日々思うこと

「保育を変えること」と向き合う――韓国からの見学を受けて

明けましておめでとうございます。
気づけば新年が明けてあっという間に16日が過ぎ、改めて時間の速さを感じています。

 年末に保育におけるマネジメントの難しさについて記事を書いたばかりですが、年始早々、韓国の教育関係者の方々が幼稚園の見学に来られました。韓国のある市による優秀教育研修の一環で、過去にも同様の見学があり、今回は久しぶりにお会いする通訳の方も同行されていました。

 事前にいただいていた質問は制度面に関するものが中心でしたが、実際に園を見ていただくと、やはり保育そのものへの関心が強かったように感じます。

最近、韓国でも「子どもの主体性」が改めて見直されているそうです。そのため、

  • 「子ども主体の保育とはどのようなものか」

  • 「保育を変える際に、保護者の意識をどう変えていけばよいのか」

といった問いが投げかけられました。

 日本でも、保護者対応は保育現場における大きなテーマです。「これまでと違う保育」を行うことは、保護者にとって不安が大きいものですし、それは園で働く保育者にとっても同様です。「保育を変える」ということ自体に、相当な覚悟とエネルギーが必要になります。

 現在では、私の園の先生たちは保育の理念を理解し、より良い園を目指して尽力してくれていますし、保護者の方々も園の目的や方針を理解してくださっています。しかし、保育を大きく転換した当初は賛否両論があり、厳しい言葉をいただくことも少なくありませんでした。今振り返ると、「あのとき保護者の思いにどこまで応えられていたのだろうか」と考えることもありますが、当時はとにかく必死でした。

 韓国の方々から「どのように変えていったのか」と問われたとき、私自身が大切にしてきたのは、いかに相手の立場に立って向き合うかということでした。

 表面的な言葉だけを受け取るのではなく、その背後にある本当の気持ちを読み取ろうとすることが重要だと感じています。保護者が口にする言葉の裏には、「保育が変わることへの不安」や「子どもがその変化の中で大丈夫なのか」という心配があったように思います。

だからこそ、「ただこれが良い」と押し付けるのではなく、「なぜそうするのか」「どんな良さがあるのか」を、保護者の疑問を出発点にして一緒に考えていくことが大切だと思います。

保育ではよく「温かく応答的に」という言葉が使われますが、これは子どもだけでなく大人にも当てはまるものだと感じています。相手を打ち負かすようなディベートではなく、「相手が本当に何を心配しているのか」を想像しながら対話する姿勢が必要です。

また、自分が答えられないことがあれば、それは自分の勉強不足である場合もありますし、ときには相手の方が正しいこともあります。そのときに素直に認められることも大切な強さだと思います。

こうした丁寧なやりとりに加えて、客観的なエビデンスを示すことも重要です。感情だけの議論では、かえって不安を高めてしまうことがあるからです。そうした意味で、自分自身に問いを投げかける「自問自答」も役に立ちました。

私は決して学ぶことが得意なタイプではなく、ついサボりたくなることもあります。しかし、今の自分があるのは、周囲の人との関わりの中で学び、気づかせてもらうことがあったからです。良い出会いも、時に苦しい出会いも、自分を成長させてくれる大切なものだったと感じています。

2026年もさまざまな出会いや課題があると思いますが、一つひとつに真摯に向き合いながら、自分自身も成長していければと思います。

教育の必要性

民主主義は、ヘーゲルの「自由の相互承認」とルソーの「一般意思」(みんなの意見を持ち寄り、みんなの利益になる合意)によって理解できます。そして、このような民主主義的なあり方を学ぶ場こそ、公教育、すなわち学校教育の本質である、と苫野先生は話しています。

 

しかし、現代の学校現場では、不登校やいじめ、体罰、小一プロブレム、落ちこぼれ、吹きこぼれなど、さまざまな問題が見られます。これらの問題を思うと子どもたちが自由に学べているようには思えません。苫野先生によれば、こうした問題は子どもや時代のせいではなく、学校システム自体に原因があると言われています。現行の学校制度は150年間ほとんど変わっておらず、「みんなで同じことを、同じペースで、同じ方法で学び、出来合いの答えを考えるベルトコンベア式のシステム」と表現されます。これは大量生産の手法がそのまま教育に持ち込まれたものであり、私も共感します。

 

そもそも、現在の小学校教育は多子社会の中で成立してきた制度です。そのため、民主主義的な学びの本質は抜け落ち、成績や結果に重きが置かれるシステムになっていました。その中で、多子社会では、学校外の兄弟関係や地域の子ども社会が、自然と民主的な学びの環境を補っていたと考えられます。しかし、少子化が進む中でシステムを変えなかったため、現在のような現場の問題が顕在化してきたのだと考えられます。

