社会の変化

メディアと実行機能 2

森口氏はメディア視聴において二つの大きな影響があると言っています。一つ目は前日に紹介した。「ダラダラとテレビがついてある状況でした。」では、二つ目はどういったことが影響を与えるのでしょうか。

 

それは、テレビの内容の影響を挙げています。暴力的なシーンは全般的に子どもの発達に悪影響があるので、子どもにみせることはお勧めできません。また、現在議論になっているのが、ファンタジーです。『トイ・ストーリー』などのアニメから、『ハリー・ポッター』などの実写に至るまで、子どもにもファンタジーは人気ですが、ヴァージニア大学リラード博士らはこのようなファンタジー作品を見せた直後に思考の実行機能を測定すると、子どもの思考の実行機能の成績が低下することを示したそうです。

 

森口氏はテレビだけではなく、スマートフォンやタブレット端末などのデジタルメディアにおいても紹介しています。Youtubeや動画のコンテンツを最近は見るようになった子どもたちは先ほども話した通りです。これは幼児の子どもでも好んでみる子どもが多いです。テレビは受け身で視聴するだけですが、スマートフォンなどのデジタルメディアにはタップするなどの双方向性があります。この双方向性があると、テレビでは実行機能の低下が見られたファンタジーコンテンツが、デジタルメディアでは実行機能の成績は低下しなかったのです。テレビは受け身になってしまうので主体性に目標に達成する実行機能が低下しますが、デジタルメディアには主体的に関わることができるので、実行機能は低下しなかったのです。

 

こういったことを受けて考えてみると、テレビにおいてはただ受け身になることもあり、少なからず実行機能に影響がありそうですが、デジタルメディアにおいては利点もあることが言えそうです。とはいえ、デジタルメディアを視聴しすぎると、視力や睡眠に悪影響があることは否めないですし、親子の交流が減ってしまうため、ネガティブな側面があることは確かだと森口氏は言っています。しかし、現在はスマートフォンなどのデジタルメディアに関するネガティブな側面ばかりが強調されているような気もすると森口氏は言っています。

 

実際、スマートフォンや人工知能などによって育児の負担が軽減されたり、子どもの発達が促されたりすることは今後必ずあると考えられます。そのため、こういった技術もやはり使いようだとなのだと思います。そして、そのために良い部分も悪い部分も考慮する必要があるのです。

 

新しい時代において、デジタル機器は日々進化しています。問題は新しい技術のネガティブな部分を嘆くのではなく、うまく付き合っていく必要もあるのだと思います。だからこそ、こういった研究の結果を踏まえ、今の時代に最適化した環境を作ることが必要なのでしょうね。

履修主義と修得主義

今回の新型コロナウィルスは様々なところで、教育や保育への変化をもたらしました。リモート(遠隔)での教育形態、分散登校、4月入学から9月入学など、さまざまな部分で新しい取り組みや変革が起きています。こういった議論は多く行われている中で、今後の教育に向けてどういった教育形態が求められるのか、前回話した武藤隆氏の話においても触れられてきた内容です。武藤氏の話にも出てきた「9月入学」この制度は様々なところで波紋を起こしています。内容に関しては、武藤氏が言っていたことが大きな答えになっていました。

 

私は常々、入学をどの時期にするのかということ以上に、子どもの進級の時期を子どもの理解度とともに変えていくべきだと思いっています。そして、分からないところがあれば、わかるまでその学年で留まることができる留年を作るべきだとも思っていました。このことに対して、日本経済新聞の7月8日の記事「教育改革 危機が促す」にこんなことが書かれていました。「同年齢の子を一斉に入学させ、学習内容が定着していなくても決まった時期に卒業させる『履修主義』を取る日本の義務教育。『一律・平等』の重視は教育水準を底上げした一方、横並びで硬直的な学校生活を生み、子どもの個性にあった指導を難しくした」と書かれていました。

 

この状況はまさに教育現場において問題になっていることではないでしょうか。特に「ワル」と言われる不良少年などは、以前にも書いたように、勉強についていけず、そのままドロップアウトしてしまう子どもが多くいます。こういった子どもたちに対して果たして「平等な教育」が施されたというのでしょうか。個人差を加味した上で「平等」があるのでしょうか。

