大人の脳と子どもの脳

ゴプニックは子どもと大人の間には、進化的に一種の役割分担が出来上がっていると言っています。それはどういったことかというと「子どもはいわば、ヒトという種の研究開発部門に配属されたアイデアマン。大人は製造販売担当です」というのです。それは子どもは発見、大人はそれを実用化するのが仕事だというのです。ただ、子どもは無数のアイデアを提案しますが、ほとんどは使えません。実行可能なものはほんのわずかなのです。とはいえ、斬新な変革能力、それをもたらす想像力と学習能力で競えば、負けるのは大人ではないかと言います。しかし、大人のように、長期計画の立案や迅速で自動的な実行などに関しては大人の方が勝っています。つまり、ゴプニックの言葉を借りるのであれば、「イモムシと蝶はなすべきことが違う」のです。

 

このような大人と子どもの役割分担はそれぞれの心、脳、日常の活動、さらには意識体験に反映されるそうです。特に赤ちゃんの脳は想像することと学習することに特化されているようで、弱い回路、使用されることの少ない回路は「刈り込まれ」てしまい、よく使われる回路が強化されていくようになります。初めはまるで昔のパリの路地のような張り巡らされた回路ですが、大人になるにつれて、効率のいい大通りが整備されていくのです。また、子どもの脳は大人より可塑性や柔軟性がはるかに高く、変化をよく受け入れます。ただ、そのぶん効率が悪いので、大人のようには迅速で効果的な対応ができません。

 

このように子どもの間の脳は様々な変化にさらされ変化を起こします。その変化の中で特に重要な役割を果たす脳の部分が前頭前野であり、脳の中でも人間だけが特別よく発達している部分であり、神経学者が人間らしい能力の中枢と言われている場所です。今の時代、この前頭前野の発達によって問題が起こっていることは、以前紹介した、「ケーキの切れない非行少年」や「非認知能力」においても言われていました。

 

この前頭前野は思考、計画、調整といった洗練された能力を司っていると考えられていました。しかし、この考えによって悲劇も起きてしまったとゴプニックは言います。1950年代に精神病患者に前頭前野の一部を切除する手術(ロボトミー)が盛んに行われたのです。一見、この手術により治ったように思われた患者でしたが、判断や衝動のコントロール、知的な活動をする能力がほとんど失われてしまったのです。

 

このことからみても、いかにこの前頭前野が人間の人間らしさといったところに影響を及ぼすことにつながっているのかということが見えてきます。ゴプニックはこの前頭前野のある大脳新皮質の一部で脳のうちでも一番ゆっくり成熟するそうです。そして、この領域が成熟し、神経回路の刈り込み、強化が完了するのは20歳半ばだそうなのです。では、人間の理性的なところが完成するのが20歳半ばだというのであれば、子どもはこの理性を司る脳を持たない以上不完全な大人なのでしょうか。

それは間違いだとゴプニックは言っています。

子ども期とは

ゴプニックは人間の成人までの期間が他の種よりも長いことで学ぶことが多くでき、環境に適応し、環境を変えることさえもできる力を得ることができると言っています。しかし、その反面、不利な部分もあると言います。それは「時間がかかりすぎる」ということです。確かに、考えてみると子どもが独り立ちするまで、元服の期間ですら12~15年もの時間を必要とします。今の時代では20年期間としては確かに長い年月が必要とされます。

 

しかし、大人に守られている時間が長ければ長いほど、「学習に集中できる時間が長い」というのも半面ではあります。要はこの期間をどう有意義な時間として保障してあげることができるのかということが重要なのだということなのでしょう。大人になれば、生活のため、ただ学習だけに時間をかけるわけにはいきません。そのため、「子ども期」と言われる時代にやるべきことは学習です。そして、ゴプニックは幼児期の期間は「自分のいる世界を学び、他にどんな世界があるえるのだろうと思い描く期間です」と言っています。そして、その時の成果は大人になったときに現れることでしょうと言っています。つまり、この言葉を考えると「学習」という言葉の定義をしっかりと考えなければいけません。それは決して学歴や成績といったものではなく、「自分のいる世界と他にどんな世界があり得るのだろうかを思い描く」期間なのです。

