寺子屋

寺子屋とは「寺小屋」とも記されることがあります。通説によると生徒を意味する「寺子」を集める職業「屋」が近世の寺子屋の原義で、主としては関西で使用された呼称と理解されています。その一方で、寺小屋は文字通り「寺」の「小屋」であり、近世の寺子屋とは区別されて使用されています。しかし、実際のところ、近世の史料を見ると、厳格な区別はないようです。ましてや、そもそも、研究者の中では、寺子屋という呼称自体、妥当かどうかといった議論も出ているようです。

 

文献上では、「寺子」という名称が初めて出てくるのは大阪の書肆(書店)が元禄8年(1695年)に刊行した笹山梅庵の『寺子制誨式目』(てらこせいかいのしきもく)であるとされています。それ以降、「寺子往来」(正徳四年〈1714年〉)や「寺子宝鑑」(享保十四年〈1729年〉)のように「寺子」という名称を用いたテキストが刊行されています。

 

大阪の私塾懐徳堂(かいとくどう)の儒者である中井竹山が松平定信に献上した『草茅危言』(そうぼうきげん)(寛政元年〈1789年〉)の中で、当時の庶民の風俗があらわされており、「村学蒙師」(そんがくもうし)と呼ばれる人が読み書きを教えていたようです。またその村学蒙師は学問に精通した知識人というよりも、子どもに物を教える程度の学力を持った人であったようです。さらにこの時期において、寺院教育は世俗化され無関係になっていたにも関わらず、寺院教育の名称が継承されたと述べられています。これに対し、寺子屋研究の開拓者でもある石川謙はこうした用語そのものが中世寺院教育が一直線の路線を伝って、近世の寺子屋につながったかのような誤解を与えていると言っています。そのため「寺屋、寺子、寺入り」といったこの頃の用語は近世中期に登場する寺子屋特有のものと断定しました。このように、寺院教育の流れがあるという説も、途切れているという説もあるのですが、この頃、中世寺院教育の世俗化は進み、寺院とは全く無関係な形態にまで展開したのが、近世中期の寺子屋の特徴になります。

 

明治の中期に文部省が旧藩時代の全国の藩校・郷校・寺子屋の調査をしました。それに基づいた「日本教育史資料」によると、寺子屋の総数は1万5000あまりあったと記録されています。そして、その開設は十九世紀に入って急激に増加していたようです。しかし、その後、近世の町史や県史といったものを改めて編集しまとめていくと寺子屋の総数は大幅に書き換えられ、実際にはこの倍近い寺子屋が存在していたと推定されています。また、これを人口比率から見てみると、現在の小学校の数に匹敵するほど、その数は増えていたようです。

 

子どもの人口比から見ると現在の小学校の数と同じというのも、面白いですね。また、この頃の子どもたちに勉強を教えていたのは今のように正式な資格をもった知識人というよりも、子どもにものを教えることが出来るくらい程度のものであったというのも、面白いですね。まさに、まだこの頃は生活において必要に応じた知識を教えるという実践的な教育が求められたものが教えの中に多くあったのだろうことが見えてきます。