日々思うこと

自分の言動

日々の中で、自分の言動から改めて自分の行動を見直すことがあります。今、非常勤講師で言っている大学で、生徒がこんなことを言っていました。「子どもが楽しく活動をするとき、保育者も楽しんでいることは大切だと感じた」と記録に書かれていました。これに対して、「子どもは大人の姿を見ているし、先生が楽しそうにしていたら、子どもも楽しくなってくることがあるよ。やっぱり、ムスッとした先生が子どもを見ているよりも、にこにこして子どもを見ている先生がいる方がこどもたちも楽しくなってくるからね」と解説したのですが、ふと私自身、幼稚園の職員に対して、自分はできているのかと感じました。

 

このような雰囲気づくりが有効なのであれば、職場で上司がムスッとしているよりも、にこにこ仕事している方が、職員も働きやすいのではないか。いい雰囲気というのは表情一つで変わってくるのではないかと感じたのです。幼稚園で働いていても、今思えば、割と無表情でいることが多いなと反省しています。しかし、家にいるとわが子に対しては目が合うとニコッと笑いますし、子どもがやっていること一つ一つがかわいくもあり、笑うことも多くあります。

 

なぜ、職場と家庭でこれほどの違いがあるのでしょうか。もちろん、家庭では子どもはかわいいですし、よく育ってほしいとも思います。表情豊かで楽しく過ごしてほしいと思うからこそ、こういった行動をするのでしょう。職場でも、同様のことを求めています。しかし、できているかというとできていません。気を付けなければいけませんね。

 

ちょっとした生徒の疑問から生まれたわが身を振り返る機会。これほども違いがあるのはなぜなのでしょうか。子どもと大人と対象が違うだけでもこうまで違うのはなぜなのでしょうか。このギャップを職場でもなくしていくといい職場になるのでしょうね。もっと、職員に対して興味をもって面白がるという姿勢をもてば、職場はもっと良くなっていくのでしょうね。

自覚

先日、他園の園長先生と話していく中で、保育における規模の話が話題になりました。私は保育に携わるあたり、これからの日本においてどういった位置づけであるべきなのかといったように割と大きく考えてしまいます。しかし、話していた先生は「せいぜい自分の周りにいる人たちに幸せになってもらえたらいい」という回答をもらいました。確かに、自分自身できることはそれほど多くの人を助けるということはできません。実際のところは自分の周りにいる人や預かっている子どもたちくらいのものだと思います。ただ、実際に先の世の中を考えて保育を進めていくことが意味のないことだとも思っていませんし、その先生が、広く何も考えていないかというとそんなことはなく、私などが太刀打ちできないほど日本の保育において力を発揮している先生です。尊敬でしかありません。まぁ、今の私のように人に対してあ~だこ~だいうくらいならまず行動しろということなので、改めて自分の帯をギュッと締める機会となりました。

 

私は割と図に乗りやすいところがあるのを自覚しています。そのくせ、ヒトのやっていることにはなぜか上から目線で見てしまう節があるので、気を付けなければいけません。はてさて、どのように自分自身を保てばいいことやら、すこしずつ自覚し、メタ認知を行っていくなかで、自分の精神面を育てていかなければいけないのだろうと思います。その中で大切にしなければいけないことはきっと「感謝」なのだろうと思っています。それはなにも自分にとってありがたいことや助かったことをしてくれた人に対して行うことではありません。仮に自分にとって不利益であったり、嫌な思いをしたりすることに対しても、自分を自覚する機会や反省する機会ともなりますのである意味でそういった機会を与えてくれたことに「感謝」です。常に自分との向き合う機会が図に乗りやすい私にしてはちょうどいい塩梅のように感じています。一つ一つが成長の糧になっています。

 

そういう話をすると妻には「無駄な悩み」といったように見られますし、知り合いの先生からは「悩むのが好きだよね」ともありがたいお言葉をもらっています。なかなか思うような評価は受けられません。ただ、願わくば楽しくいきたいものですし、周りにいる人たちに幸せになってもらいたいと思っています。

