社会

これからの教育、教師①

AIの普及により、さまざまな仕事がデジタルテクノロジーにとって代わられるという話はこれまでにも紹介してきました。65%もの仕事が機械に変わられ、人間が担う仕事は無くなっていきます。だからこそ、これからの人材は今ある仕事に就くのではなく、新しい仕事を作り出していく力が必要になってきます。では、「教育」というものはどうなっていくのでしょうか。教員や保育士は無くなっていくのでしょうか。現在でもアプリによるネット学習なのがありますが、もしそれで学習ができるのであれば、学校の授業自体もなくなっていくのでしょうか。

 

アンドレアス氏は「デジタルテクノロジーが教員を不要にするという主張を聞いても、全く心配しない」といっています。そして、「教育の中心は人間同士の関係性であり、教育は最も永続的な社会活動の一つと考えられてきた。生涯を通じて学習者を育成し、支援する人々への需要は、ますます増加していくだろう」と続けています。教育とは人づくりなのです。そして、それはあくまで社会に向かった力でもあるのです。テストの点数が良いことでも、成績が良くなることでもないのです。アンドレアス氏はこの本の中でも「生涯学習者」という言葉を何度も出しています。つまり、社会に出た後でも、さまざまなところから学び、それを生かしていく姿勢の大切さがこれからの時代には必要だというのです。そのため、学ぶ姿勢を支援していくのが教育なのです。もちろん、デジタルテクノロジーの発達によって現在教員が担っている多くの仕事は代替され、とって代わられていくものもあるでしょう。実際、日常的な管理や事務作業はデジタル化によって変わってきています。

 

ただ、問題があります。これまでの教育のようにすべての生徒に同じ授業を行い、すべての生徒に同じように指導するような形態で、何年後も後に結果が満足できるものでないと分かったら生徒のやる気や能力のせいにしてきたような教育現場はこれからは通用しなくなるというのです。アンドレアス氏は「デジタルテクノロジーは、生徒が学ぶ内容、学ぶ方法、学ぶ場所、学ぶ時期について、今までにない方法を可能にする。そして、優れた教員と教育の機会を充実し、普及していくだろう」そして、「教員はこれまでのように知識を伝えるといった教育から、知識の共創者、コーチ、メンター、評価者として働くために、テクノロジーを受け入れる必要がある」と言っています。気になるワードは「知識の共創者やコーチ」といったワードです。指導者といった言葉が出てきません。それはどういったことなのでしょうか。どのように教育現場は変わっていくのでしょうか。

 

アンドレアス氏は「最新のデジタル学習システムでは、単に科学を教えるためだけではなく、勉強法や科学の学び方、興味を引き付ける課題と退屈で困難な問題を見分けながら教えることができる。」というように子どもに合わせて、その子ども個人に合わせた学び方の提案ができたり、バーチャル実験室で単に学ぶだけではなく、実験を通じた設計、実行、学習を可能うにすることもできるのです。テクノロジーは教科書以外の様々な方法、そして、時間や空間に囚われない専門的な教材も利用可能にするのです。

変革と適度なバランス

新しい21世紀型のカリキュラムは今とは大きく異なってくることが予想されていますが、なかなかそれが進んでいるようには思えません。教育の変革には当然それを妨げる反対勢力が同じくらいあるからです。

 

このことについてアンドレアス氏は保護者については「子どもがテストで不合格になることを心配する保護者は、より少ない労力でより多くの成果を約束するいかなる方法も信用しないかもしれない。」といっています。つまり、テストの点数ばかり気にして、将来に必要な力に目を向けないことがありえてしまい、なかなか変革が起こしにくい。教員に対しては「教員と組合は、社会情動的スキルのような主観的な内容を教えることを求められれば、彼らが教える内容だけでなく、彼らが誰であるかについても評価されなくなると心配するかもしれない。」これは子どもたちが主観的に動くことで、先生が必要なくなるのではないか、教科を教えるというのはある意味で仕事をはっきりと与えられているということともいえ、その存在価値を消されてしまうのではないかといった懸念。学校管理者や政策立案者に対しては「成功の指標が簡単に定量化できる内容面での知識から、生徒が卒業するまで完全にはわからない人間の特性に変わると、もはや学校や学校システムを管理できなくなると感じるかもしれない」といっています。これは現在のセンター試験のマーク―シートを記述式にすることに対して、「どう評価するのか。採点者によって変わるのではないか」といった議論が起きていることから見ても見えてきます。

 

こういった懸念に対処するには、現代のカリキュラムの設計と評価に対する大胆な挑戦が必要であり、卓越したリーダーシップが必要であるとアンドレアス氏は言っています。そして、それは理解の深さを優先し、学習への幅広い関与を促すために、地域社会全体から研究計画への理解を得ることを含んでいます。

 

