新学期が始まり、職員の先生方に幼稚園のコンセプトや方針について研修でお話ししました。そこでは単に幼稚園の保育内容を伝えるのではなく、「何のために幼稚園が存在するのか」や「今幼稚園に通っている子どもたちに、どのような力をつけてあげるべきなのか」といった根本的な問いを共有するようにしています。また、現在実施している藤森メソッド(見守る保育)を行うにあたっての重要なポイントについても話しています。
もちろん保育内容を伝えることも大切ですが、私はそもそも「乳幼児教育」が社会にとって何のためにあるのかということを理解していなければ、いくら保育内容を知っていても意味が薄れると考えています。組織の目的を知らなければ、その成果は出にくくなり、また、働く人たちの目標や目的も見えにくくなるのではないかと思っています。
このことに関して、かつて流行したP.F.ドラッカーの著書『マネジメント』では、マネジメントの冒頭で次のように述べています。「組織が存在するのは組織自体のためではなく、社会、コミュニティ、個人のニーズを満たすためである」。つまり、どのような組織であっても、その目的は“誰かのため”にあり、社会的な意味をもって存在しているのです。
そう考えると、なぜ保育が必要なのでしょうか? よく言われるのが「保護者の育児支援」です。確かに、現在の保護者の多くは共働きで、専業主婦のご家庭は少数派です。保育施設が子どもを預かることで、保護者の就労を支える役割は非常に大きなものです。しかし、それは“優先順位”の問題であり、最も重要な目的ではないと私は考えています。
最も基本となるのは、やはり「子どもの保育」です。では、その「保育」とはどのようなものであるべきでしょうか。幼保連携型認定こども園教育・保育要領(平成30年度)の総則には、教育や保育の基本が記されています。そこには、「乳幼児期全体を通して、その特性および保護者や地域の実態を踏まえ、環境を通して行うものであることを基本とし、家庭や地域での生活を含めた園児の生活全体が豊かなものになるよう努めなければならない」とあります。
つまり、保護者支援も、あくまで子どもの生活が「豊か」になるために行うものであるといえます。ただし、この文章は非常に抽象的で、「豊か」とは何をもって豊かとするのか?という疑問が残ります。そして、この「豊か」という言葉の解釈が園によって異なるため、保育施設ごとの方針やアプローチの違いが生まれてくるのだと思います。
私自身の考えとしては、「豊かさ」とは、現在の生活の充実と将来に向けた基盤づくりの両方を指すものだと思っています。つまり、今と未来を含めた「豊かな人生」を送るために必要な力を育むことが保育の役割だと捉えています。そして、その根本にあるのが「社会で生きる力」を育てることです。
このように考えると、保育者といえども、社会についての理解を持っている必要があります。そのため私は、今後子どもたちが生きていくであろうAIの時代や、労働人口の減少といった未来社会について強い関心を持ち、研修の中でもそうした話題に触れるようにしています。
2025年5月2日 2:42 PM |
カテゴリー:乳幼児教育, 日々思うこと |
投稿者名:Tomoki Murahashi
最近は幼稚園のほうのブログに様々なことを書いていたのですが、幼稚園のHPの発信では不都合が出てきましたので、今後はこちらのブログで統合していこう考えています。
こちらのブログは2019年から細々と続けていたブログになっており、私がこれまで見ていた本で学んできたことを整理するためにも発信しているブログになっていました。
このブログを始めた経緯は私が学んである園長先生の一言ではじまりました。当時、東京の園での勤務を終えて、認定こども園化する保育園のために大阪に帰ってきたのですが、私はあまり本を読むのが好きではなく、勉強もあまり好きではありませんでした。しかし、これから保育を発信していくためには何か知識を持っていないとと、漠然と焦っていたのを覚えています。必要だろうなと思う本であったり、読んだ方がいいだろうなと思う本を買っては読まずのくりかえしであったのですが、それを学んだ園長先生に相談しました。すると、「私もそうで、難しい本はなかなか理解が難しい。だから、ブログにして文字におこして、自分自身の考えを載せると理解できた」とおっしゃられたのです。
それからこのブログづくりをはじめました。そして、このブログの「日々、是天命」という言葉ですが、これは
「天はなぜ自分をこの世に生み出し、何の用をさせようとするのか。
自分はすでに天の生じたものであるから、必ず天から命じられた役目がある。
その役目をつつしんで果たさなければ、必ず天罰を受けるだろう」
