社会

社会面での変化

OECDはこれからの社会における様々な予測をしています。そのなかで、これから必要とされるコンピテンシーやそれを養うカリキュラムについての議論をしています。では、OECDはどのような社会の変化になると考えているのでしょうか。これには大きく分けて3つの変化があるといっています。それは①社会における変化 ②経済面での変化 ③個人における変化 と考えています。

 

まず、そのうちの一つ。「社会における変化」ですが、これには5つの変化が挙げられています。一つ目は「移民の変化」です。世界的に見て、過去のデータを見ると中程度の所得水準の国から、より所得水準の高い国への人口移動が見られています。そのため、その国の言語ではなく、他の言語を使う生徒に向けた教育や、教育上の支援が必要になってきています。そのため、こういった様々なバックグラウンドをもつ生徒に対する支援を学校で受け入れていくことが課題になってきています。日本においても、少子高齢化によって、労働人口が少なくなっていくなかで、外国人の意味を受け入れることが見通されています。そのため、日本においても、外国人移民に関する課題は出てきます。また、その場合、移民の生徒の方が、その国で育った生徒よりも成績のスコアが低い割合が出ています。それと同時に、第一世代の移民の生徒の方が、第二世代の移民の生徒よりもスコアは低くなっているということも言えるようです。つまり、その国に長くいる子どもの方がスコアが伸びる傾向にあります。

 

次に、「地球環境の変化」です。温室効果ガスによる地球の変化は社会にも大きな影響を与えます。平均気温が2,3度上がるだけで、激しい水不足の発生、農業生産の減少、栄養失調、生物種の大量絶滅などにつながる可能性があるといわれています。しかし過去20年を見ると世界全体で温室効果ガスは増加の一途をたどっていますし、OECD非加盟国においては今なお増加傾向が続いています。こういった現状の中、温室効果ガスが出る化石燃料の使用の抑制、風力発電や地熱発電などの代替を進めていく必要があるのです。

 

次に「自然災害の増加」です。これは台風や洪水などのものもありますが、環太平洋地域においては地震が重大な問題を引き起こしている。たとえば、東日本大震災においては経済的に被害でいうと16.9兆円と試算されており、これはGDPの4%にも相当します。世界的には干ばつや火山の噴火、竜巻など様々な自然災害による被害が想定されています。これには前述にもあったように地球温暖化が進んだことによる平均気温の上昇が原因であるとも指摘されています。

 

この次は「政府による信頼の低下」です。政府機関においては、従来以上に透明性や説明責任が求められるようになります。政策について、誰が意思決定をおこなったかという情報を示すことは説明責任を果たし、公的機関に対する信頼を維持し、ビジネスを行っていく上で、公平な条件を確保していくために必要となります。他にも情報の透明性や公開性を確保することは、詐欺や汚職、公的資金の流用などを防いだり、各種の公的サービスの質を改善していくことにも繋がります。しかし、2008年以降の世界金融危機(リーマンショック)以降、全体的に政府に対する信頼度は国によって差はあるが全体的に低下傾向にあります。これは政治家や公務員不信ということですむ話ではなく、より深刻な問題をはらんでいるといいます。政府に対する信頼度が欠けているというのは、政府が策定する各種の法令や様々なルールを守ろうとする意識が失われている可能性があるのです。たとえば、投資家や消費者の立場からすると、コンプライアンスの意識に欠ける国において、積極的に投資したり、消費するという意識につながらないというのです。結果として、それはその国の経済にとって大きな打撃となるのです。

 

最後に「テロやサイバー犯罪の増加」です。世界全体において、テロ行為の約60%はイラク、アフガン、パキスタン、ナイジェリア、シリアの5カ国で起きているが、この5カ国以外の国においても、テロは増加しています。インターネットを介してサイバー犯罪も増えており、オンラインでの詐欺や、偽物・違法コンテンツの取引なども活発化しており、実際、EU諸国を対象として調査では、約85%がサイバー犯罪の被害者になるリスクが高まっていることが示されています。