 

日本経済新聞ではこのひずみが新型コロナウィルス禍でも露呈したと言っています。この自粛期間における休校措置で失った200コマをどう解消するかということです。そして、それと同時に日本の教育現場においては技術革新や国際化の加速によって教育過程は拡大しています。ただでさえ、指導日程が窮屈になってきている中で、この休園措置によって、履修主義的な教育はかえって、重荷となり、短期間で大量の「指導ノルマ」をこなす必要が出てきたというのです。そして、これは「修得主義」をとる欧米とは事情が異なります。

 

修得主義はひとり一人に応じた学びを実現する土台にもなると言います。国際学力調査で上位のフィンランドでは就学や卒業の時期、留年や飛び級も本人や保護者が選ぶのです。教育過程は教員が決め、個にあわせた指導が可能になるのです。こういった教育形態をうけ、日本の経済同友会でも小学校高学年以降は修得主義にし、留年や飛び級を実施するように提言しているそうです。

 

また、こういった教育形態になったときに5歳児の育ちは重要になってきます。19世紀から義務教育開始年齢が5歳の英国では「探求心と好奇心の育成が最初の目標」だと言っています。つまり、こういった教育を進めていくためには乳幼児期の教育も決して無縁ではなく、その土台を作る環境を作っていかなければいけないのです。子ども一人一人が平等に学んでいくためには、一人一人がしっかりと自立していなければならず、その土台はやはり乳幼児期にこそ必要なのだということが読み取れます。

小学校入学の前倒し

2020年7月6日の日本経済新聞に大学などの「9月入学」導入議論を機に、就学年齢を引き下げる案が浮上しているとして、小学校入学を前倒しする際の課題を、白梅学園大学名誉教授の武藤隆が寄稿されたいました。この記事は世界と日本においての就学の違いから書かれていました。ほとんどの国では幼稚園や保育園から小学校教育への移行期はおおむね5~7歳だと言います。そのうえで、日本の満6歳を過ぎてからという日本は比較的遅い分類になるのだそうです。

 

そんな日本において、小学校への移行を現在の4月入学から9月入学に変更するつまり、約半年早めることについてどのような課題があるのかを武藤氏は書いています。まず、見えてくるのが、約半年の発達の違いは個人差が大きいということです。そして、一部の子どもは小学校への適応が難しくなるかもしれないということを武藤氏は言われていました。確かに、現在においても「小学プロブレム」というように、小学校への適応がうまくいかず、学級崩壊などが起きている小学校があるということが現場で起こっています。

 

実際のところ、幼児は早生まれか遅生まれかで小学校入学時の準備態勢が違うことが言われています。よく言う「月齢差」ということですね。実際問題生まれ月の違いによる学力の差はかなり遅くまで残ることも調査から知られているというのです。このことはよく聞きます。実際、保育園や幼稚園で働いていると「月齢差」というのは無縁ではいられません。それは子どもたちの様子にも表れてきます。そのため、こういった保育機関で行う活動の多くは真ん中くらいの月齢の子どもたちに合わせた活動が多くなることが多くあります。また、幼稚園によってはその保育方法は園によって特色や違いがあり、うえで話しているような活動の内容ではないところも多くあります。私の園でも、今では異年齢での保育方法を通して、子どもたちは発達を基に自分でできる難易度のものを自ら選ぶ選択性の活動を主として行っています。

 

では、小学校ではどうなのでしょうか。武藤氏は「小学校の教え方は幼児教育とは大きく異なる。」と言っています。固定クラス、一斉授業、時間割、教員の説明と子どもとの応答などは、幼児教育ではあまり見られないのであり、小学校に入ると急に幼児教育にはなかった環境が始まり、入学早々に躓く子どもが多くいるそうです。そして、もし就学年齢を引き下げることになると、今以上にこういった入学時につまずく子どもたちが増えていく危険性があるというのです。そのため、現行の小学校の指導のやり方を変えずに就学を約半年早めれば、学力格差が広がる可能性があるというのです。