 

乳幼児期の教育環境でも同様です。現代では、子ども同士の関わりや教え合い、遊びの展開、みんなで考える体験を意図的に作り出す必要があります。つまり、多世代や年齢の異なる子ども同士が関わる環境を設けることが求められ、これが「協同的な学び」の本質です。

 

さらに、学習プロセスも見直す必要があります。吹きこぼれや落ちこぼれは、子どもに問題があるのではなく、同質性を重視するカリキュラムによって生じています。私は最近よく、「義務教育の『義務』が、義務教育期間に習得することを義務とするのではなく、在籍することの義務になっていないか」と感じます。本来の義務は「学ぶべきことを習得すること」であるはずです。そのため、進度にこだわらず、子どもの発達や理解に応じた個別最適化された学習が求められます。

 

現在、学校教育では「協同的な学び」とともに「個別最適化学習」が進められています。これにより現場の問題は改善される可能性があります。しかし、指導要領や受験制度、教科書、そして社会一般の理解不足が大きな障壁となっています。特に日本では「留年=落ちこぼれ」という見方が根強く、教育の本来の目的や目指す子ども像について、保育や教育に関わる者がしっかり意識を持つことが重要です。

 

苫野先生の講演を通して、教育の本質や課題を理解し、それを現場に発信する重要性を改めて感じました。

教育の哲学

先日、熊本大学の苫野先生のご講演を聴く機会がありました。今回は幼稚園のある門真市の教職員フォーラムの中での講演でしたが、私としては改めて考えさせられる機会となったため、ここでまとめてみようと思います。

まず、苫野先生はさまざまな本を執筆されている哲学者・教育者であり、熊本大学での勤務だけでなく、経済産業省産業構造審議会委員など、さまざまな場でご活躍されています。そのため、話の前半は哲学の話でした。ここが特に私にとって興味深いところです。というのも、私が学ぶ藤森メソッド(見守る保育)の藤森先生もよく「保育は哲学で考えるべき」とおっしゃるからです。私もその考えに賛同しており、教育や保育においては「何のために行うのか」を考えて取り組むべきだと思っています。

最近では価値観も少しずつ変わってきているのだと思いますが、かつては「いい大学に入り、いい会社に就職すること」が理想とされ、それに伴い成績や学歴が重視されてきました。「頭がいい=勉強ができる」という考え方や、成績や学歴で人を判断する風潮があったように思います。もちろん、生きていく上で必要なステータスであるとは思いますが、だからといって「幸せか」と問われると、必ずしもそうではないように思います。

また、これからの社会では、AIの台頭や労働人口の減少、少子高齢化、海外からの労働者によるグローバル化など、これまでとは全く異なる状況が予想されます。こうした中で、旧態依然とした教育は遅れを伴うと考えられます。吹きこぼしや落ちこぼれ、若年の自殺者、引きこもり、不登校、SNSの問題といった課題がある一方で、自己肯定感や自尊感情の低さ、コミュニケーション能力の低下も指摘されます。いくら勉強ができて成績が良くても、さまざまな問題によって学校生活や社会生活で活躍できないことが多々起きています。

これまでのような、知識を暗記して覚える学びは、今後AIによって代替される可能性があります。実際、大学などでもAIが利用されることがあります。それを遠ざけるのではなく、今後は「どう使っていくか」が重要なスキルになってくるでしょう。そうなると、これまでの学習の価値観も大きく変わると思います。だからこそ、「なぜ保育が必要か」「なぜ教育が必要か」という本質を追求することが重要です。苫野先生は「哲学とはそもそも本質を考え抜き、それにまつわる問題について考えること」と話されていました。

では、良い保育や教育とはどのようなものでしょうか。苫野先生は、教育が変わる時代であったり、AIによって知識の習得が個人でも可能になったとしても、「公教育は絶対に必要だ」と話されていました。私もその考えに賛同しますが、その根拠はどこにあるのでしょうか。

誰のためにあるのか

ここ最近の運動のストレスコントロールや性教育について考えると、共通していることがいずれも主体は大人が「つけてあげる」ものではなく、「本人が身につく」ことにあります。大人ができることは、環境を整えることに限られる場合が多いのだと思います。

 

運動でいえば、「遊びから生まれる運動」と、大人がルールを守らせる運動では、運動量に違いがあります。大人は決まったことを行わせがちですが、純粋な運動量という観点では、遊びの方がより多くの効果をもたらすこともあります。性教育においても同様です。「男女を分ける」「一緒にさせない」ということが目的になりがちですが、本来の目的は「性差を知ること」や「相手がいやなことをしないこと」を理解しすることに大きな意味があると思います。

