教育

認知能力への支援

宮口氏は学校は教科教育以外がないがしろにされていると言っています。そして、学習においても具体的に示しています。宮口氏はある市で、教育相談を行っているのだそうですが、そこには各学校から、勉強についていけない、授業に集中できない、漢字を覚えるのが苦手、黒板が写せない、計算が苦手といった子どもたちが母親に連れられて相談にきます。そして、その多くはやはり境界知能や能力の偏りがあるということがWISCという知能検査からわかります。

 

そして、そういった子どもたちに対して、コグトレ(認知機能強化トレーニング)のワークシートの中にある「点つなぎ」(点でつながった上の図を下に写す)ものや「形探し」(点々の中から正三角形に配置されているものを探し出して線でつなぐ)、「まとめる」(無造作に並べられた☆を5個ずつ囲む)といったシートをさせてみます。すると、漢字が覚えられない、黒板を写せない、計算が苦手といった子どもはいずれのシートもうまくできないのです。

 

簡単な図を見ながらそれを正確に写すということができなければ、漢字など覚えられないのです。漢字はワークシートで使う図よりも、もっと複雑で難しい形をしています。漢字が覚えられないというのは、形を認知する力が育っていないからです。

 

つぎに点々の中から正三角形を見つけることができない場合、場所や大きさが変わってもある形を認識できる“形の恒常性”という力が育っていないと考えられます。“形の恒常性”が育っていないと、黒板に大きく書かれたことをノートに小さくして写す、ということができません。

 

☆を5個まとめて囲む力がなければ、繰り上がり計算の際に必要となる「数を量として見る力」が育っていないため、計算が苦手になってしまいます。こういった写す、見つける数えるといった基礎的な認知能力の弱さが背景にあれば、どうしても勉強についていくというのは難しくなるのです。

 

しかし、学校では、漢字ができなければ、漢字の練習をさせる。計算ができなければひたすら計算ドリルをやらせるといったように、できないことをやらせようとしてしまいがちです。計算や漢字といった学習の下には「写す」「数える」といった土台があり、そこをトレーニングしないと子どもは苦しいだけなのです。そして、そこをクリアしていなければ、国語の文書問題をさせても平仮名や漢字が読めず、回答できないのです。そして、算数で面積を求めるような図形問題を解くには、足し算や掛け算、割り算ができることが前提であるため難しくなるのです。こういった前提である平仮名や漢字、四則演算ができないのに、文章問題、面積の問題をひたすらやらせると、ますます勉強嫌いになっていくのも同様なのです。そして、今の学校では、こういった学習の土台となる基礎的な認知能力をアセスメントし、そこに弱さがある児童にはトレーニングを指せるといった系統的な支援がないのです。これは非行少年たちも同様であり、簡単な図も写せず、短い文章の復唱もできない。そんな状態のまま小学校、中学校で難しい勉強にさらされるのです。そして、ついていけなくなり、勉強嫌いになり、自身の喪失や怠学に結びつき、非行にもつながっていくのです。

 

こういった支援が学校にはないというのが宮口氏の意見ですが、私はこのことを受けて、これは保育の責任かもしれないとも思うのです。ここで出てくる「支援」というのは認知能力のことを言っていますが、ここで学ぶ意欲であったり、粘り強く物事に向き合うといった非認知能力は乳幼児から始まっているということとともに、ここに出てきた支援の具体例は幼児の部屋においても環境に用意できるからです。点つなぎはそういったワークシートがあります。「形探し」というのもそういった遊びのおもちゃがあります。「まとめる」といったことも活動や友だちとの関わりにおいてもこのことはあるでしょう。つまり、ここでテストでやることやそこに通じる支援の環境というのは保育の施設においては比較的に置かれているものなのです。しかし、子どもたちはそれで十分に遊ぶのではなく、行事に追われたり、活動に追われたりとカリキュラム至上主義的で系統的な保育によって遊び込むほどんど時間も取られていないかもしれません。こういった境界知能の子どもたちはもしかすると、小学校以上ではなく、保育にこそ問題があるのかもしれません。

社会面への支援

ここ宮口氏は日本の教育現場における一番重要なところを指摘しています。まず、初めに子どもへの支援は大きく分けて、学習面、身体面(運動面)、社会面(対人関係など)の3つになると言っています。ほかにも保護者支援などもありますが、子どもたちへの直接的支援としては、これら3つです。宮口氏は自身の講演会で学校の先生方にこれら3つのなかで最終的に子どもに身につけてほしいためにために行う支援は何かを時々質問するそうです。そうするとほとんどの先生は「社会面」と答えます。そこで続けて「では、もっとも大切と思われる社会面の支援について、今の学校では系統的にどんなことをされていますか?」と質問すると、ほとんどの先生が「何もしていない」と答えます。中には「子ども同士の間でトラブルになったとき、その都度指導している」と答える先生もいます。

