教育

今と過去

近年では「落ちこぼれ」と言われる子どもたちが問題になっていると沖田氏は言っています。確かに「ケーキの切れない非行少年」の著書を書いた宮口氏も、「境界知能」と言われる子どもたちが学校の中で勉強についていけず、非行に走っているということを紹介していました。では、寺子屋ではどうだったのでしょうか。沖田氏は寺子屋は「落ちこぼれ」といった問題が起きにくい学習形態をとっていたといっています。それはどういったところからそう見えてくるのでしょうか。

 

沖田氏はその理由は教場の机の配置がそれを物語っているといっています。寺子屋で使用された机は一般に天神机といい、男机と女机に分かれ、さらに寸法によって大・中・小に分かれていたといいます。大机は高さ八寸(24㎝)、幅四尺五寸(136㎝)、奥行一尺五寸(45㎝)で、小机は高さ八寸、幅二尺五寸(75㎝)、奥行一尺(30㎝)となっています。女机だと大・中・小の奥行は男机の大・中・小と同じで、幅は男机の小と同じ、高さは男机よりも一寸低い七寸(21㎝)となっています。そこに両袖には筆が落ちないように「筆反し」が施されています。そして、寺子屋は多くは床が板敷なので、庶民でも高い階層の子弟の場合、座布団などの敷物を用いていた。そういった場合、一般的な机よりも五分(1,5㎝)ほど高い机を使っていたようです。

 

渡部崋山(一七九三~一八四一)の「一掃百態」などには、当時の寺子屋の勉強している情景が得がかられていますが、そこでは、今の時代のように、教師が生徒の前に立ち、生徒が列をなして対面しているということはありませんでした。基本的には子どもたち同士がそれぞれの天神机を子ども同士対面にして座り、師匠は全員の寺子が見通せる場に位置しているのが一般的であったのです。つまり、寺子屋では今日見られる「一斉授業」の形を取っていなかったのです。

 

この一斉授業つまり、教師が黒板を用いて、教科書を使い、教室の生徒全員に教えるという授業形態はこの頃は行われていなかったのです。この授業形態は明治になってから、欧米の教授法として導入されてきます。さらに、この一斉授業の形態であると、等級別にクラスが編成され、能力別にクラスを編成されることは非常に効率的な方法であった。しかし、その反面、学問や教育の中で、経済効率を追求するようになると、学問や教育から人間形成の要素が希薄になり、社会や経済に還元できる知識や情報の獲得という実学的観点だけが肥大化してくる。つまり、本質となる「人間形成」や「人格形成」の育成というよりも、情報伝達の効率化が優先されているのではないかというのです。沖田氏は寺子屋の学習形態を見ることは、今日の教育形態の短所に気づかされるというのです。

 

これは私も同様に感じることです。今の学習形態で求められている「主体性」や「自発性」、「人格形成」といったものは実は今の教育形態では育てにくいということが見えてきます。一斉授業による能力の区分や等級を分けるというのは情報の伝達の効率化としては効率がいいのでしょうが、結局ヒトをロボットのように情報を取り入れることが目的になってしまうところがあるのでしょう。つまり、これからの時代においてAIやロボットが人間の仕事の代替を行っていく中において、今後、このような一斉授業で培われた能力というのは意味のなさないものに成ってしまうかもしれません。人間形成や人格形成といった本質的なものを育てることにおいて、過去の寺子屋などの学習体系を知ることはとても有意義なことであると感じます。

寺子屋の実態

寺子屋の学習形態は今のように国が管理するというものではなく、経営者によって多種多様であったそうです。江戸時代の寺子屋教育では、毎日の課業は「7ツ習ヒ」と称して、「五ツ時」(現在の午前七時半ごろ)から「八ツ時」(現在の午後二時半ごろ)までの七時間ほどが当てられました。そして、寺子屋から帰宅する下校時間を「御八ツ」と称して、子どもたちが空腹のまま帰宅して、夕食までの間に間食をとることになり、これが「おやつ」と呼ぶ習わしとなったそうです。しかし、すべての寺子屋が「八ツ時」まで授業をしたわけではないと言います。午後からは女性であれば琴や三絃(三味線)、裁縫などを師匠について学ぶこともありました。男子の場合は午前中の「手習い」つまり読み書きのほかに、午後からそろばんの教授を行うといった寺子屋もあったようです。そのほかにも、農村地帯の寺子屋では、農繁期になると「朝習い」と称して、早朝や夜に手習いの時間を当てたところもあったようです。

