乳幼児教育

遺伝的要因と環境要因と学校

バージニア大学のエリック・タークハイマ―は、経済的にごく貧しい家庭で育った双子のデーターベースに注目しました。そして、遺伝的要因と環境要因との関係性が見えてきたのです。それ以前の双子研究は、すべて中流階級の子どもが対象だったのですが、中流階級層の双子とごく貧しい双子の両者を調べると、経済的に貧しい子どもより、豊かな家庭子どもの方が、IQの遺伝率がずっと高いことが分かりました。そして、貧しい子どもの場合、IQのスコアには遺伝的要因がほとんど影響していなかったのも分かったのです。一方で、親子のスコアの相関はほとんどなく、一卵性双生児と二卵性双生児のIQスコアの差についても同じでした。貧しい家庭の子どものIQが、豊かな家庭の子のように遺伝的要因の影響を受けないのは、どうしてでしょう。

 

それは、貧しい家庭の子どもの場合、わずかな環境の違い(たとえば、学校の教育レベル)でIQに大きな差がつくため、環境要因による違いが遺伝的要因による違いを覆い隠してしまうからだと言います。これに対し、経済的に豊かな家庭の子どもは揃ってレベルの高い学校に入るので、環境要因による差が現われにくく、逆に遺伝的要因による差の方が強く表に出るのです。

 

チャールズ・マリーとリチャード・ハーンシュタインが執筆し、論議を呼んだ「ベルカーブ」(心理学者と政治学者の共著。1994年)では、IQに遺伝があるなら、ヘッド・スタート(連邦政府による低所得家庭への育児支援事業)のような低所得層向けの早期教育プログラムは無益ではないかと述べられています。しかし、その後の研究では正反対の結論が示しています。困窮家庭の子どもの環境を変えることは、IQスコアの上昇に絶大な効果をもつことが分かったのです。

 

歴史的にも、環境の変化には遺伝的要因を上回る効果があることが分かります。というのも、我々人間のIQの絶対値は20世紀を通じて飛躍的に上昇しました。それは私たちの遺伝子が変わったという事を意味しているわけではありません。これはもはや百年をかけた壮大な遺伝―環境実験を受けてきたようなものだとゴプニックは言っています。つまり、環境が変わったことで、遺伝子要因以上に環境要因を受けたことで、より発達した脳を獲得することになったのです。これは学校というものにもつながっていきます。

 

かつては学校に行く人はわずかしかいませんでした。ところが新しい環境に脳を置いてみると驚くほど好成績をあげることが分かったのです。すると、みんなが学校に通うようになります。すると、生まれもった能力と教育との相乗効果で、これまでよりもより成績の良い賢い人が多くなり、さらに学業を積むことによって、さらに賢くなることにつながったのです。しかし、この学校教育にはこういった利点と共に表裏一体である、問題も生まれることになるのです。

遺伝要因と環境要因

ゴプニックは遺伝率が形質を作ることに大きな影響を与えると紹介しました。しかし、だからと言って環境要因がほとんど関係ないということではないとも言っています。そして、遺伝率とはしょせん、一定の環境内で示される傾向を数値化したものにすぎないというのです。それはどういったことなのか。

 

それは人間の特性にあります。人間は自分の環境、特に社会環境を自ら作り出せる動物で、そうして作り出された環境は、たいていもとの環境とは違ったものになります。なぜなら、これまでに紹介したように、人間は反実仮想と因果的な介入を行う能力(これも遺伝するもの)によって、自分の環境を変えることができるからです。そのため、これまでと違った環境の下では、同じ遺伝子でもまるで違った作用を発現することになります。こういったことが遺伝的要因と環境的要因を明確に区分するということは、そもそも原理的に難しい理由でもあるのです。確かに親子一世代違うだけでも、それぞれの年代での環境は大きく違います。そして、求められる形質も違ってくるでしょう。同じ遺伝子を持っていたからといって、環境要因によって形質の出現の仕方が違っていても当然であり、では、何が違うのか、どう区分されるのかというのは明確に分けることは難しいのです。

 

