男性バイアス

前回も紹介しましたが、日本人の理科離れはここ最近よく言われています。そして、今回の新型コロナウィルス感染症も相まって、小学校では子ども各自にタブレット端末をもたせることなどを進めていたり、卒業式でもタブレット端末を使って動画制作をしたりと、デジタルメディアを使った授業というのも少しずつ始まってきました。そして、今後はSTEM教育がカギを握るのではないかと語られています。思考が柔軟な小学校時代にコンピュータースキルを身につけ、最新の科学技術の可能性に触れ、主体的な問題解決プロセスを経験することで「テクノロジーは面白い」「自分やモノづくりや研究に関わってみたい」という気持ちを高めることができるというのです。

 

また、この記事を書いた船津徹氏は「STEM教育を行うことは同時に日本社会に根強く残る「理系は男子」というジェンダーバイアスを排除し、女子のSTEMへの関心を高める努力が必要です」と言っています。確かに、こういった理系科目の中に女性がいることは少ないイメージはありますね。事実、日本はOECDの集計した「図形で見る教育(Education t a Glace)」によると、自然科学・技術・工学・数学を専攻する女子学生の割合が、OECD加盟国の中で、最下位なのです。

 

しかし、実際のところは科学やエンジニアリングに興味を持っている女子はたくさんいます。そういった女子学生がいても、「理解は男子」というバイアスが、学年が上がるにつれ、教師にも、親にも、子どもにもおおきくなっていき、それが女子のSTEMをするモチベーションを下げるのではないかと船津さんは言っています。そして、「これからの時代を生きぬく子どもを育てるには、『男の子だから』『女の子だから』というジェンダーバイアスに『大人が』とらわれず、一人一人の子どもの個性・素質・強みをまっすぐに見つめ、それぞれにあった教育や環境を与えていくことが大切」だと述べていました。

 

確かに、私の学生時代においても、共学の学校に通っていましたが、理系クラスは女性の生徒がいなかったのを覚えています。少なからずこういった男性のバイアスといったものがかかっていたのかもしれません。今でこそ「リケジョ」という言葉が出てきましたが、逆に考えると「リケジョ」という言葉が流行るほど、「珍しい」という証拠なのだろうと思います。大切なことは「ひとり一人の子どもの・個性・素質・強みをまっすぐに見つめ」ということが言われていました。結局のところ、私たち自身、先入観でもって、生徒を見ていたのかもしれません。実際、保育の中で科学実験をすると、男の子も女の子もどちらもワクワクしている顔をして、結果を見守っています。決して興味がないわけではないのでしょう。海外では科学ゾーンがヨーロッパは特に置いてあることがありましたが、そこも基本的にはジェンダーフリーの環境です。いかに今の日本はそういった意味で、未だ女性に対する偏重された見方が根強く残っているのだろうと思います。とはいて、なかなかこれまで熟成された先入観を取り払うのは難しいです。それも含め、論理的な思考を持つことや主体的に関わることを目的とされたSTEMという概念をもっと積極的に取り入れ、今ある日本の先入観や概念をイノベーションしていく必要があるのでしょうね。

未来を生きるために

経済産業省は「新産業構造ビジョン」の中で、2030年までの様々な職業における構造の変化を予想しています。そして、現在は昔からある仕事と新しい仕事が入れ替わる過渡期と言われています。つまり、仕事が今後大きく変わっていくということは教育も同時に変わっていかなければいけないことを意味しています。では、これからの社会においてはどのような教育が重要になってくるのでしょうか。

 

それは、「主体性をもって問題解決をしていく力や新しいシステムを創造していく力」と言われています。これからの高度なテクノロジーに使われる側から使う側に回らなければ、変わりゆく社会の中で生き残っていくことができないというのです。Newsweekではこのことをこのように教育が変わっていくと言っています。「今までゲームをする側であった子どもが、STEM教育を通してゲームを作る経験をすることによって、作る側の思考を身につけることができます。人が作ったものを使って楽しむことに止まらず、自分が人を楽しませるものや社会に役立つものをつくるにはどうしたらいいのか?」といったクリエイティブな視点がこれからの社会で活躍する人材には欠かせないというのです。そのため、STEM教育を導入することは子どもの科学分野への興味を喚起できると同時に、主体的に考え、行動する力を鍛えることができるというのです。

