教育
先日、ある研修で「乳幼児期の性教育」について話を聞く機会がありました。私自身も最近少し考えたことのある内容だったので、そこでの話は考えさせられるものがあります。特に保育という仕事はなかなかに「性」とは遠いようで実に近い仕事です。昨今の不適切保育や子どもに対するセクハラのニュースも聞くことがしばしばあるだけに保護者の方も気にされている人が多いのではないでしょうか。ただ、今回印象に残ったフレーズが「性と人権」という話でした。「性」と「人権」よくよく考えてみると確かにすごくつながるものだと思うのですが、言われなければ意識しなかった内容です。
この内容を研修の中で話していただいた宇都宮大学 艮 香織(うしとら かおり)先生は「性」をテーマにすることで子ども観・人権のとらえ方を再確認してほしいと言っていました。確かに考えてみると性差やジェンダーの問題は人権に触れることです。日本はそういった意味でもまだまだ、性における理解というのは遅れているのかもしれません。細かいことでいうと「ピンク」=「女の子の色」であったり、「車・乗り物」=「男の子の好きなもの」という意識はいまだに残っています。これは何も乳幼児に限った話ではありません。たとえば、「理系」というものも「理系女子」という言葉ができるほど女性は少数です。このことは日本の教育においても問題になっています。また、最近よく聞くジェンダーフリーの話や性同一性障害を持っている人の話などもたびたび問題になります。そのほかにもいまだ男性の育児休暇が進まない現状であったり、「家庭」=「女性」といった良妻賢母を求められたり、女性自身がそうあるべきだと思ってしまう風潮というのもまだまだ根強いものです。単に「性」という話ではなく、社会と性において「人権」というものは切っても切り離せないものであるということがよくわかります。
もちろん、少しづつ改善されているものもあったり、認められる風潮というものはありますが、海外に比べると日本のそれはまだまだ課題が多くあるのだろうと思います。というのも、自分自身もこの内容を書きながら「あれもあった、これもあった」と気づく漢字でありますし、今ひらめく中でもこれだけ出るので、事柄を考えていくと潜在的にはもっとあるものなのだろうと思います。
そこで、艮先生は包括的性教育の必要性を話していました。包括的性教育とは「セクシュアリティを精神的・心理的、身体的、社会的側面からとらえたうえで、カリキュラムに立脚した性教育」を目的とした教育の内容です。その目的は「健康とWell-being(幸福)、尊厳を実現すること」「尊重された社会的・性的関係を育てること」「選択が自分自身と他者のWell-being(幸福)にどのように影響するかを考える」「生涯を通じて、権利を守ることを理解し励ますこと」が言われています。「性教育」を通して人権を伝えることがこれからの社会につながるために必要なテーマであるということが言われています。この包括的性教育は世界的には進めら得ている現状があるのですが、日本においては「発達段階に応じた性教育を学習指導要領によって提供している」として、「受け入れない」という姿勢であるそうです。
2025年8月19日 3:47 PM |
カテゴリー:乳幼児教育, 教育 |
投稿者名:Tomoki Murahashi
池上さんはこれからの教育についても言及しています。最近は通信制高校の話もよく聞きます。学校に通うのが苦手な生徒や自分のペースで勉強したいと考える生徒から、通信制の高校は人気になっているそうです。通信制高校は毎日決まった時間に投稿する必要がなく、登校の頻度は学校によって違うのですが、レポート提出が中心で年間でも投稿は4回というそうです。なんだか、これまでの学校教育を受けてきた私からするとそれで子どもたちは勉強するのだろうかとか、学ぶことができるのだろうかと考えてしまいます。しかし、この通信制高校の生徒の入学は2020年5月には20万にも上る生徒が在籍しています。23年度の高校生全体の生徒数が291万9000人なので全体の9%の生徒が通信制に通っているようです。これは高校生の約11人に1人に上るそうです。それとは別に定時制高校に通う生徒は約7万4000人で2.4%のようです。定時制よりも通信制のほうが多いのですね。
通信制高校は数も00年から21年の間に4倍以上に数を増やし、通信制高校は株式会社の学校設置に対する規制緩和が起きたことが大きな要因です。有名なところは「N高等学校(N高)」(沖縄県)「S高等学校(S高)」(茨城県)ですね。これはテレビのコマーシャルでも多く放送されていたので、私も知っていました。この学校は出版や映画で有名なKADOKAWAと、その子会社のドワンゴが運営している学校で、23年6月の生徒数はN高、S高あわせて約2万5000人になるそうです。高卒資格を取りながら自分の好きなことや将来へつながることを学べる点が人気で、授業のほか、生徒同士のコミュニケーションやレポート提出、部活もオンラインで行います。選択制の課外授業ではプログラミング、ボーカロイドなどの音楽づくり、ゲーム制作など、180以上のプラグラムが選択できるそうです。このような授業の編成は「一斉授業では自分のペースで学べない」「個別最適な学びには通信制が適している」という考えに基づいているからです。
