乳児

所有物と不安衝動

所有物は子どもが母親とは別の独立した自我を持っていることを認識し始めると、母親の代わりとなる「移行対象」によって安心感を高めるといったように、所有物は大切な人の代わりとして安心感を与えてくれるというのですが、どうやら、それ以外にも意味があるそうです。それはどういったことかというと「所有物は自分自身の延長である」とみなしているところです。つまり、自分のエッセンスが所有物に何らかの形でしみ込んでいると信じている。あるいはそのように振る舞っているというのです。だから、それらの所有物が傷つけられたり、失われたりすると自身も傷ついたり喪失感を味わったりするのです。自分の大切にしているものが壊されたり、無くしたときに感じる喪失感はその所有物に対して、自分自身の延長として感じているからなのですね。

 

英ノーザンブリア大学の進化心理学者ニーブは「人はみな物を所有しているし、所有物に慰められている」と言っています。そして、「これは進化の過程の課程で受け継いできたものだ」と言っています。人は食べ物(特にようやく手に入れたもの)を取っておくことは、今でも重要な生存戦略だとニーブは説明しており、それは武器や道具にも当てはまるというのです。「人は何も持たずに世間に放り出されると無防備に感じる」「生き延びることを可能にする所有物が必要」なのです。生きていく中で所有物というのは人間にとっては非常に重要なもので、物を準備しておくことで安心感を得るのです。

 

しかし、人間は社会的な動物です。そのため、安心感を得るために必要となるものは、単に肉体的生存を可能にする基本的な事柄よりも複雑です。この説明にはマズローの欲求階段(欲求ピラミッド)が役立つといいます。1943年に発表された欲求ピラミッドでは、生理的欲求(食物や空気、水)が底辺を占め、その上に肉体的な安全(隠れ家や武器)。愛と所属(人間関係や社会)、承認(強い自我)の各欲求が積み重なり、自己実現の欲求(自分の潜在能力を最大限に発揮している情緒的に最適な健康状態)が頂点を締めています。人は生存していくために、こういった欲求を持っているのですが、その中でも、自己の安全や人間関係における自信といったすべての領域にで、所有物は安心感をもたらすのに一役買っているといいます。

 

ヒトにとって、所有物というのは思いのほか、必要な要素なのですね。確かに、もしものために大目に買っておくというようなことをすることもありますし、あることでなくなった時のことを考えなくてもいいといった安心感があります。これは今回の新型コロナウィルスでも、マスクやアルコール、手洗い石鹸などが売り切れたりしましたが、それも新型コロナウィルスに対する不安から起きた行動なのだと思います。普段であれば、それほど多く買わなければ、まんべんなく配給できるにもかかわらず、無くなるかもという不安から大量に買い、結果として、すべての人にとっても希少なものになるということにつながり、人の起こす衝動的な行動の裏には、こういった欲求が隠れているのです。そして、この欲求に対して所有物というのは大きく関わってくるのですね。

遊びから得るもの

「遊びが不足すると問題解決スキルの発達も妨げられる」と1978年のDevelopmental Psychobiologysに発表されました。そこでは隔離されたラットと制約なく自由に遊ばせたラットのグループの両方に、おやつを手に入れるためにゴムボールを引っ張ってどかす訓練をしました。数日後にはおやつを手に入れるためには今度はボールを押さなければならないように変えます。すると、隔離されていたラットは遊ばせたラットよりも、新しいやりかたを試みるのに、はるかに時間がかかったのです。この論文の著者は遊びを通して新しい試みをすることを学ぶのだろうと推測しており、遊ばなかった動物は行動の柔軟性を獲得しなかっただろうと考えました。

 

ほかにも2007年の研究では遊びは言語発達も助けるとワシントン大学の研究者が発表しました。18ヶ月から2歳半の子どもたちに対して、積み木の箱を与え、その子どもたちの親と、積み木を与えなかった同様のグループの子どもたちの親に、どれくらいの頻度で子どもが遊んだかを記録し続けてもらいました。6か月、積み木で遊んだ子どもは、他の子どもたちよりも、言語テストの得点が明らかに高くなったのです。しかし、この子どもたちの言語発達には注意点があると言っています。それは積み木をすることでテレビを見るなどの非生産的な活動の時間が減ったからではないかという懸念もあるからです。

 

いずれにしても、「遊び」は様々な面で子どもの頭をよくするかもしれないと言っています。動物研究者は遊びとは予測していないことに対処する一種のトレーニングとして役立つと考えています。

 

コロラド大学の進化生物学者 ベコッフは「遊びは柔軟性と創造性を培い、それが将来の予期せぬ状況や新しい環境において有利にはたらくかもしれない」と言っており、タフツ大学の幼児発育の専門家エルキンドは「遊びを通して子どもは学ぶ。だから、遊びがないと、子どもは学習体験を逃すことになる」と言っています。

