社会

社会的責任

ドラッカーは再三、組織と社会の構図を話しています。あくまで企業や組織があるのは社会というのです。そして、それにおいて社会的責任を無視することはできないと言っています。

社会的責任の問題は非常に複雑で、時に、良き意図、尊敬すべき行動、高度の責任感さえ、問題を起こしうるところにあるというのです。

 

ウェストバージニア州ビエナの町での話です。この地の経済は20年代末以降石炭産業の衰退とともに、低下の一途をたどっていました。そこでニューヨークに本社をおく大手化学会社ユニオン・カーバイドは、創業当時、同州産の石炭を使っていたため、二、三の大手炭鉱に次ぐ雇用主だった。そこでトップマネジメントは、高失業地域への工場立地を企画します。そこが小さな町ビエナです。その周辺には雇用機会が全くなく、立地できそうな工場は、高コストの特殊鋼工場だけでした。しかも、その工場にとってさえ、ビエナは不経済な立地でした。そのうえ巨額の設備投資をもってしても、多量の灰と煙の排出を避けられなかった。しかし、その工場はビエナの町に1500人の雇用をもたらし、町からそう遠くない炭坑に500人から1000人の雇用をもたらすはずだった。トップマネジメントは採算は限界的であっても社会的責任の観点から工場を建設することにした。そして、工場には最新の公害防止設備をつけた。当時は大都市の発電所さえ、煙突から出る灰の半分を補足できればよしとしていた中で、ビエナの工場は75%を補足する設備をつけた。ただし、当時の企業では、硫黄酸化物については何もできなかった。

 

向上は1951年に操業を開始、ユニオンカーバイトは一躍救世主となりました。政治家、政府関係者、教育関係者はこぞって同社の社会的責任の遂行を称賛しました。しかし、それから10年後、それまでの救世主は公衆の敵となります。環境問題の関心の高まりとともに、ビエナの人たちも灰や煙の苦情を言うようになりました。61年には、反公害つまり反ユニオン・カーバイドを公約に掲げる市長が選ばれ、さらに10年後にはビエナ工場の悪名はアメリカ全土に喧伝されました。

 

確かに企業は経済的な機関で、経済上の課題にのみ取り組むべきなのはもっともである。社会的責任には企業の経済的機能の遂行を損ない、したがって社会全体をも損なう危険があると言い、権限のない領域において、企業のマネジメントに権力を行使させてしまうというさらに大きな危険があると言っています。その反面、社会的責任は回避できないことも明らかである。社会が要求しているからではない。社会が必要としているからでもない。現在社会にはマネジメント以外にリーダー的な階層が存在していないからである。

 

しかし、社会的責任は曖昧かつ危険な領域であるということではない。あらゆる企業にとって、社会的責任は、自らの役割を徹底的に検討し、目標を設定し、成果を上げるべき重大な問題である。そのため、社会的責任はマネジメントしなければならないのです。

 

では、保育において、社会的責任とはなんなのでしょうか。保育園には社会的責任をどうはたすことがあるのでしょうか。そして、その責任はなんなのでしょうか。

人は最大の資産

自分が組織のマネジメントをする上で非常に重要視しているのが、「人事配置」です。年間的に一番の仕事でもあるなと感じることでもあります。人事配置によって、その一年が働いている人たちにとって楽しくなるのか、そうではないのかが決まるとも思っています。しかし、「楽しい」といっても、「ただ楽しい」だけではいけないとも思っています。大切なのは「その一年で、そのチームだったら、自分はなにを得ることができるのだろうか」ということや「そのチームで、どういったことができるのだろうか」といったことを考えることができるようなチーム編成をしていかなければいけないと思っています。そして、そういったマネジメントの課題を働いている人たちが見つけ、乗り越えていく様を見るのがとてもありがたくも思い、うれしくも感じる瞬間であります。

 

ドラッカーは「人こそ最大の資産である」と言っています。そして「組織の違いは人の働きだけである」とも言います。しかし、マネジメントのほとんどが、あらゆる資源のうち人がもっとも活用されず、その潜在能力も開発されていないことを知っているのです。だが、現実には人のマネジメントに関する従来のアプローチのほとんどが、人を資源としてではなく、問題、雑事、費用として扱っていると言っています。ドラッカーは人を資産とすることは実務上の問題や企業の所有物ではないという観点から問題があるともいうが、それでもこの提案には見るべきものがあると言っています。

 

大切なのは人を資産として、考えたうえで実際に実行していくことだと言っています。そして、それはビジョンや態度を変えるよりはやさしいはずです。ではそれはどういうことなのでしょうか。①第一に、仕事と職場に対して、成果と責任を組み込むこと。②共に働く人たちを生かすべきものとして捉えること。③強みが成果に結びつくように人を配置すること。といったこの3点です。

 

