あいさつ

親子関係と成功

ポール・タフ氏が息子エリントンが生まれた当時は「知能至上主義」がまだまだ強い時代でした。そのため、彼自身も他の親同様の心配を持っていました。もし脳の力を育成する教育用のカードを使わなかったら、あるいは分娩室でモーツァルトのCDをかけることや、曽於語も幼稚園の入学テストで満点をとるまでモーツァルトを浴びせ続けることを怠ったせいで、息子が成功者になれなかったらどうしようと考えたそうです。しかし、彼はその後読み始めた様々な脳科学者たちの研究は違う方向を示していました。確かに、最初の数年は子どもの脳の発達にとって決定的に重要ではあるのですが、その間に子どもが獲得する寛容なスキルは教育用カードで教えられるものではないと科学者たちは言います。

 

タフ氏は息子が読み書きができるようになるかどうかは、これを知ったからといって、突如心配もしなくなったというわけではないが、そうした特定のスキルは私が何をしようと遅かれ早かれ身につくだろうと思うようになった。なぜなら、本に囲まれ、読書が好きで計算も容易にできる両親と暮らしているのだからというのです。それよりもタフ氏が自信が持てなかったのは、性格についてでした。

 

もちろん、個人の性格は文化や家族、遺伝子、自由意志、運などのあいだで起こります。はっきりとは特定できないあらゆる種類の相互作用によって発達するのです。しかし、新世代の神経科学者たちが成し遂げた最も深遠な発見は、子どもの脳の化学作用と成人の心理の間に強力につながることなのです。私たちが性格と呼ぶ崇高で複雑な人間の性質の奥底にあるものは、科学者たちの発見によれば、発達段階にある幼児の脳内、胎内の特定の化学物質による平凡で機械的な相互作用です。もちろん、化学作用は運命ではありません。しかし、勇敢で好奇心が強く親切で賢明な成人を生み出す一番確かな方法は、幼児の頃にHPA軸(ストレス対応システム)をうまく機能させることであると実証されています。

 

では、このHPA軸をうまく機能させるにはどうしたらいいのでしょうか?まず、深刻な心的外傷と慢性的なストレスから可能な限り子どもを守ること。次に、これがさらに重要だが、少なくとも一人の親(理想的には2人)と安定した、愛情深い関係を築くこと、これが成功の秘訣のすべてではないが、とても大きな一部であると言われています。

 

そして、タフ氏はマイケル・ミニーのラットの研究を息子に当てはめて、実践していく中で一つのことを見つけていきます。そこには親と子ども、大人と子どもの関係性において一つの大切なことを示しており、このことはまさに「見守る保育」においても通じるものであるように思います。

 

それはいったいどういったところなのでしょうか。

悲観と楽観

人は先入観をもって物事を見てしまいます。自分が思っている通りの答えを探してしまうのは「確証バイアス」が働くからであり、この確証バイアスを除いて、お気に入りの仮説が間違っていることを証明することを「反証」と言います。そして、この確証バイアスはチェスのプレーヤーにとっては非常に問題になります。

 

そこでプレーヤーにゲームの最中の盤面を見せ、次の一手として最良のものを考えてもらい。そして、「フリッツ」と呼ばれるチェスの分析プログラムを使って、それぞれのプレーヤーの思考がどれだけ正しかったかを確認しました。すると、当然、ベテランのグループは初心者のグループよりも正確に状況を分析していました。問題は「どのように違ったか」です。一言でいうと、上級者のほうが悲観的だったのです。初級者は気に入った手を見つけると確証バイアスの罠に陥りやすいというのです。つまり。勝利につながる可能性だけを見て、落とし穴は見過ごしてしまうのです。これに比べ、ベテランは隅にひそむ恐ろしい結果を見過ごしません。上級者は自分の仮説を反証することができ、その結果、致命的な罠を避けることができるのです。

 

スピーゲルはどんな動きの結果についても少し悲観的であるくらいのほうがいいという考えには同意するといっています。ただし、チェスの能力全般については楽観するほうがいいと言っています。というのも、どんなに上達しても、死にたくなるほど馬鹿げた間違いをすることは絶対になくならないからであり、自分には勝てるだけの力があると自信を持つこともチェスの上達の一部なのだと言うのです。

 

ネガティブな考えを持つことはあまりよく思われないことが多くありますが、実際のところは必要なことでもあるのです。「反証」というのは「リスクヘッジ」とも言えます。問題点をあぶり出すためにはネガティブな目線は不可欠になります。「確証バイアス」がかかった状態の目線では一つの答えしか見えません。それだけリスクの幅は狭くなってしまうのです。チェスのベテランが悲観的な人が多いのはこういった一手に対するリスクヘッジが多様に見えているからなのでしょうね。また、最後のスピーゲルの「チェスの能力全般については楽観するほうがいい」というのも様々なところで重要になってきます。

