教育

教育の必要性

民主主義は、ヘーゲルの「自由の相互承認」とルソーの「一般意思」(みんなの意見を持ち寄り、みんなの利益になる合意)によって理解できます。そして、このような民主主義的なあり方を学ぶ場こそ、公教育、すなわち学校教育の本質である、と苫野先生は話しています。

 

しかし、現代の学校現場では、不登校やいじめ、体罰、小一プロブレム、落ちこぼれ、吹きこぼれなど、さまざまな問題が見られます。これらの問題を思うと子どもたちが自由に学べているようには思えません。苫野先生によれば、こうした問題は子どもや時代のせいではなく、学校システム自体に原因があると言われています。現行の学校制度は150年間ほとんど変わっておらず、「みんなで同じことを、同じペースで、同じ方法で学び、出来合いの答えを考えるベルトコンベア式のシステム」と表現されます。これは大量生産の手法がそのまま教育に持ち込まれたものであり、私も共感します。

 

そもそも、現在の小学校教育は多子社会の中で成立してきた制度です。そのため、民主主義的な学びの本質は抜け落ち、成績や結果に重きが置かれるシステムになっていました。その中で、多子社会では、学校外の兄弟関係や地域の子ども社会が、自然と民主的な学びの環境を補っていたと考えられます。しかし、少子化が進む中でシステムを変えなかったため、現在のような現場の問題が顕在化してきたのだと考えられます。

 

乳幼児期の教育環境でも同様です。現代では、子ども同士の関わりや教え合い、遊びの展開、みんなで考える体験を意図的に作り出す必要があります。つまり、多世代や年齢の異なる子ども同士が関わる環境を設けることが求められ、これが「協同的な学び」の本質です。

 

さらに、学習プロセスも見直す必要があります。吹きこぼれや落ちこぼれは、子どもに問題があるのではなく、同質性を重視するカリキュラムによって生じています。私は最近よく、「義務教育の『義務』が、義務教育期間に習得することを義務とするのではなく、在籍することの義務になっていないか」と感じます。本来の義務は「学ぶべきことを習得すること」であるはずです。そのため、進度にこだわらず、子どもの発達や理解に応じた個別最適化された学習が求められます。

 

現在、学校教育では「協同的な学び」とともに「個別最適化学習」が進められています。これにより現場の問題は改善される可能性があります。しかし、指導要領や受験制度、教科書、そして社会一般の理解不足が大きな障壁となっています。特に日本では「留年=落ちこぼれ」という見方が根強く、教育の本来の目的や目指す子ども像について、保育や教育に関わる者がしっかり意識を持つことが重要です。

 

苫野先生の講演を通して、教育の本質や課題を理解し、それを現場に発信する重要性を改めて感じました。

公教育と民主主義

「教育の基本は自ら考える力」をつけるために必要であると、苫野先生は話されていました。では、「そもそも学校とは何のためにあるのか?」ということですが、この点についても面白い話をされています。それは、

「公教育は人類1万年の戦争の果てに見いだされた革命的発明である」

というものです。

歴史的に見ても、「人間の歴史は戦争の歴史」とも言われるように、長らく争いが絶えず行われてきました。その要因となるのは、奴隷や貴族などの身分制度や差別、宗教によるもの、領土の取り合いなどが主であり、剣闘士や奴隷、処刑を民衆にさらすなど、「死」というものが身近なものであるどころか、娯楽としてもあったといえます。日本でも「さらし首」や「はりつけ」「市中引き回し」といった拷問があったことを考えると、今ではとても見るに堪えない行為も、当時は当たり前に行われていました。

しかし、現代では当然のことながら、こういった殺し合いを見ることもなく、身分というものもありません。つまり、「人は対等」という倫理観が今の時代では当たり前になっています。このことこそが学校教育や教育の成果であると、苫野先生は話していました。そして、その感覚は「民主主義の発明」によってもたらされているといえます。


この民主主義の根本原理について、苫野先生はG.W.F.ヘーゲル(1770~1831)の言葉を引用して説明しています。その根本原理は「自由の相互承認」であり、「お互いを対等に『自由』な存在として認め合うことをルールとした社会」である、といいます。このような「みんな同じ」という感覚を、公教育によって持てるようにしていると話しています。

ただし、最近はこの民主主義の根本原理が崩壊の危機にあるとも指摘しています。政治においてポピュリズムが各国で起き始めており、お互いを認め合うよりも排他的で自己中心的な動きが目立ってきています。

