評価の必要性

従来の同じ日時に試験を受け、一点刻みで評価が出される従来の試験スタイルは、評価は厳密になり生徒にはプレッシャーがかかります。試験では実際勉強したところの5%にも満たないかもしれないが、入試で「あと一点」を挙げるために、結果として出題されない大部分を真剣に勉強する。そうしたある意味理不尽ともいえる状況で努力することを評価してきたのが、従来の試験スタイルです。しかし、それを廃止し、問題解決型の問題を解くとなると、もともとの頭の良さが問われることになるとなり、さきのPISA調査のような教科にとらわれない問題では準備ができず、努力のしようがなくなり、勉強自体をしなくなるのではないかと齋藤氏は危惧しています。授業でどれほどアクティブに話し合いをしていても、それだけで終わりでは、結果として総合的な学力は落ちてしまうというのです。

 

また、大量の人間が受ける試験で、思考力・判断力といったその場で発揮できるかどうかにかかっている能力を問うことが公平であるかも疑問だというのです。努力してきた、いわば「努力賞」を与えることもテストの一つの良さであったという部分も齋藤氏は指摘しており、こういったどの生徒も入試のために行った地道な努力といった公平性は新しい学力に合わせた面接やレポートで果たして保障されるのであろうか。また、レポートを他者が作成する危険性も完全には排除できないのではないかというのです。

 

学習の場面において、多くの場合、評価に向けて子どもたちは努力します。その時に、何をどう評価するのかが不透明であれば、努力は甘いものになります。評価の基準を明らかにし、それを子どもたちにつたえ、自ら成長への意欲を持たせることができるかで、「新しい学力」を得るどころか、むしろ子どもの意欲の芽を摘みかねないというのです。

 

今回の齋藤氏の内容は非常に今の日本の教育者かいを物語っているように思います。「評価に向けて子どもたちは努力する」というのはそれだけ、自己評価ではなく、他者評価によるものが重視されているのだろうと思います。誰かに評価されるのが普通であり、評価されないと不安になるのです。海外ではどうかはわかりませんが、よく入試に関して聞くのは海外では大学は「入りやすく、出にくい」ということをよく聞きます。そのため、大学を卒業するためにはそれだけ大学内で何を勉強し、どういった研究をしたいのかをより明確にしていかなければいけません。それに比べ、日本の場合は「入学しにくく、卒業しやすい」と言われています。だからか、逆に入試に関しては燃え尽き症候群と言われるように大学に入ってからやる気が無くなる人も多いと聞きます。大学や学校の入試に関して、もちろん選別という意味での試験が必要であるということはわかります。しかし、齋藤氏が危惧する意味の「評価に向けて子どもたちは努力する」といった評価は重要なことなのでしょうか。それ以上に私が大切に思うのが、「評価のために勉強をする」ということよりも、アンドレアス・シュライヒャー氏が言っていたように「何のために勉強しなければいけないのか」という目的意識を持たせることが重要なことであるように思います。日本の場合、この「努力すること」に目が行き過ぎて、何のために努力をすることが必要なのかに目が向いていないように思います。「○○大学に進学する」ことが目的になり、「○○大学で~~を勉強して、○○になりたい」といったところまで、見通しを持ったことはないように思います。日本は大学を出てから職業を決めます。こういった文化自体を変える必要はあるのかもしれない。大学がステータス化しているのはこういった文化にあるように思います。

評価

新しい学力を育成する際の二つ目の問題点は評価の問題です。「意欲」というものをどう評価するか。「情熱があります」「意欲があります」と面接の中で言葉として出しても、それが情熱・意欲の証明になるものかというと疑問です。意欲は内に秘められてこともありますし、静かに燃えている形もあり、いかにも活動的で話し合いが巧みであっても、生涯をかけて粘り強く研究を続ける意欲があるとは限らないと齋藤氏は言っています。これは意欲だけに限らず、思考力・判断力・表現力・行動力といった諸能力についても、それを評価し、点数化することは、かなり困難なことであります。

 

