日々思うこと

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「心のシャッターを開け」「ともに考える姿勢」を見せたつぎに行うのは「チャンク・ダウン」だと鈴木氏は言います。チャンクとは“かたまり”を意味します。そして、それをほぐしていくのです。それが「チャンク・ダウン」です。人は経験談や体験談を大きなカタチとして捉えます。鈴木氏はこのことをハワイ旅行をテーマに説明しています。

 

ハワイ旅行に行った感想を聞いたとき、「あそことあそこにいったこんなことをした」と話す人は少なく、どちらかというと「楽しかった」とか「まぁまぁだった」といったざっくりとした感想が返ってくることが多いのではないかというのです。つまり、こういった大まかな感想をより具体的にほぐしていくのです。たとえば、「すごく楽しかったって、具体的に何をしたの?」と尋ねると「ゴルフコースを回ったんだけど、それがすごくよかった」「そうなんだ、どんなところがよかったの?」「海岸が隣接していて」といったようにです。

 

相手の固まった言葉を受けて、それをほぐしていくのです。そうしていくなかで、はっきりしないところを見えるようにしていき、相手のチャンクの中身を詳細に知ることができるのです。それは相手の今いる状況を理解することにも繋がりますし、相手にとっても情報を整理することにもなるのと思います。よく、東京大学に入学させた多くの親が子供に対して、かける言葉で多いのが、結果を褒めるのではなく、なにを頑張って、どういったところを大切にしたのかということを聞くと聞いたことがあります。それは過程を大切にするというだけではなく、自分に何が足りなくて、どうしていけばいいのかという自己評価と自己整理においても有用な方法であり、それに気づくことで、自分が主体的につぎに何をすればいいかを整理することにも繋がるからなのでしょう。相手から聞き出すためには相手に興味を持ち、聞く姿勢がなければいけないということがよくわかります。

 

そして、その次に重要なのが「すぐに答えられる小さな質問をする」コーチングの重要な部分に「相手の発見を促す」ことがあります。あくまで、自分自身で見つけることが目的なのです。だからといって、いきなり大きな質問は難しいというです。たとえば「君の持っているビジョンって何?」とか「会社をどうしていきたいの?」といった言葉です。いきなりこういった言葉をかけても確かに戸惑ってしまいます。まずは、「大きい質問に答えるには、自分の意識を深く内側に入り込ませる必要がある」というのです。言い換えると、「相手の意識を小さな質問で慣らすのです」。ここで紹介されているのは「昼飯、食べた?」とか「子どもはいくつになった?」とかです。こうやって徐々に質問に慣れさせていく中で、大きな質問を投げかけることが鉄則なのだそうです。

 

確かに、「大きな質問」に答えるときにはある程度の準備も必要ですし、ある程度何を言っても大丈夫という相手との信頼関係も大きな影響を与えます。そのため、ちいさな質問というのは相手との関わりの「アイドリングトーク」という意味合いがあるのでしょう。「相手の体験をほぐし、ちいさな質問から関係を作る」こういったプロセスを地道に作っていく中で、初めて大きなトピックを話をする土台ができてくるのです。

共に考える

鈴木氏はコーチングは「引き出す技術」であると言っています。しかし、そうすると「引き出す側と引き出される側」に2分化されてしまい、コラボレーションの雰囲気が消え去ってしまうとも言っています。そのため、コーチングの醍醐味は「一緒に何かを探索することであり、発見すること」ではないかというのです。問いは「上から下に向かって投げる」のではなく、「2人の間に置いて、一緒に共有すべき」なのです。つまり、コーチの側もあくなき興味と関心を持って、その問いの中に入っていくことが重要になってくるのです。多くの企業の管理職の人は、上司の側にすでに答えがあることが多いと言います。しかし、相手に試練を与えようとするのです。それではコーチングの哲学には反します。

 

コーチはあくまでも、相手の問いに対して等しく向かい合う。「この会社の存在意義は何だろう」「この部門はどう変わる必要があるだろう」「そのために我々はどのように変わることを求められているだろう」と、こういった「問いに対して等しく向かい合う」という前提を考えると、コーチングらしい質問というのがあるのではないかと鈴木氏は言っています。

 

このことはよく職員の先生と話していても、感じるところであります。自分自身答えをもっていることが多いのは確かです。「こうしたらいいのに」と思ってしまうのですが、なかなか相手がそこに気づかないとヤキモキします。しかし、これを見る限り、答えを持っているのに話さないのももったいないことなのかもしれません。大切なのは「共に考える」という姿勢を持つことなのでしょう。つまり、上から「こうする」ということをいうのではなく、相手の意見を引き出す必要があり、「頼る」という姿勢を見せることが重要なのかもしれません。そうすることで、相手は自分という存在を認識し、認められたという「承認欲求」が満たされることで、どんどんと前に出るポジティブさがより出てくるようになるのだろ津ことが見えてきます。

 

