共通点

「子どもたちは、最初に親に抱いた共感を、他の人たちに広げ、一般化することで『人間』というカテゴリーを確立する」とゴプニックは言っています。また、同時に「自分と似ていると思った相手を道徳的配慮の対象に加えていく」というのです。しかし、このことには逆に言うと「自分に似ていなければ排除する」という可能性も示唆しています。つまり、条件によって相手を選別するのです。

 

人は多数の人間を任意の集団に分けるだけで、自分の属する集団を「内集団」、それ以外の集団を「外集団」とわけ、「外集団」の人たちの人間性を否定したり、嫌悪するようになることが社会心理学の「最小条件集団」の研究からわかってきました。そして、この内容は私たちも少なからず実感する内容です。実験では大学生に赤い羽根か青い羽根のどちらかをつけさせます。すると彼らは、赤い羽根同士で仲間を作り、青い羽根を付けた人から距離を取るようになりました。このような心理的な影響はもっと残酷な結果も起こします。

 

それは「スタンフォード監獄実験」です。これはスタンフォード大学のごく普通の学生を募り、刑務所の看守と囚人を演じさせたもので、看守役の学生たちは驚くほど短期間のうちに囚人役を荒っぽく罰するようになったそうです。それは実験者が看守役のあまりに残酷な罰し方に怖くなるほどで、実際に実験の中止を訴えました。

 

このような身近な人間を分類したがる性向は、ごく幼いうちから見られるものであるとゴプニックは言っています。しかも、それは3歳か早い子はもっと前からで、周りの人たちは人種、性別、言語によって違う集団に分けられることに気づくのです。そして、それは自分に似ているかどうかを基にした好き嫌いが始まるのです。これも最近の研究で行われたことですが、3歳児の子どもにTシャツの色を同じ色と違う色のものを着せました。すると、大学生の羽のときのように、同じ色のTシャツと髪の色が自分と同じ子どもと遊びたがったのです。これとは別の実験でも、子どもに任意で赤か青のTシャツを着てもらい、写真に写った赤のTシャツを着た子ども、青のTシャツを着た子どもを見せると自分と同じ色のTシャツを着た子どもと遊びたがったのです。

 

「このように子どもたちは早い段階で、自分と違う概観、服装、言葉、行動を見ると、それがジグなるとなって、そのような属性を持つ相手が、自分とは別の集団の人間だと判断する」とゴプニックは言っています。確かにそういったことは多々ありますね。制服でも、宗教でも、相手に何らかの共通点があることで仲間と捉えようとすることは起きてきます。こういった他者との共感を広げるにあたって、人をグループ分けるすることで、配慮の対象を自分のグループ全体に拡大するというのは、一つのやり方だとゴプニックは言います。確かにあったこともの無い人であっても特徴が似ているという共通点を見つけることで共感をする人が増えていくわけですから、世界を広げていく一つの足がかかりとしてとても大きな指標でもあります。きっと人は共通する何かを持っていることで安心感を得ているのでしょう。

道徳観の広まり

人は功利主義と義務論を使い分けながら道徳的判断を行っており、その判断の大元にあるのは「他者への共感」だであるとゴプニックは言います。他者への共感があるからこそ道徳観が生まれます。ただ、道徳観があるだけでは、道徳的判断ができるとは言えません。そこには自分を抑制する理性も必要とされます。乳児期の共感は相手の顔に悲しみや喜びが浮かぶところをまじかに見ることができる赤ちゃんと養育者の間に典型的な密接な触れ合いから生まれます。つまり、直接的な共感です。しかし、これは150人くらいが人間の限界であり、そうであっても、全員を愛することはできないとゴプニックは言っています。ところが人間はその枠を越えて、数多くの人々、例に挙げているのは地球温暖化のように、認識できる人以上の社会全体にわたる道徳的判断をすると、相手への共感というのは、直接的なものではなくなってきます。見ず知らずのあったこともない、しかも、地球規模での大きな社会に向けての判断を問われます。

 

こういった不特定多数の人にまで拡大された道徳的配慮はどのようなメカニズムでできるようになるのでしょうか。そのメカニズムで重要になってくるのが何度も出てきた「反実仮想」という仮定に基づく思考法なのです。スメタナの研究では子どもたちは現実のものではない、下層の運動場で遊ぶ仮想の子どもたちに配慮し、道徳的な判断をしたそうです。

 

共感対象を広げるもう一つの方法はグループの利用です。以前、赤ちゃんが単なる音のなる物体と、赤ちゃんが話しかけると音が鳴る物体とで、外観が異様であっても、どこか人間らしい特徴を備えたものであれば、真似をしたり、人間のように扱ったりすることを紹介しました。カルフォルニア工科大学で人型ロボットの開発をしている技術者にゴプニックがあったとき、こういった人間のように反応するロボットを幼稚園に預けたことがあったそうです。その時、幼稚園の園児たちは、ロボットにつまづいて転ぶたびに、園児の誰かが転んだときと同じような反応、そっと起き上がらせたり、埃をはたいてやったり、慰めのキスをしたりしたそうです。

