「ただ、学ぶ」ことの危険

小西氏は早期教育について最もよくあげられる「英会話」や「英語」教育についても警鐘を鳴らしています。まず、日本において、バイリンガルのような英会話を育てることの困難さです。これは以前にも名前が出てきた脳科学者の澤口俊之さんの著書にもあるように、「真のマルチリンガル」にするためには「幼少期に母国語の他に外国語の環境」「ネイティブ英語を話す人が身近にいる状況」が必要だと言いますが、そういった環境を作ることの困難さです。アメリカの言語学者 B・ハートとT・リスレーの研究では、11ヶ月から38カ月までの幼児は、平均して1時間に700~800の単語を聞いていると言っています。また、三歳児は1時間に平均1400梧、232種類の言葉を話すそうです。このような環境でなければネイティブ英語が身につかないというのですが、こういった環境を作るのはなかなかに困難です。

 

では、インターナショナルスクールにおいてはどうでしょうか。ある中学で英語の講師をしているEさんの話を小西氏は例に挙げています。Eさんはアメリカの大学に留学したときのことです。そこには日本のインターナショナルスクールを卒業した学生がいたのですが、そこである違和感を感じたと言っています。その違和感というのが彼らの使う英語が、英語でもなく、日本語でもない独特の言語形態を使っているというのです。それはどういったものかというと文法は英語、語彙は日本語の混じった英語だったというのです。そして、結果的に特別な言語しかもたない彼らは外国人となかなか溶け込めず、インターナショナルスクール出身者だけで一年ほど、グループを作っていたそうです。もちろんこういったことがインターナショナルスクールに通うすべての人がそうというわけではないが、外国語の環境においても複数の言語に適応できない場合もあると小西氏は言っています。

 

これは子どもが言語を獲得し始めた時期に、英会話教室に通わせた母親の後悔としてあるそうです。つまり、インターナショナルスクールに通っていた人と同じように、日本語と英語のちゃんぽんのような言葉を話すようになったのです。結局のところ、ただ通わせるだけでは意味がなく、英語を教える目的やどのように英語を学ばせるかという指導方法を確立し、教育し続けなければいけないと小西氏は言っています。かえって、その環境にあることが結果的に言語獲得において、足を引っ張ることもあるのですね。

 

また、実際に帰国子女であったある子どもについても小西氏は紹介しています。彼は帰国子女であったことについてよかったことはあったかというと「別にない」と答えたそうです。それどころか帰国子女であることで日本では「人格が全く消され『英語が喋れる』『アメリカ人の友だちが多い』『入試で優遇される』と僕の人生のすべてが環境で決まったと言わんばかりだ」とすら言っていたそうです。むしろ、彼の場合、入試などでうまく入試や就職などがうまくいったので良かったのですが、このような帰国子女の子どもの中には、かえって日本の教育になじめない子どもの多くいたそうです。

結局のところ、「動議付け」「環境」、そして、「方法」すべてにおいて劣った状態で幼少期から英語を教えても、英語を嫌いや英語コンプレックスにさせるだけだと英語教育に対する私たちの思い込みの危うさがあることを小西は言うのです。

 

このことは昨今の「勉強嫌い」を量産してる今の教育にも言えることだろうと思います。本人の勉強に対する意欲よりも「しなければならない」ことが多いのです。そこに学ぶ意図や意味を見出せず、詰め込まれていく知識が多いがゆえに「勉強嫌い」が増えていっているように感じます。

「やればできる」の誤解

小西氏は早期教育について「やればできる」という価値観には疑問があると言っています。その理由を3つ挙げています。その一つ目は「やればできる」が誰にでも当てはまるものとは思えないこと。2つ目は「やればできる」という考え方は、親が押し付けるものではなく、私たちが自らの体験で獲得するものと考えるため。そして、最後の3つ目は「できる」「できない」で子どもを振り分けることの影響と言っています。

 

確かに「やればできる」という言葉自体に本人の意図というよりも、人から押し付けられた価値観を感じます。その主語が自分であれば、経験談からの可能性を感じるのですが、他者からの押し付けであれば、これはかなり無責任な言葉であるかもしれません。小西氏はこういった早期教育の価値観について、「早期教育の価値観は、他人よりも少しでも抜きんでることを良しとするものです。人間の幸福を身分獲得やステータス、学歴社会における勝利に価値を置いたものです」と言っています。ある意味で、この早期教育というものは子どもの親が自らの社会に対するコンプレックスを子どもに背負わせている結果なのかもしれません。このことは我々大人はもっと意識しなければいけないことなのかもしれません。

 

小西氏は続けて、こういった早期教育は「できる子」と「できない子」といった悪い偏見を生むことにつながりかねないと言っています。「できない子」を社会から締め出し、子どもの失敗を認めない窮屈な社会を作りだしているだけでないでしょうかというのです。今の時代、学校の成績で人の優劣を見られることが多いです。社会に出るとそうではないことが最近でこそ少なくなってきましたが、特に学生時代では未だ成績というのはかなりのウェイトで、「頭がいい」かどうかを判断する要素であります。結果、学生時代のある意味でのレッテルによって、ドロップアウトしてしまう人や窮屈さを感じる人がいるように思いますし、自分自身も「成績や偏差値による優劣」というものを感じていなかったかというと「No」とは言い切れない部分があります。

