親子関係と道徳規範

ゴプニックはミラーニューロンが人の共感行動に影響しているというのを否定しています。その理由は前回話した通りですが、それと同時に赤ちゃんはそもそも自己と他者との境界がないのではないかと話しています。つまり、自分の苦痛と他人の苦痛の違いが本当に分からないかもしれないというのです。であるから、赤ちゃんは誰のものであっても、苦しみを無くしたいのかもしれないのです。

 

大人は赤ちゃんとは違い確固たる自意識、つまり「自分と他人とを隔てている感覚」を持っています。しかし、その感覚も赤ちゃんと濃厚に触れ合ううちに溶けていってしまいます。また、その時、親は自分が良い気持ちになりたいだけで赤ちゃんの苦痛を取り除こうとしているとは到底思えません。赤ちゃんの苦痛はダイレクトにこちらの心を揺さぶります。それは自分の苦痛と同じように胸を刺します。我が子をいたわろうという衝動は、自分の苦痛を取り除こうという気持ちと全く同じように、自動的に沸き起こります。このように親と赤ちゃんとの関係は、自他の境界を溶かしてしまうほどに親密で深いとゴプニックは言います。

 

また、共感は愛着とも関りがあるとゴプニックは言います。共感は、赤ちゃんと愛する人との親密な関係から生まれるからです。親子の愛には揺るぎない道徳的堅固さがあります。親が、我が子を育てると思ったとたん、その子が自分にとって最大級の道徳的な思いやりの対象になるのです。それは自分の睡眠も、生活も、幸せも、時には命までも、赤ちゃんのために犠牲にすることを厭いません。愛着研究からは、赤ちゃんの方も、そんな大人に深い愛着を抱くことが分かっています。

 

我が子への深く、直接的で、無条件の愛と、子どもが親を強く慕う気持ちは進化的に不可欠なものでした。なぜならば、無力な赤ちゃんは、両親といった近親者の愛がなければ生きていけないからです。このようにして、親子間の愛は道徳的な模範の一つとされてきましたし、偉大な道徳哲学者の多くは無私の愛を説いています。

 

よく昔から、「目の中に入れても痛くない」と言われるように、どんな目にあっても我が子はかわいいということは自明の理であります。これこそ、遺伝的にそういったメカニズムが人間には埋め込まれているのかもしれません。よく、赤ちゃんが丸っこくプニプニした体形で生まれてくるのは人は潜在的に人は丸っこいものを好むからと言われています。赤ちゃんの間は白目がないのはどこを見ても目が合っているように感じているからだといいます。赤ちゃんは生きている中で、かわいがられるように生まれてきているということは聞いたことがあります。赤ちゃんはひとりで生きていけないために、親に守ってもらうという生存戦略を使いました。それと共に、大人はそういった赤ちゃんの存在を大切にするように遺伝子情報が組み込まれています。道徳規範においても、こういった大人と赤ちゃんとの相互作用によって生まれてくる共感性や愛着から関係性があり、そこが始まりとしてあるのですね。

ミラーニューロンの矛盾

最近の神経科学者の中で人の共感する力に関わるものとして「ミラーニューロン」の存在が非常に注目されていました。このミラーニューロンはこれまでもたびたび登場していました。このミラーニューロンは自分がある行動を取るときも、他の個体がそれと同じ行動をとるのを見たときも、同じように活性化するというのが特徴です。つまり、このニューロンの働きにより、他者の感情や、動き、感覚、情動を自分の内部で起こっているかのように感知することができ、人の感情や情動に共感することが出来るようになると言われているのです。ただ、ゴプニックはこの理論について誤りではないかと言っています。その理由には3つあります。

 

その一つはこのミラーニューロンはサルの研究から見つかったものですが、サルは他のサルを模倣することはないということです。このことから見るといくらミラーニューロンがあるからといって、人間の赤ちゃんが普遍的に見られるあの素晴らしい模倣能力がミラーニューロンのおかげであるとは到底言えないのではないかとゴプニックは言うのです。

 

2つ目にサルで見つかったミラーニューロンの活性化は、たぶん行動の原因ではなく、結果ではないかという点です。どういうことかというと、サルが自分の手を動かすと、サルはその手が動くのを見ることになります。すると、そのうち手を動かしたときの感覚が、手が動くのを見る感覚と関連付けられてきます。それがニューロンを活性化させるのだろうと言います。ミラーニューロンによって手の模倣になるというのではなく、手の模倣を見ることがニューロンを活性化させているということです。

 

3つ目は脳の一部には物の形を識別する働きがあることは知られていますが、一方で、ごく単純な脳の動きにも、数百種類ものニューロンの複雑な相互作用が関わっていることも知られています。必ずしもミラーニューロンだけで起こることではないということですね。

 

