因果マップと統計

これまでの内容を踏まえると、因果マップを持っていることで、様々な予測を可能にすることができます。つまり、因果マップをいくつか描くことで、そのうちのどれが正しいかを判断するにはどうしたらよいのかを判断します。因果マップはつぎにどんなことが起こりやすいかが示されているからです。そのため、どちらが正しい判断になるのか、実験や大掛かりな調査をすることで新たな証拠を集める必要があります。こういった証拠集めを行っていく中で、どの因果マップが予測に合致する証拠を携え、正しい確率が高いのかが分かってきます。つまり、因果マップによって予測を立て、その予測を立て、その予測を実際に得られた証拠と突き合わせることで、もとのマップのうち、どれが正しい可能性が高いかを統計的に判定するのです。現在こういったことはロボット工学において、研究されています。複雑な因果的つながりを学べるプログラムは開発がされています。

 

一見難しいように感じますが、人間は意識的にやろうとしてもできない複雑な作業を、直観的に行っていることが多々あります。例えば、自動車を運転する時に、無意識のうちに道路の状況について複雑な計算をしながら、アクセルやハンドルを操作します。文章を読むときには、複雑な音声や構文を無意識のうちに統計処理しています。では、乳幼児はどうなのでしょうか。ゴプニックは乳幼児も、優秀な科学者やNASAのコンピューターと大差ない方法で統計処理をし、実験をし、他人の実験を参考にして世界の因果構造を学習しているということが分かってきました。

 

1996年科学雑誌『サイエンス』にジェシー・サフランが生後8か月の赤ちゃんが統計的パターンに感受性を持つことを示す論文を発表しました。それは、その後の赤ちゃんの学習能力に関する研究の端緒になったのですが、その論文の中でサフランは赤ちゃんの言語習得法に注目します。例えば、赤ちゃんに対し「プリティ・ベイビー」というのを言ったとします。話ことばであると、「プリティ」と「ベイビー」には区切りがありますが、「プリティベイビー」と単語と単語が切れ目なくつながって聞こえます。では、その言葉が「プリティ」と「ベイビー」といった単語がつながったもので、「ティべ」といった単語は含んでいないと赤ちゃんはどうやって理解していくのでしょうか。

 

それは音節の出現パターンによって理解するのではないかと言います。生後8か月の赤ちゃんは「プリ」の後に「ティ」、「ベイ」の後に「ビー」が来るパターンを何度も聞きます。しかし、「ティ」の後に「ベイ」が来るパターンは聞くことがありません。こうして音節と音節の組み合わせパターンの出現確率がわかってくると、赤ちゃんは「プリ」と「ティ」はセットであり、「ティ」と「ベイ」がセットでないことを理解するのです。

 

そのため、サフランは赤ちゃんにとって「馴れる」ことによって学習が行われるのではないかと考えます。

ごっこ遊びの必要性

子どもが自由に因果マップを描き、反事実を探求していることに比べ、大人は空想世界と現実世界を区別していること。区別することで有益な活動に空想世界を活かすということを大人は行っているという差があることをゴプニックは言っています。このような差は幼い自分と大人の自分とで一種の役割分担をしているのではないだろうかというのです。

 

こうした役割分担は、大人と子どもの特性に、まだこれ以外にも違いをもたらしているようです。その一つが「自制する力」です。赤ちゃんと幼児、子どもと大人では、抑制すること、つまり衝動的な行動を自制する力に大きな違いがあります。大人が大きな目的のために目先の楽しみを我慢できるのはこの自制する力があるからですし、子どもが遠慮しらずと言われるのはこの力が弱いからです。この力は脳の前頭前野の変化と関連があるということが分かってきていますが、ゴプニックはこの自制の力がないからこそ、子どもは大人よりもより探求するのではないかと言います。

 

「自制心がない」というのは日常生活をうまくこなすという意味では欠陥として捉えられます。しかし、この欠陥として捉えられる「自制心のなさ」は逆に言えば、子どもが架空の世界での想像において、役に立ちそうな可能性に限らず、どんな可能性でも探求することに制約がないことにも繋がります。それに比べ、大人は現実世界との兼ね合いを考えると差し迫った未来の反事実を重視します。要は実益に伴ったものを想像してしまうことがほとんどでしょう。このように大人と子どもではその想像する幅の広さや探求の意味というものがちがってきます。人類はこういった限りない探求を許すことで、子どもが大人よりも多くを学べるように進化してきたのではないかとゴプニックは言うのです。

 

もちろん、子どもたちはごっこ遊びをするにあたって「世界や他人のことを学んでいる」といった自覚はないでしょう。しかし、「子ども期」におけるごっこ遊びをするということは非常に重要な活動であり、仕事でもあるのです。

 

