志の教育

齋藤氏は「新しい学力」や「問題解決型の学力」はこれからの変化の激しい状況の中で、確認が適切な判断をしていくことが求められているが、伝統的な学力も新しいが学力に向かうために必要であり、その力が「新しい学力」を下支えするものであると言っています。そして、そのためには教師や親においても熟練のスキルと教育への情熱、また生徒や子ども一人一人に寄り添う丁寧なケアが必要となるのです。それは決して子どもを放置することではないと齋藤氏は言っています。

 

このことは保育でもそうです。子どもを「見守る」というとよく勘違いされるのが、「ただ子どもを見る」ということと取り違え見られることです。「見守る」という言葉には「見守れるから見守る」ということが言えます。つまり「見守れない」のであれば、見守ってはいけないのです。「見守る」という言葉には見守れるくらい自立していることが条件になるのです。そのため、ただ「見ている」というのは「見守る」わけではなく、「放置している」のと変わりません。大切なのは「見守れない子ども」をどう「見守れる子」にするのかを考えて保育をしていかないければいけないのです。そこにはアクティブラーニングにもある「主体的な」部分は必要ですし「個性」も尊重されるべきです。しかしそれと同時に集団への意識も持たさなければいけません。この「個性」とか「ひとりひとり」という言葉が独り歩きをして、集団が抜け落ちている考えはどこか変だと思います。

 

齋藤氏はさらに重要なことは「志の教育」を挙げています。いくら学習やスキルや知識を入れたとしても、「その人物の核心に、学問を愛する情熱や良きことを求める倫理観がなければ、それはまさしく単なるスキルに過ぎず、何の意味もない。」というのです。磨いた学力で、何を考え、何を求めていくのか、本当に大切なのはそこであろう」といっています。このことは特に大切なことです。松下村塾においても、やはり学ぶその根底には目的があるのです。何のために学んでいるのかが教師自身が見通せていないと学習者である子どもたちも学ぶ意欲が出てこないのは明白です。

 

今の時代、受験や学歴を生徒たちが求めがちになるのも、もしかすると「何のために学んでいるのか」を探している結果なのかもしれません。社会において何の役に立つのかもわからないものを授業だからといわれ学んでいるのはなかなかモチベーションを保つのは難しい。だから、テストの点数などを通して、「学んだ実感」が欲しいのかもしれません。しかし、それは実社会において、必要とされるものでもありますし、そこで学んだ成果というのは、齋藤氏のいう「粘り強く学ぶ」力を得ることになるのかもしれません。しかし、目的のない粘り強さが果たして、本来の意味の粘り強さを生むのでしょうか。社会において重要な粘り強さは「答えを出すことで社会に貢献する」ために頑張れることではないのでしょうか。今の時代に必要な力はそういった一つ一つの能力をつけていくことを目的とした教育ではなく、子どもたちが「夢」や「目標」を持って教育を受けることでもあるように思います。ただ単に、粘り強さを得るというのはロボットを作り出すのと変わりません。そのため、教師などの教育関係者は子どもたちにとって、精いっぱいやってみたい、なりたい自分を探す手伝いと、そのための援助をしてあげることが目的であるように思う。