教育

学び合い

吉田松陰は密出国に失敗し捕らわれ、萩の獄に投獄されます。その時に面白い話があるのですが、その獄舎で投獄されている囚人たちに対して講義を行ったのです。面白いのは抗議を行う過程です。そもそも松陰は囚人たちに対して講義をしようとするのではなく、囚人から教えを乞うてきたというのです。それは獄中でも松陰は学ぶことを辞めなかった様子から囚人たちが松陰に興味を持ったことから始まってきたのです。

 

もちろん、松陰自体が初めから信頼を得たのではなく、長期の牢生活の中で牢の仕来りや新入りの役割、先輩たちの食物のふるまいなどを通して徐々に心の中に入っていったのです。そして、向上することを放棄した囚人たちに対して、あくまで人として真剣に相手の話を聞いたのです。そして、その囚人の中で富永有隣という儒者がいました。有隣は藩主の下で「大学」を講じるほどの秀才であったが性格が災いして下獄していたのです。その人物に対して、松陰は「師として書を学びたい」と言い、弟子になります。結果、「師」となった有隣は心に自重自愛の気持ちが働き始めます。「以前から俳句を学びたかったが、機会がなかった」という松陰はそこで俳句を学ぶことになります。このように獄中であっても学ぶことを辞めなかったのです。このように俳句の勉強会をおこなっていた松陰はやがてほとんどの囚人が何かの師匠になり、お互いに日を決めて師匠になったり、弟子になったりしたのです。結果、松陰が在獄中勉強を続け、囚人たちは学ぶことに興味を持ち始め、獄中の雰囲気は一変したのです。ああしろこうしろと高みに立って指導するのではなく、自らが先頭に立って厳しく学ぶという姿勢が、勉強の世界から最も遠いところにいた囚人たちを動かす力となったのです。

 

この姿勢は非常に学ばなければいけないところであるように思います。「松下村塾 人の育て方」を書いた桐村晋次氏は「一生が勉強であると考えると、弟子もお互いに教え合い、共に学ぶ、“子弟同行”の思想は、まことに明快である」と書いています。そして、上司が「自分は部下よりも経験が多く、何でも知っていると独善的になったり、またなんでも教えなければならないと思いこんだりして、あまり深くは知らないことまで、一見見識あるかのように振る舞う人がいる。知らないことまで教えようとしてぼろが出ると、知っていることまでも信頼を持たれなくなる。人間的な信頼がなくなれば、もう指導どころではない」とし、「上司が自分の能力開発に誠実に努力しなくてはならない。熟視していること、体験したことについては、人に教えることができるが、それ以外のことは謙虚に学ばなければない」と書いています。

 

このことは自分自身ももっと考えておかなければいけないことなのだと常々感じています。しかし、時として、気づかぬうちに自分が独善的になってしまっていることがたびたびあり、その都度、謙虚さを持つことの難しさを感じます。ただ、吉田松陰と囚人たちの関わり方において、松陰のスタンスというのはあくまでも強制的なものではなく、学ぶことの楽しさを背中で見せているかのような様子に見えてきます。そして、教え合うことへの人への興味も同時に感じます。自分が知ることや違った意見をも取り込もうとする姿はまさに世の中をイノベーションしていこうとする姿そのものであり非常に参考になります。明治維新という時期は海外との関わりがとても増えてきた時代であり、国内外の情勢の変化も著しい時期でした。大きな転換期において、こういった柔軟な発想を持った松陰の姿というのは考え方をとっても今の時代に通じるものがあります。現在の時代はトップダウンではなく、ボトムアップ型ではないとイノベーションが起きてきません。問題はリーダーとなる人がどのように目的意識を共通認識させ、独自意識を持たせるかが重要になってきます。その時にどのように興味を持たせるのか、自ら動こうとするモチベーションを持たせるのか、このことは今も昔も変わらず、松陰の姿に自分を投影し、自分が出来ているのかどうかを考えてしまいます。