ゴプニックがあげる一例が、赤ちゃんのフェニルケトン尿症の検査です。この病気は稀に見られる先天性疾患で、PKUと略称されます。PKUの赤ちゃんは食品中のアミノ酸の一種を体の中で代謝できません。そのため、普通の食事を与えてしまうと重度の発達遅滞が起こります。ですが、特定物質を除いた食事を与えれば問題は起こりません。つまり、PKUによる発達遅滞は100%遺伝的要因によるものですが、見方を変えれば、100%環境要因によるものでもあります。発達遅滞をもたらす特定物質を摂らないですむ環境では確実に発症が防げますが、そうではない環境に生まれたば場合は防ぎようがないといったことが言えるのです。

 

このように人類はPKUと発達遅滞の因果関係を持ち前の認知能力によって解明しました。そのうえ、欠陥遺伝子を受け継いだ子どもの環境を変えるための介入も行いました。もし、人間がこうした能力のない動物であったら、PKUの発症は今も100%遺伝要因で決まっているでしょうとゴプニックは言います。

 

状況と環境によって、仮に遺伝的要因であったとしても、環境要因にすり替わってしまうということがあるのですね。それは時代によっても、社会や文化によっても大きく影響されているのだろうと思います。確かに太古の時代は攻撃的な人の方が獲物や狩りをすることには向いており、その時代であればヒーローであったかもしれません。しかし、今の時代にそれを出してしまうと、犯罪者になってしまう可能性もあります。形質や気質というのはそれを受ける受け皿を必要とします。遺伝的な要因と同時に環境や社会の在り方によって、形質の特性が生かされたり、そうではないこともあるということはよくよくその意味を考えなければいけないのだろうと思います。そのためには、それぞれがそれぞれの特性を受け入れ、それに向けた環境に身を寄せれる柔軟な社会、それぞれが生かされた社会構造をもつ必要があるのだろうと思います。

幼児期の体験を取り戻す

 

乳児期に子どもに与える影響というのはどれくらい影響するのしょうか。幼児期の出来事や親のすること(あるいはしないこと)で、子どもの後の人生に直接影響を及ぼすものには、どんなものがあるのでしょうか。このようにゴプニックは育児の中で疑問を持ちながら、自分の育児法をずっと問い続けてきたそうです。その結果、幼児体験が後の人生に直接影響するという単純な見方を裏付ける科学的証拠は、ほとんどないのだということが分かったそうです。

 

このことについて、有名な研究の一つに、ルーマニアのニコラエ・チャウシェスク政権独裁下の孤児院の事例があります。この事例は子どもの愛着研究において、必ずと言ってもいいほど取り上げられる事例です。当時、人口増加のため多産することを民衆に強制していた政権でしたが、民衆にとっては経済的な改善もなく、産んだものの育てられない子どもがものすごい人数に上り、捨てられる子どもたちも多くいました。こういった孤児院にいた子どもたちは、身体的虐待こそ受けませんでしたが、社会的・情緒的にすさまじい剥奪を受けたのです。孤児院では誰も遊んでくれず、抱いてくれず、話しかけてくれず、愛してもくれませんでした。赤ちゃんは数時間どころか何日も、何週間も、ベットに寝かせきりだったのです。

 

政権が崩壊し、孤児院の恐ろしい実態が明るみに出ると、当時、3歳・4歳だった子どもの多くはイギリスの中流家庭に引き取られていきました。その子たちの様子は同年代の他の子どもとはまるで違いました。体がとても小さく、ひどい発達遅滞があって、ほとんど口がきけない上に、突飛な社会行動も見られたのです。しかし、それでも6歳になると、遅れはおおかた取り戻されました。IQの平均スコアは同年代のより恵まれた子どもたちと比べ、わずかに低いだけとなったのです。普通の家庭で育った子どもが実の親を愛するように、この子どもたちも養い親を愛するようになったのです。こうしていく中で、孤児院出身の子どもたちは他の子どもと区別がつかなくなっていったというのです。しかし、その中でも一部の子どもたちは、受けた傷から完全に回復することができず認知的、社会的な遅れが完全に取り戻せていないようでした。孤児院にいた期間が長い子ほど問題が残りやすく、その程度が深くなる傾向が見えてきたのです。

