思う親は多くいます。そして、いろんなことを「させる」ことで好きなことを見つけてほしいということを言われるのですが、わたしはその反面、その「させられた」ことで「嫌いになる」ものも少なくないのではないかとも思います。私の知り合いに小さい頃ピアノを習わされていた子がいたのですが、その頃はそこそこ弾いていましたが、結果的にピアノを弾いたのはその頃だけで、それ以来ピアノを弾くことはなくなったのです。そこに本当にピアノをやらせる意味はあったのでしょうか。

 

タフ氏は子どもに対する親の関わりの重要性を考えるとき、つい両極端に走る傾向があるといいます。暴力を受けて育った子どもは無視されたりやる気を挫かれたりしただけの子どもよりはるかに苦労するだとか、特別な家庭教師や個人指導をたくさんさせる親の子どもは普通に愛されて育っただけの子どもよりずっとうまくやるだろう、と想像します。つまり親の関わり方において子どもの経験に重きを置くことに注目しがちであるが果たしてそれが適しているのかというのです。かえって、ブレアとエヴァンズの研究によってわかってきたことは、たとえばジェンガをやっている間、手助けをしたり気づかいを示したりといった、ごく普通の適切な親の関わり方のほうが、子どもの将来に大きく影響するということが事実的に分かってきたのです。

 

普段から日常的に行われる子どもと大人との関わりや関係性というものが子どもにとって将来に影響が与えられるということが見えてきたのです。ではラットの毛づくろいに一番近い人間の行動というはどういったものでしょうか。一部の心理学者たちはそれは「愛着(アタッチメント)」と呼ばれる事象の中に見つかると考えているようです。

 

愛着理論は(アタッチメント・セオリー)は1950年代から1960年代にかけて、イギリスの精神分析医ジョン・ボウルヴィとトロント大学の研究者メアリー・エインズワースが発展させたものです。当時、児童発育の分野では行動主義が主流で、子どもの発達は肯定の反応を受けたか、否定の反応を受けたかによって行動を選ぶことで進むと信じられていました。乳児が母親を慕うのは栄養や快適さを求める生物としての必要性としてからで、それ以上の意味はないといったのです。それほど子どもの内的な世界はたいして深くないと行動主義心理学者たちは考えていたようです。そのため、親へのアドバイスとしては、子どもが泣いたときに抱き上げたり、慰めたりして「甘やかす」のはやめなさいといった、行動理論に基づくものが大半であったのです。

 

これは海外における子どもの様子では根強くあるということがみえてきます。以前、オランダに行ったときに見たものなのですが、赤ちゃんの寝るところはまるで檻のような柵があり、赤ちゃんが泣いても10分間は泣かしたままということを言っていました。その方が、子どもたちは自分の力で生きていこうとする自律する力がつくと考えられているようです。海外では親と一緒に寝るよりも早い段階で子ども部屋が用意され、そこで一人で寝ることがほとんどです。

 

しかし、こういった行動理論の考え方に対し、エインズワースはある研究において、幼少期の愛情を込めた育児は行動主義者たちが思っているのと正反対の効果を生むということを示しました。

緩衝材としての大人

ニューヨーク大学の心理学者クランシー・ブレアは、1万2千人をこえる幼児を生後まもないころから追跡するという大規模な実験を行いました。子どもが生後7か月のころから初めて毎年、ストレスのある状況に反応してコルチゾールのレベルがどれだけ上がるかを計測したのです。そして、この実験はアロスタティック負荷がわかる必要最低限の数値、つまりストレスにいかに対処しているかを評価するシンプルな方法です。家庭内の騒動や混乱、人の出入りといった環境上のリスクが子どものコルチゾールの値に大きな影響を及ぼすことをブレアは発見しました。しかし、それは母親が無関心であったり、無反応だったりした場合だけであった。つまり、母親の反応が高ければ、環境上の要因が子どもに与える衝撃はほぼ消えてなくなるようだった。いいかえれば、質の高い育児は逆境による子どものストレス対応システムへのダメージをやわらげる強力な緩衝材として働くのです。

 

ワーキングメモリの実験をしたエヴァンズは、ブレアと似た実験を続けていました。ただし、その対象は中学生です。エヴァンズはそれぞれの子どもから3種類のデータを集めましたまずは①累積されたリスクの値。これは近所の騒音から家庭内の軋轢まであらゆるものを考慮に入れた値です。②アロスタティック負荷の測定値。血圧や尿中のストレスホルモンのレベル、肥満度、指数などを含んだもの。③母親に関する質問への子どもの回答と母子で一緒にジェンガで遊んでいるところを研究者が観察した結果を総合したもの。これらの3つデータを集めました。