これらの様子を見てどう思うでしょうか。細かくN高のことを調べてみると、週3回や週1回の登校のプランもあり、オンラインのみというだけではないようです。また、「メンター」といった生徒の学びや進路実現に向けたサポートをする教育スタッフが生徒にはつき、一人一人のニーズに合わせて複数のメンターがつきます。日々の学習進捗確認や面談、ホームルームなどもメンターと一緒に行います。また、全員が同じ質の授業を受けられるよう、一流の講師陣の講義映像を観て学習します。また、基礎学力を身に付けるための授業の他に、アクティブ・ラーニングやグループワークを行っています。この辺りはKADOKAWAの持っているコネクションなども踏まえ、オンラインの技術が発展したこともあり、見て学ぶといったこれまでの学業スタイルにおいてはそれでもいいのかもしれません。実際、有名大学に入学する人も多くなってきているようで、うまくメリットを取り入れているように思います。
はじめは通信制ということで、どこか疑わしいところも多くありましたが、内容を知っていくと「個別最適な教育」や「協働的な学び」というものの一つの解釈が見られたように思います。技術の発展とともに学業のあり方もこのように様々な変化が今後起きてくるでしょうね。
2025年5月15日 1:10 PM |
カテゴリー:教育 |
投稿者名:Tomoki Murahashi
今年度、園見学の保護者を案内しているときに、改めて感じることは「自由遊びの重要性」でした。自分自身、常々感じることは「保育とはいったい何のために行うのか」ということです。そもそも教育とは「教育とは人格の完成をめざし、平和で民主的な国家および社会の形成者として必要な資質を備えた心身ともに健康な国民の育成を期しておこなわなければいけない」と教育基本法に教育の目的として書かれています。「社会を作る人材」の育成が目的です。保育者たちが子どもたちに保育をしていく中でもこういった意味合いが含まれていないとそもそも教育とはいえません。そして、社会とは人の集まるなかで行われる営みの形です。つまり、そこでは自己中心的な考えや個人主義ではいけません。しかし、だからといって、集団に埋もれて個性が無くなってしまうのも違います。「良い個の集まりが良い集団であり、良い集団は良い個を生む」の中で自己発揮することが重要であり、保育環境や教育環境もこのような環境づくりや人間関係づくりを目指す必要があるように思います。また、この場合においても、受け身ではなく、能動的にその集団に関わることが必要になってきます。
こういった民主主義を学ぶ環境として、自由遊ぶ環境は子どもたち自身が自らをコントロールして関わりあう場として非常に重要であると考えています。先生が設定保育で行って、子ども一人が自分の活動をしていても習得できず、そこには他者が必ず必要になってきます。また、自由遊びの重要性は様々あります。その一つが無気力感や不安や落ち込みへの耐性と自由遊びの相関関係です。
サンディエゴ州立大学の心理学教授のジーン・トウェンが大学生の不安検査を調査していくなかで1950年代に比べて現在の若者たちの85%が不安や落ち込みを抱える数値が高くなっていたということがわかりました。これは半世紀前の若者たちに比べて、今の若者たちは不安障害やうつ病という診断を5~8倍になっているということが言えます。そして、その数値は小学生や高校生にもみられる傾向だったそうです。この増加は現在にある危険や社会の不確実性や景気や戦争といった世界的な出来事などといったものとは相関関係がない上に、大恐慌時代や第二次世界大戦、冷戦などの世界不安の時よりも不安や落ち込み率は低くなっていたのです。では、なにが不安と落ち込みを高くしていたのかというと、不安と落ち込みは「人々が自分の暮らしをどれだけコントロールできているか、あるいはいないかという感覚」に強い相関関係があったそうです。つまり、自分の運命は自分で決められると思っている人は、自分ではコントロールできない状況の人と比べて落ち込んだり不安になる確率が低くなるということが分かったそうです。習い事ばかりの生活やや受け身な教育形態で自由に遊ぶ機会が少なくなっている子どもたちはもしかすると無力感や不安感を感じてしまっているかもしれません。この内容を紹介しているピーター・グレイ氏は「自由な遊びは、子どもたちに自分は無力ではないことを教える自然な方法です」と言っています。
2025年1月26日 4:51 PM |
カテゴリー:教育 |
投稿者名:Tomoki Murahashi
これまでの教育において、従来型の学校教育に言及されます。これまでの教育では日本の経済発展を支えるために「みんなが同じことが出来る」「言われたことを言われた通り」ということが求められてきました。結果、学校教育に求められてきたものは「正解(知識)の暗記」が中心になり、一方で「自ら課題を見つけ、それを解決する」という他者と協働し、自ら考え抜く学びが十分になされていないのではないかと答申の中で指摘もあったようです。