 

また、海外の話ですが、2011年にドイツに保育の海外研修に参加しました。その時にはすでに、幼稚園や学童の施設には「科学コーナー」がすでにあったのを覚えています。また、最近では世界中で「科学する力」が衰えているということが言われています。OECDでは、生徒の学習到達度調査(PISA2003)での国際数学・理科教育動向調査(TIMSS2003)について国際数学・理科教育動向調査(TIMSS2003)を国際教育到達度評価学会(IEA)が実施しました。そこでの日本の学力は、国際的に見て上位ですが、小学校理科、中学校数学は前回より得点が低下しています。また、理科と数学(算数)の勉強が「楽しい」と答えた子どもは、世界最低レベルだったようです。

 

また、この「科学する力」というのは何も一般的な「理科」といったものではなく、『「観測(見る、触れる)」に基づいて普遍的な「モデル(仮説)」を立て、それらを「測定(測る)」によって確かめるという、論理的・実証的なサイクルを伴う知的好奇心』といった「論理的思考」のことを指します。つまり、非認知能力のように、こういった仮説を立て立証し、論理的に解釈するということが衰えているというのです。

 

確かに、こういった思考方法は最近は低下しているかもしれません。このコロナの件においても、論理的に感染源を特定し適切に対応するというよりかは、「コロナ警察」や「自粛警察」のようにどちらかというと情緒的な反応が多いように思います。よく聞くのが「頭ではわかっていても、情緒が追いつかない」といったように感情面でとらえてしまうことが多いのはこういったことにもよるのかもしれません。

 

しかし、この新型コロナウィルス感染症の時代はSTEM教育を導入するチャンスだとNewsweekでは書かれています。これは全く先ほどの話とリンクしていて、こういった時代だからこそ、「安全に学校で過ごすにはどんな工夫が必要か、衛生管理ができる発明をしてみよう、ソーシャルディスタンスを保ちつつコミュニケーションをとる方法を考えてみようと生活に密着した問題について考えることで、主体的に問題解決する力を育てることができる」というのです。大切なのは自分で主体的に考えることなのです。それはこれまでの日本の学校教育のように、先生の講義を聞く「受け身」の授業形態ではなかなか取り入れれなかったところです。

 

そして、こういった学校教育の今後の変化において、乳幼児期では主体的な姿勢を持てる保育をすることが急務になってきます。問題解決・主体性といったことはどの年代でも必要な姿勢ということが見えてきます。そして、そのための環境を用意することはこれからの社会を支えることでもあるのですね。

日本の現状

前回の内容でSTEM教育における利点を紹介しました。ただ単に理数系の学問を進めるというだけではなく、論理的思考を持たせ、主体的に学ぶ力や問題解決能力、質問喚起力、創造力、コミュニケーション力など複合的な能力を向上させ、実社会での使える技能を身につけるということがSTEM教育の目的でもあることが見えてきました。

 

では、日本においてはこのSTEM教育とはどのように進んでいるのでしょうか。2021年3月10日のNewsweek日本版のHPには日本は最低レベルであると言われています。とはいえ、最近では日本の学校教育でもプログラミング教育は必修化されてきて、STEM教育をカリキュラムに導入する動きは出ています。しかし、世界的な流れから言うと日本はかなり出遅れているようです。というのも、2012年にOECDが72カ国の15歳の生徒に対して行った調査によると、日本はインターネットとコンピューターの学校内外での使用について、殆どの項目において世界平均を下回っていたそうです。

 

中でも、「学校外でコンピューターを使って宿題をする」と答えた割合はデンマーク、オーストラリア、メキシコの生徒が90%以上だった一方で、日本の生徒は9%で調査国中で他を大きく引き離した断トツの最下位だったのです。それは学校教育においてコンピューター使用(宿題や課題をコンピューターで行い提出すること)がほとんど要求されないことが要因だそうですが、家庭においても子どもがコンピューターを使う機会を増やし、ITリテラシーを高める努力が必要だそうです。