 

小西氏はこういったことを踏まえ、「やってもできないボーダーライン」と向き合うことも、大事な教育感だと思うと言っています。そして、「やればできる」と信じて疑ないことだけが、子どもにとっての唯一の幸せかどうか、立ち止まって考えてはどうかと言っています。そして、もともと子どもは自ら積極的に働きかけるという力を持っていると言います。この視点は保育をするものとしても非常に感銘を受ける言葉です。保育をするうえで子どもの「成長や可能性を信じる」ということは大切なことのように思います。その選択肢は大人が主体としてあるのではなく、子どもの人生としてあくまで主体は子どもにあるのです。小西氏は「乳幼児期の習い事や教材は、あくまでも遊び感覚で、親子のコミュニケーションの一つとして、体験を共有するくらいでよいのではないでしょうか」と言っています。そして、「『あなたの得意分野をゆっくりと探そう。これをやってもできなかったけど、他のものがあるよ』とおおらかな気持ちで子どもの成長を見守るほうが良いように思う」とつづっています。それくらいの気持ちで子どもの成長を見ていってあげるほうが、大人や親にとっても、子どもにとっても、幸せになる方法でもあるように感じます。

バーチャル教材と環境

小西は乳幼児期のバーチャル教材においても疑問を投げかけています。よくある「育脳」効果のあるビデオやDVDといったものです。一方的に情報が与えられる状況というのは子どもにとってはどのような影響がおきるのでしょうか。小西氏はこのような一方的な情報は子どもが自分の触覚を使って、自ら世界を広げる力を阻害する恐れがあると言っています。

 

その他の研究においても、2003年末に開かれた「赤ちゃん学会」で理化学研究所のヘンシュ貴雄さんが紹介したもので、子どものビデオ視聴と言語に関する実験があります。実験室に集められた子どもが、ビデオを見て中国語を学ぶグループと、対話によって中国語を学ぶグループの2つに分けられました。どちらも1日30分間、週3日の学習を1カ月間続けます。一か月後、対話で中国語を学んだグループの子どもたちは、中国語の発音を区別することができましたが、ビデオだけで中国語を体験したグループの子どもたちは、殆ど中国語を認識することができなかったのです。

 

ヘンシュさんは「対話による人との接触によって、子どもの意欲が喚起されたために(対話によって学んだ子どもの方が)、発音が定着したのではないか」と考えています。そして、他者との会話は、相手の反応を見る。顔色をうかがう。同調する。反発するといったコミュニケーションの学習にも大きく貢献しています。これは言葉の学習と同時に社会性を身につけるものでもあるというのです。

 

人が言葉を学ぶなかにおいて、社会性も身につけているというのは逆を言えば、社会性を身につけるために言葉を学ぶということも言えるのかもしれません。よく言葉が遅れている障害児に対して、「言葉のシャワー」をかけてあげてほしいと言われることがありました。これは単に言葉を覚えるということだけではなく、相手の障害児に対して、「言葉を使いたい」という意欲を持たせることにもつながっているのからなのかもしれません。

 

大切なのはいかに「意欲」を持たせるのかということなのだろうと思います。一時期はやったスピードラーニングでも、やはり「聴こう」とある程度思っていなくては、リスニング力はつかないということを聞いたことがあります。「ただ聞いている」だけ、または「聴かせよう」としてもそれほど大きな効果は得られないのかもしれないのです。そこに「やりたい」という欲求や意欲がなければ、大きな効果にはならないのでしょう。ましてや、乳幼児期からこういった早期教育を施すがゆえに、親との関わりが減ったり、ヒトとの関わりを減らしていくということはより社会性を身につける機会を減らしてしまっているのかもしれません。社会性か教育かどちらが将来に必要な力となるのかよく考えなければいけないのでしょう。特に今の時代、「遊び」の種類は非常に少なくなってきていて、遊ぶ環境も限定されたものになってきているように感じます。そういった時代においては、これまで当たり前にあった環境が無くなっているということをより意識しなければいけないと思います。

外への働きかけ

赤ちゃんは手や口を使って、身体を触ったり、嘗め回したりすることで、自分がどういうものかを認識します。そして、目や耳を使って、他者や周囲の世界に興味を持ち、認識し、積極的に関わろうとしていると小西氏は話しています。このことを考えてみると、非常に興味深いのは赤ちゃんは「大人が与える刺激によって反応する」だけではなく、「自分でも積極的に世界を見ようとしている」ことです。決して「赤ちゃん」だからといって「受動的」な存在ではなく、「能動的」にも世界に関わりかけていますし、自発的に刺激の選択を市、自分の意志や興味で周囲と関わろうとしているのです。

 