 

しかし、ここで考えてみると小学校なら、国語、算数、理科、社会といった学科教育でびっしりと時間割が埋められ、週にわずか1週間、道徳の時間があるだけです。では、道徳の時間で社会面の支援をしているか?というとこれも否です。また、「トラブルがあったとき、その都度指導している」だけでは、社会面の支援は偶然に必要性があって生じた程度にすぎません。つまり、今の学校教育には系統だった社会面への教育というものが全くないのです。

 

では、社会面の支援とはどういったものなのかというと、対人スキルの方法、感情コントロール、対人マナー、問題解決能力といった、社会で生きていく上でどれも欠かせない能力を身につけさせることです。これらのどれ1つでもできていなければ、社会ではうまく生活していけないのです。そういった最も大切な社会面の支援が、学校教育で系統立ててほとんど何もされていないということが、どうも理解できないと宮口氏は言います。そのため、学校教育で何もなされていないので、少年院に入ってきた少年には、1から社会面について支援していかないといけないのです。

 

これらの社会面は、集団生活をとおして自然に身につけられる子どもも多いですが、発達障害や知的障害を持った子どもが自然に身につけるのはなかなか難しく、やはり学校で系統的に学ぶしか方法がないというのです。それが学べないと、多くの問題行動につながりやすく、非行化していくリスクも高まるのだと言います。

 

学校教育においてはこういった社会面への支援が少ないというのは私も同感です。どうしても、画一的に先生から子どもへの投げかけが多いのです。これは乳幼児教育においても同様のことが言えるでしょう。非行少年たちに限らず、最近の若者たちはコミュニケーション能力や問題解決能力に問題を抱えているひとが多いというのは度々注目されています。それはこういった大人から子どもへの関わりばかりが重要視される教育のあり方に問題があるように思います。子どもたちが自分で考え、自分で選択することの重要性は保育をしていく中でとても考えさせられます。また、発達における幅を持たせることも重要であるのではないかと思います。どうしても4月で区切られた年齢別での教育では4月と3月生まれでは1年のハンデを持ったまま、教育を受けることになります。しかも、先生からの一方的な教育においてであり、それではついていけないこどもや分からないまま進んでいってしまう子どもが出てくるのも容易に想像がつきます。ある一定の幅のある発達によって子どもたちを見ていく必要があるのではないかと私は思います。自分の発達にあった子ども集団の中で、生まれてくる関わりが社会面を培うことにつながるのではないかと私は思うのです。

自尊感情

宮口氏はほめる教育ともう一つ「困っている子どもたちは自尊感情が低い」と言われることにも違和感を覚えると言っています。なぜなら、まず第一にいろんな問題行動を起している子どもたちは、それまでに親や先生から叱られ続けているので、自尊感情が高いはずがないのです。「自尊感情が低い」とのは当たり前ですし、そう書いておけば外れることはないというのです。確かに、問題行動を起こす子どもたちが自尊感情が低いことがほとんどですし、当たり前といえば当たり前です。

 

そして、それと第二に、そもそも「自尊感情が低い」ことは問題なのか、ということです。ここで宮口氏は「実際、我々大人はどうでしょう。自尊感情が高いのでしょうか?」と言っています。仕事がうまくいかず、自信を失って自尊感情が低いことはあるでしょう。逆に仕事が軌道に乗り、社会的に成功すれば、自尊感情が高くなることもあるでしょう。それでも、社会の荒波にもまれながら思った通りの仕事ができない、職場の対人関係がうまくいかない、理想の家庭が築けないなど、自信がなかなか持てず、自尊感情が低くなってしまっている大人のほうが多いのではないかというのです。だからといって、ほとんどの人が社会で犯罪を行っている、不適応を起こしているわけでもありません。つまり、自尊感情が低くても社会人として何とか生活できているのです。逆に、自尊感情が高すぎると自己愛が強く、自己中のように見えてしまうかもしれません。大人でもなかなか高く保てない自尊感情を、子どもだけ「低いから問題だ」と言っている支援者は矛盾しているというのです。

 