こういった視点から見ても、赤ちゃんの模倣に、脳の何らかの仕組み、神経学的な働きが関わっているのは間違いないとしても、ミラーニューロンだけでは説明しきれないのです。しかし、そうはいっても、神経学的な起源により共感という心の動きがあるのであれば、人間の道徳的行動もそこから発している可能性はあります。他人の苦痛を見た赤ちゃんが自分も苦痛を感じるのであれば、赤ちゃんは自分が楽になるために他人の痛みを取り除いてあげたくなります。他人が喜んでいるのを見ると自分もうれしくなるならば、他人を喜ばせようとします。自分が良い気持ちになるために他人の苦痛を取り除くのは、一見利己的に見えますが、結果的に利他的行動の動機になります。

 

しかし、ゴプニックは共感という心の作用は、これとは違ったふうに利他的行動を動機づけている可能性もあります。赤ちゃんはひょっとしたら、自分の苦痛と他人の苦痛の違いが本当に分からないかもしれないというのです。つまり、赤ちゃんは誰のものであっても、苦しみを無くしたいのかもしれないというのです。偉大な思想家は「自他の境界を無くすことが道徳の基本」と言っています。つまり赤ちゃんはその境地に居るのではないかというのです。

赤ちゃんの共感

赤ちゃんが他人の心を理解するのは、自分の心の動きが分かってきてからだとゴプニックは言います。自分の心の動きを理解することで、自分の心と他人の心の仕組みは同じということを想定するのです。また、このことは情緒だけに限らないと言います。たとえば、1歳児になれば、他人の願望や意図も理解できるようになりますし、同じ頃から、他人の情緒だけでなく願望も模倣し始めます。このことを示す実験としてあるのが、実験者が頭を箱にコツンとぶつけて光らせてみせれば、子どもも同じことをします。1歳半になると、目的が果たされなかった行動も模倣します。実験者がおもちゃのダンベルをいくら切り離そうとしてもできないのを見て、自分もやってみようとします。他人の願望や目的を取り込んでいるのです。そして、2・3歳児になると望みのものが手に入ればうれしい、手に入らなければ悲しい、といった基本的な心の理論を身に付けます。

 

よくこのことを保育の中で考えてみると、赤ちゃんでも手を出して「イエーイ」というと、その手にそっと重ねるようにするようになります。私の子どもが今8か月なのですが、その頃から差し出された手の意図を汲んでいるようにも見られました。つまり、赤ちゃんの頃でも、相手のしてほしいことを予測して、それにこたえるということはやはりわかってきているようです。一歳になってくると名前を呼ばれると手を挙げるようになります。自分の名前の認識のみならず、返事をするようになるというのは何とも不思議なものですが、これも相手の意図やしてほしいこと、願望と目的を理解しているということなのでしょう。ゴプニックは「2・3歳になると、望みのものが手に入ればうれしい、手に入らなければ悲しいといった基本的な心の理論を身につける」と言います。「物を手に入れる」という活動は1歳児でも見られる活動ですし、取り合いによるトラブルも起きます。ただし、確かに1歳児の場合は物に対する執着という意味ではあまり意識はされていないかもしれませんね。奪ったとしても、次の玩具に手がのびていることがほとんどで、本当にそれが欲しいのかというとそうではないようなことが多くあります。比べて2歳児になるとそのものをしっかりと所有するという意味で奪うことがあるのは確かです。「目的をもってとる」ということでしょうか。こういった感覚は単純に自我として捉えていましたが、実は「共感」というものもその内側には見え隠れしているのですね。

 

ゴプニックは「他人に共感するとは、自分の感覚も相手の感覚も同じであることを前提に、相手の心を自分に招き入れることです」と言っています。初めの方でも語られていた通り、共感をするためにはまず、自分の気持ちを理解していなければいけないということなのでしょう。そうすることで、相手にも自分と同じような気持ちがあることを当てはめて考えていくのです。誰かが悲しい顔をしたり、箱を光らせたり、オモチャを切り離そうとしているのを見た子どもは、同じように悲しくなり、箱を光らせ、オモチャを切り離そうとするというのです。つまり、相手の体験においても自分が体験するかのような感覚を持つというのです。そして、こういった話の中できっても切り離せないのが「ミラーニューロン」というものの存在です。

赤ちゃんの模倣

道徳性は「他人と自分の関係についての基本的な考え方」とゴプニックは言っています。つまり、それは自分の気持ちだけではなく、他人の立場に立つことが想定できていないとできない部分があります。そこで重要になってくる能力が「共感能力」です。また、その始まりに新生児の頃から他人に共感できるだけではなく、自分が相手と感覚を共有しているということも認識できているということが分かってきています。新生児の頃から相手の感情を自分に取り込めるのです。では、こういった研究はどのように進められ、どのように解明されてきているのでしょうか。

 

これまで、この新生児の活動はあまり深い意味としては注目されていませんでした。しかし、このような新生児模倣は、赤ちゃんに生まれつき備わった深い共感能力を示すものだと分かってきたのです。たとえば、新生児は人の表情をまねします。しかし、新生児は自分の顔を一度も見たことはありません。そのため、他人の表情を模倣するときは自分の感覚だけが頼りです。たとえば、母親の顔からピンクのものが出くるのが見えたら、それを自分が舌を出す感覚と結びつけられなければ、真似はできません。ところがなぜか新生児は自分が舌を出すときの感覚は、母親が舌を出すときの感覚と同じだと知っています。つまり、特定の表情は特定の運動感覚を反映していることを、なぜか生まれつき知っているのです。