と幕末の儒学者 佐藤一斎が言っているのをある雑誌で知りました。
割と「天命」という文字が好きです。何か生きるための使命をあたえられたようで、自分が生きていくなかで、それを追い求める夢があるように思います。
とはいえ、さぼり癖のある私です。天罰を考えるとまだまだ果たさなければいけないことは多いように思います。
しっかりと精進して発信をしっかりとできればと考えています。
今後ともよろしくお願いいたします。
2025年4月28日 11:53 AM |
カテゴリー:あいさつ |
投稿者名:Tomoki Murahashi
先日、GOOGLEニュースにヒューマノイドの記事が出ていました。それは家庭用の「NEO GAMMA」というヒューマノイドのプロモーションビデオでした。これはあくまでイメージビデオなのですが、ちょっとしたタスクをこなし、自然言語で人とコミュニケーションできる。そんなヒューマノイドが家庭に入ったときの風景を実機で描いたイメージビデオとしてはとてもよくできた内容で、近未来にこういった風景が当たり前になるのではないかと思うほどのものです。この記事を受けて、職員とこれからの社会について話をしたのがとても面白かったです。
まず、このヒューマノイドの話ですが、今こういった計画の中でロボット開発はかなり進んできており、運動能力はかなり進んでいます。ランニング、ダンス、宙返りなど運動機能だけではなく、細かい指先の動きやものを持つこともできるようになってきています。「NEO GAMMA」のイメージビデオではロボットが掃除機をかけたり、洗濯物を運んだり、食卓までワインを運んできたりと動きは人間ほどなめらかではないものの、まさにお手伝いさんのような動きをしています。こういったロボット開発において、世界中の投資家が大規模な投資を行っているのを見るとそれほど遠くない時代に当たり前の光景になるかもしれません。
この話をしているときに職員が「政治もAIなどに頼る時代になる可能性はあるかもしれないのでしょうか?」と疑問を話してくれました。この時私は「確かにあるかもしれない」と思ったのですが、もしAIが政治にまで影響が出てくる場合、ある一定の条件があるように思います。「人間が人と議論するのが嫌」「人と話すのが煩わしい」「簡単に答えが欲しい」といった人と関わることができなくなったときやそこが煩わしくなったときにAIが活用されるかもしれないと思いました。しかし、それにはとても怖い未来が待っているように思います。AIはあくまで過去のデータの蓄積から最適解を求めるものだとしたら、今の実態とはかけ離れた方法を提案するかもしれないということです。例えば、技術革新などは戦争が起きると飛躍的に開発が加速します。つまり、戦争を簡単に判断しかねません。戦争を終わらせるために核の使用を安易に出すかもしれません。これは極端で偏見的な思い込みかもしれませんが、あり得るようにも思います。実際、AIの苦手分野は「人間の感情や心理を理解できない」というものがあげられています。また、「倫理観による判断が困難」とも言われています。まぁ、そう考えると政治をAIに任せるということは起きないようにも思いますが、起きるとすれば人間が人間としての特性が無くなったときのように思います。逆に言うと、AIができない仕事、代替できない仕事は「ひらめく」といった創造的な思考であったり、人の気持ちを汲み取るといった実に「人間的」なものといえるのでしょう。
そして、これからつけなければいけない力はAIができない部分の力を伸ばす必要があるということがわかります。このように話していくとAIやロボットというものが少し怖いことのように思いますが、逆にそれらを効率よく使えば、とてもいいツールになりますし、良きパートナーともなります。「頭の良さ」というものの質がこれからは大きく変わってくるでしょうね。そして、これからこういった時代が子どもたちが大人になったときには実用段階になっているかもしれないと考えると今から保育のあり方も考えていく必要があると感じます。
2025年3月19日 11:34 AM |
カテゴリー:社会の変化 |
投稿者名:Tomoki Murahashi