共に考える

「良い集団」をつくるにはどうしたらいいのでしょうか。以前、山口県に旅行に行った時に、吉田松陰の記念館に行くことが出来ました。吉田松陰と言えば、明治維新における歴史上の人物をたくさん排出した松下村塾の塾頭でもあります。その吉田松陰はどのようにしてそういった数々の英傑を育てることになったのでしょうか。その一つに吉田松陰の考え方に「主体性」というものが大きな意味を持っていたことが伺えます。松陰は「集団における切磋琢磨、つまり相互啓発によって集団のレベルが高まる」ということを中心にしてきたことがいえる。そして、集団を活性化させることを大切にしていたようです。では、その方法はどういったところにあるのでしょうか。松陰は「人間は、個人の素養もさることながら、自分を取り巻く集団からの影響に大きく左右される」ということをかんがえ、集団啓発をベースとした能力開発をしました。そうすることで、松陰が死んだ後でも塾生は自力で育つような教育システムを生み出したのです。

 

その教育システムの特徴の一つが「一緒に学ぶ」という姿勢です。松陰は弟子入りの希望者が来るとこのように答えるそうです。「私は教えることが出来ませんが、一緒に学ぶことができます。ともに励みましょう」。それと共に時として「あなたは何を私に教えることが出来ますか?」と質問することもあったようです。この視点ですが、保育の中でもこのようなことは多々あります。今の時代、大人は子どもたちに対して「教える存在」と認識している人は多いのではないでしょうか。これは厚労省から出された「海外の研究」で「優れているプリスクールの特徴」でイギリスの調査では「②「ともに考え、深め続けること(Sustained Shared Thinking)」と呼ばれるかかわりを含む、保育者と子どもたちの質の良いかかわり。」とあり、その注釈に「※『ともに考え、深め続けること(SST)』とは、「二人もしくは二人以上が、知的な方法で“一緒に”取り組み、問題を解決し、ある概念について明らかにし、自分たちの活動を捉え直し、語りを広げたりすること。どの参加者も、ともに思考することに貢献し、思考を発展させたり広げたりすることが求められる。」と定義されています。優れた質の高い関わりというのは「教えること」ではなく「共に考える」ことにあるのです。

 

この共に考えるということは子どもの主体性に大きな意味があるのではないかと私は考えています。なぜなら、「答えを教えてもらう」ということはそこに答えに向かうためのプロセスはありません。しかし、「共に考える」ということにおいては、そこに調べ方や見るものといった「知る」ためのプロセスが加わります。単に大人から答えを伝えるよりもより

多くの過程を通らなければいけないのです。大切なのは「答えを知る」ことではなく、「答えを導く方法」を知ることが重要なのです。こういった過程を踏むことで興味関心は深まるかもしれませんし、違う事柄に対して調べ方が活用されることでより知ることにどん欲になるかもしれないのです。いかに自主的に調べることが出来る環境を作ることにつながるかというと答えを伝えることが全てではないのです。

 

このことはとても重要な視点ですね。そして、このことは保育だけではなく、マネジメントやコーチングにおいても共通した部分でもあります。できるだけ自分で考える機会を大切にすることで思考方法や考える視点を伝えていくことが出来るのです。吉田松陰の場合は人の意見や考え方にも興味があったのかもしれません。常に自分が学ぶことが優先されており、ある意味で独善的な印象にも見えますが、だからこそ、門下生自体が自律し、そこで学んだ環境に対しての畏敬の念というものが強くあり、そこで学ぶ誇りや喜びにもつながっていたのかもしれません。自分自身もこのことは実践し、意識していきたいところであります。

すべては思いから

先日、紹介した横井小楠(よこいしょうなん)は吉田松陰や坂本龍馬なども教えを請いに訪問するような人物であったといいます。その理由はどういったところにあったのでしょうか。横井小楠は「学校一問一答」という問答方式で書かれた文書の冒頭でこう書いています。「古今東西、規制の学校から才能ある人材が育ち、教化が進んで世の中が理想的な社会になった例はない」と断言したのです。そして、「学政一致」の弊害も論じています。

 

小楠の考えでは、「人材を育てて社会の用に立てようとする教育は安易な形で若い学生の心に染み透り、自分こそ有用な人材として抜擢されようとして、競争の原理が学校を支配するようになるのであった」と言っています。結果、学問本来の人格形成の側面が軽視され、学校ではお互いに悪口を言い合うような「喧嘩場所」となってしまうというのです。それ以外にも、才能あるものは自分の利益のために政治を利用しようとする考えを持つようになるとも指摘しました。結果として、教育を行うことが人材を損なうということにつながるというのです。