これは当たり前といえば当たり前のことなのですが、人を生かすべきものとして扱うことで、その適材適所を図ることができます。それは「ただ楽しいこととしてのチーム」といったユートピアを作ることではない。しかし、それは組織を業績に向かわせるのです。退屈な仕事や人を面白く楽しいものにはしないが、楽しいはずの仕事や人を退屈なものにするのを防ぐうえで大きな働きをするというのです。以前、私の知り合いが職場がかわったことでアイデアが出なくなったと言っていたことを思い出します。元の職場はそのアイデアを面白がってくれましたが、新しい職場はそれがスタンドプレーに見えたようです。こういったことがあるとなかなかモチベーションも上がらず、結果として、その人材がうまく利用されなくなってきます。

 

こういった組織における人事配置は組織の機能や緊張をなくしたり、権力や金に関わる問題を解決することはできないかもしれない。しかし、信頼と成果をもたらす。人を問題、雑事、費用、脅威として見る従来のアプローチを不要にするわけではない。しかし、マネジメントとマネジャーを人事管理から真のリーダーシップへと進ませるというのです。

 

人事配置とマネジメントする側の距離感。とても難しいことですが、このことを追求することは非常に重要なことのように思います。現場が自ら動き、責任ある行動において、マネジメントに何ができるのか。そして、それは企業に限らず、組織を持つうえで考えていかなければいけない内容です。

権限と権力

ドラッカーは「人は最大の資産である」と言っています。現場に責任を持たせることで成果があがるということは長い間知られてきたことであり、いくつかの企業が、取り組んで生きたことでもあります。そして、必ず成果を上げ、組織の体質を強化し、繁栄をもたらしてきました。結果としてマネジメントも強化されてきたと言っています。しかし、実際に行動に移したマネジメントはそれほど多くないとドラッカーは言っています。なぜ、多くのマネジメントにおいて、良いことが分かっていながらも実践がされていかないのでしょうか。

 

その主たる原因が「権限と権力の混同」とドラッカーは言っています。マネジメントは、肉体労働者からも、知識労働者からにも、責任を持ちたいとの要求に対して、それをマネジメント側の権限の放棄を要求するものと誤解して抵抗している。つまり、自らの権限を危うくすると誤解しているため、なかなか現場に責任を与えることを拒んでいると言っています。しかし、権限と権力は異なっており、そもそもマネジメントは権力を持たない、責任を持つだけであるとドラッカーは言っています。その責任を果たすために権限を必要とし、現実に権限を持つ。それ以上なにものももたないというのです。現場側とマネジメント側ではその役割は別であり、その権限によって現場に対しては本来は何も持たないということなのでしょう。マネジメント側が現場に権力を行使することは本来はないのです。

 

しかし、権限と権力の混同によって、マネジメントが自らと自らの組織にとって好ましくない結果をもたらした例は珍しくない。かつて分権化は大変な抵抗を受けました。それはトップマネジメントを弱体化させ、その執権を招くと心配されたためです。しかし、今日ではあらゆるマネジメントの分権化はトップマネジメントを強くすることを学んでいます。分権化によってトップマネジメントはより成果を上げ、本来の仕事ができるようになるのです。そして、トップマネジメントの権限は分権化によって増大するのです。逆に分権化がうまくいっていない場合は、マネジメントはマネジメントの仕事でない活動、マネジメントでは貧弱な成果しかあげられない活動、時間ばかりとられる活動にとらわれ、思ったような成果があげられないと言っています。

 

そして、トップマネジメントがかつて分権化に抵抗された理由はもう一つ。分権化が課すことになる高度な要求を恐れたということにあるというのです。これは働くものや職場コミュニティに責任を持たせることを恐れるマネジメントの抵抗も理由は同じだったそうです。責任を与えられたものは高度の要求をする。自らの仕事に責任を持つものは、マネジメントが報酬にふさわしい仕事をすることを要求すると言っています。

 

ここでドラッカーは大切なことを言っています。「人のマネジメントとは、人の強みを発揮させることである。人は弱い。悲しいほどに弱い。問題を起こす。手続きや雑事を必要とする。人とは、費用であり、脅威である。しかし人は、これらのことをゆえに雇われるのではない。人が雇われるのは、強みゆえであり能力ゆえである。組織の目的は、人の強みを生産に結び付け、人の弱みを中和することにある」というのです。

 

これはチーム保育にも言えることです。チーム保育をする上で、一緒に組む人の相性を見るようにしています。そして、弱みをフォローし、お互いを補いあうことでよりいいチームになるからです。このマネジメントは非常に難しいです。それぞれの人のパーソナリティを見ていかなければいけませんし、うまくそれが作用するかというとそうではないときも多くあります。だからこそ、マネジメント力というのは大切なのだと思います。どう人が動けるような環境を作ることができるのか、それは現場に権力を振りかざして、現場に口出しをするのではなく、現場に権限を持たせ見守るだけの器量も持っていなければいけないのですね。

現場の責任

前回紹介した3つの条件が働きがいにつながるものであり、仕事に責任を持たせるための条件であるとドラッカーは示しています。そして、これらの条件は働くものが自らの仕事、集団、成果について責任を持つためのいわば基盤であると言います。そのため、それらを持たせることはマネジメントの責任であり、課題でもあるのです。しかし、この条件に取り組むべきはマネジメントする側だけが一方的に取り組むべき問題ではないと言います。これらの条件すべてにおいて、実際に仕事をするもの自信がはじめから参画していなければならないのです。仕事、プロセス、道具、情報についての検討に初めから参加しなければいけないのです。そして、それぞれの知識、経験、欲求が、仕事のあらゆる段階において貴重な資源とならなければいけないのです。

