教育

自尊感情

宮口氏はほめる教育ともう一つ「困っている子どもたちは自尊感情が低い」と言われることにも違和感を覚えると言っています。なぜなら、まず第一にいろんな問題行動を起している子どもたちは、それまでに親や先生から叱られ続けているので、自尊感情が高いはずがないのです。「自尊感情が低い」とのは当たり前ですし、そう書いておけば外れることはないというのです。確かに、問題行動を起こす子どもたちが自尊感情が低いことがほとんどですし、当たり前といえば当たり前です。

 

そして、それと第二に、そもそも「自尊感情が低い」ことは問題なのか、ということです。ここで宮口氏は「実際、我々大人はどうでしょう。自尊感情が高いのでしょうか?」と言っています。仕事がうまくいかず、自信を失って自尊感情が低いことはあるでしょう。逆に仕事が軌道に乗り、社会的に成功すれば、自尊感情が高くなることもあるでしょう。それでも、社会の荒波にもまれながら思った通りの仕事ができない、職場の対人関係がうまくいかない、理想の家庭が築けないなど、自信がなかなか持てず、自尊感情が低くなってしまっている大人のほうが多いのではないかというのです。だからといって、ほとんどの人が社会で犯罪を行っている、不適応を起こしているわけでもありません。つまり、自尊感情が低くても社会人として何とか生活できているのです。逆に、自尊感情が高すぎると自己愛が強く、自己中のように見えてしまうかもしれません。大人でもなかなか高く保てない自尊感情を、子どもだけ「低いから問題だ」と言っている支援者は矛盾しているというのです。

 

問題なのは自尊感情が低いことではなく、自尊感情が実情と乖離していることにあるのです。何もできないのにえらく自信を持っている。逆に何でもできるのに全然自信が持てない。要は等身大の自分を分かっていないことから問題が生じるというのです。無理に上げる必要もなく、低いままでもいい、ありのままの現実の自分を受け入れていく強さが必要なのです。もういい加減「自尊感情が・・・」といった表現からは卒業してほしいと宮口氏は言っています。

 

この言葉にはなるほどと思ってしまいます。保育においても「自信」や「自尊感情」「自己肯定感」という言葉がよく使われます。しかし、その根底には「自分は自分でいいんだ」という感覚が持てるかが大切なのだと思っています。今、宮口氏が言っている支援者にとっての「自尊感情」はそういったこととは少し違うニュアンスを感じます。そこにはただ「自信を持てばいい」というニュアンスを感じます。以前、私の園にフランスの教育学者が見学に来たのですが、そのとき私も「今の日本にはもっと自尊感情を持った人間を育てることが必要だ」と話したときに「本当に自尊感情は必要なのでしょうか。アメリカを見てください。自分に自信を持つがあまり、周りを考えていないではないですか」と言われたときに、少し言葉に窮しました。確かにその通りなのです。自信をただ持てばいいわけではないのです。私はその時に「社会に還元や貢献できるようになるためには、自分はできるという自信はなければいけなく、今の日本にはそういった感覚を持つ人は少ない」といったのですが、社会というのも一つの集団です。集団は個が生かされてより良い集団になるというのを考えると、「自分の役割」を知っていることの方が大切なのかもしれません。各々のアイデンティティが生かされる社会にならなければ人社会としてはうまく回っていかないのです。そう考えると今の日本は、そういった社会ではないのかもしれません。

褒められる教育

宮口氏は非行少年たちの教育環境についても問題提起を行っています。特に昨今の「褒める教育」については特に大きな違和感を持っています。そして、褒める教育だけでは問題は解決しないと言っています。これについては私も同様に感じるところです。「ただ、褒めるだけでは、子どもの発達は伸びない」と思っています。では、宮口氏はどういった視点において、そう感じるのでしょうか。

 

宮口氏は勉強が苦手、運動も苦手、対人関係も苦手で、褒められるところはそう簡単には見つからない子どもに対して、少しでもいいところを見つけてあげようと、通常なら社会で褒められるほどのことでもないようなことを褒めることで自信をつけようとすることを学校現場の先生方はよくしていると言っています。それが今の支援案の定番なのです。問題行動を起こす子どもに対して悪い面ばかりに目を向きがちなので、良い面を見つけてあげて、褒めてあげるのです。もちろん、褒めることを否定はしてはいませんが、そういったことをしたところで、長くは続かないと言います。根本的な問題が解決しない限り、すぐに元に戻ってしまうことが多いのだそうです。

 