では、評価の一つの方法として、生徒一人一人が自分の思考力や判断力について自己評価を下すことも考えられなくはない。例えば、カードにその都度自己評価を書いていくことがそれであるが、それも学力評価になるかというと、客観性には欠けるのです。そして、「みんなそれぞれがそれぞれの意欲を持てばいい」とすると、評価基準はないに等しくなります。アクティブ・ラーニングでは、生徒の自主性に任される側面も多く、それについて教師が一方的に評価することが必ずしも正しいとはいえない。生徒がわき道にそれても、それをゆるやかに受け止め、何かしらの気づきが生まれることを期待する器の大きい授業運営が求められると齋藤氏は言います。

 

齋藤氏は器の大きい授業運営の難しさを過去の小学校の見学を通して話しています。そこではこんにゃくの作り方をテーマに1時間生徒に話合わせていました。しかし、そこで行われていたのが一見熱心に話しているように見えるのですが、生徒は自分の言いたいことをただいうだけで、的確な根拠に基づいて思考し、判断し、次の課題に行く過程は見られなかったのです。そして、それだけはなく、教師や他の生徒が「評価しよう」とする場面もなかったのです。楽しく研究発表をして終わるのであれば問題がないが、評価基準のない教育を実践するはあまりに危険だと齋藤氏は言います。意欲・思考力・判断力などを評価する明確で客観的な基準をどのように設定するのか。教師の主観に頼りすぎない客観的でシンプルな評価のやり方が用意されているかが問題であるのです。

 

成績の評価というのは難しく、思考力や判断力・意欲といったものをどう評価していくかというは常に課題となっていると言います。齋藤氏は自己評価についても触れていましたが、日本では自己評価というものが海外ほど重視されていないことも一つの要因でもあるように思います。基本的に日本は他者評価が多いように思いますし、自己評価を行い、自分自身に学習の責任を持たせることをしていなかったのではないかと思います。確かに自己評価が学力評価として適切かどうかは疑問です。しかし、アクティブ・ラーニングが学習内容ではなく学習方法であるように、評価においても、自己評価は学力評価とは別にもっと積極的に行っていくべきであろうと思います。また、この議論においては、テスト形式においても、記述式ではなく、マークシートで、一設問に対し、複数の答えを選択したりと、まだ、工夫の余地はあるのではないかという見方もあります。また、こういった取り組みに関しては学校教育だけではく、乳幼児教育においても行っていくべき部分はありそうです。自己評価や自分で主体的に選択すること、思考力・判断力・意欲というものは乳幼児教育においても、決して、無縁ではなく、その始まりは乳幼児教育にあります。私がここ最近、学校教育における書籍を紹介しているのも、先の学習に対する乳幼児からのアプローチを考えていかなければいけないと思うからです。何も情報をやり取りするだけが連携ではなく、小学校の教育を理解して保育をすることも、幼保小の連携であるのでしょう。

センス

アクティブラーニングを教師が行う際に、齋藤氏が問題にしているのが、どうしても実践として行う教師の「センス」が子どもの学習状況を把握するには必要であるということです。実際のところグループ・ディスカッションと一口に言ってもダラダラとした話し合いになることも多ければ、「調べ学習」と言いながらも、学習者がさぼってしまうケースもあります。そうした曖昧な授業が1年間行われても、何が身についたかと言われると生徒は明確に答えられないのではないかというのです。

 

確かに自分が学生のときにおいてもグループ学習は行いましたが、自習のような取り組みに近く、頑張る生徒と傍観する生徒との間に学習の差があったようにも感じます。これであれば、ゆとり教育のような評価になり、まだ伝統的な学力を身につけるほうが結果としては生産的なのではないかと評価されかねません。そもそも、教員養成を行う大学の教員がどれだけアクティブラーニングを実践しているでしょうか。まだまだ、教員養成において大学の授業は昔ながらのものが少なくはなく、そうした授業を受けた大学生が現場の教師になったとしても、現実的にアクティブラーニングを主軸にした授業が行えるかというと大きな不安があります。

 