 

先日、自園で卒園式がありました。その子どもたちの夢は非常にユニークです。「警察官になる」「アイスクリーム屋さんになる」といった夢が書かれていました。こういった夢を持つことこそがそもそもの学習の根本になければいけないのでしょうね。そして、その夢実現化していくために「学習」があるのだと思います。たとえば、優秀な「寿司職人」になるためには学校の成績が重要なのでしょうか?それよりも早くから職人の下で習っていた方がいいように思います。ただ、そのためには「なりたい」という思いが強くなければ厳しい修行には耐えれないことでしょう。ただ、最近では専門学校でそのノウハウを効率よく教えてもらうようなことができるようになっています。こういったところに学びに行くのも学習です。要は学習とは先人の知恵を学ぶことであるのです。そして、その学習の中で将来の自分を思い描き準備していく時間でもあるのです。だからこそ、学習は大切になるのです。それはただ漠然と成績を上げることや学歴をあげることを意味していないのです。

 

そのため、以前紹介したゴプニックの言葉で「子どもと大人は、同じホモ・サピエンスでありながら、形態のまるで違う生物だと考えるほうが適切です」という言葉が見えてきます。事実、赤ちゃんの脳は想像することと学習することに特化されているらしく、大人の脳よりたくさんの神経回路があることが分かっているそうです。

 

そこでゴプニックは子どもと大人の間には、進化的に一種の役割分担が出来上がっていると言っています。

成人までの期間

10月に私に初めて娘ができました。赤ちゃんを観察しているととてもかわいくもありますが、それと同時にその赤ちゃんのする行動一つ一つがとても興味深く感じます。まず、私の妻が気が付いたのが生後数週間でまつ毛が伸びてきたことです。その頃、私はまつ毛が伸びるのは当然であり、それほど驚くことでもなかったのですが、その時、ある先生から、「それは目が見えてきたからだね」と言われました。「目が見えるようになることで、注視するようになる。注視するようになると瞬きが少なくなり、そのため、目にゴミが入らないようにするためにまつ毛が長くなってくるんだよ。つまり、よく周りを見ているんだろうね」と言われ、非常に人間の発育というのは無駄がなく起きているのだということを感じました。

 

この発育に関しては人間の何が関係しているのかを考えるとおそらくは遺伝子だと思います。しかし、さっきの話だと、環境の問題もそこにはあるかもしれません。このように遺伝子だけではなく、環境要因にもよって、変化することつまり「可塑性」が人間の脳の組織や心、社会にまであらゆるレベルで人間性の根幹をなしていると言っている人がいます。それが「哲学する赤ちゃん」を書いたアリソン・ゴプニックです。

 

ゴプニックは「子どもと大人は、同じホモ・サピエンスでありながら、形態のまるで違う生物だと考えるほうが適切です」と言っています。そのため、子どもも大人も、複雑で優れた心と脳と意識形態を持っています。だからこそ、幼児期は人間の子どもが大人に独特の依存の仕方をして過ごす、そして、他の時期からはっきりと区別される発達期間だと言っています。では、なぜそのような時期を人間は必要なのでしょうか。なぜなら幼児期は養育者なしでは生きていけないのです。

 

ここでゴプニックはほかの種と人間を比べると人間は未成熟なまま依存した生活を送る期間は各段に長いことを示しています。そして、さらに歴史と共にその期間はさらに延長されていると話しています。確かに考えてみると日本で成人とみなされた「元服」は12~15歳の年齢が成人とみなされていました。しかし、今でいう「成人」は日本では20歳になっています。ゴプニックの言うように、その期間は時代と共に遅くなってきているのが分かります。では、なぜ、子どもが大人になる期間が他の種よりも長いのでしょうか。