 

このように寺子屋のある地域の環境によっても、学習の時間は違っていたり、それは休日もまちまちでありました。基本的に休日は毎月の朔日(1日)と「五の日」(五日・十五日・二十五日)に、または六日に一度の割合で休日を設けていました。このほかにも五節句などの伝統的な祝日も寺子屋の休業日とされていて、これらの休業日を差し引くと、少ないところで二五~六十日、多いところで三〇〇日が寺子屋の授業日数であったということになります。

 

寺子屋の学習風景に関して、高井浩氏の「天保期、少年少女の教養形成過程の研究」には上州桐生で買次商を営む田村林兵衛の妻田村梶子が文化十二年(一八一五)に開業した「松声堂」に入門した八歳の姉のいとと四歳下の弟の元次郎をとおして書いています。そこでは100名ほどの八、九歳~十三、四歳までの男女を共学で教授していました。

 

ここでは入学のことを「登山」とよび、まだ寺院教育が残っているような寺子屋です。学習の中心は「手習い」であり、和歌や和文なども教授されていた。また、いとは女性であったこともあり、行儀作法のしつけがとりわけ厳格であったことが記されてあります。また、いとの生家に残されていたテキストを見ると、それらはいずれも師匠の梶子が筆写したものであったそうです。地方の寺子屋では、必ずしもテキストがそのまま教えられていたわけではなく、寺子の生活環境に応じて、師匠がテキストを編纂していたようです。

 

いとの弟の元次郎は九歳になった天保七年(一八三六)二月に松声堂に登山しました。登山日には親子ともども晴着を身にまとい、師匠の前にでて束脩(金や飲食物)を差し出し、入門の儀式を行いました。そして、その時、師匠直筆の「いろはにほへと」の四八文字が書かれた大判の折手本を与えられるのです。このとき使われていたテキストのリストを見ていくと「古今和歌集」を除いて、そのほとんどが生活中心の実用性を重んじたものでありました。

 

また、元次郎は入門した年の十月に素読塾にも入門します。そこでは漢詩文や四書(論語・孟子・大学・中庸)を学んでいました。これは元次郎が上州桐生の裕福な商家に生まれ、一定の社会階層の師弟には、寺子屋で学ぶ実用的な学習だけではなく、それを支える教養の習得にまで務めていたことが分かります。

 

まさに、その子どもの将来に向けて、それぞれにあった教育を行っているのです。このことについて沖田氏は「近年、学校での学習についていけないいわゆる『落ちこぼれ』と称される子どもたちが問題になっている。『落ちこぼれ』か『落ちこぼし』かは議論の分かれるところであるが、いつの時代にも、子どもたちの学習の発達度の違いと、能力の差異は当然存在したと考えられる」と言っています。

 

「落ちこぼれ」という言葉は非常に問題になりますし、やはりこの言葉を見ると「ケーキの切れない非行少年」の書籍を思い出します。寺子屋は学問を教えるところですが、その学問のあり方は常に社会に向けたものという明確な目標がはっきりしているように思います。このように見ていると、今求められている「多様性」というのはこの時代には保障されていたのだろうということが見えてきます。

教師の変化

 

寺子屋における師匠(教師)は父母の間においても信頼を得て、子どもに対して、しっかりとした躾や人としての学びを教えることが求められるものしてありました。こういった通念から一般的に教育は金銭に代えがたいものであり、人の師たるものは弟子の成長のみを喜びとし、「人爵なきも天爵の重きを以て自ら任じる」というように、社会的な地位は与えられずとも「教える」という行為は点が与えた行為であるために、清貧に甘んじてその職務を遂行することを理想とする観念が近世には成立したと言います。自分の生活を質素にし切り詰めてでも、弟子に物を伝えることをなによりの価値をもって向き合うという姿は今の我々にとっても見習わなければいけない部分はあるように思います。

 

そして、このような教師観は近代にも継承され、聖職者としての教師像が定着していくのです。その後、教育のすべてが国家によって管理されていく明治期になると教師の権威は国家によって保障されていきます。しかし、庶民の教師に対する尊崇の念は消え去るものではなかったようです。

