乳幼児教育

愛とは

子どもたちが未来を思い浮かべるときに、自分はどんな未来を実現したいのかということを判断します。その判断は、ごく幼い赤ちゃんのときから備わっている道徳的反応に従うとゴプニックは言います。そして、その道徳的反応の土台となる奥の部分は赤ちゃんと養育者の間で交わされている深い共感と、親しみと無私の思いやりであると続けています。ここに保育で言う「安心基地」の重要性が見えてきます。

 

安心基地が赤ちゃんにとって確保され、保障されることが未来へと向かう原動力につながっていくのです。そして、これは前回にも紹介したようにこういった無私の愛があることで学習に没頭することが可能になるのです。赤ちゃんを見ていても、不安があるときは親から離れようとしません。何か自分が不安になったときに必ず助けてくれるということがわかってくることで、徐々に赤ちゃんは親と離れる距離が遠くなってくるのです。それが安心基地です。愛情を子どもに与えるというのは何も過保護にすることではなく、何かあったときに逃げてこれる、逃げてきても受け入れてもらえるということが重要になってくるのです。

 

これまで「想像力は知識に依存し、知識は愛と養育に依存している」とありました。最後にゴプニックは「愛そのものも知識と想像力に依存している」と言っています。ゴプニックは周りの人に頼り切った無力な赤ちゃんにとって、愛の理論ほど大切なものはないと言っています。赤ちゃんは近くにいる養育者のすること、言う事をもとに愛の理論を組み立てます。この理論はその子が大きくなり自分の子どもをもったとき、新たな親子関係にも影響を及ぼします。

 

この愛の理論をもつことで、養育者の行動や自分の取るべき行動を考えます。当然、その際、悪い循環も生まれれば、好ましい循環も生まれるところがあります。しかし、できてしまった悪い循環から抜け出す場合には想像力が役立ってくれます。小さな証拠が一つでもあれば、子どもはそれぞれより所に新しい愛の形を思い描けるのです。そう思うと、何度でもやり直すことはできるのかもしれませんね。

 

人間は不老不死になることはできません。これは生物全部に言えることでしょう。しかし、遺伝子をのこし、未来を作ることはできます。ゴプニックは「哲学する赤ちゃん」の結びにこういった言葉を残しています。「人間は変わる、ということはつまり、今だけを見ていても人間の本当の姿は分からないということなのです。どこまでも枝分かれして広がってゆく可能性の宇宙に、目を向けなければいけないのです」と言っています。私たちは持って生まれた人間特有の未来を創造する力を駆使し、子どもたちに未来を残すことが出来ます。しかし、そして、その世界を生きる子どもたちを育てる必要があります。教育や保育、育児という、子どもたちに関わることにはこういった未来に生きる子どもたちがよりよく生きる力を見通してつけていくことが求められるように思います。

ルールの欠点

ルールは相手とのやり取りを効率的にできるほか、自分自身が論理的推論を行わなくても、ルールに従っておくことで社会がまとまることができます。また、ルールは変えることが出来るのも特徴であり、その時より良い考えがあり、合意と交渉によって変化することが起きます。そんな人間社会にとって合理的なルールですが、そこには落とし穴があります。

 

それは「とっくに役目を失ったルールにいつまでもこだわること」だとゴプニックは言います。これについて一例を挙げています。「ある女性が母親に好物のローストビーフを作ってあげようと思いました。彼女は、母親がいつもやっていた通りの手順なら間違いないだろうと思い、それを忠実に再現していきます。まず、肉の端っこを切り落とします。しかし、この肉の端を切り落とすということを母親がしていたのは、単にフライパンが小さくて肉が入りきらなかったためだったのです。」つまり、娘が大真面目に端を切り落としていたのは、「そうしなければいけない」のではなく、単に「そうしなければ鍋に入らなかった」からであり、作り方の手順として「正しいか」と言われると「どうでもいい」部分だったのです。

 

これと同じように道徳的に正しいと思い込んでいるルールにもこれと似た例はたくさんあると言います。その一つが「食のタブー」です。あるものを食べてイヤな経験をしたネズミは、それがたった一度のことであっても、二度と同じものを食べようとしません。これを「ガルシア効果」と言います。このように人も食中毒を起こした人は原因となった食品を避けるようになります。人類学のダニエル・フェスラーは、このような経験が食のタブーの起源ではないかと言っています。

 

また、このようにたとえばロブスターに当たった人が相当な権力者であった場合、つまりルールを作る側の人であった場合、みんなにもロブスターをタブーとしたルールを作るかもしれません。フェスラーはこうしたタブーが制度化し、やがて宗教や道徳に取り入れられていったのではないかと言います。

 

時にルールは権力の道具にもなります。作った人や、その人の属する集団の利益につながるルールが導入されることがあるのです。ルールを受け入れ、守ろうとする人間の衝動が悪用されてしまうのです。不当な仕打ちや抑圧に反対していた人も、それがルールになれば受け入れてしまう傾向があるのです。

