社会力の定義

門脇氏は「社会力」と「社会性」は違う内容だといっています。アメリカにおいても「Social Competence」としてあるらしく、この概念は門脇氏が考える社会力と非常に近い認識であるようです。そして、その定義ですが「社会力とは、社会的、情動的、認知的、行動的な側面を持つ多義的で複雑な概念である」とされています。そして、それらの能力を10個にまとめています。

 

①その場その場で相手がどういう気持ちや意図をもって自分の目の前にいるかを正確に察知できる能力 ②誰かと相互行為しているときに刻々と変化する状況に適切に対応できる能力 ③自分の感情をコントロールできる能力 ④過去の経験から学ぶ能力 ⑤学んだことを活用して困難な状況を乗り切っていける能力 ⑥会話能力 ➆先を見通す能力 ➇自己有能感 ⑨社会に前向きに対応できる行動力 ⑩社会に適応するための知識 といったものです。つまりは、社会で生活していくうえで出会う様々な人たちと適切に関わるうえで必要な能力であるといった内容です。そして、門脇氏はこれらの能力を大きく2つにくくっています。

 

一つは友好的であるとか、協力的であるとか、援助的であるといった向社会的能力。二つ目の側面は腹立ちを抑えるとか、交渉力があるとか、問題解決能力であるといった調整能力といったものです。

 

こういった力が欠けていると他人と友好的になれず、攻撃的になったり、他者との相互行為を持続することが難しくなったり、知覚面においても、状況を適切に把握できないといったことや他人の言葉や行動の意味だけでなく、相手の顔や表情や身体の動きが何を意味しているかを正確に読むのが難しくなり、他者との付き合いや相互行為に支障をきたすことになるのというのです。

 

この内容を見たときに私は「非認知能力に近い」と感じました。感情のコントロールや向社会力といったのは実行機能を指しています。つまり、今保育の中で言われている必要な力というのと同じことが言えるのです。社会力に関しては、非認知能力をより社会的活動に落とし込んだ考え方であると考えられます。そして、それと同時にそれだけ今の世の中で、人と関わる力というものが様々な分野から警告を鳴らされているのかということも見えてきます。子どものみならず、大人自体にこういった力が備わっていないというのは非常に危険なことであるように思います。そして、なによりそういったことに自覚していないということはより深く意識していかなければいけないことであるようにも思います。

 

今自分たちがいる社会がどういった状況にあり、何を変化させていかなければいけないのか、特に教育に関わるものは社会をつくる仕事でもあると思います。こういった本質的な内容を受けて、これからの教育・保育に向き合う必要が社会を変化に貢献していくことになるのだろうと改めて考えさせられます。

思いやりと社会力

昨今でも、色々な事件が起きています。あおり運転、無差別な殺人、衝動的な事件など、これまでなかったかのような問題がたびたびニュースに取り上げられ、ずいぶんと物騒な時代だなと感じることが多くあります。その中で、門脇氏はアメリカのハーバード大学のある研究を紹介していました。

 

ハーバード大学のパットナム教授はアメリカ50州全部について、その週の社会関係資本の豊かさによって、それぞれの州の地区の福祉水準や子どもたちの教育レベルや非行や犯罪率に大きな差があることを示しました。(「孤独なボウリング」柴内康文訳 柏書房)これは、社会関係資本つまりは住民の人的ネットワークが強いと ①福祉水準が高く ②子どもの成績もよく ③犯罪や非行は少ない ということが言えるというのです。地域の中で生活する住民のつながりがしっかりしているほど、子どもだけでなく、大人たちにとっても住みやすい地域になるということが言えるようです。そして、つながりが強いということはその地域に住む住民一人ひとりの社会力が高いということが言えるのです。住民の社会力がしっかり育っているからこそ、地域の人間関係が濃密になるのです。

 

このことをはじめの今起きているニュースの話題に戻すと社会力というものが関係しているのかもしれません。社会力が育っていないと様々なところで不都合が起きると門脇氏は言っています。まず、個人的には他の人といい人間関係が作れなくなります。つまりは仲良くなれないということです。会話が無くなり、共に活動することが出来なくなります。他の人を深く理解することもできなくなりますし、自分のことを理解してもらうことも難しくなります。当然、相手への愛着や信頼感を持つことも困難になってきます。これは現在起きている引きこもりの原因でもあると門脇氏は言います。引きこもりは現在社会において非常に大きな問題です。