これに対し、伝統的な学力のような授業は、しっかりと決まった教科書があり、その内容を習得させる授業ならば、一年間の授業の実績は保証されやすくなります。面白い授業にならない危険性もあるが、内容上の水準はキープしやすいのです。そして、アクティブラーニングにこだわらなければ、センスのある教師はそれとは別の形で学習者の意欲を育てるような面白い授業をする力を持っている教師もたくさんいるのです。その教師たちは現行の指導要領においても伝統的な学力を伸ばしつつ、意欲や思考力、判断力などを高める授業をしています。

 

つまり、「新しい学力」を伸ばす授業をするには、教師のセンスが不可欠であり、意欲・思考力・判断力等が何より教師自身に求められます。それさえあれば、アクティブラーニングという手法にこだわる必要はないということも言えます。逆に伝統的な授業スタイルで成果を上げている教師にとってはアクティブラーニング主体に変えることで、学習効果が下がってしまう可能性もあるのです。

 

また、このことは教員養成における大学教育にも不安があると齋藤氏は言っています。大学の教員はそのほとんどは研究を主たる仕事とする研究者がほとんどです。そういった大学教員が授業の場を取り仕切る学習者の意識を活性化させる教育者としてのセンスを併せ持つことは容易ではありません。研究能力と授業というライブ空間を取り仕切る教育力は質的に異なる者なのです。しかし、これからの大学教育では、授業空間をマネジメントし、リードする教育センスが研究能力の高さと共に求められます。そのため、具体的に学習者のひとりひとりの意識が活性化する授業ができているかどうかを見なければいけないのです。

 

実際、自分が教員免許を取ったころは座学的に単位を取るものが多くありました。そして、単位さえ取れれば教員免許は取れるのです。厳選たる資格の認定はなく、多くは厳しい教員試験でふるいにかけられ、実践の中で学んでいくことが多いのだろうと思います。こういったジレンマを私は大学時代に感じました。これは教員だけではなく、保育者も似たようなものかもしれません。結局のところはテクニックではなく、「思い」であったり、「情熱」であったりをどれだけ高い水準で持っているかを見極めないと、本質的なものにはいきつかないように思います。新しい学力においても、その理解はやはり大きなモチベーションがなければ理解できない部分は大きかろうと思いますし、変わるためのエネルギーにはつながっていかないように思います。

新しい学力と教師の力量

「ゆとり教育」を否定している一方で、文部科学省はどのように「新しい学力観」を考えているのでしょうか。齋藤孝氏は今の文部科学省が目指している方向性は「学習内容の充実を維持し、基礎的学力を高めつつも、問題解決型の学力も伸ばしていく」ということを考えているのだと言います。ゆとり教育のように、ただ、子どもの学習にゆとりを持たせて、学習内容を削減するのではなく、バランスを取りながら問題解決能力にも力を入れていこうというのです。こういった意味では「新しい学力観」という考え方は一貫して平成元年(1989年)より変わっていないのです。ただ、そういうものの、その両立こそが難しいのであって、「ゆとり教育」の失敗から見出された何点を解消していくことが求められます。では、その難点と言われる部分はどういったところにあるのでしょうか。

 

まず、第一に思考力・判断力・行動力・表現力といった新しい学力を育成していくにあたり問題となるのは「新しい学力を伸ばす指導方法を、教師や指導者がどこまで実践できるのか」といった部分です。「新しい学力を伸ばすには、教師の力量が今まで以上に必要である」と齋藤氏は言っています。従来のようにただ記憶させるということが目的なのであれば、教育方法上の工夫はそれほど重要ではありません。しかし、新しい学力を伸ばすとなると、教師の側に高度な工夫が求められることになります。意欲・思考・判断・表現・行動といった諸能力を授業で伸ばす方法を考える実際には難しいというのです。

 

なぜならば、これらの授業を行うために学習者の意欲や思考レベルがどのようなものであるかをその都度肌で感じ取るとともに、その到達度を客観的に評価する必要があるからです。一人一人の状況を把握しながら、授業するというのは、一方向的な授業よりもはるかに難しいのです。こういった学習状況を把握するには、教師の「センス」としか言いようのないものが必要であると齋藤氏は言っています。しかし、効果的な教育方法を生徒の状況に応じてその都度編み出し、導入することができなければ、いくらアクティブラーニングを導入した路ころで、授業は「活性化」しないのです。