 

このように全世界的に社会的な変化やリスクが高まっているということが言われています。こういった社会的な問題をどのように解消していくのかということが求められます。次に「経済面の変化」です。

議論する環境

吉田松陰は様々なところに出向いていたということも言われています。そこで様々な師や友との出会いによってますます研鑽を積んでいきます。そこには問題意識をもって識者に会い、意見を求め、議論をし、著書を借り受けたり、書写していったと言います。このような「師友を求め歩く旅」は今の時代で言う研修でもあるだろうと言えます。今の時代、研修というのはどうしても受け身になりがちです。必要な研修を必要な時に受けるのではなく、「受けなければいけない」ものになってしまうと学習意欲が育たなくなってしまうのです。その姿勢は自己啓発において非常に重要な意味を持つと言われます。

 

また、これと同時に情報を得ることにおいても、非常に重要視したと言います。今の時代とは違い、松陰の時代は積極的に自ら得ようとしない限り情報を得ることができません。そして、その情報の精度も精査しなければいけません。正確な情報を得るためには多くの情報を分析していかなければいけないのです。そして、その集めた情報を村塾では事実の解釈をめぐって激しい討論が行われたのです。このように正しい解釈をどう受け取るのかというのは大切なことです。そして、見通しや対策について自分の頭で考える能力をもたなければいけません。ただ、そこにある情報を鵜呑みにするだけではそういった能力は生まれてはこないのです。大切なことはそこ得た情報を議論し、解釈をしていくということです。

 

このことは日々の中で受ける研修にもつながってくることです。研修で言われていることが全て正しいのかというとはそうではありません。例えば、自分の園とは保育方針が違うかもしれないですし、価値観が違うかもしれません。ただ、教えられる情報を鵜呑みにしてしまうとその園で行われている方針とはかけ離れてしまうかもしれないのです。つまりは、例えば園の方針であったり、向かっていく方向性が定まっていない状態で研修を受けることはかえって危険をはらむ可能性があるのです。そして、「問題意識を持つ」ということはその物事を理解しているからこそ出てくるものでもあると思います。ただ、受け身で物事を考えたところで問題意識は起きません。議論することにも能力が必要になってくるのです。

 

このプロセスについてこの本では「現状認識」→「課題形成」→「対策立案」→「実行」という問題のステップを効果的に実行する必要があるというのです。そして、人に教えを乞うことや読書も大切だが、現場に飛び込んで事実に直面することが一番重要だと言っています。第三者としているのではなく、議論をしていく環境を用意することがリーダーとして必要となっていくのだろうと思います。そして、「理論家である前に現実立脚主義者であった吉田松陰」というリーダー像を見ると、リーダーにおいて、理論家として振る舞うのではなく、現場の理解がなによりもリーダーとして大切であると言えるのです。

 

これは私にとっても、反省するべきところが多くあるように思います。リーダーはある意味で一番勉強をしていたり、ビジョンを持っています。それが悪いことだとは思いませんが、時にそのビジョンを今の現場に押し付けてしまうことが多くあるように思います。つまり、「急いで」しまっているのです。こういった状況にある場合、周りの意見は常に改善点ばかりであり、ボトムアップ的になるよりも、リーダーの見通しが先に立つことで結果トップダウンの構図になってしまいます。現場の「今」を認めなければ、当事者意識として現場は気付いていかないのです。時には今の現状を知るために、客観的に「見守る」ということが重要なのだろうと思います。まずは、現場からの「問いかけ」を待たなければいけません。しかし、ただ待っていても何も変わっていきません。大切なのは考える方向性を示さなければいけないのです。示すことで初めて待つことにつながるのだと思います。これは非常に難しく、自分自身今も戒めながら精進しているところです。そして、吉田松陰の姿は非常に自分の中で参考になる部分が多々あるように思います。