このように考えると、ごっこ遊びの環境を保育の中に環境として用意しておくことの重要性を感じます。子どもたちはただ単に様々な役割を楽しんでいるというのではなく、役割を通して、その社会を学び、探求しているのだということが見えてきます。そして、そこで起きることの見通しや段取り、コミュニケーションといったものにも反事実や心の因果マップが利用されます。人と関わる遊びというのはそれだけ想像力を求められます。相手の気持ちを察することや思いやりを持つことは心の因果マップを持っているからだということが分かります。

 

「遊びは学び」とひとえに話すことが多かったのですが、こうやって理論を含め、その遊びの意味を探求していくことは非常に意味のあることということを強く感じます。

子どものごっこ遊び

私たちが物理的世界で何かの課題に取り組むとき、なにより大切なのは現実世界の因果マップと理論であって、これらをもとに青写真が描かれるように思います。これに対し、心の世界の問題を考えるときは、反実仮想、青写真、フィクションの方に大きな比重が置かれるようです。

 

子どもたちもごく幼いころからごっこ遊びというフィクションに没頭します。その点は大人の作家や読者と変わりません。むしろ、自由奔放な反事実の探求に大人以上に熱心なのは興味深い点だとゴプニックは言います。大人にとってのフィクションは現実世界についてくるおまけですが、子どもたちにとって、架空の世界は一種のぜいたく品だというのです。その点、大人は生活において行うものなので、未来予測も現実的でなければなりません。空想の世界も、実世界に向けて行うことが主です。しかし、幼児にとっては、空想の世界も本物の世界も同じように重要で魅力的なものです。これは、以前考えられていたように、幼児に空想と現実の区別がつけられないというわけではないようです。なぜなら、以前紹介したようにハリスやテイラーが研究した子どもたちにおいて、空想の友だちが実在しないことを知っていたことが分かったからで、幼い子どもには空想世界ではなく、本物の世界で生きなければならない理由がないだけだとゴプニックは言っています。

 

架空の世界に夢中になっている子どもを見て、大人は「また遊んでる」と言いますが、実はここに大事な真実があると言います。普通の大人の生活では、食事の支度や橋を架けるといった行動は有益な活動です。その一方で、小説を読むことや映画に行くといったものは「楽しみ」や「娯楽」として区別されます。では、幼児はどうでしょうか。幼児にとっては大人のような有益な活動は含まれていませんし、そういったことを求めてするものでもありません。だから、大人から見ると「遊んでいる」と思われるのです。大人とは違い有益な活動としてではなく、ひたすらごっこ遊びに没頭し、架空の反事実を次から次へと思いついていく過程の中で、子どもたちは最高に洗練された人間らしい重要な能力を発揮しているとゴプニックは言っています。

 

ここに幼児期のごっこ遊びの本当の大切さがあります。そして、幼い自分と大人の自分では一種の役割分担をしているというのです。幼いときは、現実世界だけでなく、反事実の世界もできるだけ多く探求するのが仕事です。この時期に自由に因果マップを描き、反事実を探求していくのです。そうすることで、大人になったときに子言うして育てた物理的な世界と心の世界の因果マップや、別の世界を思い描く能力が、本物の未来の可能性ということを思い描くことにつながるのです。

 

つまり、幼児期にしっかりとごっこ遊びや空想遊びなどをしっかりと行うことで、大人になった時の因果マップを描くことにより大きな意味を持たせることができるのです。そして、そこには大人が介入することよりも、子どもが思い描くことをより活発にできるように大人が支援していくことが重要になってくるのです。大人ができることというのは結局のところ、支援くらいのことしかできないのかもしれませんし、それが結果として子どもにとって大切な環境なのかもしれませんね。

現実とフィクション

子どもの空想の人物を生み出す能力は、大人が反事実からできている架空の世界を捜索する能力、つまり小説家や劇作家、シナリオライター、役者、映画監督がもつような能力には関連性があることに心理学者のマージョリー・テイラーは気が付きました。空想の友だちは、大人のフィクションの登場人物といろいろな点で似ていると言います。虚構の人物を捜索する作家の多くが、登場人物は独立した人物を持っていて、彼らはたまたま実在していないと、まるで子どものような説明をすると言っています。確かに、漫画家の話をあとがきでみても、多くの作者が、「彼らは私に様々な表情を見せてくれます。気づけば筆が止まらない」といったようなことを共通していっていることをよく目にします。ここでも「いつも彼らのほうがずっと先を歩いていて、作家はずっと後ろから息を切らして追いかけていくのです」という発言を紹介しています。これはテイラーの調査によるとほとんどの作家が作品の登場人物の自律性を認めていたそうです。

 

また、約半数の作家は幼児期の空想の友だちを覚えていて、その特徴もいくらか答えられたことです。対照的なのは一般高校生で、幼い頃は多くが空想の友だちを持っていたのでしょうが、今もそれを覚えていると答えた生徒はわずかでした。おおかたの人は成長すれば空想の友だちを忘れてしまいます。ところが小説家は違うらしく、幼児期の空想の一部を後々まで心にとどめている人が多いようです。