さらに、民主主義はヘーゲルの「自由の相互承認」とルソーの「一般意思」(みんなの意見を持ち寄って見いだし、みんなの利益になる合意)によって、その本質を理解できると苫野先生は話しています。ここで重要なのは「一般意思」の解釈です。「意見を持ち寄って見いだし、みんなの利益になる合意」を作るという点が強調されています。これは重要なことで、現在一般的に行われる「多数決」は、少数の考えを排除してしまう面があるため、必ずしも民主主義の本質的な決め方とはいえません。本質的な民主主義とは、多数決では排除される少数派の人たちも納得できる合意を目指すことです。もし、多数決を用いる場合には、決める前に「多数決で決める」と全員が合意した上で行うことが重要になります。


このような民主主義としてのあり方を学ぶ場こそが、公教育、すなわち学校教育の本質であると、苫野先生は話していました。私もこの考えに同感です。従来の先生主導の教育は、必ずしも民主的とはいえませんし、そのような力を培う場でもありません。また、成績や学力、学歴といった評価は、本質から考えると周辺的なものに感じられます。

教育の本質とは

苫野先生は講演の中でまず、「教育の基本は何か?」と問いかけられ、その答えとして「教育の基本は自ら考える力をつけること」だと述べられていました。

その根拠として、フランスの哲学者ジャン=ジャック・ルソー(1712~1778)の言葉を紹介されました。

「『あれしなさい、これしなさい、あれするな、これするな』と言われて育った子どもは、そのうち『息をしなさい』と言われなければ呼吸さえしなくなるだろう」(著書『エミール』より)

極端に思える表現ですが、昨今の「指示待ち人間」と言われる社会人や若者の様子を見ると、決して人ごととは言えないように思えます。つまり、将来私たちが求める人材や社会を担っていく人材を考える上で、この視点は重要です。ここにこそ、苫野先生が語られた「教育の基本は自ら考える力を育てる」という言葉の意義があるのでしょう。そして、そのために「教育の基本中の基本は『信頼して、任せて、待って、支える』」と強調されました。これは藤森メソッド(見守る保育)における藤森先生の考え方とも重なります。

また、ルソーは次のようにも述べています。

「大人は子どもを道徳的にしようと、規律を与え、叱り、説教する。しかしそれは、子どもをかえって不道徳にすることになる」

大人の一方的な規律は、子どもを嘘つきにしたり、他者を罰する態度(つまり、注意されすぎた子どもは友達にも同じように注意し、思いやりのない関係をつくる)につながります。だからこそ、子どもは「たっぷりと自分が尊重される」ことによって、初めて他者を尊重できるようになるのです。

ただし注意が必要なのは、この「尊重」という言葉の解釈です。保育の現場では「子どものいいなりになること」や「子どもが言うからと過度に寄り添うこと」を尊重と勘違いしてしまう場合があります。しかし、それは本来の意味での「尊重」ではありません。

「尊重」とは 子どもを一人の人として扱うこと です。そのためには子どもの意見にしっかり耳を傾け、大人と意見が違うときにはきちんと話し合い、互いに納得できる答えを考えることが大切です。奔放に育てすぎることも、一方的に規律を押し付けることも、いずれも子どもを「他罰的な人間」にしてしまう危険があります。

人間は原始から社会を形成して生き延びてきました。社会を形成することは人間の重要な特徴であり、その中で他者と自分とのバランスをとることが「道徳」につながります。つまり、道徳はルールとして外から与えられるものではなく、人とのやり取りの中で自然に形成されていくものなのです。

しかし現代では、「ルールをつくらなければ守れない」という発想に象徴されるように、自律よりも他律に依存する傾向が強まっているように感じます。それでも一方で、公教育の存在があることにより、私たちは人類史上大きなメリットを享受できる時代に生きている、と苫野先生は指摘されていました。

教育の哲学

先日、熊本大学の苫野先生のご講演を聴く機会がありました。今回は幼稚園のある門真市の教職員フォーラムの中での講演でしたが、私としては改めて考えさせられる機会となったため、ここでまとめてみようと思います。

まず、苫野先生はさまざまな本を執筆されている哲学者・教育者であり、熊本大学での勤務だけでなく、経済産業省産業構造審議会委員など、さまざまな場でご活躍されています。そのため、話の前半は哲学の話でした。ここが特に私にとって興味深いところです。というのも、私が学ぶ藤森メソッド(見守る保育)の藤森先生もよく「保育は哲学で考えるべき」とおっしゃるからです。私もその考えに賛同しており、教育や保育においては「何のために行うのか」を考えて取り組むべきだと思っています。