 

 

確かに、2013年にオランダのイエナプラン校を見学に行った時もすでに子どもたちは数学の問題をコンピューターのゲームを利用してすでに行っていました。今から10年ほど前ですでにこういった教育形態を行っており、普段からコンピューターというものが身近にあった教育があるということが伺えます。しかし、日本ではコンピューターを使う授業というのはまだまだ少なく、限られた時間でしか行われていないのが現状です。

 

この記事を書いた船津徹さんはこういったコンピューター教育は小学校低学年からスタートすべきと言っています。パソコンを使い、タイピングや基本ソフトウェアの使い方を身につけることで「コンピューターは難しい」という抵抗感を取り除くことができるというのです。そして、動画制作やアニメづくり、ゲーム作りといったものを身近にし、主体的かつクリエイティブな使い方を経験させることでコンピューターサイエンスを身近に感じさせることが必要だというのです。

 

最近ではパソコンだけではなく、タブレット端末も様々出ていますし、こういった端末は感覚的に動かせるだけで、幼児期の子どもでも取り扱いができます。街でもスマートフォンを巧みに使う子どもをよく見かけます。これまでより、こういった端末は身近になっていますし、敷居も低くなっています。しかし、まだまだ日本は理系アレルギーがあるように思います。とはいえ、これからの時代はテクノロジーがより発展していく時代になります。こういった時代に活躍する人材が必要になってくるなかで、教育環境も大きく変わってくるかもしれません。そういった環境に向けて、保育環境も変わる必要があるのかもしれませんね。

STEM教育

3月のニューズウィーク日本版のHPに「世界で進む『STEM教育』の重要性」という記事がありました。しかも、その記事の主題は「日本は最低レベル」と書かれています。最近確かに「STEM」というのはよく聞く教育内容です。以前シンガポールに行った時も、STEM教育の環境が置かれていたのを覚えています。世界的にも最近有名になっているものでもあります。では、そのSTEM教育とはどういったものなのでしょうか。

 

STEM教育は2011年にオバマ大統領が一般教書演説で優先課題に挙げたことで有名になりました。そして、今ではベトナムやアフリカの新興国においても注目され、力が入れられている一方で、日本は大きく遅れていると報じられています。そんなSTEM教育ですが、これは「Science(科学)」「Technology(技術)」「Engineering(工学)」「Math(数学)」の略で、これからの社会で最も成長が著しい分野として人材育成が求められていると言います。そして、STEM教育の最大の利点は「社会で必要とされる実用的な技能を、教科の枠を越えて学習できる」ということであると言っています。つまり、従来での「理科は理科の授業」「数学は数学の授業」といった縦割りの教科によって学ぶことではなく、国語、算数、理科、社会、図画工作、コンピューターなどの教科で得た知識を動員し、問題解決力や課題を発見する力など、これからの社会に必要とされる実用的な力を鍛えることを目的にしています。

 

アメリカではSTEM教育は小学校から始まり、多くの小学校がロボティックスやレゴリーグなど「グループ単位」でSTEM技術を競わせる楽しいアクティビティを取り入れています。そして、デザイン、設計、制作、プログラミングなど、ロボット制作の工程を仲間と一緒に学習するのです。つまり、その形態はグループ単位で行うのです。グループで行うことで、子どもたちひとり一人の「強み」を活かせるようになります。絵が得意な子どもがデザインを、コンピューターが得意な子はプログラミングをといったように、それぞれの特性を活かし、共通のゴールに向かって協力し合う経験を積むのです。

 

こういったチームで同じことに向かって課題を見つけ、問題を解決していく過程のというのは今後もっと必要になってくるというのでしょう。特にこれからの世界において、「多様性」というのが様々な分野で言われています。そのため多様な人と関わる力というものは今後より重要性を増しているように思います。このようにSTEM教育を導入することは、子どもの主体的に学ぶ力、問題解決能力、質問喚起力、創造力、コミュニケーション力などの社会に実用的な力を養うことにつながります。ロボット制作やプログラミングの過程は、失敗や問題の連続です。こういった問題をチームで発見し、解決することでチームワークを養います。しかも、こういったことを楽しいアクティビティを通して行う中で、学んでいくのです。

