愛着の型

赤ちゃんは他人の動向に注目することで、「愛の統計学」を学んでいると言います。特に母親との関係が強いのは日常の中で母親から反応パターンを学ぶことが多いからです。ただ、ゴプニックは赤ちゃんは「大勢の中で飛び切り反応の強い人がいることに気づいた赤ちゃんは、その人に頼るようになる」といっているのを見ると、必ずしも愛情のすべては母親というわけではないようです。では、この「反応が強い人」がいない場合はどうなるのでしょうか。

 

ルーマニアのチャウシェスク政権の孤児院を見るとそのことが見えてきます。当時その孤児院では、最低限の身体的欲求だけはいろいろな人が入れ替わり満たしてはくれましたが、情緒的欲求には見向きもされませんでした。特定の養育者がいなかった場合、子どもはどの人に愛情を求められたらいいか分かりません。そのため、けがをしたり怖い目に合うと、知らない人のところへ逃げていくこともありました。特定の人に愛着を示すようになったのは、養親に引き取られてからだったのです。

 

このように養育者がいないというのは極端な例ですが、そうでなかったとしても、赤ちゃんが皆同じように愛を学んでいくとは限りません。先ほどお話したアレクセイのような別離行動の愛着パターンは「安定型」と言います。このパターンでは、赤ちゃんは確実に愛を得られる人だけを信頼し、その人がいなくなれば悲しみ、戻ってくれば安心します。ところがこれとは違ったパターンを示す赤ちゃんもいます。

 

その一つが「回避型」です。この場合、赤ちゃんは養育者との交流を努めて避け、養育者が離れたり戻ったりしても泣いたり喜んだりはせず、オモチャを一心に見つめていたりします。このような赤ちゃんは、安定型の赤ちゃんほど別離がつらくないように見えるのですが、そうではないといいます。別離時の心拍数を測定してみると、このような赤ちゃんも内心はみじめな思いをしていることが生理学的に示されるのです。養育者が離れていくのを分かっており、悲しく思っているのに、気持ちを表に出せば事態は一層悪くなると悟っているかのようです。泣いてもどうせ慰めてもらえない。そうなったらなおさらみじめだから、最初から気持ちを抑えるほうがいい。ごく幼いうちにこう学んでしまったのです。

 

他にも「不安型」があります。この場合、養育者が離れるときだけでなく、戻ってきたときにも不安を覚え、いつまでも泣いてしがみついています。オモチャを乱暴になげたり、かじりついたまま泣いたり起こったりすることもあります。

 

これらの子どもの状況を見ていると「安定型」の方が一見いいように見えます。しかし、ゴプニックはそうとは限らないのではないかと言っています。本当にそうなのかどうかは後の環境によるというのです。また、子どもの愛着のパターンは文化的相違もあることもあるようです。アメリカを中心に比べると、ドイツは回避型の赤ちゃんが多く、日本では不安定型の赤ちゃんが多いようです。回避型は意志の強い頑張り屋で、不安型は密接な親子関係を望んでいるのかもしれません。特定の方が多い環境に生まれたら、自分もその型になるのが最も賢明な適応策になります。

 

たとえば、回避型であれば、子ども同士が距離をとるイギリスの私立校の運動場ではうまくやれるでしょうし、アフリカの村社会のように大勢が密集した生活では、不安型は成功を収めるでしょうとゴプニックは言います。つまり、これが先ほど言っていた「安定型が良いかというと、本当にそうなのかどうかは後の環境によるというのです。」ということにつながるのです。

愛の理論

次にゴプニックは赤ちゃんの「愛の理論」について話しています。人間の赤ちゃんは未熟な状態で生まれてきます。それは人が社会の中で生きるために赤ちゃんは他の動物とは違い、あえて一人で産めなくなっていたり、1人で育つことができなくなっていると言われています。それは、つまり養育者がいなければ生きていくことができないのです。そして、一番の養育者となるのが両親です。特に母親に関しては特に重要な意味を成します。赤ちゃんは生まれてから養育と保護を求めるために「守られた未熟さ」という進化の戦略にとって愛が欠かせなくなります。

 

では、赤ちゃんはどんなふうに愛を理解しているのでしょうか。それは養育者がいったん離れ、再び戻ってきたときに赤ちゃんがとる行動を見ると分かるとゴプニックは言います。赤ちゃんは生後間もないころは、相手がだれであってもうれしそうな笑顔と声で歓迎しますが、まもなく母親の顔と声を認識し、母親を特別に好くようになります。1歳ぐらいになると、自分を特別扱いしてくれる人たちがいること、自分はその人たちの愛を求めなくてはいけないのだということが分かってきます。1歳を過ぎるころからは、愛情と信頼を、母親以外にも、父親、ベビーシッター、きょうだいなど身近な人々に振り向けるようになります。このころの赤ちゃんの多くは 、見知らぬ人が違づくと不安を感じ、親の腕の中に逃げ込みますし、親と引き離すと悲しみます。ところが愛する親が戻ってくれば、たちまち機嫌を直し、注意を何か別のことに向けます。では、なぜ、子どもはこのような行動をとるのでしょうか。