最近では価値観も少しずつ変わってきているのだと思いますが、かつては「いい大学に入り、いい会社に就職すること」が理想とされ、それに伴い成績や学歴が重視されてきました。「頭がいい=勉強ができる」という考え方や、成績や学歴で人を判断する風潮があったように思います。もちろん、生きていく上で必要なステータスであるとは思いますが、だからといって「幸せか」と問われると、必ずしもそうではないように思います。

また、これからの社会では、AIの台頭や労働人口の減少、少子高齢化、海外からの労働者によるグローバル化など、これまでとは全く異なる状況が予想されます。こうした中で、旧態依然とした教育は遅れを伴うと考えられます。吹きこぼしや落ちこぼれ、若年の自殺者、引きこもり、不登校、SNSの問題といった課題がある一方で、自己肯定感や自尊感情の低さ、コミュニケーション能力の低下も指摘されます。いくら勉強ができて成績が良くても、さまざまな問題によって学校生活や社会生活で活躍できないことが多々起きています。

これまでのような、知識を暗記して覚える学びは、今後AIによって代替される可能性があります。実際、大学などでもAIが利用されることがあります。それを遠ざけるのではなく、今後は「どう使っていくか」が重要なスキルになってくるでしょう。そうなると、これまでの学習の価値観も大きく変わると思います。だからこそ、「なぜ保育が必要か」「なぜ教育が必要か」という本質を追求することが重要です。苫野先生は「哲学とはそもそも本質を考え抜き、それにまつわる問題について考えること」と話されていました。

では、良い保育や教育とはどのようなものでしょうか。苫野先生は、教育が変わる時代であったり、AIによって知識の習得が個人でも可能になったとしても、「公教育は絶対に必要だ」と話されていました。私もその考えに賛同しますが、その根拠はどこにあるのでしょうか。

運動と集中力

集中力についても、運動は少なからず大きな影響を与えると言えるようです。集中力を調べる際、「選択的注意」を調べるエリクセン・フランカー課題が行われました。選択的注意というのはたとえば、喫茶店で人と話している時を想像するとわかりやすいように思います。騒がしい喫茶店で話をしていても、相手の声が聞こえると思います。それは騒がしい喫茶店の音を人は遮断し、相手の声に集中しているからでいる芸当です。これができないと、いろいろな音に反応してしまい、相手の声が聞こえなかったり集中できなかったりします。ADHDの人は割とそういった状態にあるようです。いろいろなところが気になってしまい、集中できないのです。

 

このように、この「選択的注意」をするテストをする中で、被験者が運動をすると選択的注意力と集中力が改善したようです。MRIを通してテストを受けている時に脳を観察していると、頭頂葉と前頭葉が活発に動いていたことがわかりました。この領域は意識を集中し、その状態を維持する機能を司る部分です。なお、このテストを行う際、健康状況も調べたのですが、健康状態が万全な人の方がテストもうまくこなせ、選択的注意力が優れていたことがわかりました。では、「健康な人が選択的注意力が高い」というと、必ずしもそうとはいえないようです。なぜなら、それは運動によって体調が改善して集中力が高まったというより、もともと集中力が高い人がたまたま運動を楽しむ傾向にあり、そのため健康だった傾向があるともいえるからです。

 

そのため、今度は新たな被験者を通して、運動により健康になったことで選択的周囲力が改善するか調べることが始まりました。1つのグループはウォーキングを行い、2つめはヨガやストレッチといった心拍数が増えない負荷のかからない運動を行います。どちらのグループの同じ活動頻度と時間をもうけ半年間続けました。その後、選択低注意力を改善しているか、エリクセン・フランカー課題を行いました。するとウォーキングのグループはテスト課題をうまくこなし、選択的注意力が改善し、前頭葉と頭頂葉が活発化しました。この傾向はウォーキングのグループで見られたのです。つまり、習慣的にウォーキングのような簡単な活動を半年続けるだけで、脳が変わり、選択的注意力が高まるということ証明されたのです。

 

運動は体を健康的にしてくれることやストレスをコントロールするだけではなく、脳の機能にまで影響がみられるのです。注意力が改善したのも、運動によって前頭葉の細胞同士のつながりの数が増えたことが考えられるようです。そのため、情報量が多いような環境になったときに脳が集中力の機能を発揮し、周囲の不要な情報を的確にふるいにかけたというのです。この研究によって、研究チームは「脳の働きが活発になると可塑性が促進され、周囲の環境に対処する注意能力も高まる」という結果に確固たる結論をもったそうです。