日々思うこと
ストレスがコルチゾールが偏桃体から視床下部を通して発生するということがわかってきました。そして、そのコルチゾールをコントロールする脳の部分が海馬であり、この部位が過度にストレスがかかり続けると記憶障害などの様々な影響が出てくるということもわかりました。では、このストレスと運動はどのように関わってくるのでしょうか。
実際のところどうかというと、運動というのはコルチゾールの分泌を増加させるそうです。減らすのではなく、かえって増やすのです。なぜなら、運動は肉体に負荷をかける行動なために、身体からすると一種のストレスになるからです。運動をすることで体中でエネルギーや酸素がより必要になり、このことにより血流を増やそうとして心臓の鼓動は激しくなり、息が上がったり、心拍数が上がったりします。これはコルチゾールによる分泌が正常に起きているからです。運動が終わると体はストレス反応を必要とするような状況ではなくなります。つまり、緊張状態や脅威と立ち向かうような状況、運動が必要とする状況ではなくなるため、コルチゾールの分泌は減り、運動をする前の状態にまでコルチゾールは減っていきます。
このような状態が習慣化されていくと、運動に対するコルチゾールの分泌量は増えにくくなり、運動後の下がる量は増えていきます。要はコルチゾールが上がる習慣と同時に下がる習慣も鍛えられていくわけです。そして、定期的に運動習慣を続けていくと、運動以外のことが原因でストレスを抱えていても、コルチゾールの分泌量はわずかしか上がらないといった状態になっていきます。ストレスに反応が運動によって鍛えられていくのです。
では、運動はどれほどの運動が適しているのでしょうか。一つは「モントリオール・イメージング・ストレス・タスク」(MIST)というテストがあります。これはストレスに対して私たちがどのような反応をするかの実験です。実験協力者はあらかじめ平均正解率が80~90%であると教えられます。しかし、このテスト、被験者が答えて正しかろうが、誤っていようが正解率が20~40%になるように調整されています。なおかつ、被験者には特典が平均よりも下回っていると伝えられ、被験者はイライラするように設定される意地悪なものです。その際、被験者を30分サイクリングするグループと心拍数が増えない程度の運動を行うように指示しました。結果は、サイクリングするグループのほうがコルチゾールの濃度が低かったのです。つまり、ストレス反応がサイクリングをした方が強く出なかったということがわかります。これは被験者が普段から体を鍛えていようが、そうでなかろうが関係ない結果でした。これは肉体的なコンディションに関係なく、運動をすること自体がストレス反応を鎮めるということが証明されました。また、海馬の働きも活発化し、HPA軸の反応も抑えられたのです。
大人にとっても、運動は必要なのはもちろんのことですが、こう考えると子どもたちが外で遊べる環境が少なくなっているのが気になります。公園でも子どもたちが遊んでいる姿が少なくなっていますし、物騒な世の中です。今の時期、夏は熱中症のリスクのため、外に出ることも躊躇してしまうような気候です。子どもたちが体を存分に動かす環境がどこにあるのか、またはテレビやyoutube、インターネットなど、家庭内での環境が充実している一方で、体を動かす習慣というものが少なくなっていることもいえます。幼稚園や保育園、こども園といった施設や学校などの子どもがたくさんいる施設での役割というものがこういった部分にも多くあるのかもしれません。指導的なものも必要かもしれませんが、子どもが指示された動きでなく、存分に体を動かし遊ぶ環境も作ることが必要な時代なのだろうと思います。
2025年7月23日 3:41 PM |
カテゴリー:日々思うこと, 進化 |
投稿者名:Tomoki Murahashi
新学期が始まり、職員の先生方に幼稚園のコンセプトや方針について研修でお話ししました。そこでは単に幼稚園の保育内容を伝えるのではなく、「何のために幼稚園が存在するのか」や「今幼稚園に通っている子どもたちに、どのような力をつけてあげるべきなのか」といった根本的な問いを共有するようにしています。また、現在実施している藤森メソッド(見守る保育)を行うにあたっての重要なポイントについても話しています。
もちろん保育内容を伝えることも大切ですが、私はそもそも「乳幼児教育」が社会にとって何のためにあるのかということを理解していなければ、いくら保育内容を知っていても意味が薄れると考えています。組織の目的を知らなければ、その成果は出にくくなり、また、働く人たちの目標や目的も見えにくくなるのではないかと思っています。
