人の意識

まず、赤ちゃんの意識に入るまでに、そもそも「意識する」というのはどういったことをいうのでしょうか。ゴプニックは「意識は、注意と密接な関連を持っていると思われる」と言っています。何かに対し、注意するということはその対象自体を意識し、より鮮明にその対象を見ることだというのです。その注意には2種類あり、一つは外因性注意、2つ目は内因性注意です。

 

外因性注意はたとえば、突然目の前に大きなトラックが現れたような場合、それに注意を向けることを心理学用語でそう言います。一方、内因性注意はある物体から他の物体へ、自発的に注意や意識を移すことを呼びます。これはたとえば、「このコーナーは危ないから気を付けて」と言われた場合、気を引き締めたとたんに、車にピントが合ってよく見えるようになることです。

 

外因性注意は新しい出来事、予想外の出来事は注意を引きやすく、大きな物音のように本質的に人を驚かせやすい出来事によっておこることもあります。また、それとは逆に線路沿いに住む人は列車の音になれてしまって、いつもの時間に列車が通らないと逆に驚くこともあります。これは人間の意識が以前も紹介した「馴化」によって、刺激に飽きてしまい、注意も鮮明な意識も減退したことにより起きたのです。ある出来事に「馴化」していくことで、ほとんど意識に上らなくなるというのです。これは自転車の乗り方や新しいコンピュータ・ソフトの使い方を覚えるときも、初めは慎重であっても、熟練してしまうと無意識のうちにできてしまうということもこの「馴化」によって起きることです。出来事であれ、技術であれ、もうこれ以上の情報も学習も不要になれば、あとはひたすらこなしていくだけになります。こうして、自動操縦状態ができるようになります。

 

次に内因性の注意です。これは特定の対象に、自発的にスポットライトで照らすように向けられる注意です。この場合一つの対象に注意する反面、周りの物事への意識は薄れることがあります。本来なら気が付くはずの目立ったもの、新しいもの未知のものにも気が付きません。この現象はダン・シモンズが考案した実験によって証明されています。まず、参加者に、何人かがボールをパスし合っているビデオをみせ、ボールが人から人へ何回移動するか数えてもらいます。プレーヤーが錯綜した動きをするため、どこにボールがあるか目で追うのは簡単ではありません。そして、ビデオが終わった後に「なにかおかしなことが起きませんでしたか?」と聞きます。しかし、参加者は「いいえ何も」と答えたのです。そこで実験者はもう一度同じビデオを流します。すると、ゴリラの着ぐるみを着た人物が画面の真ん中をゆっくり歩いていくのに気が付くのです。つまり、最初に見たときもゴリラは視界に入っていたはずなのに、まったく見えていなかったのです。それは、ボールに極度に意識を集中させていたためです。なぜ、こういった現象がおきるのでしょうか。そこには私たちの脳における神経伝達物質に影響を受けているからだとゴプニックは言います。

赤ちゃんの意識

赤ちゃんの様子を観察していると、実に落ち着きなくキョロキョロしています。いったい、なにを見ているのかと思うくらい、一つのことに集中するよりも、いろんなところに注意を向け、何かを必死に学び取ろうとしています。そして、大人が話している様子をジッと見たり、声を上げて自分の方に注意を向けさせたりと大忙しです。なぜ、こういった行動をとるのでしょうか。このことはこれまでのゴプニックの話にもあったように、世の中の因果関係を赤ちゃんは吸収するために、モデルとして大人を見ているのでしょう。ずりばいができるようになると、いろんなところに向かい、手あたり次第に手に取ったり口に入れたりするというのはこういった触覚や視覚を使って、物の性質を確認しているのかもしれません。これらの行動はおとなにとっては非常に厄介です。怪我もしそうになりますし、埃をついたものを口に入れるのは不衛生です。しかし、こういった行動自体が百聞は一見にしかずで、赤ちゃん自身の体験を通した学びであるとするなら、その行動をゆったりと見ていたいものだと感じます。

 

ゴプニックはつぎに赤ちゃんの意識をより深く注目していきます。赤ちゃんはどんなふうに世界を体験するのか。赤ちゃんや幼児に注目することで、意識のどんな性質がわかるのかということを見ていきます。では、その「赤ちゃんの意識」とは実際にどういったものなのでしょうか。