 

ここでいう「楽観」というのは「自己有能感」や「自尊感情」がなければ持つことができません。結局のところ、自分自身が悲観的に多様な物事見て、物事に向き合う楽観性と自信を持つバランスが必要になってくるというのです。

 

スピーゲルは生徒たちとチェスクラブに行ったときにその様子を目の当たりにします。その生徒はじぶんより格上の相手と組まされるとき、「終わった」と思った生徒と、「インターナショナル・マスターを破ることだって不可能ではない」と完全に信じ込んでいる生徒を紹介しています。結局は後者の生徒は信念は無謀で馬鹿げたものだったが結局のところ実現したというのです。

 

物事は決して、良いことだけではありません。しかし、思いを遂げるためには信念を持つことはある一定の楽観性を持たせます。

気質

KIPPが始まって以来、レヴィンとファインバーグは学力と同時に良い気質を育てる授業をしようと明確に意識してきました。しかし、授業のコツや教育の参考になる教育者はいたのですが、気質の教育となるとその手本となる教育者を見つけられることができませんでした。そのため、KIPPではこういった気質を育てるにはどういった価値観や行動をしていけばいいのかを話し合うことが始められていました。

 

そんな中、2002年まだ、KIPPの最初の卒業生が高校生活を送っていたころ、レヴィンは投資管理の仕事をしている兄から『オプティミストはなぜ成功するか』という本をもらいました。著者はペンシルベニア大学の心理学者マーティン・セリグマンです。セリグマンはポジティブ心理学として知られる研究分野の中心人物の一人です。この1991年初版のこの著書はポジティブ心理学の基礎をなすテキストであり、「楽観主義とは生得的な気質ではなく習得できる技術である」と説いています。悲観的な人々もそれは成人でも子どもでも訓練次第でもっと希望を持てるようになり、そうなればより幸福に、健康になって、ものごとがうまく運ぶことが増えるというのです。

 

『オプティミストはなぜ成功するか』のなかでセリグマンは、多くの人々にとって鬱は病気ではなく、心理学者たちが信じるように「失敗の原因について悲観的な思い込みを心に抱いているとき」に起きる「ひどい落ち込み」であると述べています。そして、鬱状態を避け生活を改善したいなら、「説明スタイル」を変え、よいこと、もしくは悪いことが自分の身に起こった理由について自分自身のためのより良いストーリーを作り出す必要があるというのが彼の助言です。

 

セリグマンはペシミストには不快な出来事を永続的(パーマネント)なもの、個人的 (パーソナル) なもの、全面的(パーベイシブ)なものと解釈する傾向があるという。彼はこれを「3つのP」と言っています。「テストに失敗した?準備が足りなかったからじゃない、馬鹿だからだ」とか「一度デートを断られたら、もうほかの人を誘ってもしょうがない。だって自分がかわいくないのがいけないから」といった思考になるというのです。ずいぶんと悲観的な考え方ですね。

 

これに対して、オプティミストは良くない出来事については特定のものであり、限られたものであり、短期間のものであると解釈します。その結果、失敗のただなかにあっても気を取り直してもう一度やろうと思える可能性が高いのです。

 

レヴィンは本を読み進めていくうちに、セリグマンの3つのPの説明の多くが自分や同僚の教員や生徒たちに当てはまることに気づいたのです。そこで彼はセリグマンの著書から得た着想を基にKIPPアカデミーのスタッフに「反省と気遣いのための質問」のリストをつくり同僚の教員に配ることで、自分たちのやり方を再評価することをはじめました。

 

今日の日本でも、このセリグマンの著書に書かれていることに当てはまることがとても多いように思います。特に日本でかなり多くのうつ病になる人がいる状況を考えると、日本はペシミストの気質を持っている人が多いという証拠なのかもしれません。しかし、こういった気質は生得的、つまり生まれもって持っているものではなく、習得できるものであるということがいわれているのです。つまり、それは今の日本ではこういった気質を習得することが難しい環境が多いということを意味しているようにも思います。

新年

あけましておめでとうございます。

ブログをはじめてから最初の正月を迎えます。ほとんどが読んでいる本を通しての投稿が多いのですが、ここで自分なりに本の内容を解釈し、投稿していくことで様々な知識を得ることが多いです。まだまだ、つたない文章により読みにくいところもありますが、もしみられている方がいれば、ご容赦ください。