では、このことを保育として捉えるとどうでしょうか。子どもたちには先生に疑問を投げかけたとき、子どもたちと共に考える姿勢を見せているでしょうか。割と自分も現場で働いていた時には、子どもの問いかけに対して、すぐに答えていたかもしれません。しかし、それでは、子どもたちにとっては主体的に考える機会を失わせていたかもしれません。ともに一緒に考えながら、考え込める環境を作ったり、一緒に不思議がるということを大切にしなければいけないのだろうと思います。そして、そうやって考えている子どもたちの姿を認め、慈しむような心を持っていなければいけないのかもしれません。そして、子どもたちの活動を一緒になって楽しむということが保育士や大人がしなければいけないことなのであって、何も答えをすぐに教えることは子どもにとってすべてが良いわけではないのでしょうね。

 

共に学び、ともに楽しむ。こういった姿勢は、大人にとっても、子どもにとっても、大切なことで、その根底には共感する力が大切であり、相手の人格を認める必要があるのだろうということが分かります。

情報処理

アンドレアス氏は「人々を情報から守るのではなく、受け取った情報を扱う人々の能力を強化するほうが有益かもしれない」と言っています。これからの学習者は、信頼できる情報源と信頼できない情報源、事実とフィクションを区別できる必要があるのです。これからにおいては、現在受け入れられている知識や慣習に疑問を感じたり、改善しようとする能力を持つ必要があるのです。

 

20世紀までのリテラシーは事前にコード化された情報を抽出して処理することでした。21世紀のリテラシーとは、知識を構築し、検証することがあるのです。たとえば、これまでの教員は百科事典で情報を調べ、その情報が正確かつ真実であると生徒へ教えることができた。今日、例えば、グーグル、バイドゥ、ヤンデックスは、あらゆる質問に対して何百万という回答を提示します。そのため、私たちの役割は、こういう提示された答えに対し、多角的に分析し、評価し、知識を構築することが求められます。つまり、これからの社会においてはこれまでの学習方法では求められない部分に大きな意味が出てくるのです。

 

さらにアンドレアス氏は「個人、地域、社会にとって現代生活の複雑さが増すことで、さまざまな問題に対する解決策も複雑になってきます。構造的に不均衡な世界では、時にはグロバルな影響を伴うローカルな環境において、多様な視点や利益を調和させることが不可欠であるため、若者はジレンマ、トレードオフの扱いに熟達する必要がある。互いにぶつかり合う公平と自由、自治とコミュニティ、イノベーションと持続性、効率性と民主的なプロセスの間のバランスを取ろうとすると、二者択一または単一の解決策はめったにない。個人は、相互のつながりを意識した、より包括的な方法で考える必要がある。これらの認知スキルを支えるのは、共感(他者の視点を理解し、直観的または情動的に反応する能力)。適応力(未知の経験、新しい情報、さらなる洞察を踏まえて、認識、実践、意思決定を再考し、変更する能力)、そして、信頼である」というのです。

 

このことについては、実際働いている中で感じることが多いです。割と今の人で多いのが「0か100で考える」ことが多いように思います。どっちがいいのかをはっきりとさせたがる様子を見ることが多く、「良いところを尊重し合い、新しい価値観を考えること」がなかなか難しいような様子を感じることが多いのです。今の時代、さまざまな価値観があり、情報も多々ある時代において、こういった相互なつながりを意識した、より包括的な方法で考える視点はより必要な時代になってくるのだと思います。このことは良い変えるといわゆる「思いやりの精神」でもあるように思います。お互いの気持ちの尊重をしながら、落としどころを見つけていく。子どもたちの日々の生活の中では喧嘩や言い合い、意見の食い違いが多くあります。その時に教員や保育者の介入は非常に大切になってしまいます。よく職員が入って「ごめんなさい」までを一つのパッケージのようにして関わらせることがありますが、それがいかに「もったいない」ことをしているのかということが分かります。子どもたちは日々の子ども同士の中で関りあい、葛藤を日々感じています。こういった自分と向き合い、乗り越えていくことが、結果としてこれからの社会に貢献する力となるのです。そのとき、大人がやらなければいけないことは「導く」や「指導」ではなく、「みまもる」ことなのでしょう。子どもは自分の中で考える力があり、人格者だということを改めて考えなければいけませんね。

変遷

PISAの学力調査では、各国がどういった教育を行っているかということまで、調整してテスト内容を決めているわけではありません。当然、議論の中には生徒に学校で習得していないことをテストに出ることが不公平だという批判的なものあったそうです。しかし、アンドレアス氏は「人生における試練は、昨日学校で習ったことを覚えているかどうかを問うものではない。今日想定しえなかったことに将来対応できるかどうかが問題になる。現在の世の中では何を知っているかではなく、知っていることで何ができるかが試される」と述べています。

 