 

そもそも赤ちゃんは大人の意識の構造は違ったものがあるといいます。大人は、注意を向けた対象をはっきりと意識します。そして、何らかの対象に注意を向けると、脳は特定のニューロンの働きを高め。変化を促す神経伝達物質を作ります。ところが、赤ちゃんの注意は、大人の注意とは体系的な違いがあって、脳の働き方も大人とは違います。そうであるならば、赤ちゃんの意識も、大人の意識とは体系的な違いがあるのではないかとゴプニックは言います。

 

哲学者の多くは赤ちゃんが仮に意識を持つとしても、そのレベルは大人よりも低いだろうと考えてきました。確かに、赤ちゃんは言葉も話せず、筋道を立てて問題を解決したり複雑な計画を立てることはできないですね。しかし、赤ちゃんの研究していく中で見えてきたデータを見ていくとあることが分かってきました。実際のデータから導かれるのは赤ちゃんの意識は大人よりも低いだろうという回答とはまったく逆で、赤ちゃんの意識は、すくなくともいくつかの尺度では大人の意識レベルを上回ると言っています。

 

では、「意識」というのはどういったことをいうのでしょうか。「意識」は注意と密接な関連を持っているとゴプニックは言います。では、その注意とはどういったものがあるのでしょうか。

学ぶ素養

これまで赤ちゃんが物の因果関係を知ることと心の因果関係を知るということをゴプニックの本を中心に紹介してきました。赤ちゃんがいかに物事を観察し、そして実験していく中でその因果関係を知っていくのかが分かります。かくゆう、私も子どもが生まれて、赤ちゃんの様子を見ていると、非常にいろんなことを見ているのを感じます。そして、見たことを実際に実験し、検証している姿もよく見ていると行っているということが分かります。

 

大切なことはこういった子どもの姿を楽しめるかどうかということが保育や育児をする上で重要なものであるように思います。子どもたちは生活の中で、いたずらもすれば、壊すこと、手のかかることをします。いっけん、それらの行動は大人を困らせる行動であるかもしれません。しかし、裏を返せば、それだけ興味関心が広がっているのだと赤ちゃんを見ていると常々感じます。

 

ゴプニックは子どもが因果構造について、特に心の因果関係を知ることが重要だと言っています。なぜなら、物理的な因果関係の探求は今の時代かなり進んでいます。人類が発明した道具、車輪や梃子といった発明は世界を大きく変えました。そして、人類は地球のみならず、宇宙探検ができるほどの発展を見せています。それと同時に世界を破壊する手段すら手に入れました。しかし、いくら機械やロケット、爆弾といったものが発展して新しい技術ができたとしても、それを使うのは人間であって、心の因果関係、人が人に伝える言葉にかかってきます。心の理論というものが土台にあるからこそ、技術が生かされるのです。

 

世界や心の因果マップを作り、それを使って新しい可能性を思い描き、実現させていくことは、人間が自らを変革していく原動力になります、この力は観察や実験を行ってはマップを見直し、修正することで強められます。たった一枚の正確な因果マップから無数の可能性が生まれるのです。世界と私たち自身の正確なマップが増えるにつれ、可能性はさらに広がります。

 

ゴプニックは「私たちを人間らしくしているものの核心は、世界の因果構造を学ぶこの能力なのかもしれません。」と言っています。人間の知性の進化については、よく知られる2つの説があります。1つは、物理的因果関係の理解から生まれる複雑な道具使用に着目したもの、2つ目は心理的な因果関係の理解から生まれる、複雑な社会ネットワークの維持と文化の発展を重視するものです。この2つにおいても因果関係を重く見ている点は同じなのです。

 

この力が人間が他の生物よりもずば抜けた学習能力によって高められているのです。そして、この学習能力にゴプニックは「子ども期」というのが非常に関与していると考えています。子どもたちがなぜ飽きずに人のまねをするのか、なぜ観察をするのか。それは幼児というものが、物理的世界と心の世界の因果構造を素早く正確に学ぶように作られているからなのです。