では、変革することにおいては、どういったところに目を向け、考えていかなければいけないのでしょうか。新しい内容を追加することは、教育システムが新たな要求に対応していることを示す簡単な方法ですが、内容を削除することは難しいのです。これは日本でもありました。なかなか新しい教育形態と今ある形態との適度なバランスを持たせるのは難しいのです。

 

このことについてアンドレアス氏は、昨今のプログラミングの授業に関しても話に出しています。たとえば、テクノロジーが進んだ世界における困った質問は、生徒がプログラミングを学ぶべきかどうかが議論に上がりますが、今日の問題を解決するために、今日の技術を生徒に教えるにはリスクがあるのです。なぜなのか、それは生徒が卒業するまでに学んだ技術は陳腐化するかもしれないからです。このようにスピード感のある今の時代において、学ぶことや学び方は大きく変わらざるを得ない時代なのです。そして、保育や教育の求める視点というのも従来のものよりも大きく変わっていかなければいけないのかもしれません。

人を知る

アンドレアス氏は「現代教育におけるもっとも困難な課題は、どのようにして教育に価値観を組み込むかである」といっています。それは暗黙の願望から明示的な教育目標や実践へと移行し、地域社会が「できる範囲でやります」という限定的なものから、信頼や社会的な結びつきと希望を生み出す持続可能なものへと変わるべきであるということがこれからの社会においては求められるべきだからです。

 

このことについてニューヨークタイムズのコラムニスト トーマス・フリードマン氏は「氷山のように強固で恒久であるように見えた観点、伝統、社会通念が、今では一世代のうちに突然溶けてしまう」と指摘しています。さらに「社会が人々の下に土台を築かなければ、どんなに自滅的であろうとも、多くの人々が壁を築こうとするだろう」とも指摘しています。

 

この言葉の意味することはどういったことでしょうか。私はこの言葉を聞いて、いくら技術が進歩し、便利な世の中になっても、それを使う人間がうまく使いこなせなければかえって人々に不利益が被る場合があるということなのではないかと指摘しているように思います。これは昨今のSNSを見ていると感じます。ソーシャルネットワークというのは使い方によっては非常に便利であり、情報を共有することにおいては便利な技術です。しかし、その一方で、SNSを基にしたイジメやそれに応じて自殺者がでたり、プライバシーが侵害されたりと様々な問題が起きているのも事実です。なぜうまく使いこなせないのでしょうか。なぜ、思いやりのある使い方ができないのでしょうか。アンドレアス氏は「信頼や社会的な結びつきと希望を生み出す持続可能なものと変わるべき」といっています。今の時代、この信頼や社会的な結びつきが希薄になってきている時代です。こういったことについて、どう保育や教育は変わっていくべきなのでしょうか。

 

アンドレアス氏は東日本大震災のあと、岩手県に訪問したとき感じた感銘を語っています。その時、最も感動的だったのは日本の教員であったそうです。日本の教員は仕事とプライベートとの間に協会がないと言われています。教員は、生徒の知的な発達だけでなく、学校や家庭での社会情動的な生活にも深い責任を感じています。しかし、この地震において教員は物質的および心理的な支援がほとんどないまま、信じられないほどの量の新たな責任を引き受けていたとアンドレアス氏は言っています。多くの教員が生徒を救うために命を危険にさらしたのです。こういった教員の姿に深い感銘を受けたと言っています。

 

アンドレアス氏は「重要なのは、技術の進歩を先取りしたければ、私たち人類ならではの特性を見つけ、改善しなければならないということである。それは私たちがコンピューターを通じて生み出した能力を補完するものである、競合するものではない」といっています。

 

技術は使うためにあるのです。そのため、コンピューターのように知識を暗記することが教育なのでしょうか。大切なのはコンピューターのようなデジタル技術を使って「何をするか」が重要であり、そのためには人は人間を知らなければいけないのだと思います。

情報

今の時代、さまざまなところから情報を入手することができます。インターネットやSNSはこれまでのPCによらず、スマートフォンやタブレット端末などの登場でより手軽に情報を取るツールが出てきました。テクノロジーの進化は情報の検索とアクセスを可能にしています。それに対して私たちの知識が増えるほど、深い理解と深く理解する能力が重要となるとアンドレアス氏は言います。理解には、知識と情報、概念とアイデア、実践的なスキルと直観を含みます。しかし、基本的には、学習者の状況にあった方法で、それらを結びつけること、それらを統合して活用することが理解には必要になります。また、それと同時に過去の出来事、すなわち社会が直面した課題、発見された解決策、長年にわたって築かれ、守られてきた価値観を理解して、私たちの希望を未来に伝える能力も必要になってきます。

 