 

顔の表情は、運動感覚だけでなく情緒も反映します。世界中どの国でも、唇の隅をキュッと持ち上げ、目の周りをしわくちゃにしたら、それは幸せな表情です。歯をむいて眉を顰めたら怒った表情です。赤ちゃんは舌を出すといった簡単な仕草ばかりでなく、感情のこもった表情も真似することができます。つまり、顔の表情を、運動感覚だけでなく、情緒とも関連付けられるのです。

 

この感情のこもった顔を赤ちゃんが模倣することで情緒を豊かにする訓練をしているのではないかとゴプニックは言います。感情のこもった表情をすると、それだけでその感情がわいてきます。これは以前、紹介した「シンク・シビリティ 礼儀の正しさこそ最強の生存戦略」にも礼節を持つ一つの事柄に、「まず笑顔でいることの大切さ」を紹介していました。また、アフガニスタンで駐留しているアメリカ人が現地の人に囲まれたとき、指揮官が銃を下ろして、笑顔を見せることを部下に命じたところ、現地の人との有効な関係が作ることができたというように、笑顔は自分のみならず、相手にも大きな影響を与えます。赤ちゃんにとってはこういった感情のこもった表情をすることで、自分が何だか幸せな感じがしてい来るのを感じ、相手もそうなのだろうと推測するのです。

 

赤ちゃんの模倣は生得的な共感能力の表れであるとともに、その共感を広げ、精緻にしていく手段でもあるのです。赤ちゃんはうまれつき、ママの喜びや痛みは、自分の喜びや痛みと同じものだと知っています。そこからさらに、いろいろな表情の模倣をしながら、人間の複雑な情緒を学んでいくとゴプニックは言います。

子どもの道徳観②

最近の発達研究では、子どもにも多少の道徳観があることが示されています。ただ、生得的な知識をもってはいるものの、成長につれて世界を学習し、世界と自分を変革する能力を持っています。世界を知ることとその変革を思い描くことは車の両輪のように行われていることはこれまでのブログでも紹介しました。最近の研究ではごく幼い子ども、早い例では新生児でも基本的な道徳感がみとめられることが分かっています。生得的で不変の「道徳文法」、固定的な情緒反応もあります。ただ、それだけに限らず、子どもでも大人でも、世界や自分自身についての知識が深まるにつれ、道徳的思考も修正されていきます。特に子どもは、世界についての理論の変革能力が高いように、道徳的な判断や行為の変革能力も高いと見られます。

 

では、そもそも「道徳」というものはどういったものを指すのでしょうか。私たちの道徳観というものは「他人と自分の関係についての基本的な考え方です」。「他人にしてほしいと思うことは何でも同じように他人にしてあげなさい」や、「自分がされて嫌なことは人にはしない」とよく言われますが、この道徳的要請は、考えてみると人が他人の立場に立つことができるという想定に基づいています。さらに「犯罪」で考えてみると、悪いことをした罪や責任を問えるかどうかは、「それが意図的だったか」それとも「偶然起きたか」がその分かれ目になります。これが法原理における「犯意」という考え方です。法制度も、法より前に道徳的に守るべきルールがあることを前提に作られています。

 

このことを踏まえたとき、ピアジェが、子どもは純粋な道徳的知識を持たないといった背後には、子どもは他人の立場に立ったり、他人の意図を推察したり、抽象的なルールに従うことはできないというところにありました。しかし、ピアジェの子の想定は現在の科学では否定されています。なぜならば、子どもには生まれつきの共感能力があることが分かったからです。新生児は他人に共感できるだけではなく、自分が相手と感覚を共有でしている子とも認識できます。相手の感情を自分に取り込めるのです。1歳児は、意図的な行為と偶然の行為を区別できますし、純粋に利他的な行動もとれます。3歳児は愛と思いやりという基本的な道徳観を身につけています。こ

 

ゴプニックはこういった幼児期の研究は、人間がお互いをいたわり合う理由を解明する手掛かりをくれると言っています。そして、それとは逆に互いにひどい仕打ちをし合うのはなぜかということへのヒントも与えてくれます。それは人間の道徳的な成功だけではなく、失敗や弱点にも新たな光を投げかけます。ごく幼い子どもでも、おとなと同じように怒りや復讐の衝動を持つことや、人を社会集団に切り分け、自分のグループをひいきしたり、一見無意味なルールでも、決められた以上はしたがうなどということが分かってきているといいます。

 

こういった子どもたちの行動は保育をしていると当たり前のように行っています。怒りや復讐の衝動などは、1歳児でも見えてきます。これらを道徳観とつなぎ合わせて見ることができるかということが重要なことで、研究を通して、子どもの新しい見方を得ることはとても勉強になります。こういった一つ一つの行動は親と子どもだけでは得ることができません。子ども集団での関りは道徳観においても、とても重要な環境なのだろうということが見えてきます。