今年度、園見学の保護者を案内しているときに、改めて感じることは「自由遊びの重要性」でした。自分自身、常々感じることは「保育とはいったい何のために行うのか」ということです。そもそも教育とは「教育とは人格の完成をめざし、平和で民主的な国家および社会の形成者として必要な資質を備えた心身ともに健康な国民の育成を期しておこなわなければいけない」と教育基本法に教育の目的として書かれています。「社会を作る人材」の育成が目的です。保育者たちが子どもたちに保育をしていく中でもこういった意味合いが含まれていないとそもそも教育とはいえません。そして、社会とは人の集まるなかで行われる営みの形です。つまり、そこでは自己中心的な考えや個人主義ではいけません。しかし、だからといって、集団に埋もれて個性が無くなってしまうのも違います。「良い個の集まりが良い集団であり、良い集団は良い個を生む」の中で自己発揮することが重要であり、保育環境や教育環境もこのような環境づくりや人間関係づくりを目指す必要があるように思います。また、この場合においても、受け身ではなく、能動的にその集団に関わることが必要になってきます。
こういった民主主義を学ぶ環境として、自由遊ぶ環境は子どもたち自身が自らをコントロールして関わりあう場として非常に重要であると考えています。先生が設定保育で行って、子ども一人が自分の活動をしていても習得できず、そこには他者が必ず必要になってきます。また、自由遊びの重要性は様々あります。その一つが無気力感や不安や落ち込みへの耐性と自由遊びの相関関係です。
サンディエゴ州立大学の心理学教授のジーン・トウェンが大学生の不安検査を調査していくなかで1950年代に比べて現在の若者たちの85%が不安や落ち込みを抱える数値が高くなっていたということがわかりました。これは半世紀前の若者たちに比べて、今の若者たちは不安障害やうつ病という診断を5~8倍になっているということが言えます。そして、その数値は小学生や高校生にもみられる傾向だったそうです。この増加は現在にある危険や社会の不確実性や景気や戦争といった世界的な出来事などといったものとは相関関係がない上に、大恐慌時代や第二次世界大戦、冷戦などの世界不安の時よりも不安や落ち込み率は低くなっていたのです。では、なにが不安と落ち込みを高くしていたのかというと、不安と落ち込みは「人々が自分の暮らしをどれだけコントロールできているか、あるいはいないかという感覚」に強い相関関係があったそうです。つまり、自分の運命は自分で決められると思っている人は、自分ではコントロールできない状況の人と比べて落ち込んだり不安になる確率が低くなるということが分かったそうです。習い事ばかりの生活やや受け身な教育形態で自由に遊ぶ機会が少なくなっている子どもたちはもしかすると無力感や不安感を感じてしまっているかもしれません。この内容を紹介しているピーター・グレイ氏は「自由な遊びは、子どもたちに自分は無力ではないことを教える自然な方法です」と言っています。
2025年1月26日 4:51 PM |
カテゴリー:教育 |
投稿者名:Tomoki Murahashi
日々の中で、自分の言動から改めて自分の行動を見直すことがあります。今、非常勤講師で言っている大学で、生徒がこんなことを言っていました。「子どもが楽しく活動をするとき、保育者も楽しんでいることは大切だと感じた」と記録に書かれていました。これに対して、「子どもは大人の姿を見ているし、先生が楽しそうにしていたら、子どもも楽しくなってくることがあるよ。やっぱり、ムスッとした先生が子どもを見ているよりも、にこにこして子どもを見ている先生がいる方がこどもたちも楽しくなってくるからね」と解説したのですが、ふと私自身、幼稚園の職員に対して、自分はできているのかと感じました。
このような雰囲気づくりが有効なのであれば、職場で上司がムスッとしているよりも、にこにこ仕事している方が、職員も働きやすいのではないか。いい雰囲気というのは表情一つで変わってくるのではないかと感じたのです。幼稚園で働いていても、今思えば、割と無表情でいることが多いなと反省しています。しかし、家にいるとわが子に対しては目が合うとニコッと笑いますし、子どもがやっていること一つ一つがかわいくもあり、笑うことも多くあります。
なぜ、職場と家庭でこれほどの違いがあるのでしょうか。もちろん、家庭では子どもはかわいいですし、よく育ってほしいとも思います。表情豊かで楽しく過ごしてほしいと思うからこそ、こういった行動をするのでしょう。職場でも、同様のことを求めています。しかし、できているかというとできていません。気を付けなければいけませんね。
ちょっとした生徒の疑問から生まれたわが身を振り返る機会。これほども違いがあるのはなぜなのでしょうか。子どもと大人と対象が違うだけでもこうまで違うのはなぜなのでしょうか。このギャップを職場でもなくしていくといい職場になるのでしょうね。もっと、職員に対して興味をもって面白がるという姿勢をもてば、職場はもっと良くなっていくのでしょうね。
2024年10月30日 4:59 PM |
カテゴリー:日々思うこと |
投稿者名:Tomoki Murahashi
« 古い記事
新しい記事 »