均一か、多様か

小西氏は「普通学級の問題点は『均一集団』を作ってしまったことにある。」と言っています。同じような児童を一つの場所に集めて校則でがっちり固めてしまう。すると「均一集団」の中で「標的」を作り、はじき出そうとするというのです。そして、人間には違うものに対しては共通点を見出そうとし、似たものに対しては違いを見つけよとする習性があると言われているのです。

 

確かに、この「均一集団」というのは私もこういった仕事をするときに、今の日本の教育においての矛盾を感じます。今の保育や教育では「個性の尊重」ということがよく言われます。しかし、未だ保育においても、学校教育においても、同一性が求められるような活動が多く行われています。カリキュラムの進め方においても、その子どもそれぞれに合わせた活動の選択が行われているわけではなく、決められた単元をこなしていくような教育の進められ方がいまだ変わらずに行われています。

 

これは国連の子どもの権利条約で日本が未だ勧告を受ける一つの要因でもあると言われています。日本は海外に比べると「意見の表明権」においては2019年にも勧告を受け続けています。他国に比べると子どもたちが意見を言いにくい環境であったりするのでしょう。その一つに「均一化された」ということがあるのだと思います。小西氏はそれを「人間には違うものに対しては共通点を見出そうとし、似たものに対しては違いを見つけよとする習性があると言われている」と言っています。この姿を今の社会に当てはめて見ると「コロナ警察」や「SNSでの炎上」といったものも、結局はこういった多を認めることができず、「均一化」された価値観を押し付けているようにも思います。そして、それは教育や保育において、長年積み重ねてきたアイデンティティが社会において、こういった様相を物語っているように感じます。

 

今後より多様になってくる社会において、重要となってくるのは今言っている内容の逆を行ってくることなのでしょう。つまり、「均一化集団」ではなく、「それぞれが違いを持った集団」にいることがこれからの時代には必要なのだろうと思います。つまりは多様性です。先日話をした話の中でも、一緒に生活する中で初めは障害児に対して違和感や驚きをもつ子どもたちであっても、共に生活する内に障害が単に個人に属する特性の一つに過ぎないことを知ります。そして、自分たちの行動を起こすことで両者の間に生じる弊害が解決に向かうことを感じ、知恵や工夫、思いやりが育つといった「ノーマライゼーション」といった価値観を持つことになるのでしょう。

 

こういったことを考えると、今世の中の小学校で起こっている「学級崩壊」や「小1プロブレム」といった教育的な問題は、子どもたちからの多様性をもっと欲しているサインなのかもしれませんね。勉学や学問の必要性は言うまでもありません。しかし、それを土台とする「生涯学習」といったものももっと目を向けていかなければいけない時代なのだと小西氏の言葉から改めて感じました。