 

私たちの脳にはほんのちいさな赤ちゃんの頃から、実験と統計的分析をするプログラムがあり、無意識のうちにこのプログラムを使い、世界を表す因果マップを少しずつ作り変えていきます。赤ちゃんも、私たち大人も、このプラグラムがあるおかげで、真実を見つけられるのだとゴプニックは言っています。

 

「もともと子どもたちは能動的に学ぶ力を持っている」というのは前提にあるということを私たちは理解していなければいけないのだろうと思います。だから「教育」が必要なのです。そして、その教育は「環境を通すこと」が必要なのです。私たちは教育を子どもに「施すこと」と考えていることがあるように思います。そうではなく、子ども自らが学ぼうとする力を信じ、その力を発揮できるための「援助」をしなければいけないのです。

共通言語と心の理解

ゴプニックはこれまでの心の学習において非常に大きな役割を果たすのが「言語」だと言っています。これは子どもの言語能力と他人の心を理解する能力には常に強い相関関係が認められているからです。他人が考えていることを知るうえで言葉は最も重要な手段です。私たちは物を観察してその仕組みを知り、人の行動を観察してその人の意図を推察します。しかし、相手の考えいることを知るには、その人の言葉を聞くことが必要になってくるとゴプニックは言います。

 

そして、このような言葉の力をとてもよく示す例に、耳の聞こえない子どもの言語環境があると言っています。両親ともに耳が聞こえない家族にろうの子どもが生まれた場合、その子の言葉、母語は手話になり、手話で会話する人たちに囲まれて育ています。この場合、心の理解に支障は生じないようです。しかし、両親がろうでない場合は、子どもが生まれてから手話を学んでも、突然、スペイン語を習うようなもので、会話がスムーズにできません。すると子どもの方も、周りの人が何を話しているのか分からない場合が生じ、周りの人たちの心の交流にも気づかず、心の理解に支障を生じることがあるのです。

 

また、以前紹介した中に、キャンディの箱に鉛筆しか入ってなくても、他の人はキャンディが入っているだろうと推測する実験を紹介しました。通常、答えを知った5歳児頃の子どもは、自分と同じように他の人もキャンディが入っているだろうと推測します。しかし、答えを知った3歳児は他の人も鉛筆が入っていると思うと推測し、自分の知っていることと相手の思考とが同じというように推測してしまう結果が出ました。つまり、人は自分とは違うといった「誤信念」を持つということを5歳頃に理解します。しかし、手話を使わない両親のもとで育ったろうのこどもは、8・9歳にならないとこの課題に正しく答えられないそうです。

 

このことを証明するような事例がニカラグアのろうの子どもたちが自力で独自の言葉を編み出した出来事です。中南米のニカラグアにはろうの子どもたちの専門学校はありませんでした。そのため、個々の子どもたちは共通語がなく、手話を教えてくれる人も当然いません。ところが1970年代になり最初のろう学校が開かれ、子ども同士の交流が始まると、独自の手話が開発されたのです。その後、新しく入学する子どもたちは、先輩たちが発明した言語を覚えていきました。これは言語がいかに便利で役に立つかを確かめる実験がひとりでに行われてきたということです。

 

ジェニー・ピアスはこの子どもたちを調査したところ、第一世代の子どもたち、つまり言語の開発者は耳の聞こえる両親の元に生まれたであろう子どもと同じように、他人の心を理解するのに苦労しました。これは研究室で起きたテストでも、日常生活でもそういった傾向があることが分かったのです。たとえば、彼らは大人になっても、キャンディと鉛筆の課題ができなかったり、1人の男性が棚から帽子の代わりにぬいぐるみのクマを頭にのせるビデオを見ても、男性が取るものを間違えたとは思わなかったりしたのです。また、日常生活においても、先輩たち(開発者たち)は秘密を守ったり、他人を操ったりするのがとても苦手など、在学生たちが言っていたのです。しかし、これに対し、第二世代、つまり、共通語を持っている世代の生徒は前世代より年齢は低くても、キャンディと鉛筆の課題やぬいぐるみのクマを帽子と間違える課題においても、理解していたのです。

 