また、「褒める」と同じくよく出てくるのが、「話を聞いてあげる」です。これも子どもの気持ちを受けとめ落ち着かせるには効果がありますが、根本的な解決策にはなりえないので、効果はいずれ薄くなってきます。

 

「褒める」「話を聞いてあげる」は、その場を取り繕うにはいいのですが、長い目で見た場合、根本的な解決策にはなっていなく、逆にこどもにとって問題を先送りにしているだけになってしまっていると宮口氏は言っています。例えば、勉強ができなくて、自信を無くしイライラしている子どもに対して、「走るのは早いよ」とほめたり、「勉強できなくてイライラしているんだね」と話を聞いてあげたりしても、勉強ができない事実は変わらないのです。根本的な解決は勉強への直接的な支援によって、勉強ができるようにすること以外ないのです。そして、小学校でうまく乗り切れたとしても、中学校や高校でもうまくいかず、社会ではさらにうまくいかなくなったとき、「誰もほめてくれない」「誰も話を聞いてくれない」といったところで何の問題にもならないのです。

 

まさにここで行われているのは「外発的動機づけ」といったものであり、子どもたちにとっては「褒められるために行動する」という思考になっているのかもしれません。この話を見ていると、確かにここで出てきている学校現場での先生方は問題の表面を見ているばかりで、根本的な解決の部分へのアプローチを避けているように感じます。確かにこういった本質へのアプローチは非常に時間のかかることです。しかし、これでは「ただ褒める」「ただ話を聞く」以前に、その子にたいて「どうなってほしいか」といったことが抜け落ちて島ているように思います。当然、教育現場における先生方でそんなことを考えない先生方はいないでしょう。しかし、そうであるならば、そもそもの信頼関係を築くところから難しくなっているのを感じます。保育をしていても、問題行動を起こす子どもたちがいます。そういった子どもたちは「何かを抱えているからこそ、そういった問題を起こす」だと思っています。その気持ちを受け入れて、「共感する」ことが重要なのだと思います。こういったことを繰り返し、信頼関係という土台を作ることが必要で、そこから初めて関わることにつながっていくのです。そして、そのためには、先生と子どもといった構図ではなく、一人の人格者として子どもたちを見なければ、その子本来の姿は見えてこないと思います。「真心を持って接する」ということは「褒める」や「話を聞く」以前に持っておかなければいけない、教師や保育士としての信条であるのではないかと思います。

刑務所における実態

宮口氏は「本来保護しなければいけない障害者が犯罪者になる」と言っています。本来、傷つきやすく、成功体験が少ないため自信を持ちにくい障害者を支援するために、支援者は傷つかないように言葉を選び、少しでも自信をつけさせてあげようと日々関わっています。しかし、そんな存在である人たちに、誤って、傷つきそうな言葉を投げかけてしまったらどうなるでしょうか。彼らの心はすぐに折れてしまうかもしれないのです。実際のところ、そんな繊細な彼らが学校で、社会で、気付かれず、傷つけられ、被害者になるばかりか、逆に犯罪者になってしまう現実は確かにあるのです。宮口氏の勤務していた医療少年院ではそういった少年たちの集まりだったようです。本来は支援をもって、大切に守ってあげなければならない障害を持った子どもたちが学校で気づかれず、支援を受けれなかったばかりか、イジメや虐待を受けていたのです。そして、最終的には加害者になってしまっていたのです。

 

では、実際のところ、刑務所にはどれほどのこういった軽度知的障害や境界知能、宮口氏のいういわゆる「忘れられた人々」はどれほどいるのでしょうか、このことは政治資金規正法違反の罪で、栃木県の黒羽刑務所に服役した元衆議院議員、山本譲司氏の著書「獄窓記」に詳しく書かれているそうです。刑務所の中には凶悪犯ばかりと思っていた、彼が見た刑務所には障害を持ったたくさんの受刑者がいたそうです。おそらく刑務所にいる受刑者は、軽度知的障害や境界知能をもった人がかなりの割合占めているそうです。法務省の矯正統計表によると2017年に新しく刑務所に入った受刑者1万9336人のうち、3879人は知能指数に相当する能力検査値(CAPAS)が69以下だったそうです。つまり、約20%が知的障害者に相当すると考えられるのです。軽度知的障害相当(CAPAS値:50~69)であれば約17%、また約34%程度が境界知能に相当(CAPAS値:70~79、および80~89の約半分の合計)していました。つまり、矯正統計表からすると軽度知的障害相当や境界知能相当を合わせると、新奇受刑者の半数近くに相当することになるのです。一般的には軽度知的障害と境界知能を合わせると15~16%程度ですので、やはりかなり高いといえるのです。