少子化の解決策

2021年12月17日の日経新聞のコラムの中で「人口と世界」というコラムが書かれていました。ここでコラムを執筆していたのが日本総合研究所理事長の翁百合氏です。翁さんは内閣府有識者会議「選択する未来2.0」でも座長を務めた経歴を持っています。ここでのコラムでは、まず、「人口減と経済の関係をどう考えるか」という質問に対して、「高齢化し人口ピラミッドの形が変わることで社会保障や財政の持続可能性の不安も高まる。」とし、これからの社会への負の影響が出ることを示唆しています。そして、少子化における原因の一つとして若者の全体の所得環境の脆弱さをあげており、年収300万円で結婚や出産ができるのかという不安から少子化は起きており、年功序列型の賃金の見直し、若年層の所得環境の改善を挙げています。それともう一つ、性別分業の意識。つまり、「夫が仕事、妻が家庭」という日本人が未だに根強く持っている価値観です。この価値観は日本では60%の男性がこの認識を持っていることに対して、スウェーデンではわずかに6%と男女ともに鍛冶屋育児に取り組むことの大切さを翁氏は言っています。3つ目は柔軟な働き方の推進です。新型コロナウィルスでのリモートワークの広がりです。地方に居ながらも仕事がオンラインできることで働き方のあり方が変わってきたのです。

 

こういった社会環境の変化に対して、翁氏の解決策は「人への投資」でした。まず第一に「最先端の科学技術に携わる分野、STEM(科学、技術、工学、数学)といったことに精通した人材の育成です。この分野においては女性の参加が遅れていることも課題に挙がっています。第2に社会人が新しい技術に対応できるように学び直す「リカレント教育の充実」。第3は新しい仕事に就けるようにする職業訓練の強化といった支援の必要性を解決策として挙げています。翁氏は企業も人こそがイノベーションの源泉であると十分に認識する必要があり、人材への投資の必要性を提案していました。こういったような今後の社会におけるデジタル化による生産性の向上の実現を考えなければいけないということを述べています。

 

これらのことを考えたときに保育や教育の在り方はどう考えたらよいのでしょうか。3つ挙げられていた解決策の内、特に「STEM教育」というのは最近とてもよく聞くワードになってきています。そして、その目的はこれからの変化の大きな社会であったり、持続可能な社会の構築のために、このような人材の育成が必要とされているということがわかります。

 

そして、こういった人材の育成による社会の変化が起こることによって、少子高齢化である今の社会への歯止めにも関係してくるのですね。このような考えは思ってもみなかったので、とても勉強になります。これらの関係性を見ていると、今の社会における若年層の所得と少子化が関係しているということはとても社会的に大きな問題であると言えるのでしょう。年金による不安、長く続く不景気による不安、新型コロナウィルスなどの社会への影響など、ネガティブなワードが飛び交う中、社会における将来への支援がこれらの不安を払しょくしてくれるということは保育や教育においても大きな役割があると言えます。今現在起きている社会の状況を知ることで、今必要とされる教育の在り方が見えてきますね。

ルールの欠点

ルールは相手とのやり取りを効率的にできるほか、自分自身が論理的推論を行わなくても、ルールに従っておくことで社会がまとまることができます。また、ルールは変えることが出来るのも特徴であり、その時より良い考えがあり、合意と交渉によって変化することが起きます。そんな人間社会にとって合理的なルールですが、そこには落とし穴があります。

 

それは「とっくに役目を失ったルールにいつまでもこだわること」だとゴプニックは言います。これについて一例を挙げています。「ある女性が母親に好物のローストビーフを作ってあげようと思いました。彼女は、母親がいつもやっていた通りの手順なら間違いないだろうと思い、それを忠実に再現していきます。まず、肉の端っこを切り落とします。しかし、この肉の端を切り落とすということを母親がしていたのは、単にフライパンが小さくて肉が入りきらなかったためだったのです。」つまり、娘が大真面目に端を切り落としていたのは、「そうしなければいけない」のではなく、単に「そうしなければ鍋に入らなかった」からであり、作り方の手順として「正しいか」と言われると「どうでもいい」部分だったのです。