それほど、相手との共通の意思疎通ができるツールがあるかないかということは心の理解をする上で大きな意味合いを持つことになります。

「観察」と「実験」

子どもは観察によって心を理解するということが分かってきました。また、ゴプニックはそれと同時に「実験」を通じてでも人の心を研究すると言っています。それにおける実験を行ったのが、エド・トロニックです。トロニックは9ヶ月の赤ちゃんの目の前で母親が急に凍り付いたようにじっとして、無表情になる実験をおこないました。すると予想通り、赤ちゃんはおろおろし、泣きだすことまであります。ところがそれだけではありませんでした。赤ちゃんは一体どうしたのかを調べでもするように、母親に向かって、普段したことのない表現豊かな仕草をいろいろして見せたのです。別の実験では、大人の方が1歳児の真似をします。すると、動作をことごとく真似する大人の異様な振る舞いに気づいた1歳児も、先ほどと同じような違う種類の「実験」をしました。大人が本当に自分の動きを真似ているのか確かめるかのように、誇張したおかしな仕草をするのです。片手を不自然に不利、大人がそれを真似するかどうかを試します。赤ちゃんは、大人の無表情な顔、ものまね、どちらにも興味をひかれ、何が起きたのか知る手がかりを大人の反応から得ようとするのです。

 

赤ちゃんはそれだけ、周囲の環境において、観察するだけではなく、働きかけることも実は多くしていたということが実験からわかったようです。これは私たちの赤ちゃんは何もできないといった「白紙論」を見直す見方がここにあるように思います。実際、保育現場において、よく見学に来られる先生や保護者が口々に言うのが「赤ちゃんでもこんなことできるのですね」といった言葉でした。しかし、特別なことはしていませんと話すと「では、どうやったらこういったことができるのでしょうか」となります。私は子どもたちの様子を見ているとやはり観察におけるモデルを見るということがとても大きいように思います。これはゴプニックの説にもあったように「因果関係」を人を使うことで知るということにつながってくるのでしょうが、それほど、赤ちゃんは外の動きに敏感で、キョロキョロと情報を取り入れています。「泣く」という行為も一つはその原因を解明するために大人を使っているのかもしれません。そう考えると、赤ちゃんは非常に能動的な存在だと感じます。

 

次に、ゴプニックは子どもが他人の心を学ぶのに最も効果的な学習方法に言及しています。これまでの「観察」「実験」からも分かる通り、子どもが多くを学ぶのは周囲の人同士の交流や介入の観察です。周りの人がどのように働きかけ、どう操るかを見ていると、心理的な因果関係について豊富な情報を得ることができます。

 

例えば、兄弟姉妹を比べると、知能テストや口頭テストでは下の子の方が成績が悪い傾向がありますが、心の学習は逆に下の子の方が驚くほど早いようです。これはあくまで傾向ですが、上の子は学校の成績で測れるような知性、下の子は情緒的、社会的な知性が発達しやすいようです。また、どちらかと言えば、上の子は物事を一途に追求し、下の子は仲介役になろうとする傾向もあるようです。兄や姉は両親のやりとりをするのを観察することが、心の学習に大いに役立つのかもしれません。そして、下の子はマキャベリ的知性、つまり他を欺く力を実地で見聞する機会に恵まれていると言えるのです。

 

確かにこういった側面はあるかもしれません。私も兄の様子を伺いながら、我ながらずるがしこかった幼少期であったと思います。このように、身近にいる人は子どもたちにとって、様々な刺激となり、心の学習にも役に立ちます。また、これは今の時代の子ども社会の少なさにも同時に問題視されるものではないでしょうか。今の時代核家族が増えています。また、地域でのコミュニティも昔ほど活発ではありません。ということは、こういった関係性や学びの場は乳幼児施設でしかできないのかもしれません。つまり、乳児からの保育は何も預かることだけではなく、心の学習も含め、他と自分とを学ぶ環境でもあるのです。もちろん、母子関係や愛着というものあるので、それほど無理をさせることもできません。しかし、子どもの環境において、他と関わることが少なくなっている昨今で、乳幼児施設の重要性はより考えられるべきではないかとおもいます。