 

今、世界で行われ、導入されている教育形態にはこういった目的を持っているものがあるのです。では、今日本ではこの教育についてどのように取り上げられているのでしょうか。そして、「遅れている」というのはどういったところにあるのでしょうか。

いい経験を体験するために

木村さんは日常生活の中で、「追いかけること」や「逃げる」「転ぶ」「投げる」「捕る」「打つ」「押す・引く」「よける」「切り返す」という運動機会を取り入れることが必要と言っています。これは運動の動作ができているかどうかではなく、あくまで機会を与えることが重要になると言います。このときに注意しなければいけないのが、「ああしなさい」「こうしなさい」と大人が過剰なアドバイスをしてしまうことだと木村さんは言います。大人は安全を確保して見守っているだけで十分だといいます。そうすることで子どもは自主的に遊びに取り組み、子どもの集中力はどんどん深まってくるというのです。このことは遊びの中で大人がどう援助してあげればいいのかということにも通じます。

 

また、「良い経験」とは自分で考えて取り組み、それを大人に否定することなく励まされれば、身体を通して子どもの記憶に刻まれると木村さんは言っています。これは自己肯定感を得るプロセスにおいても同じことが言えるように思います。大切なことは「自分で考えて取り組む」といった過程が重要です。こういった過程を経ることで子どもたちは達成感と同時に取り組む見通しと「やる」と決めた責任も得ることになります。このことについて、私は保育においても重要なことであると同時に、これが子どもたちの「主体性」を持たせることであると思います。

 

大人にとっても、自分で選んだことを子どもがするので、初めて「叱る」ことに意味が出てきます。大人にさせられたものは子どもにとって責任はないのです。なぜなら「あなたがやれといったから」というように自分で選んだわけではないので、子どもからすると大人に責任転嫁をしてしまうことがあります。しかし、自分考えて取り組むということは「自分で選んで『やる』と決めたのは誰?」と「誰のせいか」をはっきりと伝えることができます。そのため、見通しをもって考えなければなりません。主体性を持たせることは子どもが自分で考え、自分をコントロールしなければいけないのです。こういった自分でコントロールできる活動を通すことで「できなかった」ときに大人の励ましや援助に「救い」として意味が出てきます。「主体」の取り方で子どもの見方は大きく変わってきます。

 

木村さんはこういった体験を日々行うことは、脳の欲望や感情を扱う大脳辺縁系を刺激し、運動が「楽しい」「達成感」という意欲につながるといいます。そして、ここで得た達成感は「次は何をやろうか?」といった意欲につながり、次の計画の予定の計画づくりのイメージを持たせることになります。こういった過程を繰り返すことで、様々な知的活動を行う大脳皮質を使いつつ、脳の全体のネットワークにつながることにもなると木村さんは言います。

 

子どもたちが行う「良い体験」というのは脳のネットワークをつなげることに大きな影響があるのですね。木村さんはこのことを身体運動を切り口に話をしています。確かに乳幼児期の子どもたちにとって身体運動の行う意味はすごく大きくあるということは理解できます。そして、それだけなく、「運動のとらえかた」や「活動の進め方」は遊びの環境作りにも大きな関係があるのではないかと木村さんの記事を読みながら感じます。そして、「自分で考え取り組む」ことや「大人が否定するのではなく励ます」といったことは見守る保育にも共通するものであり、やはり大切な関わりなのだろうと思います。

 

木村さんは最後にこう言っています「『子どもにはどんな習い事をさせたら将来のためになるか?』と考えることもよいことですが、難しく考える必要はありません。思い切り身体を使って遊ばせることで、子どもの身体も脳もしっかり成長していきます」

 

先日の小西行朗氏の話でも共通することですが、大切なことは子どもに追求することや押し付けることではなく、こういった環境を大人がいかに作って上げれるのかが問われているように思います。