 

その後、時代は大きく変容を見せていきます。1945年(昭和二〇)教師は聖職者か労働者かという議論が盛んに行われるました。その議論の背景には日教組(日本教職員組合…1947年に結成された教職員の労働組合)と文部省(現在の文部科学省)の激しい対立がありました。やがて、国民経済が豊かになり、高学歴時代を迎えると、国民の関心事はそうした議論を越えて、激化する受験戦争に勝利するための学習を提供する教育を求めるようになったのです。

 

この時代から、福沢諭吉が始めた「授業料」が学びの対価として支払われることが当たり前になり、教師は教えることで利益を得て、学習者は学びによって利益を得るという教育を利益とした「売り買いの世界」へと変貌していったのです。

 

このことについて沖田氏はこう警鐘を鳴らしています「『教える』または『まなぶ』という行為が、単なる情報の移動にしかすぎなくなると、将来は人間が介在せずにコンピューターやテレビで行われる授受が主流になるかもしれません。しかし、教育の原点が『人との交わり』であるというのであれば、現代社会に生きる私たちの教育は明らかに寺子屋時代の子弟関係からはるかに退化したところに来てしまったということが出来る」と言っており、寺子屋の師弟関係に教育の原型を求めようとするのは教育の原点回帰への施行を意味していると言っています。

 

このことに関しては私も同感です。よく保育の中で職員に注意するときに「保育という『仕事』をするのではなく、我々は『保育』をしなければいけない」と話しています。保育や教育は仕事のように「こなす」ような職業ではないと思っています。毎年同じようなカリキュラムを繰り返し行うのが保育や教育はまさに「人との教え」を教えるということよりも「退化」した保育になっているように思います。これからの未来において、職業の半分はAIによって無くなると言われています。しかし、保育者は人との関わりが多い職業であり、そういった意味では無くならないと言われています。しかし、「これまでそうだったから」という「合理的にhow-toで行われる保育」であるとAIにとって代わられるかもしれません。事実、小学校の教員は無くなると言われています。本来の意味での「人との教え」という部分がこれからの時代いかに意味のあるものになるのか。こういった時代を通じた教育を学ぶことは教育の原点やあるべき姿を改めて見直す機会になります。

罰と責任

寺子屋の指導においては、厳しい指導もあり、体罰などの「教育的指導」というものもありました。現在の時代ではきっと問題になるでしょうね。では、どういった時にこういった罰というものが行われたのでしょうか。それは「不品行にして他人に妨害を加ふるもの」「怠惰にして学業未熟なるもの」「喧嘩争論するもの」「他人を欺き若しくは盗みするもの」という「罰」があげられています。いずれも子どもたちが成長したときに守るべき最低限度の社会性に最大の注意がむけられ、それを犯した時に罰が加えられていたようです。

 

これらの罪を犯したとき、最も軽いのは叱責または説諭です。つまり、「説教」ですね。次に「留置」です。これは放課後居残りを命じて習字等を課したりします。「補習」のようなものでしょうか。そして、「謹慎」これは師匠のかたわらで正座を命じました。ほかにも教場や便所などの掃除を命じることもありました。体罰としては、右手に線香、左手に水を満たした茶碗をもたせ正座をさせたり、竹竿で手足を打つ「鞭撻」(べんたつ)などがあります。しかし、師匠が手で子どもを殴打することはなく、ほとんどの場合、厚紙で扇子をつくり、打つ音に比べて痛みを感じさせないような工夫がされていたそうです。もし、手におえない子どもであれば、破門を命じて追放することもあったようです。

 

武家の子どもの教育においては体罰は好ましくはなかったようです。それは誇りを重んじる武家社会にあって、武士としての尊厳を否定するような体罰は、武士の尊厳を否定するものとして考えられました。こういった教育的指導としての「罰」は教育的意味をもつために、子どもと師匠との信頼関係において確立されていなければならないとされていました。

 