 

日本の言葉に「勝てば官軍」とあります。勝った方が「正しい」ものになってしまうのです。そして、残ったほうは勝った側の論理に従わなければいけなくなります。保育においても、大人が子どもたちにルールを作ることがたびたびあります。それは意識的なものもあれば、無意識的なものもあります。こういったルールは度々子どもたちにとって窮屈なものになってしまうものも多いように思います。だからこそ、今世界中で子どもの権利条約を中心とした、子どもの参画が求められているのでしょうね。

元々持っている道徳性

ゴプニックは赤ちゃんが利他的な行動をとることを自身の研究とフェリックスの研究を通して紹介していました。それと同時に幼い子どもにも純粋な道徳的判断ができるという事を示すために、ジュディス・スメタナの研究により示しています。彼女は2歳半の子どもに、日常生活の中の二種類の場面を示しました。その一つは、子どもたちが幼稚園のルールを守らないこと。たとえば、上着を決められた場所に置かない。お昼寝の時間におしゃべりをしているといったようなこと。それともう一つ、他の子どもにぶつ、からかう、おやつを盗むなどの身体的、心理的な危害を加えるものといった2つの場面を見せました。その後で、子どもたちにルールを破ることはどうして悪いのか。ルールを違反した子どもには罰が必要かと尋ねました。さらに、もしこういうルールがなかったら、あるいは、こういうルールの無い幼稚園でなら、同じことをしても良いのかと聞きました。先生がいいですよと言ったら、お昼寝の時間に喋ってもよかったり、他の子をぶってもいいのかと質問したのです。

 

すると、一番幼い子どもも含め、子どもたちはみな、ルール違反も他の子に危害を加えることも悪いことであると言ったのです。そのうえ、ルール違反よりも、他の子に危害を加えるほうがずっと悪いとも思っていたのです。ルールは変えられるし、よその幼稚園は同じルールではないかもしれないというのです。そして、どちらにしても、危害を加えるのは悪いことで、それはルールとは関係ないというのです。このことはどの幼稚園でもそれは同じだというのです。

 

これは仮定の話だけではなく、実際に起きた出来事についても、同じように子どもたちは判断しました。他の子に危害を加えることと、ルールを破ることとは違った反応をしたのです。これは実験をしたアメリカだけではなく、どの国でも子どもたちの反応は同じだったようです。そして、国だけではなく、親から虐待した子どもでも、他人を傷つけることは本質的に悪いことだと考えていたのです。そして、それが仮に実の親であっても、悪いことは悪いと判断しました。

 

ゴプニックはこのような判断が起きたのは他人への共感や利他的行動がごく早期から発達することと符合しているからだと言っています。子どもは1歳半から他人の痛みを自分の痛みのように感じ、和らげようとします。だから、この逆の行為である誰かを傷つける行為はどんなことをしてもよくないことだと分かっているのだというのです。

 

幼い子どもでも相手に危害を加えるということはいけないことであると分かっているのですね。この研究は2歳半の研究ということであり、これによると2歳半頃であれば、危害を加えることがいけないことであるということが分かっているという事になります。とするのであれば、2歳頃の子どもたちの関わりにおいて、叩くことや噛みつくということは意図してではなく、衝動的な行動であるのかもしれません。以前、DVを犯す人は叩こうと思っていなくて、気づけば手が出ているということを聞いたことがあります。自分が「叩いてやろう」と思わなくても、気づけば手が出ているというのは恐ろしいことですが、そういった衝動性によってではなく、冷静になるための心持が子どもにも重要な力になってくるのですね。この衝動性は非認知能力とも大きく関わってくるのだろうと思います。

赤ちゃんの利他的行動

ゴプニックは道徳において「共感」は大切であるといいながらも、それだけでは足りないと言っています。考えてみたらわかることではありますが、いくら相手に共感したとしても、それが相手にとって苦痛を取り除かなければ、何の解決にもなりません。つまり、利他主義の本質は、共感できなくても、相手が苦痛を感じているのであればそれを取り除こうとするところにあるのです。そして、その力は乳児の頃から宿っていると言います。

 

ブロッコリーとクラッカーの実験で、生後14カ月の赤ちゃんは相手と自分とが同じものが好きだろうと考え、自分の好きなクラッカーをあげました。ところが1歳半の子どもは、相手の感覚や願望は自分と違う場合があることを理解していて、相手がブロッコリーを好きならブロッコリーを、相手がクラッカーが好きならクラッカーを渡しました。つまり、利他主義の行動であると14カ月の子どもでも差し出すことをしますが、相手が何が欲しいのかを理解し、それが手に入るようにしてあげること、相手の表情を読み、欲しいものをあげるということは1歳半の子どもたちはできることを示しています。そのうえ、14ヶ月の赤ちゃんとは違い、相手が欲しいものが仮に自分が嫌いなものであっても、相手が欲しているものを差し出すという高次のやり取りをしているのです。

 