赤ちゃんは保育において、「並行遊び」といわれています。関わることは少ないと言われていました。しかし、実際の現場を見ていると赤ちゃんは子ども同士でジッと見ていたり、手や足で子どもに触れています。この姿を見ていても、赤ちゃんは何かをしてもらうのを待っているだけとは思えません、。最近では、「赤ちゃんは白紙で生まれてくる」という説は否定されています。赤ちゃんは赤ちゃんなりの持っている能力をフルに生かして、世界に働きかけているのですね。

 

東京大学教授の汐見稔幸氏は、乳児期を人間の認知システムの内的な構成という視点から考えると、①世界がどうなっているか、②世界を把握するにはどうすればいいかという2つのことが作られている時期だと言っています。そのため、「乳幼児期が能動的に5官と身体を駆使して対象に働きかけ、対象からの反応を受け取りながら、対象を認識していくということが不可欠である」と述べています。

 

これをうけ、小西氏は人間は他人との相互作用によって何かを学び、成長する生き物ですから、自分から積極的に触ることも大切な発達過程の一つといえるのではないかと言っています。

 

この「相互作用」というのはよく乳児においては母親が中心になることが多くあります。確かに愛着関係というのは赤ちゃんにとっては非常に重要な関わりであり、この愛着関係があることで、安心基地となり、外の世界に向かうようになります。つまり、何かあったときに戻ってこれる場所が必要になります。そのため、親の愛着というのは非常に重要です。しかし、愛着を中心として、外に働きかけるときに他の人的環境も重要な気がします。それは祖父母といった大人でもありますし、兄弟といった子ども関係もあります。特に最近の少子高齢化社会においては子どもが少なくなり、家庭でも兄弟関係がない子どもが多くいます。

 

赤ちゃんにおいても、人との相互作用があることが見えるのを考えると、愛着関係に目を向けるのではなく、赤ちゃん同士の関係性にも大きな影響があるように思います。

赤ちゃんの能動性

現代においては環境要因による学習や体験といったものが大きな影響が出ると考えられることが多く、そのため早期教育においてもこの考えが強く反映されているのだろうということが分かります。しかし、生得的な要因も決して影響がないとは言えなく、赤ちゃん全員が同じ環境にあったからといって、必ず同じ結果が約束されるというわけでないのです。つまり、これは環境を中心とした体験や知識によって起きることではなく、生まれもった能力というものも影響があるということが見えてきます。

 

例えば、言語においてはどうでしょうか。よく言語は後天的な要素、つまり環境によって獲得されると考えられていますが、生後2か月、3ヶ月から1歳くらいまでの赤ちゃんに共通する「クーイング」(「アーアー」「ウーウー」などの発語)や「パパ」「ママ」といった最初の言語は、生得的なものといわれているそうです。確かに、こういった言葉は日本だけに限らず、海外においても全世界で共通する「言語」といえます。そして、これは「言葉の始まり」であるだけではなく、親を喜ばせ、庇護を受けるための赤ちゃんの戦略であると小西氏は言っています。つまり、こういった戦略が遺伝的にあるということを考えるとこういった言語の始まりはどの時代においても、皆同様に通る発達であるのかもしれません。

 

このこととは別に重要な生得的能力があると言います。それが「能動性」です。生後1ヶ月から3か月頃の赤ちゃんは、自分の顔を手で触ったり、指しゃぶりをしたりします。4か月頃になると手と手を合わせる仕草が、5,6か月になると自分の手を足にもっていく仕草や、グーにした手を口に無理やり入れようとする仕草が見られます。さらに、手で足を触ったり、足を口に入れたりするようになります。このような仕草は胎児期から始まってます。生後と同様、胎児は自分の顔(頭)、身体、手、そして足の順番で自分の体を触り、指しゃぶりをするのです。

 

この行動は何を意味しているのでしょうか。これは「口」や「足」を触覚器官となり、「自分の存在」を確かめているのだと小西氏は言っています。それと同じ頃、聴覚や視覚も発展させていきます。「舐める」「触る」行為は、赤ちゃんが身体で感じ取るものですが、「見る」「聞く」は赤ちゃんが自分から離れたものを認識する行為です。つまり、赤ちゃんは手や足を使って「自分の存在を確認」しているのと同時に、「目」や「耳」を使って他者や周囲の世界に興味を持ち、認識し、積極的に関わろうとしているのです。そして、発達とともに歩行が加わってくることによって、近くのものから遠くのものを認識するようになるのです。

 

このように、赤ちゃんは「自分がどのようなものか、周囲にはどんな世界が広がっているのか」を確認していきます。これが人間が社会的生き物といわれる所以であり、人間が社会性を獲得するための生得的な知恵ということになると小西氏は言っています。

 

赤ちゃんを見ていると周りをジッと見つめていたり、キョロキョロと顔を動かしている様子をよく見ます。これは赤ちゃんが外の世界を理解しようとしているからこそ起きる行動なのですね。いかに赤ちゃんが受け身である存在ではなく、能動的に世界に働きかけているのかということが観察していくとよくわかります。