問題なのは自尊感情が低いことではなく、自尊感情が実情と乖離していることにあるのです。何もできないのにえらく自信を持っている。逆に何でもできるのに全然自信が持てない。要は等身大の自分を分かっていないことから問題が生じるというのです。無理に上げる必要もなく、低いままでもいい、ありのままの現実の自分を受け入れていく強さが必要なのです。もういい加減「自尊感情が・・・」といった表現からは卒業してほしいと宮口氏は言っています。

 

この言葉にはなるほどと思ってしまいます。保育においても「自信」や「自尊感情」「自己肯定感」という言葉がよく使われます。しかし、その根底には「自分は自分でいいんだ」という感覚が持てるかが大切なのだと思っています。今、宮口氏が言っている支援者にとっての「自尊感情」はそういったこととは少し違うニュアンスを感じます。そこにはただ「自信を持てばいい」というニュアンスを感じます。以前、私の園にフランスの教育学者が見学に来たのですが、そのとき私も「今の日本にはもっと自尊感情を持った人間を育てることが必要だ」と話したときに「本当に自尊感情は必要なのでしょうか。アメリカを見てください。自分に自信を持つがあまり、周りを考えていないではないですか」と言われたときに、少し言葉に窮しました。確かにその通りなのです。自信をただ持てばいいわけではないのです。私はその時に「社会に還元や貢献できるようになるためには、自分はできるという自信はなければいけなく、今の日本にはそういった感覚を持つ人は少ない」といったのですが、社会というのも一つの集団です。集団は個が生かされてより良い集団になるというのを考えると、「自分の役割」を知っていることの方が大切なのかもしれません。各々のアイデンティティが生かされる社会にならなければ人社会としてはうまく回っていかないのです。そう考えると今の日本は、そういった社会ではないのかもしれません。

褒められる教育

宮口氏は非行少年たちの教育環境についても問題提起を行っています。特に昨今の「褒める教育」については特に大きな違和感を持っています。そして、褒める教育だけでは問題は解決しないと言っています。これについては私も同様に感じるところです。「ただ、褒めるだけでは、子どもの発達は伸びない」と思っています。では、宮口氏はどういった視点において、そう感じるのでしょうか。

 

宮口氏は勉強が苦手、運動も苦手、対人関係も苦手で、褒められるところはそう簡単には見つからない子どもに対して、少しでもいいところを見つけてあげようと、通常なら社会で褒められるほどのことでもないようなことを褒めることで自信をつけようとすることを学校現場の先生方はよくしていると言っています。それが今の支援案の定番なのです。問題行動を起こす子どもに対して悪い面ばかりに目を向きがちなので、良い面を見つけてあげて、褒めてあげるのです。もちろん、褒めることを否定はしてはいませんが、そういったことをしたところで、長くは続かないと言います。根本的な問題が解決しない限り、すぐに元に戻ってしまうことが多いのだそうです。

 

また、「褒める」と同じくよく出てくるのが、「話を聞いてあげる」です。これも子どもの気持ちを受けとめ落ち着かせるには効果がありますが、根本的な解決策にはなりえないので、効果はいずれ薄くなってきます。

 

「褒める」「話を聞いてあげる」は、その場を取り繕うにはいいのですが、長い目で見た場合、根本的な解決策にはなっていなく、逆にこどもにとって問題を先送りにしているだけになってしまっていると宮口氏は言っています。例えば、勉強ができなくて、自信を無くしイライラしている子どもに対して、「走るのは早いよ」とほめたり、「勉強できなくてイライラしているんだね」と話を聞いてあげたりしても、勉強ができない事実は変わらないのです。根本的な解決は勉強への直接的な支援によって、勉強ができるようにすること以外ないのです。そして、小学校でうまく乗り切れたとしても、中学校や高校でもうまくいかず、社会ではさらにうまくいかなくなったとき、「誰もほめてくれない」「誰も話を聞いてくれない」といったところで何の問題にもならないのです。

 