 

確かに、子ども一人一人に合わせた教育方法を行うということは、一斉に一方向から教育を行うよりもかなり複雑なものであるのは言うまでもありません。ただ、それは教える教師が一人の場合はそうであり、選択肢があくまで大人から発信するものであると難しいのだろうと思いました。以前、オランダのイエナプランを見学に行った時に感じたのは、子どもたち自体が学習する時間割を決めたり、学ぶ順番を決めていることでした。基本的には自習を行っていて、教師が教える時間はある程度決まっていますが、それを深めていくのは子どもたちの選択によるのです。日本ではどうしても教師から子どもたちへという方向で教育を進めていくというのが当たり前の様子でしたが、イエナプランでは主体は子どもであり、選択も子どもが行う機会が多くありました。

 

実際、自園の保育においては、選択制で活動を決めたり、制作活動でも難易度を選択したりできるようにしています。「保育活動」というある程度大人が提案しなければいけない内容の中に子ども主体の部分をどう残す必要があるのかを考えた結果にあります。選択肢の中で自分を知り、責任を持つことで、自分の能力を知る。これはアクティブラーニングにもつながる者であると考えています。

「生きる力」と「ゆとり教育」

齋藤氏はこれまでの「生きる力」を社会に対応していく力として目標に掲げてきた教育の結果が、本当に「生きる力」を持った人間の育成につながったのでしょうかと疑問点を挙げています。確かに掲げられた目標は理想的でもっともなものであったとしても、実際にそれが効力を発揮したかは別問題なのです。そして、この最たるものが「ゆとり教育」ではないかといっています。

 

「ゆとり教育」は学習内容の3割削減、授業時間の減少、学校週5日制の導入、科目横断型「総合的な学習の時間」の創設などの施策全般を指します。子どもたちに「ゆとり」を与える主旨であることから、これら一連の改革により行われた教育が一般的に「ゆとり教育」と呼ばれるようになったのです。そして、ゆとり教育のねらいは過熱した受験勉強による弊害を防止し、ゆったりと勉強することができる環境を作ること、及びいじめや不登校問題の改善にありました。学習時間と内容にゆとりを作ったうえで、「総合的な学習の時間」を導入し、より生活に根差した問題を考える学習をする、余裕のある教育を目指したのです。

 

しかし、このゆとり教育ですが、導入主体の文部科学省がすでに否定的評価を下しています。2016年5月10日、馳浩文科相が、2020年から始まる新学習指導要領に関し、学ぶ知識の量を減らさない有無を確認し、「ゆとり教育との決別を明確にしておきたい」と発現しています。なぜ、このような発言が出てきたのでしょうか。それはゆとり教育の結果生じた「学力低下」に対し批判が起きたからです。国際数学・理科教育動向調査(TIMSS)の2003年の調査では、1995年の調査に比べて正答率の大きく下がった項目がありました。また、PISAの学力調査においても、2003年と2006年の調査を比較すると、数学的リテラシー・読解力・科学的リテラシーの三分野において国別順位を下げています。

 

また、他にもゆとり教育は大きな批判を受けました。学習内容を三割削減することによって、台形の面積など極めて基本的な知識の習得を先送りにしたり、円周率を「約三」として扱うなど、導入当初からこの方針には多くの不安があったのですが、国際学力試験の結果と重なり、その不安が的中したと批判されることになったのです。そして、この流れを汲んで、文科省は2008年の学習指導要領改訂を機に、教科書を厚くするという方向転換を行ったのです。このような流れの中でゆとり教育が否定されることになっていくことになるのですが、その一方で、「生きる力」を中核とした「新しい学力観」までは否定されたわけではありませんでした。

 

これが、「ゆとり教育」が否定されるまでの内容ですが、文科省はゆとり教育を否定する一方で、「新しい学力観」までは否定してはいなかったと齋藤氏は言っています。PISAのアンドレアス・シュライヒャー氏はゆとり教育について、日本は先駆的な取り組みを行ったと評していましたが、これはゆとり教育そのものではなく、「新しい学力観」における取り組みについての評価であったのでしょう。では、この後日本はどのように変革が行われていくのでしょうか。