今の時代、またはこれから直面する時代は「ポスト真実」の時代とアンドレアス氏は表現していますが、その時代は情報の質よりも量に価値があるように見えると言っています。「正しいと主張している」が実際には根拠のない主張が、事実として受け入れられることがあるというのです。自分の考えと近しい人たちが集まり、自分たちの考え方を増幅するソーシャルメディア反響室を作り出し、私たちの信念を変えるかもしれない反対意見の情報を伝えず、私たちを隔離する。こういったバーチャルバブルは主張を均質化し、社会を偏ったものにするのです。かつては、「陰口」と言われたものが、SNSやインターネットによって増幅されるというのです。これは昨今のニュースを見ていてもとても感じます。これまで、それほどまで言われていなかった小さな事件が大きな事件として捉えられていたり、最近のテレビでもよく言われる「コンプライアンス」というのがとても厳しい時代になっているのはこういったソーシャルメディアの仕組みによって起きているのです。

 

人の風評というのは昔からあり、今でもその本質は変わっていません。しかし、ツールの発展とともに、噂や風評というもの自体も多種多様に変化しています。インターネットでも、商品紹介だけではなく「口コミ」の評価が重要になっていたと、挙げればきりがないほど今の時代、情報の多さは過去とは比べものにならないくらい膨大になっています。そして、これからはそういった時代の中でいきていかなければいけません。このことを踏まえ、そして予測して教育や保育を行っていかなければいけないのです。

 

アンドレアス氏はこう言っています。「人々を情報から守るのではなく、受け取った情報を扱う人々の能力を強化するほうが有益かもしれない」

社会的背景

アンドレアス氏は国際テストを各国が行い他国の教育システムと比較してどのような成果を上げているかを見ていく中で、多くの間違った仮定を明らかにしたと言っています。

一つ目は「貧しい子どもは成績が悪い」です。これは以前、ポール・タフ氏の「成功する子・失敗する子」でも触れられていました。そして、貧困層の所得の子どもたちは成績が悪いということが言われていましたが、アンドレアス氏がいうにはPISAの結果においては、社会集団の良し悪しが、そのまま学校の成績や日常生活に直接結びつくとは限らないと言っています。

 

この内容には二つの側面があり、一方はすべてのPISA参加国で学習成果と生徒や学校の社会的背景には関係が見られるという点。もう一方は、社会的背景と学習成果との質との関係は教育システムで大きく異なるということです。確かに社会的背景が学習成果と大きな関わりがあるのは確かです。しかし、それは教育システム次第では恵まれない生徒だからといって、必ずしも学習成果も悪いわけではなかったのです。これは2012年のPISAの調査で、上海の15歳で恵まれない10%の生徒が、アメリカや他国の最も恵まれた10%の生徒よりも優れた数学リテラシーの成果を示したことからも見えてきます。このことはほかの国においても同様のことが見えました。

 

すべての国に優秀な生徒はいるが、すべての生徒が優秀な国はないというのです。そして、恵まれない生徒が成功する国や地域は社会的不平等の緩和に成功しているといっています。教育による大きな公平性の達成は、社会正義として重要であるだけではなく、より効率的に資源を使用し、すべての人々が社会に貢献できるようにするための方法でもあるのです。たとえば、最も恵まれない学校に、恵まれない生徒を集め、恵まれた学校管理職をそこに集め、適切な学習指導方法を用いるようにして公平性を持つように進めるのです。こういった国はいくつかあるそうです。このように、最も弱い子どもたちをどのように教育するかは、社会の在り方を反映しています。このことに関しては逆もあります。

 

アメリカの批評家は「恵まれない生徒が非常に多いアメリカでは、教育の国際比較を行う意味がない」と主張しますが、他国よりも社会経済的利点を持っていたり、ほとんどの国に比べ裕福であり、教育にも予算を投じています。しかし、なぜ批評家は「恵まれない生徒が多いというのでしょうか」アメリカでは社会経済的に恵まれないことが成績に大きな影響を与えいるそうです。そして、社会経済的背景による学習成果の違いが他のOECD加盟国よりも大きいのです。その結果、入学する学校ごとの成果の格差が人生の機会の不平等につながり、社会的流動性を低下させる悪循環につながっているのです。社会経済的背景がそのまま学習の格差に出てしまう社会の在り方があるのです。前者と後者では、子どもに対する考え方が違うというのが分かります。

 

このことが、学習成果と生徒と学校の社会経済的背景に見られる。一方で、教育システムにより、社会的背景と学習成果との質との関係は教育システムで大きく異なるという一見矛盾するかのような結果を生んでいるのです。

 

恵まれていない子どもたちの中には力はあってもそれが発揮できるほどの環境がないということは、結局のところ環境によって格差が大きくなるというのが言えます。社会流動性を持たせるために義務教育があるのですが、果たして今日本は今回の内容のように「公平性」は保たれているのでしょうか。もしかすると、このコロナ禍において起きた遠隔での授業により、多くの生徒が優秀な先生の授業を聞けるようになるのだとしたら、公平性はより保たれることになるのかもしれませんね。