 

この考えは今の日本においても、同様のことが言えるかもしれませんね。最近でこそ、競争原理を入れることは少なくなってきましたが、それでも、試験や入試などは競争原理が働きます。次第に優劣がつくようになり、学歴や成績が高い人があたかも人格者であるかのような扱いになります。結果、いくら高学歴であっても、成績が良くても、人格が備わっていなければ、社会に出た後に活躍する場が限られますし、場合によっては「使えない人材」となってしまいます。これは現在の社会においても実際起きていることです。また、昨今のポピュリズム的な政治も同様のことが言えるかもしれません。社会のために行われるということよりも、世論の衝動的な感情に流される政治であれば元も子もありません。横井小楠の指摘は今の時代においても、考えなければいけない内容のように思います。

 

では、小楠はどのように「学問と政治」を考えていたのでしょうか。小楠は「学政一致」について、学校を専門学校化して、社会が求める専門技術者を養成するのではなく、「己を修める」ことと「人を治める」ことの一致をはかるような人材教育を意味しました。小楠によると「真の道がおこなわれていた古代中国三代の社会では君主と臣下はお互いに戒め合い、家庭や社会のいたるところで善を勧め悪を戒め過ちを反省する声が天下に満ちていた」というのです。そして、これが「学政一致」の根本的な条件であったのです。

 

「学問とは何か?」「学校とは何か?」という明確な理念なり目的を考えずに、ただ政治の道具と考えたり社会に必要な人材だけを求めようとすると、学生は自分の事だけしか考えない利己的な人間になり、かえって社会に害毒を流す結果になると警鐘をならしました。

 

この考えも実に今の時代に言えることですね。このブログにもたびたび話していますが日本の教育基本法の第一条に「教育は、人格の完成を目指し、平和で民主的な国家及び社会の形成者として必要な資質を備えた心身ともに健康な国民の育成を期して行われなければならない。」とありますが、どれだけの人がこのことを理念において、教育を子どもたちに向かって行っているでしょうか?自分たちの保育や教育が「人格の形成」にどういった意味があると意識しているでしょうか?こういった大志というのは教育において前提を胸に子どもたちに向き合わなければいけないのだろうと感じます。

横井小楠の改革

19世紀の中ごろから新しい時代に向かい様々な改革が構想されました。この時期を「幕末」と言いますが、古い世界から、新しい世界に変わるべくその頃の青年たちは様々な分野で挑戦を試みています。当然、新しい社会への変容には大きな障壁はたくさんあり、保守的な世代との軋轢なども激しいものでした。肥後熊本藩に生まれた横井小楠(よこいしょうなん)(1809~69)もその一人です。禄高150石の藩士の次男に生まれた横井小楠は決して恵まれたかというとそうではありませんでした。しかし、熊本の藩校時習館で頭角を現し、今でいう大学院にあたる居寮生となる。そのまま勉学を続ければ、時習館の教授か、うまくいけば藩政の中核の位置する役職に就くことも可能でした。しかし、小楠は下級武士の困窮や百姓一揆など、現実問題からまったく遊離した時習館の学問に対して批判的な立場をとったのです。

 

彼は学問への志として「天地の為に志を立て、生民のために命を立つ。往聖のために絶学を継ぎ、万世のために太平を開く。学者発心の初め、須らく此の大志願を立つべし」これは厳しい税金の取り立てに喘ぐ民衆を救済するためにも、虚飾(外見だけを飾る、うわべ)の学問に堕落した学問を本来あるべき姿に再興する「大志願」を立てなければならないといったのです。小楠はその後、改革に挑みますが、結果、藩内の保守派の反対にあい、江戸留学を命じられてしまいます。

 

江戸から帰国した小楠は時習館改革派のメンバーを集め、研究会を開きます。彼らの理想とした学問は「治国安民」を目的とし「利用厚生」を内容とする実学でした。ここでいう実学は「現実の社会に有用な学問」という意味合いではなく、「真理の学」という意味合いが込められています。つまり、人格の形成に資すると同時に民衆の生活安定に役立つ学問を目指したのです。こういった民衆の生活を中心とした考えに同調し、農村のリーダーである豪農出身の若者が集まり勉学に励むようになります。