このようにしてみると、「体罰」とはいえ、極端な殴打が当たり前のようにあったわけではないようです。現在において「体罰」は問題になることが多々あります。どうも最近の体罰のニュースを見ていると先生と子どもの信頼関係というよりは、先生の一方的な感情をぶつけているようにすら見えてきます。また、寺子屋においてでも殴打するといった体罰はあまり好まれなかったのですね。「ハリセン」が寺子屋での子どもに与える罰の中にあったというのも驚かされます。音のわりに痛みが少ないというのは「なるほど」と考えさせられました。それと同時に「破門」という手段が最終的にあるというのも大きな意味合いがあるのだろうと思います。

 

「破門」が行われるというのは最大級の罰であるというのが分かります。しかし、それが罰でありえるというのは、やはり子どもや親にとって寺子屋で勉強することが「自己責任」であるということが言えるのでしょう。最近ではこの生徒の「自己責任」という認識があまり強く言われていないような気がします。以前、旭川での中学生が自殺したニュースがありましたが、そこで校長は「加害者にも人生がある」というように被害者よりも加害者を守るような発言がありました。確かに「人権」という意味では考慮されなければいけないところはあるのはわかります。しかし、だからといって、「責任がない」とは言い切れないのではないかというのも感じます。義務教育や少年法、そのどれもが「加害者の子どもたちを守る」ということや「更生を望む」ものであるのはわかるのですが、そこにある「責任」はやはり伝えることも重要なことであるように思います。

 

そして、それは子ども自身が自身について感じて理解しなければいけないように思います。

教師と生徒

次に寺子屋の就学時期です。これには日本のそもそもの子どもへの考え方が色濃く影響していることを沖田さんは言っています。日本には子どもについて「7歳までは神の内」という言葉があるそうです。このころは今とは違い乳幼児の死亡率というのは非常に高かったと言われています。そのため、子どもがある程度自力で生きていける力を身につけるまでは、生きるも死ぬもすべて人間の力が及ばない「神の内」に委ねられているという考え方が支配的であったと沖田さんは言っています。これは欧米社会における「子どもは未熟な大人」という児童観とは異なるようで、ある一定の年齢に達するまで、なるべく人間の手を加えないで、子どもを自然の状態においてその成長を見守るという子ども観が日本にはあったのです。

 

現在も日本の各地にある祭りの中には子どもを中心としたお祭りが多く残っており、それは子どもが大人に比べて神に近い存在と考えられていたからです。子どもたちは成長するにしたがって、紙の領域から人間の領域へと近づいてくるのです。それを「小児は3歳で『髪置』、男子は5歳で『袴着』、女子は7歳で『帯解』」という年祝いの行事を通して成長の節目としました。これが現在で言う「七五三」の起源だと言われています。武家社会では男子は5歳で就学年令とする風習もあったが、この年祝いが終わる7~8歳頃が寺子屋の就学年令であったようです。

 

この頃の入門は、今のように金銭のよって教育関係を結ぶといった契約ではなく、あくまでも「子弟の礼」をもって教育関係が成立するという形態でした。その後、5~6年間、厳しい封建の世を生き抜く知識と智恵、人間関係に関する礼儀作法や生活習慣などを身につけていきます。

 

「七尺下がって師の影をふまず」というのは、寺子屋で用いられたテキストの一つである『童子教』の一節が紹介されていました。この一節を読んでどう感じるのでしょうか。沖田さんは「教育が納税・兵役とならんで国民の三大義務として国家の制度によってつくられ、国民に強制されてきたときに、国家の権威を背景に新たな『教師像』が形成された。しかし、これらの権威と、庶民の間で自然発生的に登場し、学ぶ側から作られた権威では大きく異なる」と言われています。

 

師匠つまり、当時の先生と生徒との関係は今のような形としての関係ではなく、あくまで師と弟子といった信頼関係のうえに確立されたものであったということが伺えます。そのため、当時の寺子屋によって師匠はひとりであり、視床の個性が寺子に大きな影響を及ぼしていたのです。例えば「筆小塚」などは、師匠が没したのち、その教えを受けた弟子たちが師匠を偲んでつくったものもありました。

 

このように現在の教育現場とは異なり、寺子屋における先生(師匠)と生徒(弟子)の関係は今の制度としての関係性とはまた違った関係性であったことがうかがえます。確かに「人としての教え」まで教えられる寺子屋においては、「先生」というもののあり方は大きく違っているでしょうね。