また、社会力が乏しい人が多くなると、他の人に無関心になり、他の人を疎ましく感じるようになります。さらに、お互い相手を疑ったり、警戒したり、危害を加えてもなんとも思わなくなるといいます。これが冒頭で話していた内容です。今起きている事件やニュースであったり、ひいては世界で起きているポピュリズムであったり、無差別テロや貧富の格差などもこの社会力が影響しているといっています。そのため、門脇氏は個人と個人の間の関係を良くし、他の人の事であっても自分の事のように思ったり考えたりできるような社会力のある人を育てていかなければいけないといっています。

 

いくら時代は進み、様々なものが開発されて便利な世の中になったとしても、人が生きていく社会において、この社会力といった力は重要になってきます。保育においても、この「相手を思ったり考える」ということを「思いやり」といい、その力を育てることを大切にしていることが多くあります。その力は門脇氏の言葉を借りると「社会力」言えるのですね。

保育や教育の意味

門脇氏は互恵的社会を作るには社会力が必要だといっています。社会力とは「人が人とつながり社会をつくる力」と言っています。そして、その人は社会に積極的に社会の運営に関わる意志と能力がある人であり、人が好きな人間であるといいます。この人が好きというのは何も今身の回りにいる人だけではなく、海外の人、まだ会ったこともない人、これから生まれる未来を生きる人まで全ての人に対して、思いをもてる人であるといいます。このことを踏まえ、先の未来を考えるということは保育や教育にもつながるなと感じます。

 

私はこれまで、あまり保育が社会のためになるといった実感はありませんでした。もちろん、社会のためになると理解はしていたのですが、「実感」がなかったのです。しかし、最近、園見学の保護者と話していると、今自分に課せられている仕事は、今の子どもたちの生活を守ることだけではなく、今いる子どもたちが生きる社会も含めて考えていかなければいけないと思うことが多くなりました。

 

これはある先生が言った言葉で気付かされたことです。「何のために、保育をするのか?」という問いを考えたとき、誰もが「子どものため」といいます。しかし、これは未来の子どもの社会を予想して考えなければいけません。大人の押し付けや今の世の中を想定しても意味がないのです。そう考えるとやはり未来を予測することや考える必要が保育者側にも必要になります。ある意味で、社会力が最も必要なのは教育者や保育者であるべきなのかもしれません。

互恵的協働社会

最近、ふとこれからの世の中を考えて不安になることがあります。さまざまな勉強をしていく中で、人間はそう遠くない未来に滅びてしまうのではないかと思うことがよくあります。そして、その問題を解決するには子供の保育や教育、環境といったものが非常に大きなキーワードになるように思います

1972年にローマ・クラブといったシンクタンクが世界の将来を予測して、その結果を「成長の限界」といった報告書に「このまま経済成長を続けていくと人口はさらに増え、その分消費する資源や食糧も増え、結果として地球の負担が限界に達し、あと100年もすれば人類の存在も危うくなると、いったことを発表しました。

その後40年後の2012年にアメリカのスミソニアン研究所が検証してみたところ「成長の限界の予測は正しかった」という結論になったようです。しかも、2030年までに世界経済は破綻し持続可能な軌道から外れ人口が急激に減少すると改めて発表したのです。

その片鱗は昨今の少子化や出生率の低下による人口減少は目に見えており、日本でも労働力の低下のために海外から労働者を入れたり、AIによる代替労働力が開発されています。人との関わりは少なくなり、地域コミュニティの力は低下。事件においても無差別や衝動的な事件が増えています。社会に対する不安を上げればキリがありません。

何が今の社会に足りないのか、このことに対して、互恵的協働社会が今の時代に必要だといっているのが社会学者の門脇厚司さんです。この互恵というのは「お互いに恵む」ということですが、今の不寛容な社会にはこういった視点は確かに必要なことかもしれません。結局のところ、人はコミュニケーションを必要とする生き物であり、これを自ら断つような今の社会にとても危機感を覚えます。