 

遊びがあるからこそ、学びがあるのですね。私たちはつい遊びと学びを切り離して考えてしまいます。親心から子どもに様々な経験をさせようと習い事をさせます。しかし、それはこどもが主体的にやることでもないですし、それ以上に子ども同士で関わり合いながら遊ぶことの方がより大きな学びになり、将来への大きな投資になるということが分かりました。そして、それは創造性や思考力、社会性や問題解決能力とどれをとっても、現在社会において必要とされるスキルです。そして、現在社会において不足しているスキルとも言われています。そう考えると今の時代子どもたちの遊ぶ時間というのは大きく削られてしまっているのかもしれません。遊ぶ時間以上になにかを「やらなければならない」時間の方が多いのかもしれません。しかし、それが今後の子どもたちにとって本当に必要なものかどうかを思うと考えさせられます。こういった研究を含め、今乳幼児教育でどういったことが求められているのか改めて考えなければいけない時代になっているように思います。

遊びの本質 2

どうやら、自由遊びには系統だった遊び以上に、自発性が保障されており、そのことが非常に重要な意味があるということなのですね。子どもたちは自由遊びをする中で、想像力を使って、新しい活動や役割を考え出すことを行います。そして、それだけではなく、社会的スキルも同時に発達するというのです。

 

ペレグリーニは「先生の言うとおりに行動しているだけでは、社会的競争力を見につけることはできない」そして、「そういったスキルは仲間と交流して、何が許容され、何が許容されないかを学ぶことで習得するのだ」と言っています。子どもたちの遊びを見ていると、大人が設定する活動を見ていると、子どもたちの質問は当然、それを示した大人にします。しかし、遊びの中でうまくいかない時は当人同士で話合うことになるのです。こういった子ども同士が遊びの中でお互いの意見を調整し合うことで、子どもたちは公平さや、交代することを学ぶのです。

 

自分のやりたいことだけを主張し、他の友だちの意見を聞かない子は遊び仲間を失ってしまいます。ペレグリーニは「子どもたちは遊びをずっと続けたいので、喜んでちょっと我慢して、他の子の願望を満たしてやるのだ」と言っています。子どもたちはその活動を楽しんでいるため、欲求不満に直面しても、算数の問題が解けない時と違って、簡単にあきらめたりはしない、こうして粘り強さと、交渉能力が育っていくのです。

 

このことは最近よく言われ、これまでのブログでも紹介した「非認知能力」というスキルです。つまり、子どもたちは自由遊びの中で、特にこの非認知能力を得ているというのです。ここから言えるのは、これまでも非認知能力の大切さは話してきましたが、大人だけの力では育たないということです。前回、森口佑介氏の「自分をコントロールする力」という中では、大人のアタッチメントが言われていたり、子どもたちに対して、応答的な関わりをもつことが大切だと言っていました。それはなぜなのか?なぜ、応答的な関わりを持つことが大切なのかということはここで言われているように、自分で考え、判断し、周りの意見と調整することが大切だからなのです。そのため、大人の介入は必要以上に入ることはかえって弊害をもたらしかねないのです。子どもにとっては、先の成長を考えると「大きなお世話」になってしまうのです。

 

子どもの世界を保障し、子どもが不安になった時に支えてあげられることが大切なのです。遊びにはそういった意味があり、こういった遊びの本質に関わる内容が研究されていることを知ることは大切ですね。また、ここで繰り広げられているコミュニケーションについてより、もう少し掘り下げてペレグリーニは言及しています。

言葉から環境

赤ちゃんは身振り手振りを通して、養育者とのやり取りができるようになってきます。そののちに、意味内容を持ったことばを理解し、ことばによるコミュニケーションを行うようになります。そして、子どもと大人、その2者関係の外にあって、2人が注意を共に向けている事物の3項関係の成立はことば獲得の基盤となります。

 

トマセロは1997年に、語彙獲得の認知基盤として ①他者が何について話しているのか、その指示対象を認知し、カテゴリーを作ることを可能にする子どもの能力 ②他者が言語の様々な部分を使用している際に、その他者の意図がなにかを理解できる子どもの能力を挙げています。子どもは前言語コミュニケーションでの大人とのやり取りの中で、他者や他者の意図的な動作について深く広範な理解を行い、この上に、語の学習を行っていきます。

 

幼児は言葉を学び始めると同時に、視線の追随、社会的参照、模倣学習をさらに発達させていきます。これらのスキルは、他者とは外界の事物に対する注意や情動や行動について、能動的に追随し、かつ共有することができるような意図をもつ主体であると理解する能力の反映することができます。言葉の獲得は共有した意味や共有した注意の対象をさらに広げ、洗練させていきます。