 

しかし、この数字には批判がなされていたそうです。平成26年に法務総合研究所が発行した結果(法務総合研究所研究部報告52)では知的障害者は2.4%であったと公表されています。法務省の矯正統計表の約20%とは8倍近くの違いがあります。では、なぜそのようになったのでしょうか。これは矯正統計表には一つの問題があるのです。それは法務省が使った「CAPAS」という知能検査には年齢補正が十分ではないという欠点が指摘されていたからです。高齢者が多いと数値が低く出やすく、再入者は受験意欲が低下しがちであり、知的障害相当者を多く拾ってしまう傾向にあるからなのです。しかし、これをもって刑務所にいる知的障害者たちが2.4%になったと言えるのでしょうか。

 

では、一方で平成26年に法務省総合研究所による調査ではどうだったのでしょうか。ここでは刑務所職員に調査票を記入させて知的障害、もしくは知的障害が疑われる人数を書かせているということだったそうです。また、すでに医師によって診断を受けているもの、CAPASなどで知的障害が疑われ精査が必要になっているかがまだ医師による認定には至っていないのです。つまり、知的障害を持っているかどうかは職員に判断が委ねられているのです。

 

CAPASで問題がないとされた受刑者は調べられていない可能性があること、境界知能についても調べられていない可能性があることがあり、実際の刑務所の実態は全く捉えられていないと言っても過言ではないようです。つまり、職員が知能検査を高く評価してしまうと本当のIQが65なのにCAPASでは80と出てしまう可能性もあるのです。

忘れられた人々

前回の話にもあったように、現在の知的発達障害の目安は「IQ70未満」とされています。しかし、そこには大きな問題があり、それまでの「IQ85未満」と言われていた人を対象にするとあまりに支援を行うことが困難になるので引き下げていたと言います。ではその間にいた人たち。つまり「IQ70~85」の人はどうなったのでしょうか。数年前までは支援が必要だったと言われていた人たち、軽度知的障害者や境界知能を持った人たちは結果として気付かれず、支援されることもないことで、周囲の人に気づかれることもなく、生活もしていて、何か問題が起きたときに「どうしてそんなことをするのか理解できない人々」として映ってしまうことがあると宮口氏は言います。これはとても不幸なことです。

 

では、「IQ85」というのはどれくらいの人のことを言うのでしょうか。宮口氏がいうにはこの世の中で普通に生活してく上でIQが100ないとなかなかしんどいと言われているそうです。つまりIQ85未満というのは相当なしんどさを感じているのではないだろうかというのです。しかし、実際のところ彼らは困っていても自分から支援を求めることはしません。公的に障害を持っていると認定されるわけでもありません。だから、支援につながることは少なく、仕事を転々とした莉、続かなかったり、ひきこもったり、ちょっとした問題に巻き込まれたりと、生きにくさにつながる可能性があるのです。

 

また、軽度知的障害や境界知能を持っている人たちに対して、「軽度」ということで誤解を招きがちであると言っています。こういった人たちは多くは支援を必要としているのです。しかし、社会的には普通の人と区別がつかないため、難しい仕事を与えられて、失敗すると非難されたり、自分のせいだと思ってしまったりするのです。宮口氏の著書を読んでいるとこの「軽度」というのが大きな誤解をよんでいることが分かります。軽度だからといって支援が必要ではないということではないのです。軽度の知的障害は健常人と見分けがつきにくく、当然放っておかれることが増えてきます。そして、その誤解により、本人も普通を装い、支援を拒否するため、支援を受ける機会をも逃してしまうのです。

 

この支援を受けないことの弊害は大きいようです。ここで出てくる非行少年のように犯罪を犯してしまう少年たちも多くいますが、虐待も知的なハンディが原因の場合もあるそうです。というのも、虐待してしまう親の特徴として、一般的には、生真面目で“こうあるべき”といった固定概念が強く、自分の弱みを人には見せない、こまっていることを人に相談できない、孤立している、対人関係が苦手、経済的な困窮があるといったような軽度知的障害や境界知能の人たちの特徴と似ていることが分かります。とはいえ、これはあくまで推測の域を出ないと言えるそうです。確かに、虐待をする人と言っても、高学歴やIQが高い人もいますので、すべてが軽度知的障害や境界知能がある人と言い切るのはどうかと思います。かなり偏った意見でもあるように思うので、この議論はもっと慎重にするべきでしょう。

