教育

ルールの必要性

ルールがあることで人間社会において様々な利点を与えてくれます。しかし、なぜ人はルールを守るのでしょうか。ゴプニックは人間がルールを守るということは「人間の生得的な性質といっていいのかもしれません」と言っています。つまり、人がルールを守ることは人間の元々持ったものであるというのです。ゴプニックも言っていますが、確かに人間がルールを守るというのはこれといったご褒美はないものもありますし、恣意的で合理性に欠けるルールもあるのです。たとえば、特定の場面でどう振る舞うべきかを決めたルール、校則や交通ルール、人との付き合いの中でのいわゆる「空気感」、「今日は○○する」といったことに自然とそのルールに従います。「郷に入っては郷に従え」というのは必然的にルールに従うことになっているのです。しかし、その本質としては別に無理に従う必要は本来はないのです。

 

このようにルールをつくり、みんなが守るということは、道徳的に適切な反応を広めるにはとても有効な方法だとゴプニックは言います。「人をぶつことは悪いこと、困っている人を助けることは正しいこと、という基本的な道徳なら直感でも十分に分かり、幼児ですら理解しているようです。けれども、私たちが生活の中でぶつかる問題は複雑で微妙なものが多く、集団の利害が絡むと判断はさらに難しくなる」と言うのです。確かにこう考えると、それぞれの道徳的判断だけでは採択されるだけでは解決しないものは多くなってくるように思います。つまりは、様々な社会の中での問題を解決するには何十人、何百人、何百万人といった大勢の行動を調整しなければならないのです。それを可能にするのはルールだというのです。集団の利益のために互いの行動を調整する能力を人間がもつことは進化上のとても大きな利点になるのです。

 

そのため、ルールというものは度々変わることもありますね。今の日本の憲法でも改正が行われるかどうかといったことがよく争点に上がっていきます。時代によって求められるルールが変わっていたり、国が違うだけでもルールが変わっていきます。人が人を思いやることや難しい問題をみんなが納得した形で解決する方法、それがルールになるのだと思います。確かに、そう考えるとルールを作ることは、「道徳的に適切な反応を広める」ことに利点があるということが分かります。

 

では、赤ちゃんはそういったルールをどのように獲得していくのでしょうか。そこには赤ちゃんの持っているある特徴がルールを覚えるのに役に立っているようです。そして、それこそが生得的というところにもつながるところのように思います。

日本の現状

前回の内容でSTEM教育における利点を紹介しました。ただ単に理数系の学問を進めるというだけではなく、論理的思考を持たせ、主体的に学ぶ力や問題解決能力、質問喚起力、創造力、コミュニケーション力など複合的な能力を向上させ、実社会での使える技能を身につけるということがSTEM教育の目的でもあることが見えてきました。

 

では、日本においてはこのSTEM教育とはどのように進んでいるのでしょうか。2021年3月10日のNewsweek日本版のHPには日本は最低レベルであると言われています。とはいえ、最近では日本の学校教育でもプログラミング教育は必修化されてきて、STEM教育をカリキュラムに導入する動きは出ています。しかし、世界的な流れから言うと日本はかなり出遅れているようです。というのも、2012年にOECDが72カ国の15歳の生徒に対して行った調査によると、日本はインターネットとコンピューターの学校内外での使用について、殆どの項目において世界平均を下回っていたそうです。

 

中でも、「学校外でコンピューターを使って宿題をする」と答えた割合はデンマーク、オーストラリア、メキシコの生徒が90%以上だった一方で、日本の生徒は9%で調査国中で他を大きく引き離した断トツの最下位だったのです。それは学校教育においてコンピューター使用(宿題や課題をコンピューターで行い提出すること)がほとんど要求されないことが要因だそうですが、家庭においても子どもがコンピューターを使う機会を増やし、ITリテラシーを高める努力が必要だそうです。

 

 

確かに、2013年にオランダのイエナプラン校を見学に行った時もすでに子どもたちは数学の問題をコンピューターのゲームを利用してすでに行っていました。今から10年ほど前ですでにこういった教育形態を行っており、普段からコンピューターというものが身近にあった教育があるということが伺えます。しかし、日本ではコンピューターを使う授業というのはまだまだ少なく、限られた時間でしか行われていないのが現状です。

 

この記事を書いた船津徹さんはこういったコンピューター教育は小学校低学年からスタートすべきと言っています。パソコンを使い、タイピングや基本ソフトウェアの使い方を身につけることで「コンピューターは難しい」という抵抗感を取り除くことができるというのです。そして、動画制作やアニメづくり、ゲーム作りといったものを身近にし、主体的かつクリエイティブな使い方を経験させることでコンピューターサイエンスを身近に感じさせることが必要だというのです。

 