 

このように言葉の発達ははじめは大人や養育者との身振りや手ぶりといった方法をとって関わりをもたせ、その関わりの中から、次第に2者関係から3者関係、そして、さらにその他者における意図の理解といったことへと理解の幅が広がっていくなかでことばの発達が見えてきます。つまり、ここで言えるのは、ことばは勝手に話すようになるのではなく、その根底には相手に伝えようとする意欲や意図があるからということが分かります。そして、そのためには伝えようと思う相手との関わりや愛着関係が土台に必要であるということも同時に見えてきます。ということは、乳幼児期において、必要になってくる環境というのはこういった関わりのある環境構成がなければいけません。そして、乳児期においてははじめは保育者であるというのは分かります。自分の意図を察してくれる人として大人があるのです。そして、そこから、友だちへと関係性は広がっていきます。

 

特に関わりが始まる1歳児の子どもを見ているとよくわかります。物の取り合いやトラブルも他児がいる環境であると起きます。その中で、自分の欲求が通らないことも起きます。その時に養育者にとられたものを指さしたり、抱き上げてもらいにきたりとサインを出してるのが分かります。養育者はそういった時に応答的な関わりを持たすことで、また、気持ちを切り替えて関わりに行きます。葛藤の中で、自分の意志を伝えることを覚えていき、その延長線上にことばがあるということがよくわかります。ここに、乳児からの保育を受けている子どものほうが言葉の理解が早いのが分かります。つまり、「使う機会」が他児と一緒に過ごすことで必要になるからなのだろうと思います。家庭では母親と関わることが多くおおくは予測できます。そのため、ことばを発さなくてもいいのです。環境の必要性はことばにも表れてくるというのが分かります。

指さしから象徴機能

指さしには、ことばと共通する記号的な働きがあると言われています。指によって、指すものと指されるものが分化していくのです。しかし、生後12-15カ月児の指差しは指さされるものを代表しているわけではないので、ことばの中心的な働きである表象機能を欠いています。つまり、その指差しは指をさされた対象を表すために示しているのではなく、あくまで、指示をする道具に過ぎないのです。

 

このことについて、ウェルナーとカプラン(1963/1974)は指差しは社会的文脈の中で産出される指示的行為なので、目の前の具体的対象を指示するにすぎませんが、対象の特徴から抜き取られて別の素材からなる媒体(身振りや言葉など)で表示される真の象徴に向かう第一歩だと考えたのです。赤ちゃんは指差しを通して、養育者を支持し、そのやりとりの中からそのもの本来を理解することにつながるというのです。そのため、指差しを行い、それに応じて応答することで象徴機能が備わってくるというのです。

 

では、相手との共有や共感が取りにくい自閉症の子どもにとってはどうなのでしょうか。自閉症児の場合は、原命令の指差しの理解、表出は可能ですが、原叙述の指差しは理解、表出とも困難であると言われています。また、人間に育てられた大型猿人類は原命令の指差しはありますが、原叙述の湯伊佐氏はないとの報告があるといいます。つまり、指示的に指差しはするが、それがどういった意味があり、相手との気持ちの共有、驚いたことを伝えたり、お気に入れのターゲットを知覚し伝えたりするということはできないというのです。こういった気持ちのやり取りも乳児は指差しによって行っており、この相手に見たものを知らせようとするモチベーションにより原叙述の指差しが行われるのです。そして、そのモチベーションが言葉につながっていくのです。

 

トマセロ(2008/2013)は指差しには、共有する(他者と感情や見方を共有したい)、知らせる(他者に役立つことや面白いことを知らせて助けたい)、要求する(他者に自分が目標を達成するのを助けてほしい)という、たしゃを助ける・助けられることと共有するという、ことばの基盤ともなる協力に基づく基盤構造が働いているとしていると言っています。

 

赤ちゃんは「人を助けたい」という基盤構造があるとトマセロは言っているのです。そして、いかにして「人とつながるのか」ということを赤ちゃんは能動的に取り組んでいるのですね。このことを見るといかに「ネグレクト」というのが一番虐待の中でひどいと言われているのかということが分かります。「ヒトと関わる」という行為はヒトが生まれ持った力であり、人の根源となる力でもあるのだということです。「ネグレクト」はそのやりとりを切っていく行為です。一番の赤ちゃんの強みであり、学習であり、サインであるということを切ってしまうと、それが精神的にも発達的にも大きな影響を与えてしまうというのは容易に想像がつきます。やはり、乳児期の応答的なかかわりというのは非常に重要な意味があるのですね。