 

このことについて、この守られた未成熟機関こそが、人間の変革能力と分かちがた関係を持っているとゴプニックは言います。人間の優れた創造力や学習能力は進化的に大きな利点で、人間はこれらのおかげで、どんな動物よりも多様な環境に適応し、どんな動物にもできないような環境に適応し、どんな動物にもできないような方法で、自分のいる環境を変えることができるようになったというのです。

 

つまり、他と違い大人に守られた環境の中で「学んでいる」時間が長いために、環境に適応することができるようになったというのです。確かに、元服があった時代よりは今の時代はより複雑になり、テクノロジーも発達しています。それは時代とにより多様になってきています。これが元服にあった時代と今の時代の成人と言われるまでの期間の違いにつながっているのだと言います。しかし、そんな学習により、より環境に適応し、環境を変えるまでに至った人間の生存戦略も不利な部分があると言います。

 

では、それはどういったところなのでしょうか。

男性バイアス

前回も紹介しましたが、日本人の理科離れはここ最近よく言われています。そして、今回の新型コロナウィルス感染症も相まって、小学校では子ども各自にタブレット端末をもたせることなどを進めていたり、卒業式でもタブレット端末を使って動画制作をしたりと、デジタルメディアを使った授業というのも少しずつ始まってきました。そして、今後はSTEM教育がカギを握るのではないかと語られています。思考が柔軟な小学校時代にコンピュータースキルを身につけ、最新の科学技術の可能性に触れ、主体的な問題解決プロセスを経験することで「テクノロジーは面白い」「自分やモノづくりや研究に関わってみたい」という気持ちを高めることができるというのです。

 

また、この記事を書いた船津徹氏は「STEM教育を行うことは同時に日本社会に根強く残る「理系は男子」というジェンダーバイアスを排除し、女子のSTEMへの関心を高める努力が必要です」と言っています。確かに、こういった理系科目の中に女性がいることは少ないイメージはありますね。事実、日本はOECDの集計した「図形で見る教育(Education t a Glace)」によると、自然科学・技術・工学・数学を専攻する女子学生の割合が、OECD加盟国の中で、最下位なのです。

 

しかし、実際のところは科学やエンジニアリングに興味を持っている女子はたくさんいます。そういった女子学生がいても、「理解は男子」というバイアスが、学年が上がるにつれ、教師にも、親にも、子どもにもおおきくなっていき、それが女子のSTEMをするモチベーションを下げるのではないかと船津さんは言っています。そして、「これからの時代を生きぬく子どもを育てるには、『男の子だから』『女の子だから』というジェンダーバイアスに『大人が』とらわれず、一人一人の子どもの個性・素質・強みをまっすぐに見つめ、それぞれにあった教育や環境を与えていくことが大切」だと述べていました。

 

確かに、私の学生時代においても、共学の学校に通っていましたが、理系クラスは女性の生徒がいなかったのを覚えています。少なからずこういった男性のバイアスといったものがかかっていたのかもしれません。今でこそ「リケジョ」という言葉が出てきましたが、逆に考えると「リケジョ」という言葉が流行るほど、「珍しい」という証拠なのだろうと思います。大切なことは「ひとり一人の子どもの・個性・素質・強みをまっすぐに見つめ」ということが言われていました。結局のところ、私たち自身、先入観でもって、生徒を見ていたのかもしれません。実際、保育の中で科学実験をすると、男の子も女の子もどちらもワクワクしている顔をして、結果を見守っています。決して興味がないわけではないのでしょう。海外では科学ゾーンがヨーロッパは特に置いてあることがありましたが、そこも基本的にはジェンダーフリーの環境です。いかに今の日本はそういった意味で、未だ女性に対する偏重された見方が根強く残っているのだろうと思います。とはいて、なかなかこれまで熟成された先入観を取り払うのは難しいです。それも含め、論理的な思考を持つことや主体的に関わることを目的とされたSTEMという概念をもっと積極的に取り入れ、今ある日本の先入観や概念をイノベーションしていく必要があるのでしょうね。

