子どものごっこ遊び

私たちが物理的世界で何かの課題に取り組むとき、なにより大切なのは現実世界の因果マップと理論であって、これらをもとに青写真が描かれるように思います。これに対し、心の世界の問題を考えるときは、反実仮想、青写真、フィクションの方に大きな比重が置かれるようです。

 

子どもたちもごく幼いころからごっこ遊びというフィクションに没頭します。その点は大人の作家や読者と変わりません。むしろ、自由奔放な反事実の探求に大人以上に熱心なのは興味深い点だとゴプニックは言います。大人にとってのフィクションは現実世界についてくるおまけですが、子どもたちにとって、架空の世界は一種のぜいたく品だというのです。その点、大人は生活において行うものなので、未来予測も現実的でなければなりません。空想の世界も、実世界に向けて行うことが主です。しかし、幼児にとっては、空想の世界も本物の世界も同じように重要で魅力的なものです。これは、以前考えられていたように、幼児に空想と現実の区別がつけられないというわけではないようです。なぜなら、以前紹介したようにハリスやテイラーが研究した子どもたちにおいて、空想の友だちが実在しないことを知っていたことが分かったからで、幼い子どもには空想世界ではなく、本物の世界で生きなければならない理由がないだけだとゴプニックは言っています。

 

架空の世界に夢中になっている子どもを見て、大人は「また遊んでる」と言いますが、実はここに大事な真実があると言います。普通の大人の生活では、食事の支度や橋を架けるといった行動は有益な活動です。その一方で、小説を読むことや映画に行くといったものは「楽しみ」や「娯楽」として区別されます。では、幼児はどうでしょうか。幼児にとっては大人のような有益な活動は含まれていませんし、そういったことを求めてするものでもありません。だから、大人から見ると「遊んでいる」と思われるのです。大人とは違い有益な活動としてではなく、ひたすらごっこ遊びに没頭し、架空の反事実を次から次へと思いついていく過程の中で、子どもたちは最高に洗練された人間らしい重要な能力を発揮しているとゴプニックは言っています。

 

ここに幼児期のごっこ遊びの本当の大切さがあります。そして、幼い自分と大人の自分では一種の役割分担をしているというのです。幼いときは、現実世界だけでなく、反事実の世界もできるだけ多く探求するのが仕事です。この時期に自由に因果マップを描き、反事実を探求していくのです。そうすることで、大人になったときに子言うして育てた物理的な世界と心の世界の因果マップや、別の世界を思い描く能力が、本物の未来の可能性ということを思い描くことにつながるのです。

 

つまり、幼児期にしっかりとごっこ遊びや空想遊びなどをしっかりと行うことで、大人になった時の因果マップを描くことにより大きな意味を持たせることができるのです。そして、そこには大人が介入することよりも、子どもが思い描くことをより活発にできるように大人が支援していくことが重要になってくるのです。大人ができることというのは結局のところ、支援くらいのことしかできないのかもしれませんし、それが結果として子どもにとって大切な環境なのかもしれませんね。