 

このルーマニアの孤児院の子どもたちの様子は何を示しているのでしょうか。一つは過去の体験があっても、後の体験によって克服するというケースが見えてきます。しかし、一方で過去の体験から回復できず、後の人生に影響を及ぼすということも事実として見えてきます。

 

その他にも、一般的な状況で行った発達研究では、幼児期のリスクは後に取り戻されることが示されています。たとえば、子どもの時に虐待をされた人は、そうでない人より我が子を虐待する傾向があります。しかし、その一方で、そんなことをしない親になるほうが圧倒的に多数であるのも事実なのです。ゴプニックは幼児期に受けた傷というのは、何とか克服することができることを示しています。

 

では、いったい子どもたちが人生に影響を与えるのはどういったものなのでしょうか。ゴプニックはこのことについて「遺伝子」にも話を広げて考えを広げていきます。    

幼児期の自分の影響

次にゴプニックは「人間は一生変わらないものだろうか」と最古の哲学者であるギリシャのヘラクレイトスの言葉を挙げています。つまり、人格の同一性とは何か。時が経過しても人格は保たれるのか?それはどのようにしてか?ということを挙げて話を進めています。人の性格は一生同じなのでしょうか。それとも変わることができるのでしょうか。このことも割と話題に上がってくることが多い話題です。このことについて「わたし」を「わたし」たらしめているものは何であるのでしょうか。「わたし」は障害変わらない、といったとき、そこにはどんな意味が込められるのでしょうか。

 

では、子どもはまずどのように「わたし」や「ぼく」をいつごろから認識するようになるかというと。4歳・5歳頃になると、自分の過去と未来をつなぐ物語をつくれるようになると以前紹介しました。おでこにシールをつけた子どもの例で、おでこにシールがついた「ぼく」、ビデオを見ている今の「ぼく」、砂漠でサングラスが必要になる「ぼく」を同一のものとして理解できています。このように同一視ができるようになるのは、子どもが自伝の主人公である「わたし」を育てることで身につくと紹介していました。こういったことが理解できていくことで、「マシュマロ実験」の実行機能のような未来の自分のために、今の自分をあえて欲求不満にさせることができるようになることができるようになるのです。そして、成長とともに、マシュマロ実験のような直近の未来から、全人生における広がりを見せていきます。このように幼児期と成人期を結ぶ一つの物語があるかのように人生を生きることが人格の同一性の本質ではあるような気がするとゴプニックは言っています。かつての自分を知っているから、今の自分がなにものであるかが分かるというのです。

 

このことを踏まえて考えていくと、幼児期の体験は後の人生にどのように影響していくのでしょうか?という疑問がわきます。これは保育の中でも非常に大きなウェイトを持つ問題です。子どもたちにとって親の影響が後の将来にどのように影響するのか。子どもの幸せのために、自分は何をするべきなのかといった悩みは親のみならず、保育者や教育者は一度は必ず考えたことのある悩みではないでしょうか。だれもが子どものときの体験が今の自分を形づくっていると感じているのです。ゴプニックはフロイトの理論が科学的に否定されているにも関わらず、未だ根強い人気があることや、自己啓発本や子育ての本から暗い子ども時代の回想記までもがもてはやされているのはこういった考えの土壌があるからではないかと言っています。

 

しかし、その一方で、幼少期以外の後年の出来事が、幼児期の体験を上回る影響をもつということも知っています。幸せな結婚、恵まれた仕事、1人の良き友人といったこれまで出会った人との経験が人をみじめな過去から救ってくれるというのです。そのため、自分の力で人生を切り拓けば「幼児期決定論」にも打ち勝てると信じているということも言えます。つまり、「立ち直る」ということも幼児期の体験とは逆に信じられているのです。

 

この二通りの説においても、多少の裏付けはあるようです。しかし、科学的に詰めていくと、いずれも単純すぎることがわかるとゴプニックは言います。しかし、現実はもっと複雑だというのです。なぜなら、ヒトは自分の置かれた環境を変革する力を持っているからです。

 