このことに関して、かつて流行したP.F.ドラッカーの著書『マネジメント』では、マネジメントの冒頭で次のように述べています。「組織が存在するのは組織自体のためではなく、社会、コミュニティ、個人のニーズを満たすためである」。つまり、どのような組織であっても、その目的は“誰かのため”にあり、社会的な意味をもって存在しているのです。
そう考えると、なぜ保育が必要なのでしょうか? よく言われるのが「保護者の育児支援」です。確かに、現在の保護者の多くは共働きで、専業主婦のご家庭は少数派です。保育施設が子どもを預かることで、保護者の就労を支える役割は非常に大きなものです。しかし、それは“優先順位”の問題であり、最も重要な目的ではないと私は考えています。
最も基本となるのは、やはり「子どもの保育」です。では、その「保育」とはどのようなものであるべきでしょうか。幼保連携型認定こども園教育・保育要領(平成30年度)の総則には、教育や保育の基本が記されています。そこには、「乳幼児期全体を通して、その特性および保護者や地域の実態を踏まえ、環境を通して行うものであることを基本とし、家庭や地域での生活を含めた園児の生活全体が豊かなものになるよう努めなければならない」とあります。
つまり、保護者支援も、あくまで子どもの生活が「豊か」になるために行うものであるといえます。ただし、この文章は非常に抽象的で、「豊か」とは何をもって豊かとするのか?という疑問が残ります。そして、この「豊か」という言葉の解釈が園によって異なるため、保育施設ごとの方針やアプローチの違いが生まれてくるのだと思います。
私自身の考えとしては、「豊かさ」とは、現在の生活の充実と将来に向けた基盤づくりの両方を指すものだと思っています。つまり、今と未来を含めた「豊かな人生」を送るために必要な力を育むことが保育の役割だと捉えています。そして、その根本にあるのが「社会で生きる力」を育てることです。
このように考えると、保育者といえども、社会についての理解を持っている必要があります。そのため私は、今後子どもたちが生きていくであろうAIの時代や、労働人口の減少といった未来社会について強い関心を持ち、研修の中でもそうした話題に触れるようにしています。
2025年5月2日 2:42 PM |
カテゴリー:乳幼児教育, 日々思うこと |
投稿者名:Tomoki Murahashi
日々の中で、自分の言動から改めて自分の行動を見直すことがあります。今、非常勤講師で言っている大学で、生徒がこんなことを言っていました。「子どもが楽しく活動をするとき、保育者も楽しんでいることは大切だと感じた」と記録に書かれていました。これに対して、「子どもは大人の姿を見ているし、先生が楽しそうにしていたら、子どもも楽しくなってくることがあるよ。やっぱり、ムスッとした先生が子どもを見ているよりも、にこにこして子どもを見ている先生がいる方がこどもたちも楽しくなってくるからね」と解説したのですが、ふと私自身、幼稚園の職員に対して、自分はできているのかと感じました。
このような雰囲気づくりが有効なのであれば、職場で上司がムスッとしているよりも、にこにこ仕事している方が、職員も働きやすいのではないか。いい雰囲気というのは表情一つで変わってくるのではないかと感じたのです。幼稚園で働いていても、今思えば、割と無表情でいることが多いなと反省しています。しかし、家にいるとわが子に対しては目が合うとニコッと笑いますし、子どもがやっていること一つ一つがかわいくもあり、笑うことも多くあります。
なぜ、職場と家庭でこれほどの違いがあるのでしょうか。もちろん、家庭では子どもはかわいいですし、よく育ってほしいとも思います。表情豊かで楽しく過ごしてほしいと思うからこそ、こういった行動をするのでしょう。職場でも、同様のことを求めています。しかし、できているかというとできていません。気を付けなければいけませんね。
ちょっとした生徒の疑問から生まれたわが身を振り返る機会。これほども違いがあるのはなぜなのでしょうか。子どもと大人と対象が違うだけでもこうまで違うのはなぜなのでしょうか。このギャップを職場でもなくしていくといい職場になるのでしょうね。もっと、職員に対して興味をもって面白がるという姿勢をもてば、職場はもっと良くなっていくのでしょうね。
2024年10月30日 4:59 PM |
カテゴリー:日々思うこと |
投稿者名:Tomoki Murahashi
先日、他園の園長先生と話していく中で、保育における規模の話が話題になりました。私は保育に携わるあたり、これからの日本においてどういった位置づけであるべきなのかといったように割と大きく考えてしまいます。しかし、話していた先生は「せいぜい自分の周りにいる人たちに幸せになってもらえたらいい」という回答をもらいました。確かに、自分自身できることはそれほど多くの人を助けるということはできません。実際のところは自分の周りにいる人や預かっている子どもたちくらいのものだと思います。ただ、実際に先の世の中を考えて保育を進めていくことが意味のないことだとも思っていませんし、その先生が、広く何も考えていないかというとそんなことはなく、私などが太刀打ちできないほど日本の保育において力を発揮している先生です。尊敬でしかありません。まぁ、今の私のように人に対してあ~だこ~だいうくらいならまず行動しろということなので、改めて自分の帯をギュッと締める機会となりました。