 

仕事をいかに行うべきかを検討することは、働くものとその集団の責任であり、仕事の仕方や成果の量や質は、彼らの責任であるというのです。したがって、仕事、職務、道具、プロセス、技術の向上は彼らの責任といえるのです。これは厳しい要求です。しかし、満たすことのできる要求なのです。

 

実際、仕事をすることにおいて、責任をもつことの重要性は非常に感じます。当然、その責任を負うということは厳しいことも多くあります。しかし、その中で、行動を起こすことによって成果が生まれ、そして、そこで得た感覚は知恵や経験となります。成果は自信につながります。たびたび、職場においても、マネジメントをしていく中で、トップダウン型の組織形態ではなく、ボトムアップ型の組織構図のほうがうまくいくように思います。なぜならばそれはドラッカーも言うように「仕事を生産的なものにするうえで独創性に期待することは夢想である。必要なものは、実際に働く者の知識と技術である。かれらこそ唯一の専門家である。仕事とは総合的なものである」というように、現場を任せている人たちの経験や技術はとても大きな資産であるということもいえるからです。そして、その働いている人それぞれのスキルアップのためには研修をすることではなく、研修で学んだことを実践することであり、結局は現場が動くことでスキルアップになっていくのです。そして、そのためには責任をある程度、持つ必要があるのだと思います。良かれと思って、マネジメントをする側が前に出ることは現場のスキルアップの瞬間を無くしてしまいかねないのです。

 

マネジメントをする上で、こういった現場にいる働く人に対する環境作りというものが大切なのではないか、とドラッカーの内容を見ているとより感じます。「現場に責任を与えること」ということが働きがいにつながりますし、そして、そこから見えるより良い組織づくりにおいて、マネジメントの向かうべき方向性はしっかりと見通していかなければいけないというのがわかります。

働きがい

ドラッカーは働いている人たちに働きがいを与えるには、仕事そのものに責任を持たせなければならないと言っています。そして、そのためには①生産的な仕事、②フィードバック情報、③継続学習が不可欠であると示しています。では、それはどういったところを指すのでしょうか。

 

第一に「生産的な仕事」です。そもそも、仕事に責任を持たせようとしたときに、仕事を分析せず、プロセスを総合せず、道具や情報を設計せずに、仕事に責任を持たせようとしても無駄であるというのです。しかし、このことは独創性のスローガンには反するとドラッカーは言っています。人は速悪から解放されれば、専門家よりも優れた生産的な答えを出すという考え昔からあるというのです。しかし、独創性と言ってもそもそも、基本を知っていないと独創性のある仕事にはつながらないというのです。そして、正しい仕事の構成は直観的に知りうる代物ではないのです。そして、その基本構成を知ることで、独創性のあるものに変わってくるのです。

 

このことは保育をしているとよくわかります。実際、子どもの心理学や発達が出ているものであっても、目の前の子どもがそれ通りの発達をするとは限りません。あくまで、研究者の発表は一つの目安でしかないのです。逆に、保育者が子どもたちの姿を切り取り、そこから発達に当てはめていくというプロセスで物事を見るほうがより具体的で専門家の方々も驚く結果が出ることがあります。しかし、そのためには、根本的な子ども観を持っていないとできないことでもありますし、そういったことを見ることができる機会や行事などのあり方を見直したり、用意していなければいけないのです。こういったところが一つ目における保育機関のマネジメントと言えるのかもしれません。

 

二つ目に「フィードバック情報」です。これは成果についてのフィードバック情報を与えることを言っています。自己管理が可能でなければいけない。自らの成果についての情報が不可欠であるというのです。確かに、働いていく上で、自分がどれだけ成果としての実感を持っているかということは働きがいを見つけるにあたって重要な要素としてあるように思います。そして、それが所属観や安心感にもつながります。ここで重要なのが、それはあくまで「自己管理」ということなのだと思います。つまり、マネジメントする側から見るとそこで働く人自体が動いた成果でなければ、実感としての成果にはつながらないようにも思います。そのため、より有用なフィードバック情報を与えるためにはそこに至るまでのプロセスもしっかりと把握しておく必要があるのだと思います。

 

3つ目の「継続学習」ですが、継続学習は肉体労働と事務労働にも必要ですが、知識労働にはさらに必要な事柄であると言っています。なぜなら、知識労働が成果をあげるためには専門化しなければならないからです。つまり、他の専門分野の経験、問題、ニーズに接し、かつ自らの知識と情報を他の分野に適応できるようにしなければならない。経理、市場調査、企画、など知識労働に携わる作業者集団は、学習集団とならなければならないというのです。

 

こられの条件が働きがいのために必要であるというのです。しかし、ここにはもう一つこの条件を生かすために重要なことがあるとドラッカーは言います。