この「みんなと同じことを同じように」というのは学校生活で中心となる考えになると、同調圧力が発生し始めます。これがいじめの原因となったり、学校生活での生きづらさや非合理的な精神論や努力主義、詰込み教育などとの間で負の循環が生じるのではないかということも言われています。私はこれと共に、「年齢でのくくり」というものもあるように思います。「○○年生なら」とか、乳幼児期であると「○才」だからといった年齢の刷り込みは日本はとても強いように思います。しかし、異年齢での保育を行っていると、子どもたちは年齢で遊ぶ友だちを決めているのではなく、発達によって遊ぶ友だちを選んでいるように思います。日本はあまりにもこういった同調圧力が強くなるような学習環境であるために「できない子」も「できすぎる子」もいじめの対象となります。これは個別最適化の学びが出来ていないということの表れでもあるかもしれません。
こういった基本的に学校教育における「言われたことを言われた通りにできる」といった教育は「何をしていいかが分からない子どもたちを生んでいる」実態がコロナ禍において見えてきたそうです。以前、あるサイトで「イエナプラン」の事が話題に上がっていました。イエナプランは基本的に子どもたちが自主的、主体的に勉強する枠組みが作られているのですが、そこでのコメントに「こんな自習が主体の勉強なんて、私だったら勉強しない」とか「勉強せずに遊んじゃうな」というコメントが多く見受けられました。これは日本の現状において、非常に正直なコメントであるように思います。何よりも勉強や学習というものが「先生から習うもの」になっており、「自分が学ぶもの」という認識ではないということが伺えます。一体何のために学ぶのでしょうか。誰のために学ぶのでしょうか。
今一度、学ぶ必要がある主体というものがだれで、何のために学ぶ必要があり、どういったことを学習においてしなければいけないのかを改めて、問い直す時代でもあるように思います。その大きな意図が「令和の日本型教育」にこめられた意図のように思いますし、教育や保育に携わるもの一人一人が成績といった目に見えるものだけではなく、その大きな意味を考えていかなければいけないように思います。
2024年6月20日 3:01 PM |
カテゴリー:教育 |
投稿者名:Tomoki Murahashi
新学習指導要領には学校の段階と学校種の違いを越えて共通するものがあるそうです。それはどういった文章かというと「これからの学校には、こうした教育の目的及び目標の達成を目指しつつ」といった文章の後に「一人ひとりの児童が、自分の良さや可能性を認識するとともに、あらゆる他者を価値のある存在として尊重し、多様な人々と協働しながら様々な社会的変化を乗り越え、豊かな人生を切り拓き、持続可能な社会の創り手となることが出来るようにすることが求められる」とあります。
この文章から読み解くにかなり「自己肯定感」の意味合いに重要性があることが見えてきますね。この本では自己肯定感は「自分が大切な一人の人間であり、学ぶことを通して成長できる存在と認識する事」としています。当然、「一人一人の個人として存在していい」というのは一人では認識できないので、こういったところに「協働的な学び」が必要とされる課題があるのでしょう。
また、この著書では周囲の人との関わりや大人に苦しいときに助けを求めれば手が差し伸べられる経験を通して、必要な時に「助けて」といえる力の重要性なども挙げられています。だからこそ、大人は注意深く子どもを見守ることが必要とありました。
その際に、教師は「何を教えたか、ではなく、子どもたちが何を学んでどのような力を身につけていくか」ということに重点がおかれ、学ぶ喜びを児童に示さなければいけません。そのための子どもの参加や参画が重要になると書かれています。
ここまでの文章を見てどうでしょうか。私からするとこの内容が小学校で示されるというのは何とも考えさせられます。なぜなら、ここで言われる内容は乳幼児教育においても同様の目的があるからです。乳幼児教育においては特に「成績」というものはありません。小学校の教育要領においては学校での教育は「できるようにする」という語尾が多くあります。つまり「習得する」ことに目的がおかれています。一方で、幼稚園教育要領や保育所保育指針、認定こども園教育保育要領では語尾には「感性を豊かにする」や「味わう」「豊かにする」が多くあります。つまり、習得ではなく、そこで磨かれる「感性」などの目に見えない力が目的とも言えます。それは「学ぶ喜び」の芽生えが目的なのかもしれません。そうであるならば、「参画や参加」ということは乳幼児から必要であるといえます。
長らく、乳児や幼児は「何もできないもの」という捉え方が当たり前にありましたが、実際のところ、小学校などの教育改革において、乳幼児教育の役割というのはとても大きいように感じます。
2024年6月8日 5:16 PM |
カテゴリー:教育 |
投稿者名:Tomoki Murahashi
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