最近ではパソコンだけではなく、タブレット端末も様々出ていますし、こういった端末は感覚的に動かせるだけで、幼児期の子どもでも取り扱いができます。街でもスマートフォンを巧みに使う子どもをよく見かけます。これまでより、こういった端末は身近になっていますし、敷居も低くなっています。しかし、まだまだ日本は理系アレルギーがあるように思います。とはいえ、これからの時代はテクノロジーがより発展していく時代になります。こういった時代に活躍する人材が必要になってくるなかで、教育環境も大きく変わってくるかもしれません。そういった環境に向けて、保育環境も変わる必要があるのかもしれませんね。

早期教育とは

脳科学の発達により、子どもたちの保育環境や早期教育においても、考え方は変わってきています。声高に子どもの早期教育について「売り」にしている幼稚園や保育園がいまだある中、では、実際子どもたちにおける早期教育がどのように子どもたちに影響が出るのか。子どもたちの頭の中でどのようなことが起きているのでしょうか。「最近の早期教育の特徴は、子どもの“脳”のみでとらえる論調にある」と小西行郎氏は言っています。彼は、日本の小児科医であり、保育学者であり、2001年に日本赤ちゃん学会を創設しました。惜しまれるも2019年にお亡くなりになられました。

 

そんな小西氏はこの「脳」のみでとらえる論調は子どもを「勉強ができる・できない」で判断する偏った見方を促し、結果的に子どもから“子どもらしさ”を奪うことになるのではないかと言っています。確かに日本ではまだまだ学歴というものは根強くありますし、「何をまなんだ」か「何をまなびたいか」よりも、どこの学校を出たかは未だ注目されます。そのため、勉強の目的においても、「学びたい」と意欲のあるものではなく「成績」が重視されるところが多くあるのかもしれません。結果的に小西氏が言うような「“子どもらしさ”を奪うことになる」というのでは、果たして子どもたちは「豊かな人生」を送れるということになるのでしょうか。

 

日本においては、早期教育はどういった捉えられ方をしているのでしょうか。小西氏は早期教育は「三歳児神話」と相まって、一種のブームといえる状況にあると言っています。現在ではこれまでの「天才児を育てる」と謳って、スピードを競って集中力や記憶力を高めることに重点を置いた早期教育だけでなく、キャラクターを使い、ゲーム感覚で子どもの判断力、思考力、創造性を養うことを目的とした塾や教材も増えてきていると言います。小西氏はこういったものに保護者がこぞって早期教育への意欲を見せる様子に「乳幼児の子育てはもはや“育児”ではなく、いかに頭のよい子ども、勉強のできる子どもを育てるかが目的になっているとさえ感じられます」と言っています。とかく、共通しているのは「育脳」をキーワードにした教材や塾が多いのです。

 

こういった早期教育において、切っても切り離せない関係にあるのが、「臨界期」という考え方です。小西氏はこの「臨界期」は「簡単に言えば、生き物の発達過程において、ある時期を過ぎると、ある行動の学習が成り立たなくなる限界の時期」のことを指すと言っています。この概念は、ノーベル医学・生物学賞を受賞した動物学者コンラート・ローレンツ博士の「刷り込み=インプレインティング」理論にさかのぼります。「刷り込み」とはふ化直後のハイイロガン(雁の一種)の雛が最初に見た動くものを母親だともってついて歩くという習性のことで、孵化直後の一定期間しか起きないことを指します。この一定の期間が「臨界期」に該当するという考えです。

 

この「臨界期」は、乳幼児期の脳の発達の仕組みが大きく関わっています。

伴走者

では、具体的に「コーチング」はどういうことをしていくのでしょうか。まず、コーチングにおいて最も大切なのは「発見を促す」ことです。「相手の中にある、相手さえもそこにあると気付いていない内側の情報を『一緒に探索』して見つけていくことである。そして、『共に発見』した情報を、未来に向けた新たな行動の指針となる知識に変えていく」ことと鈴木氏は言います。つまり、「探索の伴奏者となってくれる人が一人いるだけで、その人の人生はずっと力強いものになる」というのです。

 

このことはよく不良少年を更生させていくプロセスでもよくあるということを聞いたことがあります。主体的にポジティブな考え方を持とうとした時に考え方を変えてくれる。または見るベクトルを変えてくれる人の存在というのは大きい存在であると感じたことはないでしょうか。私自身もネガティブに物事を考えてしまうことが多かったのですが、そのたびに他の人からの意見などをもらい、その時にただ、同調されるだけであるよりも、考え方を変えてくれるアドバイスが非常にありがたかったりします。また、「探索の伴走者」ということが大事なのでしょう。あくまでその走っている主体は本人であり、解決も本人が行わなければいけないのです。そのため、伴走者となるアドバイザーは相手を走らせなければいけないのです。とって代わってあげることはかえって「お節介」なのです。

 