未来を生きるために

経済産業省は「新産業構造ビジョン」の中で、2030年までの様々な職業における構造の変化を予想しています。そして、現在は昔からある仕事と新しい仕事が入れ替わる過渡期と言われています。つまり、仕事が今後大きく変わっていくということは教育も同時に変わっていかなければいけないことを意味しています。では、これからの社会においてはどのような教育が重要になってくるのでしょうか。

 

それは、「主体性をもって問題解決をしていく力や新しいシステムを創造していく力」と言われています。これからの高度なテクノロジーに使われる側から使う側に回らなければ、変わりゆく社会の中で生き残っていくことができないというのです。Newsweekではこのことをこのように教育が変わっていくと言っています。「今までゲームをする側であった子どもが、STEM教育を通してゲームを作る経験をすることによって、作る側の思考を身につけることができます。人が作ったものを使って楽しむことに止まらず、自分が人を楽しませるものや社会に役立つものをつくるにはどうしたらいいのか?」といったクリエイティブな視点がこれからの社会で活躍する人材には欠かせないというのです。そのため、STEM教育を導入することは子どもの科学分野への興味を喚起できると同時に、主体的に考え、行動する力を鍛えることができるというのです。

 

また、海外の話ですが、2011年にドイツに保育の海外研修に参加しました。その時にはすでに、幼稚園や学童の施設には「科学コーナー」がすでにあったのを覚えています。また、最近では世界中で「科学する力」が衰えているということが言われています。OECDでは、生徒の学習到達度調査(PISA2003)での国際数学・理科教育動向調査(TIMSS2003)について国際数学・理科教育動向調査(TIMSS2003)を国際教育到達度評価学会(IEA)が実施しました。そこでの日本の学力は、国際的に見て上位ですが、小学校理科、中学校数学は前回より得点が低下しています。また、理科と数学(算数)の勉強が「楽しい」と答えた子どもは、世界最低レベルだったようです。

 

また、この「科学する力」というのは何も一般的な「理科」といったものではなく、『「観測(見る、触れる)」に基づいて普遍的な「モデル(仮説)」を立て、それらを「測定(測る)」によって確かめるという、論理的・実証的なサイクルを伴う知的好奇心』といった「論理的思考」のことを指します。つまり、非認知能力のように、こういった仮説を立て立証し、論理的に解釈するということが衰えているというのです。

 

確かに、こういった思考方法は最近は低下しているかもしれません。このコロナの件においても、論理的に感染源を特定し適切に対応するというよりかは、「コロナ警察」や「自粛警察」のようにどちらかというと情緒的な反応が多いように思います。よく聞くのが「頭ではわかっていても、情緒が追いつかない」といったように感情面でとらえてしまうことが多いのはこういったことにもよるのかもしれません。

 

しかし、この新型コロナウィルス感染症の時代はSTEM教育を導入するチャンスだとNewsweekでは書かれています。これは全く先ほどの話とリンクしていて、こういった時代だからこそ、「安全に学校で過ごすにはどんな工夫が必要か、衛生管理ができる発明をしてみよう、ソーシャルディスタンスを保ちつつコミュニケーションをとる方法を考えてみようと生活に密着した問題について考えることで、主体的に問題解決する力を育てることができる」というのです。大切なのは自分で主体的に考えることなのです。それはこれまでの日本の学校教育のように、先生の講義を聞く「受け身」の授業形態ではなかなか取り入れれなかったところです。

 

そして、こういった学校教育の今後の変化において、乳幼児期では主体的な姿勢を持てる保育をすることが急務になってきます。問題解決・主体性といったことはどの年代でも必要な姿勢ということが見えてきます。そして、そのための環境を用意することはこれからの社会を支えることでもあるのですね。