私は割と図に乗りやすいところがあるのを自覚しています。そのくせ、ヒトのやっていることにはなぜか上から目線で見てしまう節があるので、気を付けなければいけません。はてさて、どのように自分自身を保てばいいことやら、すこしずつ自覚し、メタ認知を行っていくなかで、自分の精神面を育てていかなければいけないのだろうと思います。その中で大切にしなければいけないことはきっと「感謝」なのだろうと思っています。それはなにも自分にとってありがたいことや助かったことをしてくれた人に対して行うことではありません。仮に自分にとって不利益であったり、嫌な思いをしたりすることに対しても、自分を自覚する機会や反省する機会ともなりますのである意味でそういった機会を与えてくれたことに「感謝」です。常に自分との向き合う機会が図に乗りやすい私にしてはちょうどいい塩梅のように感じています。一つ一つが成長の糧になっています。
そういう話をすると妻には「無駄な悩み」といったように見られますし、知り合いの先生からは「悩むのが好きだよね」ともありがたいお言葉をもらっています。なかなか思うような評価は受けられません。ただ、願わくば楽しくいきたいものですし、周りにいる人たちに幸せになってもらいたいと思っています。
2024年7月25日 5:56 PM |
カテゴリー:日々思うこと |
投稿者名:Tomoki Murahashi
先日、とある大学での授業をお受けすることがありました。生徒の意見を聞きながら話をすることが求められる内容だったのですが、実際学生を目の前にして話すと、なかなかいつものように話すことができず、生徒と関わる中でも「硬さ」であったり、「気負い」のようなものを自分が持っているように感じました。自分が思っている以上に気を使っていたのかもしれません。ただ、そういった自分の状態を理解すると「あぁ、気負っているな。」と思おう。そのうえで、「自分は非常勤講師ではなく、ある園の副園長としての改めて考え意見を言おう」「生徒は現場に出るときに誰に、何を言われ、見られるのか」ということを改めて考えると、すっと肩の力が抜け、こちらが「教えなければいけない」ではなく、生徒の「知りたいもの」はなんなのかを見ることができました。
こういった自分を振り返るといういわゆる「メタ認知」というものは保育をする上でも非常に重要になってきます。そして、保育であったり、教育を行うにあたっても、子どもと関わるにあたっても「我を顧みる」ことは本質を見直す瞬間になります。「なんのために教育や保育は大切なのだろうか」や「子どもとの関りはこれが適切であっただろうか」と本質に立ち返るためには冷静さがなければ、立ち返ることができないでしょう。もしかするとこれがベテランと新人との大きな違いかもしれません。
歴の長い先生はそれだけさまざまな問題を経験として解決してきました。それは「事例」が多いとも言えます。この事例が多いことで見通しを持つ「余裕」が生まれ、冷静さに繋がっているのだろうと思います。逆に言えば、新人であっても、冷静さをもっていれば、様々な物事に目を向けることができるようになるのかもしれません。単に「冷静」といわれても何を指すのかわからないことがありますが、「様々な面に目を配らせることができる余裕」が「冷静」といえるのかもしれません。
次に、「冷静」になった後に、物事に対して「何のために」や「どうとらえるか」という視点が必要になります。この際、気を付けなければいけないのが「自己中心的」であったり、「自分視点」になることではないでしょうか。この視点で物事を見てしまうと「相手にとっての自分」ではなく「自分にとっての相手」になり、他力本願になってしまいますし、何事においても「相手のせい」なとらえ方になってしまいます。あくまで、「相手にとって何が聞きたいのか」「何を言いたいのか」を目的に話をしなければいけないのだろうと思います。それが「会話」なのだろうと思うのですが、そう考えると「会話」というコミュニケーションを行うためには「相手に何を話すか」以上に「自分を振り返ること」や「相手を見ること」「自己中心的ではいけない」といったことなど、非常に複雑な感情のコントロールが根底にあるということが見えてきます。
2024年4月9日 3:03 PM |
カテゴリー:日々思うこと |
投稿者名:Tomoki Murahashi
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