では、コーチングにあたり、どういったことから始めていくといいのでしょうか。初めはまず「通りがかりの一言」が大切なようです。「ありがとう」や「おはよう」といった挨拶をはじめ、こういった当たり前の一言にどれだけ気持ちを込めれるかが大切なのです。次に「そうなんだね」「そういうふうに考えたんだね」と相手の発言を自由にする。そして、「それで」「それから」と話の細部にまで関心が生まれることで「もっと聞かせてくれよ」とまた、質問をするのです。こうしていくなかで、「受け取って、受け取ったことを伝え、促し、質問する」この過程をくりかえすことで、相手は徐々に自分を探索の伴走者として認め、実際に発見が促されていくと言います。

 

大切なのは「まだ、十分に探索されていない目の前の人の能力や気持ちや考えを、一緒に『発見してみよう』そう思った瞬間に、あなたはその人にとっての、その主観における人生最高のパートナー(コーチ)となるのです」ということです。

 

よく「傾聴」と言います。以前読んだ、メンタルヘルスの本においても、「シンクシビリティ」においても、同様のことが言えます。まず相手の様子を見て、相手の気持ちに寄り添い、聞く、傾聴していく姿勢は相手とのコミュニケーションにおいて、最も重要な要素なのでしょう。私はどちらかというと経営者的な目線でこの本を読んでいますが、これは保育においても、意外と見落としがちなように思います。子どもたちの保育の中で気持ちを聞く時間というのは最も重要な時間であると自分は思っています。もちろん、カリキュラムや活動に追われることもあるでしょうし、思ったよりも、時間がかかることがあります。しかし、この「傾聴」され「認められる」ことは長い目で見たときに大きな信頼関係を生むように思います。このプロセスは大人だけではなく、子どもにおいても必要な姿勢だということがあります。まずはやはりこういった「聞く」ということから始めることが大きな一歩となりえるのですね。

コーチング

先日、NHKを見ていたら、「逆転人生」という番組が放映されていました。そこでは、日本ラグビーが世界で活躍するために活躍した一人の女性が紹介されていたのです。その方はスポーツ心理学者の荒木香織さんで、当時に日本ではそれほどメジャーではなかったすぽー心理学を利用し、選手のメンタルサポートを行うことで、それまではネガティブな思考であった選手たちをポジティブな意識に変えることで、より良いチーム作りのためアドバイスし、世界で活躍するチームにまでなったということを紹介していました。

 

最近では保育の中でも、「リーダーシップ論」というものをよく聞くようになりました。また、自分自身も幼稚園や保育園という組織において、そこにある風土や環境、雰囲気というのは大きく働く人に影響するということを感じています。ドラッカーも「その組織は何をすべきか。昨日は何か」といった組織を社会貢献することの使命感の大切さを持たせることの重要性を言っています。この使命感です。このことは荒木さんも同様に日本代表の選手たちにまず、自分たちの使命であったり、やりがいというものを持たせることから始まったと言っています。どうやら、マネジメントにおいて、「コーチング」というスキルは必要な能力なのだと思います。

 

では、コーチングとはどういったところに目的があるのでしょうか。「新コーチングが人を活かす」を書いたコーチ・エィ代表取締役社長の鈴木義幸氏は「コーチングはあくまでも、問いを2人の間におき、一緒に探索しながら、相手の発見を促していくというアプローチ」であると言っています。つまり、相手に主体性を持たせることに目的があるということが分かります。そして、その本質は「未来を作り出す主体的な人材を創る」ということにあると言っています。今まで自分が考えて居た「コーチング」というのはどちらかというと「指導者」のようなイメージがあり、指示をする人というイメージを感じていたのですが、それはどうやら違っているようです。

 

確かに荒木氏が選手に行っていたやり取りのほとんどは聞き取りであり、会話でした。「今のチームをどう思いますか?」「どこに問題がありますか?」「どう変えたいですか?」「理想のチーム像は?」「そうなるためにはどこからはじめましょうか?」といったように、相手に常に考える余白を持たせながらやり取りをしていたことが紹介されていました。このやりとりは保育でも通じるところです。特に「主体性」というのものは前回の齋藤学氏の「新しい学力」においても課題としてありましたし、保育においても「意欲を持たす」というようにその主体性の持たせ方やそのための関わりというもの、考え方はいつも課題になります。「コーチング」というのは何も管理者だけではなく、さまざまな人に共通するやり取りの形なのかもしれません。以前、「リーダーシップ」について話をさせてもらう機会がありました。「リーダー」とはどこか特別な人なイメージがありますが、実際のところは様々なところに「リーダーシップ」は求められるのです。それは先輩後輩かもしれません。もちろん、管理者と職員でもあります。学校や保育機関で言うと子どもたちと先生での関係でもリーダーシップはあります。このように「コーチング」を必要とする役割をもつことは様々なところで出てきます。