 

さて、昨年もたくさんのニュースが取り上げられました。「あおり運転」やあいかわらずなくならない「いじめ」とくに昨年は子どものいじめだけではなく、大人のいじめも多くニュースになっていました。また、中年世代の引きこもりも大きな問題になっているというニュースもありました・こういったニュースを見るたびに、「なぜこういったことになるのか」と思うことがあります。

 

先日紹介した、武神氏の本の内容も、メンタルヘルスに悩む大人が多い現状があるからこそ、こういった内容の本が必要とされるようになっているのだろうと思います。またここで話されていた内容は保育に置き換えられるように思います。つまり、問題は大人社会ではなく、その根本的な原因は乳幼児期も遡って考えていかなければいけない内容なのかもしれないと考えられます。今の社会、社会自体は成熟しているにもかかわらず、人同士の関わりというのはもしかしたら後退しているのかもしれないと感じます。

 

ポールタフ氏は非認知能力は乳幼児期に得られる力ということを話していました。そして、その力は将来大人になってからも影響のあることと言っています。つまり、今行っている保育の仕事がいかに人の人生に意味があり、誇り高く、重要な仕事なのかと改めて感じます。これからより多様な社会になり、AIなどが発展し、ますます複雑な時代になっていきます。そんな時代に活躍できる子どもたちをどう育んでいくのか、よく考えていかなければいけないなと思います。

誰もが楽しむ

工藤氏の変革は「宿題の廃止」「クラス担任の廃止」「定期考査の廃止」だけではない部分にも影響していきます。それは「運動会のクラス対抗」でした。このことに関しては工藤氏からではなく、生徒が考え生徒会の中で話し合われた結果、「クラス対抗」であり、工藤氏は「生徒が目的を達成する手段として適切ではないと生徒たちが判断した」ことが理由であると言います。

 

そのことについて工藤氏は生徒たちに一つの条件を出します。それは「生徒全員が楽しませること」を目的にすることです。運動が必ずしも得意でない生徒も、運動会を楽しみにしている生徒にも、全員楽しめるものにしてほしいと生徒に話したそうです。生徒ははじめ「クラス対抗リレー」をしたいかどうかのアンケートを取ります。すると、9割が「やりたい」と言い、1割の生徒が「やりたくない」という結果だったそうです。これまでであれば9割が「やりたい」のだから「クラス対抗」を行うことになるのですが、「全員が楽しませる」ためには1割の生徒の「やりたくない」を無くさなければいけません。何度も話し合いが繰り返される中「全員リレーをしない方が全員のためになる」という考えに至ったのです。

 

そこでそもそも「運動会・体育祭」の目的は何かといった時、「競争力を養うこと」や「運動能力の優劣をつける」ことにあるのであれば「クラス対抗」は適切な手段なのかもしれないが、麴町中学校の体育祭の一番の目標は「生徒全員を楽しませる」ことを最上位目標にしていると言います。生徒の中には運動が得意ではない生徒もおり、運動会や体育祭が憂鬱な生徒もいます。クラス対抗のリレーや大繩跳びで自分のミスによって周囲に迷惑をかけ、責められ人間関係にひびが入る可能性もあります。「全員が楽しむ」ためには運動が苦手な生徒の居場所もつくらなければいけません。クラス対抗の形での勝敗を意識すると勝利したクラス以外の生徒は悔しい思いをし、運動が苦手な生徒は肩身の狭い思いをします。それでは「全員を楽しませる」ことにはならないのです。

 

これまでの学校教育では「規律」や「団結」が尊ばれ、チーム一丸となって何かを達成することが目的とされていました。しかし、個人に自己犠牲を求め、個性を認めないような組織は本質的に強くなれないと考えている。と工藤氏は言います。そのうえで、学校における体育の目的については、技能を高めることや競争心を養うことよりも、運動の楽しさを求めることのほうが大切だと考えている。と言い、スポーツは自分の人生を楽しませる、友だちのようなものであってほしいと思っていると話しています。

 

私自身も「行事」においては、その本質を改めて見直す必要があるということを感じます。

「教育の本質としての運動会・体育祭」、いつの間にかそれが「運動会をする」ことにとって代わられている時代なのかもしれません。そして、何よりもその主体が「子ども」ではなく、それを見ている「大人」になっていたりとなっている場合もあります。規律や団結を否定しているのではなく、その中にも社会があり、それを調整していく力はこれからの社会でとても重要な意味合いを持ってくると思います。こういった本質を見たうえで保育を進めていく必要性をとても考えさせられます。