 

小楠の学問は徹底して今に目が向いています。例えば朱子学の書物を読んでも、「今朱子を学ばんと思ひなば、朱子の学ぶところ如何と思ふべし。左なくして朱子の書に就くときは全く朱子の奴隷なり」と言っています。つまり、朱子学の問題意識や方法論を学ぶといっても、主体的に「現代」を通して考えなければ、ただ朱子の考えを盲目的に学ぶのは奴隷だというのです。小楠は朱子学を思弁的な観念論にすぎないと批判し、物の本質の解明を民衆の生産活動と結びつけて理解する必要を説きました。しかし、肥後熊本藩は結局小楠の思想を受け入れず、越前福井藩における藩政改革構想や、福井藩主松平春嶽を補佐し幕府改革構想に実現されました。

 

彼の名声は瞬く間に全国に広がり、吉田松陰や坂本龍馬も習いに来るほどでありました。

教育制度の変革

島津斉彬は薩摩藩において、藩の教育理念と造士館の改革構想を行い、その内容は実に幕末期における日本の課題を「学問の閉鎖性の打破」と「政治の閉鎖性の打破」といった2つの側面を通して、教育や学校の改革を行っていきました。その取り組みは東洋的な考えの朱子学だけではなく、西洋の文学も幅広く取り入れ、今後の日本が課題に直面した時にしっかりとしたかじ取りができるような資質を目的に変えるといった柔軟な思想は非常にこのときにおいては新しいことであったと思います。

 

また、斉彬はこのほかにも他にはない教育政策を進めます。それは留学の勧めです。武芸において様々な流派から学ぶために武者修行と称して、全国を回ることは珍しいことではありませんでした。学問においても、斉彬は「蘭学稽古」と称して、他藩の蘭学者のもとや大坂の緒方洪庵の適塾に藩士を送っています。こういった留学の奨励について斉彬は「他国で学ぶことはその人間を自律成長させるばかりでなく、とりわけ将来藩の指導者となる上級武士の子弟にとっては一般の人々の苦しみを知ることができ、その国の事情を知り、視野を広めることが出来る」と述べています。

 

他にも西洋科学を取り入れた殖産興業政策を積極的に行いました。殖産興業とは「明治政府が西洋諸国に対抗し、機械制工業、鉄道網整備、資本主義育成により国家の近代化を推進した諸政策」(WikiPedia)です。精煉所や反射炉、溶鉱炉の建設、その他にも蒸気船に関する洋書の研究や建造にも積極的に着手していきます。このような開化政策のために、開物館と集成館を開設しました。開物館では、西洋科学に関する洋書の翻訳をはじめ、火薬類やアルコール・硫酸・塩酸等の薬品類およびガラスの製造法や写真技術等の実験研究が行われました。ここでの研究成果をふまえて、集成館は最盛期には千人以上の職人が従事し、兵器・薬品・ガラス・ガス燈・電信機・紡織機・農具・陶磁器などの生産に従事しました。

 

こういった実学も学問の中に取り入れていったのですが、あくまで、造士館の教育の目的は「危機時代に時勢認識を通して、積極的かつ主体的に国家の秩序および統合を担う政治主体の育成」にあります。そして、それは指導者としての武士の教養形成において根底になる文武両道の「文」に関わるところであったのです。

 

こういった斉彬の教育政策は後の西郷隆盛や大久保利通といった明治維新を行い、明治政府の基本構想を立てた政治家や五代友厚のような殖産興業を通して近代日本の富国政策に貢献し、薩摩藩留学生として幕末にイギリスやアメリカにわたり、西洋の政治・教育制度を学んで近代学校制度の確立に寄与した森有札などを輩出することにつながりました。

 

常にこうした意識の高まりの中で、斉彬は先の見通しといった目的はブレず、教育という本分の目的をもって教育変革を行っていったのですね。また、その動きは今の日本においても重ねられるように思います。リーダーシップを持つものがいかに目的を見失わず、今行うべきことを行っていくのか、その見通しを持つことが求められるように思います。