まさにここで行われているのは「外発的動機づけ」といったものであり、子どもたちにとっては「褒められるために行動する」という思考になっているのかもしれません。この話を見ていると、確かにここで出てきている学校現場での先生方は問題の表面を見ているばかりで、根本的な解決の部分へのアプローチを避けているように感じます。確かにこういった本質へのアプローチは非常に時間のかかることです。しかし、これでは「ただ褒める」「ただ話を聞く」以前に、その子にたいて「どうなってほしいか」といったことが抜け落ちて島ているように思います。当然、教育現場における先生方でそんなことを考えない先生方はいないでしょう。しかし、そうであるならば、そもそもの信頼関係を築くところから難しくなっているのを感じます。保育をしていても、問題行動を起こす子どもたちがいます。そういった子どもたちは「何かを抱えているからこそ、そういった問題を起こす」だと思っています。その気持ちを受け入れて、「共感する」ことが重要なのだと思います。こういったことを繰り返し、信頼関係という土台を作ることが必要で、そこから初めて関わることにつながっていくのです。そして、そのためには、先生と子どもといった構図ではなく、一人の人格者として子どもたちを見なければ、その子本来の姿は見えてこないと思います。「真心を持って接する」ということは「褒める」や「話を聞く」以前に持っておかなければいけない、教師や保育士としての信条であるのではないかと思います。

刑務所における実態

宮口氏は「本来保護しなければいけない障害者が犯罪者になる」と言っています。本来、傷つきやすく、成功体験が少ないため自信を持ちにくい障害者を支援するために、支援者は傷つかないように言葉を選び、少しでも自信をつけさせてあげようと日々関わっています。しかし、そんな存在である人たちに、誤って、傷つきそうな言葉を投げかけてしまったらどうなるでしょうか。彼らの心はすぐに折れてしまうかもしれないのです。実際のところ、そんな繊細な彼らが学校で、社会で、気付かれず、傷つけられ、被害者になるばかりか、逆に犯罪者になってしまう現実は確かにあるのです。宮口氏の勤務していた医療少年院ではそういった少年たちの集まりだったようです。本来は支援をもって、大切に守ってあげなければならない障害を持った子どもたちが学校で気づかれず、支援を受けれなかったばかりか、イジメや虐待を受けていたのです。そして、最終的には加害者になってしまっていたのです。

 

では、実際のところ、刑務所にはどれほどのこういった軽度知的障害や境界知能、宮口氏のいういわゆる「忘れられた人々」はどれほどいるのでしょうか、このことは政治資金規正法違反の罪で、栃木県の黒羽刑務所に服役した元衆議院議員、山本譲司氏の著書「獄窓記」に詳しく書かれているそうです。刑務所の中には凶悪犯ばかりと思っていた、彼が見た刑務所には障害を持ったたくさんの受刑者がいたそうです。おそらく刑務所にいる受刑者は、軽度知的障害や境界知能をもった人がかなりの割合占めているそうです。法務省の矯正統計表によると2017年に新しく刑務所に入った受刑者1万9336人のうち、3879人は知能指数に相当する能力検査値(CAPAS)が69以下だったそうです。つまり、約20%が知的障害者に相当すると考えられるのです。軽度知的障害相当(CAPAS値:50~69)であれば約17%、また約34%程度が境界知能に相当(CAPAS値:70~79、および80~89の約半分の合計)していました。つまり、矯正統計表からすると軽度知的障害相当や境界知能相当を合わせると、新奇受刑者の半数近くに相当することになるのです。一般的には軽度知的障害と境界知能を合わせると15~16%程度ですので、やはりかなり高いといえるのです。

 

しかし、この数字には批判がなされていたそうです。平成26年に法務総合研究所が発行した結果(法務総合研究所研究部報告52)では知的障害者は2.4%であったと公表されています。法務省の矯正統計表の約20%とは8倍近くの違いがあります。では、なぜそのようになったのでしょうか。これは矯正統計表には一つの問題があるのです。それは法務省が使った「CAPAS」という知能検査には年齢補正が十分ではないという欠点が指摘されていたからです。高齢者が多いと数値が低く出やすく、再入者は受験意欲が低下しがちであり、知的障害相当者を多く拾ってしまう傾向にあるからなのです。しかし、これをもって刑務所にいる知的障害者たちが2.4%になったと言えるのでしょうか。

 

では、一方で平成26年に法務省総合研究所による調査ではどうだったのでしょうか。ここでは刑務所職員に調査票を記入させて知的障害、もしくは知的障害が疑われる人数を書かせているということだったそうです。また、すでに医師によって診断を受けているもの、CAPASなどで知的障害が疑われ精査が必要になっているかがまだ医師による認定には至っていないのです。つまり、知的障害を持っているかどうかは職員に判断が委ねられているのです。

 

CAPASで問題がないとされた受刑者は調べられていない可能性があること、境界知能についても調べられていない可能性があることがあり、実際の刑務所の実態は全く捉えられていないと言っても過言ではないようです。つまり、職員が知能検査を高く評価してしまうと本当のIQが65なのにCAPASでは80と出てしまう可能性もあるのです。