 

私は子どもの就学に関して、これまで学校教育から変わっていくべきではないかと考えています。これは海外の学校教育を見るとよりその意識は強くなる一方なのですが、未だ日本の教育というは明治ごろから大きく変化はしていません。武藤氏はこの記事の中で、これからの小学校教育の変化とそれにともなって、日本の幼児教育への問題提起を行っています。

非行の背景

少年院に入っている少年たちによっては、知的障害を持っているかどうかの判断において、職員にその判断が委ねられること、CAPASで問題ないとされた受刑者は調べられていない可能性があるといった問題があるということがいえるそうです。結果として「実際のIQよりも高く見積もられてしまう可能性」があり、宮口氏は実際にそういったことに該当する少年たちと出会ったこともあるそうです。

 

宮口氏が出会った少年は集団式の知能検査においてはIQ80以上あり、知的な問題はないと言われていました。しかし、宮口氏が診察し、再度WAISによる正式な知能検査を行ったところIQ60台の値が出たそうです。結果その少年は出院後、知的障害者施設に入所することになりました。これは一例で発見できてよかったのですが、恐ろしいのは、少年を指導する法務教官がそれを信じ、何か問題を起こしたときに健常少年と同じ厳しい処遇をされた場合、知的なハンディを持った少年は理解できず、暴れるなどの不適応行動を繰り返します。そのたびに単独室で反省、出院期間の延長といった処分がされます。このように悪循環を繰り返していると次は精神科医が呼ばれ、少年の気持ちを抑えるよう精神科薬が投与されます。効果がなければ次第に薬の投与量も増え、少年院を出ることには精神科薬なしではやっていけない患者になってしまうのです。このように本来なら必要でない薬を飲まされ、出院後も元々必要のなかった精神科病院への通院を余儀なくされるなど、大人が彼らの人生を台無しにしてしまうのだと宮口氏はいっています。

 

宮口氏は勤務の中で性加害少年に対する再犯予防の治療プログラムを長年行ってきたそうです。一般的には性加害を行う少年は幼少期に性被害を受けたことが多いという研究者が少なくないのですが、宮口氏が関わった中ではそうとは言い切れなかったそうです。それよりも95%くらいは凄惨なイジメ被害にあっており、そのストレスで幼女などに性加害を行っていくケースが大半だったそうです。そして、その裏には軽度知的障害や境界知能といったことに気づかれてさえいれば何らかの支援を受けられた可能性があるのです。しかし、気付かれず忘れられた人々は、勉強ができなかったり、対人関係が苦手で友達ができなかったり、スポーツも苦手といった状態の中でいじめにあうリスクも高く、そのイジメに自分よりもっと弱い存在をみつけ、性加害を繰り返すことになるのです。被害者が被害者を生む構図になってしまうのです。

 

イジメは本当に深刻な問題です。毎年いじめによる被害やニュースは必ずと言ってもいいほど出てきます。しかし、こういったいじめが起きることで起こる犯罪もあるというのは非常に問題です。教育の現場や環境が違っていれば、犯罪も起こりえなかったかもしれません。そして、これらの少年院に入っている少年たちのバックボーンには「発達」といったことが問題として起きていることが分かります。私は常々教育においてもっと「発達」にも目を向けていかなければいけないのではないかと考えています。これまでの単位や教科主義の中で、勉強が嫌いになる子どももいれば、勉強についていけずあきらめてしまう子どももいます。今の教育はそれぞれのペースは個々人にあったものではありません。こういった認知能力や発達と教科の指導の溝というのは非常に深いものだと思ったのですが、この宮口氏の本を読むとそれは社会問題にまで大きな影響を与えているということが分かります。

貧困と健康格差

前回のエリザベス・ドージアは学内で起こっている事件や素行において、決してルールを厳格にすることが解決にはつながらず、「子どもたちにはどういった家庭があるのか」や「貧困は子どもたちにどういった影響を与えるのか」ということに考えがいきつきました。

 