この実験とは別にフェリックス・ワーケネンが行った実験で、14ヶ月の赤ちゃんが必死で他人を助けようとした実験がありました。その実験では、実験者が届かないところにあるペンを取ろうとしているところを見た赤ちゃんが、部屋を横切ってクッションを乗り越えてまで助けに来たのです。また、誰かがいたそうにしている様子を見ると、おろおろするばかりではなく、何とか痛みを取ってあげようと、撫でたりキスしたりするのでした。

 

こういった行動を赤ちゃんが起こすのは、持ち前の因果的推論により、相手の気持ちを予測し、反実仮想の能力を使い、「こうなったら、こうなるだろう」といった見通しを持つことで、他人を幸せにしようとするのです。ゴプニックの行ったブロッコリーとクラッカーの実験では、1歳半になると相手がブロッコリーをあげると喜ぶことを理解していました。フェリックスの実験では、14ヶ月の赤ちゃんは相手がペンに手を伸ばしていれば、その人はペンを欲しがっているということ、その人がペンを手に入れるには、部屋のこっち側にいる自分がクッションを越えて向こう側へ行かないといけないことを理解していたのです。

 

保育をしていても、よく見る光景ですし、家庭の中でもよくある光景です。しかし、この光景の中で行われていることがどれだけ高次元のことを行っているかという事を考えてみたことがあるでしょうか。自分自身、こういった研究の内容を見ていく中で、改めて赤ちゃんとはかなりすごい存在で、思っている以上に世界に働きかけているという事を感じます。かなり能動的に働きかけていくことで、世界を理解し、物事を理解し、知識として蓄えていく様子を見ていると、赤ちゃんとの関わり方もおのずと「してあげる」ことから「できる環境」を用意する必要があるという事を感じます。

共感の影響

子どもがもつ共感や模倣を通して、自分の心も他人の心も仕組みは同じであるということを理解していきます。そして、そういった関係性の中で、道徳性も得ることになっていくとても重要な能力です。しかし、この共感や模倣は好ましい反応ばかりではなく、困った反応を呼び起こともあるとゴプニックは言います。「自分の心も他人の心も仕組みは同じである」ということは、喜びは喜びを生むというポジティブな反応もあれば、それとは逆に、悲しみが悲しみをよび、怒りは怒りを呼び起こすことにも繋がってしまうのです。喜びを分かち合うのが博愛への道なら、怒りの連鎖は暴力への道です。幼児期の攻撃性のほとんどは、このような「反応的攻撃性」であり、他人から受けた脅威に対抗して起こる攻撃や怒りであると言っています。それは時に暴力の形をとることもあるのです。

 

ゴプニックは攻撃的な子は、他人の怒りに非常に敏感だと言っています。混みあった運動場で子ども同士がぶつかっても、平均的な子どもは不運な事故だと思います。ところが、反応的攻撃性の強い子は、相手が自分をつけようとしてわざとぶつかったと思いがちです。このような子は相手から怒りをぶつけられたと考え、自分も怒りや威嚇で応じます。しかし、当人からすれば、自分は何も悪くなく、悪い相手に対抗しているにすぎないのです。

 

こうした相互作用はたちまち悪循環を生みます。怒りに怒りで答えるのは、幼児に近い共感反応のようです。小学生の研究で、ある子どもが意地悪かどうかをものの数分で判断することを示した研究があります。その子どもが意地悪であると判断されたら仲間からイジメられる傾向があるようです。その理由は「あっちがひどいことをするから、こっちはそれに対抗しているだけ」という、攻撃的な子どもの言い分と同じことが起きていました。それでも幼いうちはまだ、物理的に大きな危害を加えることはできないのですが、子どもが青年期を迎え、反応的攻撃性に大きな体、不安定なホルモン分泌、未完成の前頭葉、そして簡単に手に入る武器が加われば、自己破壊的な暴力衝動の爆発が起こりかねないというのです。このことはアメリカのハイスクールにおいても起きていることのようです。また、こういった行為の先にたとえば、バルカン半島から中東に及ぶ恨みと報復の連鎖まで、そう遠い距離ではないというのです。道徳的に最善の衝動が、相手の情緒を真似ることから始まるなら、最悪の衝動も同じなのだろうとゴプニックは言います。まさに「目には目を、歯には歯を」ですね。

 

こういった衝動は誰しも経験したことであると思いますし、どこかでそれだけの痛みを与えないと事の重大さを伝えることはできないと思っているかもしれません。これは保育において、保護者のクレームにおいて、最近感じるところでもあります。園長と保育者の関係、保育者同士の関係と同じようなことが保護者関係にもつながっていたり、影響していたりするように思います。園の文化や雰囲気、風土といったものは保護者にも伝わってしまっているように思います。特に保育というものは人間関係でなりたっています。人と人との関係が非常に重要でもある仕事です。だからこそ、マネージメントする側はそのことに気を配らなければいけません。どういった環境でどのように関わりをもつことが出来るのか、それは結果として、様々なところに影響が出る内容であると感じられます。