 

ゴプニックはフィクションにおいても、マップの概念が役立っていると考えているようです。以前紹介した、マップと青写真は同種の思考によって作られたとありましたが、マップ、青写真に加わる3つ目の図面が、現在から遠く離れたフィクションの世界マップとして考えてほしいと言っています。小説家はこの第三の図面に実在しない架空の世界を描いているのです。

 

フィクションと反事実は種類としては同じもので、現実空間と未来空間、そして、架空の空間。この考えと同じ要領で、因果的思考の手法を使って、架空の反事実、過去や未来の反事実を構築しているのです。そして、フィクションは現実から極端に離れた反事実であると言えるのではないかとゴプニックは言います。計画を立て、期待を抱き、未来に責任を負うからこそ、私たちは架空の世界に魅了され、それを夢見、時にそこへ逃げ込むことができるというのです。

 

人は生きていく中で様々なことを思い描きます。「夢を描く」ことであったり、「妄想する」ということといった期待を持つということも人は人生の中で何度も行ってきます。それは心の理論を持ち、因果的思考の中から反実仮想をすることができるからなのですね。架空の世界というのは人の生活の中で意外と身近に起きていることなのです。

 

次にゴプニックは物の因果マップと心の因果マップを比較して、どこがどう違うかを明らかにしています。

自閉症児の因果関係の知識

因果関係の知識と実行機能の関係が言われていましたが、ごっこと実行機能が関係あるのであれば、因果関係の知識とごっこ遊びも関連があるということが言えます。このことについてゴプニックは自閉症の子どもの事例から読み取れると言っています。

 

自閉症というのはいまだ解明されていない部分が多い「症候群」です。いろいろなタイプの疾患がひとまとめに「自閉症」という曖昧な用語でくくられていることもあるようです。しかし、少なくとも自閉症といわれる子どもの一部は、因果関係のマップ、特に心の因果マップを作ることが困難であると言います。また、このような子どもたちは可能性を思い描くこともなかなかうまくいかないようです。

 

自閉症の子どもの中には、物理的世界の知識が豊富な子がいます。列車の時刻表を丸暗記したり、自動車のモデルを知り尽くしていたりなど知覚や記憶がずば抜けている子たちです。しかし、そういった子どもたちですら、見えない因果関係をもとに世界を自動的に分析することは苦手なのです。動物学者のテンプル・グランディンもその一人です。自閉症の彼女は事前紹介した「ブリケット探知機」(特定のブロック『ブリケット』を載せるとブロックが光る箱)を見せると、ブロックの表面の特徴である色や形には関心を向けるのに、何が装置を作動させるかは気にも留めないのです。

 

リサ・キャップスによると、自閉症の子には、通常に発達した子どものように成長や生死といった素朴生物学の概念が育っていないのだそうです。つまりこのことは、因果関係そのものが理解できず、他人を理解するのが難しいことにも繋がっています。自閉症の子どもたちには空想の友だちはいませんし、ごっこ遊びもしません。そもそも、ごっこ遊びとは何かということからして、わからないようなのです。たとえば、小説のような空想世界であっても、現実と違うところがみじんでもあってはいけないと感じます。つまり、ファンタジーが理解できないのです。なぜか、それは因果関係についての理論がないために反事実を描けないからです。自閉症の子どもは、他人の心の因果関係についての理論を組み立てるのに大変な苦労をします。そのため、いろいろな空想をして遊ぶことも難しいのです。

 

因果関係の知識と反実仮想は表裏一体ですが、今ここで起きている心の動きを理解することと、別の心の状態を創造することも、密接に関連していると言います。他人の心についての複雑な因果マップを持っている子どもは他人の心を想像できます。しかし、自閉症の子どもはその因果マップをもちあわせていません。だから他人の心を想像するのも下手だとゴプニックは言います。心を理解することと心を想像することも表裏一体の用だと言っています。

 

空想を持つということはかなり高度な意識なのだろうということが分かります。人はいろいろなことを想像します。空想というのは思い描くことだけではなく、予測や見通しも空想の一つです。人は他の種族よりもより深い空想ができる種族であることが分かります。自閉症の子どもたちはそれがなかなかできずにいます。「因果関係の理論を理解する」このことから始まり、そこから反事実を想像できるようになり、そこから相手の気持ちと言った心の理論につながっていきます。思えば、この因果関係を知るというのは子どもの「気づき」からくるものなのだろうと思います。今の時代、「大人が子どもに教える」という教育方法が当たり前に思われています。しかし、それでは子どもの「気づく瞬間」というものを大人が先に教えてしまうため、阻害してしている場合もあるのかもしれません。なぜ、主体性が求めれるのか、なぜ、支援的な教育や保育が求められるのか、そこには子どもの自らの「気づき」にこそ本当の世界の学びがあるからなのでしょうね。