次にもう一人、ナディーン・バーグ・ハリスもドージアのように「貧困は子どもたちにどのように影響を与えるのか」と考えがいきついた一人です。彼女は医師として、患者の健康という観点から「貧困は子どもたちにどういった影響をあたえるのか」という問題に取り組みました。彼女はサンフランシスコのベイビュー・ハンターズポイント地区。街の南東の地味な工業地区で、市内で最も大きく最も荒れた公営住宅のある場所の児童保健センターの小児科長として働いていました。彼女はカリフォルニア・パシフィック・メディカル・センターという資金の豊富な私立の総合病院に雇われており、サンフランシスコ市内の健康格差の問題に正面から取り組もうとし始めました。こういった健康格差はベイビュー・ハンターズポイントのような地区では格差を見つけるのは難しくありませんでした。そして、バーグ・ハリスはハーバード公衆衛生大学院で健康格差について学んでいたのです。そこでは格差をなくしていくための方策も公衆衛生学の教科書に書いてありました。そこでは低所得の家庭が医療機関、特に一時医療(一般的な疾病の予防や初期治療)を扱う期間にかかりやすいようにすることが格差をなくすための方法だとそこにはありました。

 

彼女はクリニックを開くとまずは裕福な家の子どもと貧しい家の子どもの差が明らかで見た目にも分かりやすい健康問題、つまり喘息の管理、栄養教育、三種混合ワクチン接種の推進に重点的に取り組みます。ほんの数カ月で目覚ましい成果があがりました。しかし、彼女はこういいます。「ワクチンの接種率をあげ、ぜんそくで入院する子どもの数を減らすのは、結果的には驚くほど簡単でした。けれども、実はこれで格差の根本的な問題に対処できていないのではないかと思うようになりました。つまり、私の知る限り、このコミュニティではもう長いこと破傷風が原因で死亡した子どもはいないわけですから」

 

彼女は夢の仕事に就くことができ、充分な訓練を受けており、懸命に働いている。資金もたっぷりある。しかし、助けようとしている子どもたちの生活に満足のいく変化をもたらすことができずにいる。子どもたちはいまだに家庭でも街中でも暴力と混沌に取り巻かれ、身体的にも精神的にも明らかに重大な犠牲を強いられてきた。クリニックで出会う子どもたちの多くが抑うつ状態だったり、不安を抱えていたりしているように見え、そのうちの何人かははっきりと心的外傷を抱えていた。そして、彼らが日常的にうけるストレスは、パニック発作から摂食障害、果ては自殺行為まで、さまざまな症状として表れた。バーク・ハリスは一時診療を提供する小児科医というよりも戦場の外科医であるように(患者に応急処置だけを施して戦場に送り返しているように)感じることがあったというのです。

 

こういったことに対し、バーグ・ハリスが答えを探した結果、貧困や逆境に関するまったく新しい議論にたどり着きます。公益機関の刊行物や政治学のシンポジウムではなく、医療系の機関誌や神経科学の会議でそうした議論がなされていました。このようなドージアの学校のあるローズランドやバーグ・ハリスの健康格差の舞台となったベイビュー・ハンターズポイントのような地区の問題は普通は社会問題、つまり経済学者や社会学者の領域とみなされるものが多いのですが、実はもっと微細なレベルで(ヒューマンバイオロジーの領域の深部で)分析・検討された方がよいという答えにたどり着きます。最初は極論に思えたが、徐々に納得がいくようになったと彼女は言います。

 

この結果から見えることがあります。確かにバーグ・ハリスは健康格差をなくすために予防接種や栄養教育などを施します。そして、ある程度の成果がありましたが、「もう長いこと破傷風が原因で死亡した子どもはいない」というように現状としてはその部分の改善はすでにできているというのです。「彼らが日常的にうけるストレスは、パニック発作から摂食障害、果ては自殺行為まで、さまざまな症状として表れた」という部分の改善は難しかった。この部分のメンタルヘルスが結果として健康格差にもつながっているのではないかと考えたのです。そして、それが「貧困と健康格差との関係」においても大きな疑問をバーグ・ハリスに投げかけたのですね。