 

すると、環境上のリスクの値が高いほどアロスタティック負荷の値も高いということが見えてきました。ただし、母親が子供に特別の関心を寄せているのでない限りです。では、逆に特別な関心が寄せられている場合にはどうだったかというと、その場合には家の中が過密であるとか、困窮しているとか、家庭内に騒動があるなどといった環境からくるストレス要因はすべてないものと同然になったのです。ジェンガのゲームの最中に母親が子どもの感情の動きに敏感であったら、子どもが人生で直面する苦境がアロスタティック負荷に影響を及ぼすことはほとんどないのである。

 

保育において「共感」は非常に重要な要素であることはいうまでもありません。しかし、少し手のかかる子どもとの関わりは時間がかかったりすることもあります。一人担任であればなおさら、そういった子どもとの関わりをじっくりするというのは難しくなります。しかし、先の子どもたちの育ちや発達、将来の影響を考えると大人も粘り強く共感したり、関心を持っているということを伝えていくことが子どもたちの「最善の利益」につながっていくのだと思います。面白いことに、こういった事例は自分が保育をしていく中でも多々巡り合う機会があります。保育をしているときはとても手がかかり、喧嘩も多い子どもだったのですが、その都度、うまく子どもの気持ちを汲み、共感を基とした関係性を作っていくと、小学校で見違えるような成長を見せてくれることがあります。保育をする上で大切なことは関わる中で「すぐの効果」を見るのではなく、「先伸びする力」を信じることなのだと思います。

ラットの脳と自殺者の脳

前回の紹介にあったラットの実験によって、生物学上の母親の習慣ではなく、育てた母親の習慣が子ラットの環境にうまく適応することに至ったことが分かってきました。それは遺伝上の要因によって高いLG値を出すのではなく、環境によるものが大きいということが分かったのです。そして、それはミーニーをはじめとする神経科学者たちに、LGの効果と似たものが人間の場合にも起こるのではないかと興味を持たせ、実際その証拠を発見しました。

 

ここ十年にわたる遺伝学者との共同研究のなかで、母ラットがなめたり毛づくろいをしたりすることで与える影響は子ラットのホルモンや脳内化学物質の範囲にとどまらないことが立証されています。そして、それはもっと深い領域、遺伝発現制御にまで及ぶというのです。生まれて間もない子ラットへの毛づくろいは、DNAの制御配列への化学物質の結合に影響するというのです。そして、遺伝子配列の技術を使って、毛づくろいによって子ラットのゲノムのどの部分に「スイッチが入る」のか、つまり影響を受ける部位を突き止めることができました。それがある場所はまさに成体になってからストレスホルモンを処理する場所、つまり海馬をコントロールする文節(セグメント)だったのです。

 

ラットでは、ほんの小さな親の行動がDNAに対して持続的な効果をもたらすことが実証されました。この発見を齧歯(げっし)動物の世界の外まで広げたのは、その後ミーニーのチームがおこなった、人間の自殺者の脳細胞を使った実験でした。子どもの頃に冷遇され、虐待された自殺者から採取した細胞と、そうした経験のない自殺者から採取した細胞が使われました。研究者たちは脳の細胞を切り取り、海馬で起るストレス反応に関係するDNAを検査しました。この海馬はラットにおいて生後早い時期の親の行動でスイッチが入り、その後の行動に強い影響を及ぼした部位である。子どもの頃に虐待された経験のある自殺者の細胞では、DNAの全く同じ場所にメチル化(DNAの制御配列への化学的結合)の痕跡が見つかったのですしかし、その効果は正反対でした。子ラットの場合は毛づくろいによって健全なストレス反応の機能にスイッチが入ったわけですが、自殺者のケースではスイッチが切れてというのです。

 

この研究は非常に面白いのですが、この結果自体は人間のストレス処理機能に親子関係の影響が及ぶことを決定的に証拠づけるわけではないと言います。しかし、ミーニーの調査を踏まえたいくつかの革新的な研究のおかげで、もっと堅固な証拠も見つかり始めています。それはニューヨーク大学の心理学者クランシー・ブレアの1万2千人を超える幼児を生後間もない頃から追跡するという大規模な実験から見えてきたのです。