 

つまり、どこに主体があるのか、誰のための行為なのかをよく考える必要があります。必ずしも大人がよかれと思って教育指導を行うことが、子どもの成長に好影響を与えるとは限らず、場合によっては「いらぬお節介」となることも理解しておく必要があります。

 

たとえば、性教育で「男女一緒にするのはどうか」という質問があります。しかし「男女を分ける」という前提自体、ジェンダーフリーの観点からはバイアスがかかっており、場合によっては差別的ともいえます。また、男性同士が苦手な男性がいるかもしれません。多様性が広く複雑になるほど、大人が枠組みを作ることは難しくなります。そのような世界で生きる今の子どもたちは、私たち大人よりも柔軟な意識を求められるでしょう。既存の意識で子どもたちを縛ることは、将来の障壁を作ることにもなりかねません。

 

だからこそ、大人は選択肢や環境を用意するなど、間接的な関わりの質が重要になってくるように思います。子ども自身が考え、進む道を選べるよう、大人がじっくり待つことが求められます。根気のいることですし、子どもを信じることは心配にもなります。人を信じることの難しさは、自分自身もまだまだ学ぶところがありますが、保育においてはこの点をよく考えていきたいと思います。

運動とコルチゾール

ストレスがコルチゾールが偏桃体から視床下部を通して発生するということがわかってきました。そして、そのコルチゾールをコントロールする脳の部分が海馬であり、この部位が過度にストレスがかかり続けると記憶障害などの様々な影響が出てくるということもわかりました。では、このストレスと運動はどのように関わってくるのでしょうか。

 

実際のところどうかというと、運動というのはコルチゾールの分泌を増加させるそうです。減らすのではなく、かえって増やすのです。なぜなら、運動は肉体に負荷をかける行動なために、身体からすると一種のストレスになるからです。運動をすることで体中でエネルギーや酸素がより必要になり、このことにより血流を増やそうとして心臓の鼓動は激しくなり、息が上がったり、心拍数が上がったりします。これはコルチゾールによる分泌が正常に起きているからです。運動が終わると体はストレス反応を必要とするような状況ではなくなります。つまり、緊張状態や脅威と立ち向かうような状況、運動が必要とする状況ではなくなるため、コルチゾールの分泌は減り、運動をする前の状態にまでコルチゾールは減っていきます。

 

このような状態が習慣化されていくと、運動に対するコルチゾールの分泌量は増えにくくなり、運動後の下がる量は増えていきます。要はコルチゾールが上がる習慣と同時に下がる習慣も鍛えられていくわけです。そして、定期的に運動習慣を続けていくと、運動以外のことが原因でストレスを抱えていても、コルチゾールの分泌量はわずかしか上がらないといった状態になっていきます。ストレスに反応が運動によって鍛えられていくのです。

 

では、運動はどれほどの運動が適しているのでしょうか。一つは「モントリオール・イメージング・ストレス・タスク」(MIST)というテストがあります。これはストレスに対して私たちがどのような反応をするかの実験です。実験協力者はあらかじめ平均正解率が80~90%であると教えられます。しかし、このテスト、被験者が答えて正しかろうが、誤っていようが正解率が20~40%になるように調整されています。なおかつ、被験者には特典が平均よりも下回っていると伝えられ、被験者はイライラするように設定される意地悪なものです。その際、被験者を30分サイクリングするグループと心拍数が増えない程度の運動を行うように指示しました。結果は、サイクリングするグループのほうがコルチゾールの濃度が低かったのです。つまり、ストレス反応がサイクリングをした方が強く出なかったということがわかります。これは被験者が普段から体を鍛えていようが、そうでなかろうが関係ない結果でした。これは肉体的なコンディションに関係なく、運動をすること自体がストレス反応を鎮めるということが証明されました。また、海馬の働きも活発化し、HPA軸の反応も抑えられたのです。

 

大人にとっても、運動は必要なのはもちろんのことですが、こう考えると子どもたちが外で遊べる環境が少なくなっているのが気になります。公園でも子どもたちが遊んでいる姿が少なくなっていますし、物騒な世の中です。今の時期、夏は熱中症のリスクのため、外に出ることも躊躇してしまうような気候です。子どもたちが体を存分に動かす環境がどこにあるのか、またはテレビやyoutube、インターネットなど、家庭内での環境が充実している一方で、体を動かす習慣というものが少なくなっていることもいえます。幼稚園や保育園、こども園といった施設や学校などの子どもがたくさんいる施設での役割というものがこういった部分にも多くあるのかもしれません。指導的なものも必要かもしれませんが、子どもが指示された動きでなく、存分に体を動かし遊ぶ環境も作ることが必要な時代なのだろうと思います。