 

そこには赤ちゃんが他人の動向に注目していることにあります。赤ちゃんは自分の行動や情緒と、他人の行動や情緒との間にある随伴関係、ゴプニックはこのことを「愛の統計学」と言っていますが、こういったことに格別な注意を払っています。たとえば、自分が笑うと母親も笑う。自分が泣くと母親も悲しい顔をし、あやしてくれることに気が付きます。他にも、自分が笑うと母親は笑うこともあるけど、悲しい顔をしていたり、別のことに気を取られていることもあります。時に自分が泣いているのに母親が笑っていたり、ひどいときには怒ることもあります。すると自分はよけいみじめになります。

 

1歳になることまでに、赤ちゃんは母親の様々な反応パターンを学びます。そして、それは母親だけに限らず、色々な人が様々なパターンを行うことを学んでいきます。たとえば、親であれば敏感に反応してくれるのに、知らない人は反応を示さなかったりするのです。大勢の中で、とびきり反応が強い人がいることに気づいた赤ちゃんはその人に頼るようになるのです。

 

このようにして赤ちゃんは人を見分け、自分を守ってくれる養育者を判断していくようですが、もし、そういった環境になかった場合はどうなるのでしょうか。このことについても、以前紹介したルーマニアの孤児院の様子から見えてきます。

子どもからの影響

ゴプニックはペリー就学前教育のように幼児期に保育をされた子どもはされなかった子どもより、経済的に豊かで、教育程度が高く、健康で、刑務所の入所率が低かったと言います。これは幼児期の体験は後の人生に直接影響するという見解と共に、その子どもの親にも良い影響を与えると言っています。では、それはどういったことなのでしょうか。

 

ゴプニックは、経済的に貧しい親たちは、プログラムを通じて自立と連帯の感覚を養いました。それは子どもだけではなく、親のほうも変わり、しかもその変化は持続したのです。子どもに自信がついて好奇心が高まるにつれ、親や周囲の人たちによる子どもの扱いも変わったのです。ペリー就学前教育のような早期教育が成果をあげるのは、これが子どもに直接豊かな体験を持たせるだけでなく、子どもの環境に、大人になるまで続く連鎖的な改善効果をもたらすからなのだとゴプニックは言っています。

 

この部分を読んで、保育をしていて感じることが多くあります。保育をしていく中で子どもが変わってくると、その親も変わってくるという姿をよく見ます。かえって、保護者の苦情をそのまま受け取り改善するよりも、息の長い改善になることもしばしばあります。そうなるのも、保護者にとっては子どもは大きな存在であり、大切な存在であるからこそ、その子どもたちがすくすくと成長している実感が分かるとかえって信頼関係を作ってくれるように感じます。そのため、幼稚園や保育園において、苦情解決というのは非常に難しく、大変なことが多いのですが、だからといって、苦情にだけに向き合うのではなく、自園の保育力という者に目を向ける必要があるのではないかと思うことが多いのです。それだけ、子どもの体験を通した成長というものが保護者に与える影響があるということを実感として感じます。

 

ゴプニックも「人間には周囲の環境に介入する能力があるということも合わせて考える必要があります。」と言っています。それは子ども自身には環境に影響を及ぼしたり、新しい環境を思い描き、作り出す能力があるということを同時に言っています。大人ばかりが影響を与えるのではなく、子どもからも影響を受けているのです。つまり、これまで考えられていた大人から子どもといったサイクルの逆に、子どもから大人へのサイクルも大いにあるということです。そして、親や第三者は、そこにうまく介入することで、このサイクルが悪い方に行かないように食い止めたり、悪い循環を良い循環に好転させ、強化することができるようになるのです。

 

このことからみても、世界中でなぜ「子どもの社会への参画」というものが広まっているのかということが見えてきます。子どもは決して大人の従属物でもなければ、一つの人格を持った個であるという事をもう少し、考えなければいけないのでしょう。そうなったときに子どもに迎合するのではなく、抑圧するのではなく、あくまで一人の人格者として向き合う必要があるのですね。

悪循環の連鎖と克服

子どもの遺伝的リスクと環境リスクは往々にして同時に子どもに降りかかるとゴプニックは言います。なぜならそれは、遺伝子ばかりでなく、環境も親から受け継ぐからであるからです。経済的に貧しい家庭に生まれた子どもは、経済的に貧しい子どもになってしまうのです。しかし、時に赤ちゃんの存在そのものが、親の抱える問題をいい方向に転換させてくれることもあります。赤ちゃんは密接な親子関係、喜び、そして、生きる意味を与えてくれるのです。優しく愛に満ち溢れた赤ちゃんに救われた貧しいシングルマザーはたくさんいたことでしょう。しかし、母親が抑うつ的なので赤ちゃんも憂うつ、赤ちゃんが憂うつであると母親ももっと悲観的になるというように悪循環に陥り、環境リスクと遺伝的リスクが増幅し合ってしまうことも少なくありません。