しかし、幼児期の自分が後の大人になった自分の一部を占めているというのは紛れもない事実です。しかし、それは幼児期の体験が今の自分を決定しているとは言えないのではないかとゴプニックは言います。大人の自分の中に、幼児期の自分が含まれているにすぎないというのです。

大人と子どもの意識の違い

ダニエル・デネットなどの内省の矛盾による主張は、意識についての幅広い見解の一方の極論な考えであって、デネットにポール及びパトリシア・チャーチランドを加えた「アンチ意識派」がいます。逆にそれとは反対の立場としてのあるのが、ジョン・サール、デビッド・チャールマーズといった「プロ意識派」の哲学者たちです。

 

「アンチ」は意識体験が不安定で矛盾をはらむことを強調し、「プロ」は意識の主観的な確実性を強調しています。チャルマーズらによれば、意識と脳にズレが生じるのは、意識が非物質であるせいですが、だからといって意識が幻想だというのではないと言っています。チャーマーズは、心を神秘的な魂と同一視するわけではなく、ただ脳と意識は根本的に別種のものだと言っているのです。

 

子どもの意識に注目しても、意識を説明しきることはできませんが、どちらかというと、デネットの主張に歩がありそう気がするとゴプニックは言っています。子どもの意識は考えれば考えるほど複雑で矛盾を抱えています。子どもは本当に、大人と違う意識体験をして、それを私たちに正確に伝えているのでしょうか。自分の意識を間違って捉えているということはないのでしょうか。この箱にはキャンディが入っていると、ついさっき思ったことを、本当に覚えてないのでしょうか。過去の体験を取り違えているだけ、ということはないのでしょうか。内なる自己がないのに、なぜ意識を持てるのでしょうか。これは「わたしの」意識体験だという自覚のない意識に、どんな意味があるのでしょうか。もし子どもが過去の意識体験を取り違えているのだとしたら、大人にもそのような可能性はないのでしょうか。

 

わたしたちが当然のように思っていること、たとえば、私は数秒前に自分が何を考えていたか知っているとか、意識は一つの流れであるとか、自己は唯一のものであるといった想定が子どもを見ていると瓦解しまうとゴプニックは言います。意識が特定の性質をもつ統一的な現象でなくなってしまうのです。外部の世界に向けられる鮮明な意識と、内部の「わたし」を感じる感覚とは別物のようであり、その感覚は想像力や過去の出来事を想起する能力ともまた違うようなのです。もちろん乳幼児にも意識はありますが、これまでで紹介したように大人の意識とは非常に異なっているように見受けられます。

 

これまでの実験の内容を見ていた時に、子どもと大人との大きな違いは子どもは「今」というものが基本的にすべてであることに対して、大人は「未来や過去」も含めての意識という意味あいがあるように思います。目に見えるもの、感じるものすべてを取り入れようとする子どもと、効率よく、学び、必要なものを取り入れようとする大人というようにその時期に起きる学習というものが大きく違っているのだと思います。

 

ゴプニックは子どもの意識体験は、心の機能とギャップがあります。子どもはとても論理的で、データから正確な結論を導きますし、複雑な統計的分析や巧みな「実験」もしています。ところが、こんなに合理的な学習能力を持ちながら、意識のほうは大人から見ると非合理に映ることがあります。しかし、これは誤りだとゴプニックは言います。3歳児の心が大人にとって非合理なものだと感じられたからといって、子どもの心が実際にそうだと決めつけることはできないのです。そうではなく、子どもの場合は、心の機能と意識体験のギャップが大人よりずっと大きいと考えるべきではないかというのです。子どもは、思考と学習と体験が複雑で間接的な影響を及ぼし合っているのがよくわかるとゴプニックは言います。世界や自分の心について学習するにつれて、子どもの意識も変化していくのです。たとえば、他人の願望や信念は変わりえると知った子どもは、自分の願望や信念の変化も体験できるようになるのです。それは無意識の中で学習され、意識体験が絶え間なく絡み合っているのです。

 

だからこそ、乳幼児はその意識体験をたくさんする必要があり、一見大人にとっては非合理なものであり、一貫性の無いものであるように感じるのですが、将来の社会で生きる子どもたちからすると、そこに向かうための日々の体験が基本にあるのです。