 

しかし、なかには該当することもあるので、無視もできない内容です。そして、最近様々なところで起きているニュースにおいても、どうもおかしな動機で起きている事件が多いように思います。すべての人が軽度知的障害や境界知能であるとは言わないまでも、ここで宮口氏がいっている状態の人に該当する人も少なくはないように思います。そして、宮口氏は医療少年院で働いていることで、非行少年の多くがこういった社会において「忘れられた人々」と出会う機会が多いことに気づいたと言っています。

気付かれない

障害を持っている子どもたちが学校でも、子どもたちの問題行動の背景まで気づいてもらわれず、「手のかかる厄介な子」といったような見方をされ、結果として問題が深刻化することがある子もある中で、保護者にも気づかれることがない場合もあるそうです。これは保育現場においてもあることなのですが、保護者に子どもの問題行動を話していてもなかなか理解してもらうのは困難なのです。これでは適切な支援を受けることがありません。

 

その後、少年たちが社会に出たときに やる気はあっても、認知機能の弱さ、対人スキルの乏しさ、身体的不器用さなどが原因となって、言われた仕事がうまくできない・覚えられない、職場の人間関係がうまくいかない、時間通りに仕事に行けない、などの問題を起こし、非行に理解はあっても発達障害や知的障害についての十分な知識がない雇用主から叱責を受け、嫌になってやめてしまうことになるのです。

 

では、特別な支援が必要ながら、気付かれていない子どもたちは、どのくらいいるのでしょうか。現在、知的障害はIQが70未満と定義されており、これは1970年代以降のものです。1950年代の一時期には「知的障害はIQ85未満」とされていたことがありました。IQ70~84 は、現在では「境界知能」と言われる範囲にあたります。とすると「知的障害は85未満」とすると、知的障害と判定される人はどれくらいいるのでしょうか。実際でいうと全体の16%くらいが知的障害扱いになり、それではあまりに人数が多すぎることになり、支援現場の実態に合わないことになります。そのため、さまざまな理由から「IQ85 未満」から「IQ70未満」に下げられたのです。しかし、実際のところ、IQ70~85 の子どもたちは減ったのでしょうか。そんなことはなく、時代によって知的障害の定義は変わっても、境界知能の子どもたちは依然としているのです。つまり、この範囲内の子どもたちは知的障害者と同じくしんどさを感じており、支援を必要としているかもしれません。

 

では、そういった境界知能の子どもたちはどのくらいいるのでしょうか。知能分布から算定するとおよそ14%いることになるそうです。それは1クラス35名のうち、約5人いることになります。つまり、クラスで下から5名程度は、かつての定義なら場合によって、知的障害に相当していた可能性があるのです。

 

ただ、そもそも知的障害自体は病院の治療対象ではありませんので、軽度知的障害であっても気づかれる場合は少なく、診断がつくことも少ないのです。平成30年度の内閣府の障害者白書によると、知的障害者は108万人程度いるとされていますが、5年前の平成25年は54・7万人でした。5年間で倍に増えたのです。当然、このように急激に知的障害者が増えることはありません。これは知的障害に対する認知度が高まって、療育手帳取得者が増えた結果なのです。これは「支援が必要なのに気づかれていない知的障害者がまだかなりの割合いる」ということが言えます。境界知能になるとますます気づかれないでしょう。病院に行っても適切に診断され、支援を受けられるようになることは、通常ないと宮口氏は言っています。

 

しかし、このように急激に知的障害者が増えたことに反して、支援の現状を用意するのが難しくなっているのですね。その結果、境界知能や軽度知的障害を持っている子どもたちは適切に支援されず、結果問題行動を起こしてしまう。悪い連鎖が起きているのですね。それだけ、今の教育現場において一人一人にフォーカスが当たりずらい現状があるのだということがわかります。私の園では今チーム保育で4人一組で子どもたちにあたっています。そのため、気になる子どもに一対一で関わる時間も作ることができます。これまでの保育や学校教育の現場では、周囲に合わせることが重要視されるあまり、個々の要望にはそれほど重きが置かれていないように思います。では、個々の要望に重きを置くとやりたい放題なのではないかという話が出てくるでしょうが、そうではありません。あくまで、「その子自身が」周囲にアンテナを張り、「自分から合わせよう」とする主体性が求められるのです。そのための援助が大人には必要になってくるのだと思います。そして、そういったことはなにも学校現場だけでは起きることではなく、乳幼児からの積み重ねは大きいように思います。