 

これと同じように道徳的に正しいと思い込んでいるルールにもこれと似た例はたくさんあると言います。その一つが「食のタブー」です。あるものを食べてイヤな経験をしたネズミは、それがたった一度のことであっても、二度と同じものを食べようとしません。これを「ガルシア効果」と言います。このように人も食中毒を起こした人は原因となった食品を避けるようになります。人類学のダニエル・フェスラーは、このような経験が食のタブーの起源ではないかと言っています。

 

また、このようにたとえばロブスターに当たった人が相当な権力者であった場合、つまりルールを作る側の人であった場合、みんなにもロブスターをタブーとしたルールを作るかもしれません。フェスラーはこうしたタブーが制度化し、やがて宗教や道徳に取り入れられていったのではないかと言います。

 

時にルールは権力の道具にもなります。作った人や、その人の属する集団の利益につながるルールが導入されることがあるのです。ルールを受け入れ、守ろうとする人間の衝動が悪用されてしまうのです。不当な仕打ちや抑圧に反対していた人も、それがルールになれば受け入れてしまう傾向があるのです。

 

日本の言葉に「勝てば官軍」とあります。勝った方が「正しい」ものになってしまうのです。そして、残ったほうは勝った側の論理に従わなければいけなくなります。保育においても、大人が子どもたちにルールを作ることがたびたびあります。それは意識的なものもあれば、無意識的なものもあります。こういったルールは度々子どもたちにとって窮屈なものになってしまうものも多いように思います。だからこそ、今世界中で子どもの権利条約を中心とした、子どもの参画が求められているのでしょうね。

ルールの必要性

ルールがあることで人間社会において様々な利点を与えてくれます。しかし、なぜ人はルールを守るのでしょうか。ゴプニックは人間がルールを守るということは「人間の生得的な性質といっていいのかもしれません」と言っています。つまり、人がルールを守ることは人間の元々持ったものであるというのです。ゴプニックも言っていますが、確かに人間がルールを守るというのはこれといったご褒美はないものもありますし、恣意的で合理性に欠けるルールもあるのです。たとえば、特定の場面でどう振る舞うべきかを決めたルール、校則や交通ルール、人との付き合いの中でのいわゆる「空気感」、「今日は○○する」といったことに自然とそのルールに従います。「郷に入っては郷に従え」というのは必然的にルールに従うことになっているのです。しかし、その本質としては別に無理に従う必要は本来はないのです。

 

このようにルールをつくり、みんなが守るということは、道徳的に適切な反応を広めるにはとても有効な方法だとゴプニックは言います。「人をぶつことは悪いこと、困っている人を助けることは正しいこと、という基本的な道徳なら直感でも十分に分かり、幼児ですら理解しているようです。けれども、私たちが生活の中でぶつかる問題は複雑で微妙なものが多く、集団の利害が絡むと判断はさらに難しくなる」と言うのです。確かにこう考えると、それぞれの道徳的判断だけでは採択されるだけでは解決しないものは多くなってくるように思います。つまりは、様々な社会の中での問題を解決するには何十人、何百人、何百万人といった大勢の行動を調整しなければならないのです。それを可能にするのはルールだというのです。集団の利益のために互いの行動を調整する能力を人間がもつことは進化上のとても大きな利点になるのです。

 

そのため、ルールというものは度々変わることもありますね。今の日本の憲法でも改正が行われるかどうかといったことがよく争点に上がっていきます。時代によって求められるルールが変わっていたり、国が違うだけでもルールが変わっていきます。人が人を思いやることや難しい問題をみんなが納得した形で解決する方法、それがルールになるのだと思います。確かに、そう考えるとルールを作ることは、「道徳的に適切な反応を広める」ことに利点があるということが分かります。

 

では、赤ちゃんはそういったルールをどのように獲得していくのでしょうか。そこには赤ちゃんの持っているある特徴がルールを覚えるのに役に立っているようです。そして、それこそが生得的というところにもつながるところのように思います。