会話

先日、とある大学での授業をお受けすることがありました。生徒の意見を聞きながら話をすることが求められる内容だったのですが、実際学生を目の前にして話すと、なかなかいつものように話すことができず、生徒と関わる中でも「硬さ」であったり、「気負い」のようなものを自分が持っているように感じました。自分が思っている以上に気を使っていたのかもしれません。ただ、そういった自分の状態を理解すると「あぁ、気負っているな。」と思おう。そのうえで、「自分は非常勤講師ではなく、ある園の副園長としての改めて考え意見を言おう」「生徒は現場に出るときに誰に、何を言われ、見られるのか」ということを改めて考えると、すっと肩の力が抜け、こちらが「教えなければいけない」ではなく、生徒の「知りたいもの」はなんなのかを見ることができました。

 

こういった自分を振り返るといういわゆる「メタ認知」というものは保育をする上でも非常に重要になってきます。そして、保育であったり、教育を行うにあたっても、子どもと関わるにあたっても「我を顧みる」ことは本質を見直す瞬間になります。「なんのために教育や保育は大切なのだろうか」や「子どもとの関りはこれが適切であっただろうか」と本質に立ち返るためには冷静さがなければ、立ち返ることができないでしょう。もしかするとこれがベテランと新人との大きな違いかもしれません。

 

歴の長い先生はそれだけさまざまな問題を経験として解決してきました。それは「事例」が多いとも言えます。この事例が多いことで見通しを持つ「余裕」が生まれ、冷静さに繋がっているのだろうと思います。逆に言えば、新人であっても、冷静さをもっていれば、様々な物事に目を向けることができるようになるのかもしれません。単に「冷静」といわれても何を指すのかわからないことがありますが、「様々な面に目を配らせることができる余裕」が「冷静」といえるのかもしれません。

 

次に、「冷静」になった後に、物事に対して「何のために」や「どうとらえるか」という視点が必要になります。この際、気を付けなければいけないのが「自己中心的」であったり、「自分視点」になることではないでしょうか。この視点で物事を見てしまうと「相手にとっての自分」ではなく「自分にとっての相手」になり、他力本願になってしまいますし、何事においても「相手のせい」なとらえ方になってしまいます。あくまで、「相手にとって何が聞きたいのか」「何を言いたいのか」を目的に話をしなければいけないのだろうと思います。それが「会話」なのだろうと思うのですが、そう考えると「会話」というコミュニケーションを行うためには「相手に何を話すか」以上に「自分を振り返ること」や「相手を見ること」「自己中心的ではいけない」といったことなど、非常に複雑な感情のコントロールが根底にあるということが見えてきます。

優先順位

前回の実習生の見方を通して考えていくと実習生の設定保育における見方の優先順位も変わってきます。これまで設定保育は何をしなければいけないかといったときに「実習生の設定保育を見る」ということが目的になっていました。しかし、これは誤りです。あくまで「保育時間内で行われている」ということを忘れてはいけません。つまり、優先順位としては「実習生の設定保育」というよりも、「子どもの保育活動をあくまで、実習生が主になって行っている」というようにあくまで子どもが主体といったことからズレてはいけないと思いました。

 

今自分がいる園ではチーム保育で複数の保育者で保育を行っているので、すべてを実習生に任せるのではなく、実習生と共に保育を行うことを念頭に置かなければいけないと思っています。チーム保育においては「設定保育」を行う実習生はその日の、その活動のリーダーであるだけといえます。なので、担当の職員は実習生とともに保育を行います。そうすることでより実践的なものになります。先日の内容にも書いたのですが、あくまで実習生の設定保育は失敗して当たり前です。子どもを見る期間も短く、ノウハウも多くあるわけではありません。そして、なにより、実習生は将来保育士として実践に立ちます。しかし、失敗というのはあまりにも子どもたちに失礼な話です。だからこそ、設定保育とはいえ「保育」ということを忘れてはいけないように思います。

 

このことを踏まえ、実習生に対して職員と話をしたのが「何を伝えるか」ということです。実習生に伝える最も重要なことは「子どもの見方」を伝えることだと思います。そしてそのために、どう現場の中で、理念を解釈して、子どもたちにどのように向き合っているのか、どう子どもたちの見通しを持っているのかを知らせることのほうが、細かく具体的な改善点を話すよりもより有意義であるのだと思います。具体的なテクニックは子どもの本質を理解していると勝手についてくるものだと思います。そして、そのために保育者は園の理念を理解していかなければいけません。そうでなければ、実習生に話すのは難しいと思います。保育者にとっても、実習生を受け持つというのは保育を振り返るいい機会にもなるのかもしれません。