 

このように赤ちゃんと母親の相互作用のように発達過程で、良い循環や悪い循環が生まれるのも、私たち人間に、学習と介入の能力があるからです。赤ちゃんは親のすることを見て世界を学習し、そこから得た知識を使って周囲に働きかけます。そのため、悲しげな母親を見て、赤ちゃんが悲しいものなのだと学び、自分もそのように振る舞い、それを見た母親はより悲しくなってしまうようになるのです。このような悪循環が起こる環境が出来上がってしまうのです。このことからみても、学習と働きかけの能力があるがゆえに、もともとの遺伝的要因が増幅されてしまうことになってしまうのです。

 

しかし、このような悪循環はルーマニアの孤児の事例を見ていくと、打ち破ることができるとゴプニックは言います。人間の運命は、遺伝子と幼児期の体験だけで決定されるわけではありません。学習と働きかけの能力を、プラスの方向に転じればいいというのです。

 

たとえば、アメリカで行われた実験で、経済的に貧しい子どもたちへの早期教育事業として、ペリー就学前教育やカロライナ・アベセダリアン・プロジェクトがあります。そのいずれも、幼稚園に幼児を通わせ、献身的な大人の保育係や多様な環境があり、その子での保育を行います。そして、同じ地域でこうした幼稚園に通った子どもと通わなかった子どものその後を追跡調査し、科学的に比較すると、はっきりとした違いが見られたのです。プログラムに参加した子どもたちは、20、30年経ったとき、そうではない子どもたちより、経済的に豊かで、教育程度が高く、健康で、刑務所の入所率が低かったのです。そのため、この種のプログラムに投資することの経済効果は株式投資を上回ることが分かったのです。

 

一見、この結果を聞いたときにどう思うでしょうか。この結果だけを見ると、やはり乳幼児期の子どもの体験や経験が大切であるということが見えてきます。しかし、見方を変えると、この影響は子どもの環境だけではなく、子どもを取り囲む社会的環境、特に親にもいい影響が出ているのではないかとゴプニックは言います。

子どもの気質と親

保育士をしていると自分が保育をしている側にも関わらず、子どもたちからも影響を受けていることを感じます。それは親にとっても同じことで、自分が親になることで「親として、子どもに育てられている」ことは多くあります。人は子どもがいることで親になりますが、それと同時に「親としても育てられるのです」。ゴプニックは「子どもは親からの影響を受けるばかりではなく、自分の方からも親に影響を与えることが分かってきた」と言っています。そのため、子どもの行動の違いは、親の行動にも違いをもたらすと言います。

 

子どもが二人以上いる親は、きょうだい間であつかいにかなりの差が出ることがあるそうです。児童虐待においても、このことが言えるそうで、きょうだいのうち誰か一人に虐待が集中します。特に病弱な子や神経質な子は虐待を受けやすいそうです。虐待のような極端な例には及ばなくても、子どもによって親の接し方に差は出ることはよくあります。

 

たとえば、要求が多く気難しい子どもとの親の関わり方と、おっとりして手のかからないその子のきょうだいの母親とは同じ人物でも違う人物ように感じるかもしれません。性質の違う子どもに同じように接するのは無理というものですし、仮に同じ接し方をしたとしても、それがもつ意味は子どもによってまるで違ってしまいます。たとえば、バウンサーに入れて遊ぶことを子どもに進めたとしても、活発な子どもと臆病で気の小さいでは、反応は大きく違います。

 

このように子どもの生まれつきの性質と環境の相互作用については、色々な研究があります。心理学者は養子やふたごの研究から、「反社会的行動」「神経症的傾向」「薬物依存傾向」などなど、様々な形成と環境の関係を研究してきました。みじめな親のもとに生まれても、その後、健全な養親に育てられた子どもは、みじめな大人になるリスクがわずかに高いだけになります。逆に健全な親のもとに生まれ、みじめな養親に育てられた子どものリスクも同じ程度です。ところが、みじめな親から生まれ、みじめな養親に育てられると、両方のリスクを足したより遥かに大きなリスクを背負ってしまいます。遺伝的リスクと環境リスクは単純に足されるのではなく、掛け合わされるのです。さらに不運なのは、遺伝的リスクと環境リスクは往々にして同時に降りかかります。なぜならば、たいていの子どもは遺伝子ばかりでなく、環境も親から受け継いでしまうからです。

 

遺伝的素養というのは変えることができませんが、環境要因というものは変えることができます。逆にいえば、大人ができることというと子どもに合った環境を作ることが一番重要なことであるのかもしれません。以前にもゴプニックの遺伝と環境にあったように時として、遺伝子要因を環境要因によって変えることができるのです。このことについて、ゴプニックはどのように考えているのでしょうか。