これはまさに今日本が教育改革を行う上で、目的としているものそのものです。そして、日本がPISAの学力調査において、弱い部分でもあります。日本は科学的リテラシーや数学的リテラシーは未だトップクラスに良いのですが、読解力においては大幅な低下が見られます。その中でも記述式の自由回答においては無回答が多かったそうです。つまり、問題を解くということは今でも十分すぎるほどのスキルはあるが、自分の考えを伝えることが苦手なのです。このことから日本では読解力の育成を念頭に教育が見直されることになり、それが「思考力・判断力・表現力等の育成」という教育が進められるようになったのです。

 

このように進められたPISAの学力調査ですが、その進み具合は当然順風満帆ではなく、2001年から結果における議論は白熱したものになります。なぜなら調査結果により明らかになった教育の姿は、大多数の人が思い描いていたものとは大幅に異なったからです。はじめ、アンドレアス氏が開発したシステムは、自国の成績を知ることができるが、他の国や地域との比較した結果は分からないようになっていたのです。2006年の調査結果が公表されると議論は最高潮に達します。それは各国のその時点での位置を示すだけでなく、2000年の最初のPISAの学力調査以来、状況がいかに変化したかを測定する3つのデータポイントも含めてあったからです。

 

状況が改善していないというのは政府の政策にも影響があります。しかし、政策立案者にとっては認めたくないものです。結果、政治的な圧力もかかることは避けれない状況になりました。しかし、2006年OECDに着任して間もないアンヘル・グリア事務総長は、PISAの教育改革への影響力を見出し、PISAを成功に導くべく尽力しました。

 

OECDは経済開発協力機構が日本名で、世界経済について話し合わされている中、経済の国際機関が教育についても、研究や政策が行われています。つまり、教育は経済にもつながると考えられているのです。つまり国を維持し発展させるのはその時期の大人だけではなく、もうすでに教育を受ける時点から始まっていると考えているのです。もう少し、我々はこのことを意識すべきなのかもしれません。「生きる力」といっても、なにをどう意識すればいいのかが分からない人は多いような気がします。しかし、もう少し、社会の変遷に目を向け、考えていくと「生きる力」というものが何を意味するのかは想像しやすくなるかもしれません。

PISAの始まり

国際的な学力調査で有名な「PISA」ですが、現在紹介しているアンドレアス・シュライヒャー氏はそのPISAを生み出した人でもあります。では、PISAというのは何を目的としてつくられたのでしょうか。そもそもPISAは1990年代後半にOECDにおいて、教育政策の厳密さを適用してはどうかという考えから作られました。1995年のパリでのOECDの本部では28カ国の代表と教育省高官とで最初の会議が行われました。そこで、アンドレアス氏が自国の教育システムを世界各国と比較できる国際的なテストについて提案をします。大多数は「それは不可能だ」「行うべきではない」「国際機関の時間ではない」という意見がでたのです。OCEDはそれまでにも教育比較に関する多数の調査結果を発表していました。しかし、それらは主に就学年数の測定に基づくものであり、必ずしも学校で学んだことで実際に何ができるかを示す指標にはならなかったのです。

 

「PISAにおける私たちの狙いは、トップダウン組織にさらなる層を作ることではなく、学校や政策立案者が官僚制度の中で上に向けていた目線を、次世代の教員、学校、国のために外部に向けるようシフトさせることだった」とアンドレアス・シュライヒャー氏は言っています。そして、「高精度のデーターを集め、それらをより広範な社会的結果に関する情報と結びつける。そして、教育者や政策立案者がより多くの情報に基づいて、決定できるように、これらの情報を提供する」と言っています。

 

そして、その本質は「学ぶことの情熱を育てること、想像力を刺激し、未来を築くことのできる自立した意思決定者を育成することだと考える。したがって、教師に習ったことを生徒に再現させて、習得の度合いを評価することには重点を置きたくなかった。PISAで高い得点を取るためには、生徒は知っていることから推測し、学校で習う教科を横断して考え、未知の状況に対して自分の知識を応用しなければならない。私たちが知っていることを生徒に教えることだけでは生徒は教員の足跡を追えばよいと思うだろう。しかし、学び方を教えれば、生徒は自分の行きたい方向へいくことができるのだ」と言っています。

 

このことを受けて、現場ではどうでしょうか。アンドレアス氏の言葉を使わせてもらうとすると未だ教師に習ったことを生徒に再現させて、習得の度合いを評価するというのはスタンダードです。これは小学校のみならず、乳幼児教育においても、先生の言うとおりに、政策をさせたり、一辺倒な作り方や指導中心の教育方法が行われています。それを行うことで「横断的な考え」ということができるのでしょうか。これからの社会では「関連する力」が必要だと言われています。それぞれの知識をつなげ、関連付けることでイノベーションが図られるのです。そして、そのためには教えられてできるということよりも、自分で考え動くという、考える力が必要になってきます。PISAの学力調査はそもそも、そういった各国の教育の粋を集め、より良い教育のありかたを模索することが中心にできたものなのですね。現在ニュースでも国際的な学力調査において、順位の推移ばかりが取り上げられますが、成績ばかりに注目するのではなく、その裏側にある。本質としての教育というものをしっかりと見ていかなければいけないということを感じます。