 

私は何を優先にして、保育を進めていくのか、そういったことに気づくときに「そもそも」と考えることはとても重要だなと改めて感じています。「そもそも実習生には何を伝えなければいけないのか」「そもそも保育において実習生とはどういった立ち位置なのか」「設定保育とはいえ、そもそも保育の中で起きること」といったように、根本的なものを順序だてて考えていくことで、大切にしなければいけないことがシンプルに見えてくると同時に、いい意味で道筋の取捨選択ができるようになってくるように思います。

実習生

最近、実習生の受け入れが増えてきています。その際、当然、設定保育を見ることも多くなってくるのですが、現在では、私も職員と一緒に設定保育を見るようにしています。そもそも、実習生はなぜ、幼稚園や保育園での実習を行うのでしょうか。インターネットで検索すると「ほいくis」というサイトにこう書かれていました「保育士養成課程の学生が、保育現場で実際の体験を通して学ぶ活動のことです。実習期間中、学生は保育施設で子どもたちの様子や保育士の援助を観察したり、保育や教育活動に参加したりして、現場体験を重ねていくこと」とあり、続いて「保育実習を通して、保育園や保育士の役割を理解したり、子どもの発達や対応について学んだりすることを目的としています」とありました。大きな目標は「保育士の実践」であることが分かります。

 

私が勤めている幼稚園ではそれだけではなく「保育のすばらしさや楽しさ」といったものも同時に感じてほしいと思っています。よく「保育の厳しさ」や「現場に出たらこんなに甘くないよ」といって、生徒に雑用をばかりをさせたり、ひどいところでは子どもとすら関われない園もあると聞きます。実習生とはいえ、将来自分たちとともに働く人材と考えると、甘やかす必要はありませんが、必要な経験をさせなければいけないと思います。しかし、それ以上にこの仕事に夢や希望、やりがいを感じないと最終的に保育士として働こうとはならないんじゃないかとも思うのです。厳しい現実は働き始めると当然感じます。だからこそ、それ以上の楽しみを知っていないといけないと思うのです。そのため、職員には「実習生をたくさん楽しませてあげてほしい」「保育のすばらしさを知ってもらえるようにしてほしい」といっています。

 

また、実習には「設定保育」が付いてきます。実際に子どもたちを前にどのように保育を実践するかを指導教員に見てもらうのですが、最近この後の実習生の設定保育後のフィードバックについて考えることがありました。これまでの設定保育の観察では私も職員も「設定保育が成功したか、してないか」や「できる。できない」で見ていました。そのためアドバイスも割と具体的なことばかりを言っていました。もちろん現場の職員は具体的なアドバイスも言わなければいけないのですが、たかだかたったの2週間しかおらず、ましてや、現場に立ったこともない実習生です。子どもを理解することも、関わるための引き出しも多いわけではありません。そんな中、行う設定保育は失敗が約束されているようにも思います。それで「やりがいを感じるでしょうか?」むしろ、保育士になるハードルがかえって上がるように思います。そのため、その子たちに「できた。できない」でみるというのは酷なことでもあると、ふとそんなことを感じました。

 

では、何を見てあげればよいのでしょうか。先を考えると、実習生とはいえ、学校を出ると保育士になります。そうしたときに欲しい人材はどういった人材なのかを改めて考えました。そうすると、うちの園では「ピアノや制作などの能力が高いよりも、子どもの成長を楽しめたり、子どもの成長や発達を見通すことや子どもに環境を合わせて作りだす人」といった人であり、その根本には「子どもの見取り」が上手が人材であると言えます。こういった人材になってもらうために何を伝えることが重要かと考えると、「できたか、できないか」ことよりも、実習を通して子どもをどう分析する事かであったり、どう改善点を見つけるかといったことを手助けすることやアドバイスをことが重要なのだろうと思います。そうすると行動の話ではなく、もっと理念的な話になってきます。ここを伝えることこそが実習において重要なことだと今は思っています。そのため、職員も自園の理念を理解し、「実習生にはこうなってほしい」といった願いであったり、期待をもって見てあげなければいけません。

 

将来、実際の現場に立った時に重要になるのが、その園の理念を理解し考えて子どもに伝えることだと思っています。少なくとも、そういった人材がうちの園では欲しい人材です。「人を育てる」というのはそういうことなのだろうと思います。