ラーニング・コンパス

DeSeCoでの概念の整理を通じて、2030年の未来に求められるコンピテンシーとして「新たな価値を創造する力」「対立やジレンマに対処する力」「責任ある行動をとる力」と三つのコンピテンシーが具体的に示されました。そして、それらのコンピテンシーを得るために「知識」「スキル」「態度及び価値観」を組み合わされることで、コンピテンシーが発揮されると示したのです。これらの3つのコンピテンシーは「変革をもたらすコンピテンシー」とされたのです。

 

次にコンピテンシーの発達・育成はどうすればいいのでしょうか。このことについて、Education2030では「変革をもたらすコンピテンシー」の獲得のために「AARサイクル」が示されました。これは「新たな価値を創造する力」「責任ある行動をとる力」「対立やジレンマに対処する力」といったこれから必要とされるコンピテンシ―を中心にコンパスの外周を沿うように、「見通し→行動→振り返り」といったサイクルを通すことを示しています。そして、コンパスをラーニングコンパスとして、「2030年のウェルビーイング」に向かったものと明示しました。

 

この「ラーニング・コンパス」ですが、なぜ、コンパスと表現したのでしょうか。「ラーニング・コンパス」は直訳すると「学びの羅針盤」です。これはこれからのAiの発達や移民の増加、サイバー・セキュリティなど新しい課題が登場する時代において「生徒が、単に決まりきった指導を受けたり、教師から方向性を指示されるだけでなく、未知の状況においても自分たちの進むべき方向を見つけ、自分たちを舵取りしていくための学習の必要性を強調する」ことが目的にされたからです。こういった時代に向き合うには学生たちは「時間的なコンテクスト(文脈):過去、現在、未来」と「空間的コンテクスト:家族、コミュニティ、地域、国家、デジタル空間などの社会的空間」といった人生の様々な場面に積極的に行動していく必要があります。そして、人災の様々な場面で積極的に行動していくために、こういったコンテクストを縦横無尽に動かなければいけないと考えられました。そのために自分のアイデンティティをもち、自分のしたいこと、すべきことを考えること、行動に移すことが必要になります。大切なのは「誰かの行動の結果を受けとめるよりも、自分で行動することである。形づくられるものを待つよりも、自分で形づくることである。誰かが決めたり、選んだことを受け入れることよりも、自分で決定したり、選択すること」であるとされたのです。このようなことを背景にして、「ラーニング・コンパス」として、「私たちが実現したい未来」を方向付けるものを象徴するものとしてもちいられたのです。

 

OECDが示すものとして「ラーニング・コンパス」はOECDのコンセプトノートにおいて、「OECDのThe Future of Education and Skills 2030プロジェクトの成果物であり、教育の未来について意欲的な展望を設定する、進化する学習枠組みです。ラーニングコンパスは、幅広い教育の目標を支え、『私たちが実現したい未来』すなわち個人及び集団としてのウェルビーイングの実現に進んでいくための方向性を示すもの」と述べられました。それは何か特定の方策を設定するものではなく、ウェルビーイングという目標を含めた学習の枠組みを示すことで、政策立案者、教師、政治家、保護者など様々な関係者が目標を共有したり、自分たちの取り組みを関係づけたり、推進するのに使っていくことが想定されているのです。

 

つまり、ラーニングコンパスは教育の方向性を示したものであると同時に、子どもたちが自ら考え、自ら行動に移すことが出来るための方策としてOECDがつくった学習的な枠組みなのですね。今の教育はこういった子どもの未来に思いをはせたものなのでしょうか。成績や学歴を追うことがこれからの未来につながるものなのでしょうか。大学や高校に行くことが当たり前になってきた世の中で、「何のために高校や大学に行くのか」を考えたことはあったのでしょうか。大学に行くと働くことの給与や有利さというものが保証されるというのが現状ではないでしょうか。しかし、だからといって、目的泣く大学に行くのはもったいないように思います。しっかりと未来を見据えて教育を選択できるだけの受け皿としての社会を作ることがこれからの社会には必要であり、それにおいて職業選択においてももっと多様性があったり、夢や目的が持てるような社会に変えていきたいものですね。