 

このように、子どもたちは最初に親に抱いた共感を、他の人に広げ、一般化します。今回のロボットの実験でも、人間のように判断するロボットに対して、物体の真似をしたり、ロボットが抱く願望や意図にも、人間と同じように共感しました。つまり、ロボットに対しても、思いやりや利他的行動をとったのです。こうやって人は道徳的配慮をする対象を加えながら、配慮の及ぶ範囲を広げていきます。ただ、これは逆を言えば、配慮する対象を選別していることでもあるとゴプニックは言っています。誰かが「人間」のカテゴリーから排除されることも出てくるのです。ただの機械を人間のように扱うことがあるかと思えば、本物の人間なのに、まるで機械のようにぞんざいに扱ったりすることもあるのです。

 

このことは社会心理学の「最小条件集団」に関する研究において、人間のもつこの皮肉な傾向を示しているとゴプニックは言っています。

功利主義と義務論

乳幼児期の道徳観の原点に功利主義と義務論という倫理学を二分する理論があります。この功利主義というのは手段を問わず、最大多数の最大幸福を達成することです。そして、これに対し、義務論は、ある行為にはそれがどんな結果をもたらすかに関わりなく、本質的な善悪があると主張しています。この二つの立場を対比するため、よく引き合いに出されるのが「トロリー問題」です。

 

この問題では「あなたの目の前でトロリー電車が壁に向かって突進しています。衝突すれば乗っている5人全員が死ぬでしょう。でもあなたには、切り替えスイッチを操作し、電車を別の線路に引き込むことが出来ます。その場合、そちらの線路に居る別の1人がひかれてしまいますが、乗っている5人は救えます。あなたはどうするべきでしょうか」という問題を出題するのです。つまり、最大の幸福を求めるなら一人の犠牲には目をつぶるということになり、ほとんどの人がこの質問に対し、1人の犠牲が出ることを選択するようです。そして、これが功利主義的な考え方です。

 

これとは別のバージョンの問題があります。「あなたは暴走中のトロリーの前方にかかった架線橋に、大柄な男が立っているのに気が付きました。もしあなたがこの男を線路に突き落とせば、男の巨体で電車を止め、乗っている全員を救えます。(あなた自身が橋から飛び降りても、あなたの体では電車は止まらず。男の巨体でならとまる)あなたはどうするべきでしょうか。」こちらの問題では、多くの人が直感に頼り、見ず知らずの人を橋から突き落として殺すのはどんな理由があろうと許されないと判断します。これが義務論的な判断です。

 

こういった功利主義と義務論の論争は歴史が古く、哲学、心理学だけではなく、神経科学の分野でも膨大な論文が書かれているようです。この判断においては哲学者は立場をはっきりとさせたがりますが、一般人はこの問題に関して、ケースバイケースで時に功利主義者となるときもあれば、義務論者になる場合もあるのです。そして、その決定に関わるものはちょっとした要因によって変わります。

 

ただ、子どもの視点からすると、功利主義も義務論も根本的な違いではないようです。というのも、これらの大元にあるのは乳幼児が他人に対して抱くのと同じ、他者への共感だからです。ゴプニックはそもそもなぜ、私たちは他人の利害を気にかけるのか?と問いています。功利主義のスローガン「最大多数の最大幸福」と義務論者の「他人に危害を加えてはならない」というのは根本的に他人を幸せにしたいという思いが中心にあります。それは他者への情緒的共感を大前提に置いているからではないかというのです。そして、つまりはこういった感情の根底にあるのは幼いうちから人間に備わっている共感に基づく道徳観から始まっているのではないかというのです。人がもつ道徳観は乳児期から始まり、この根底は変わらず大人になってもその基軸となるもとは変わっていないのではないかとゴプニックは言っています。

サイコパス

人の道徳性というのは乳児期の子どもでも持ち合わせている能力であるということが分かってきました。ただ、世の中においては、サイコパスのように道徳的判断ができない人もまれにいます。このことについてゴプニックが紹介しています。サイコパスは「反社会性人格障害」と言われ、他人に直接共感することがありません。神経科学者ジェームズ・ブレアは、凶悪犯用刑務所にいる囚人で研究を行いました。殺人犯や強姦犯の中には、はっきりと違いがあり、熱情や誘惑にかられ衝動的犯行に走った人たちと、もともと罪悪感がないサイコパスに分かれていたのです。サイコパスはうわべは魅力的で口達者、人を操るのも巧みですが、他人を思いやらなければいけないことが分からないのです。

 

ブレアの研究ではサイコパスの大人であったり、そういった傾向がある子どもは平均的な人と比べ、恐怖や悲しみの表情を見ても動じないというのです。それでいて、怒りや軽蔑の表情はほぼ間違いなく認識できるというのです。そして、それは彼らの脳の反応を見てもあきらかで、ほとんどの人は恐怖や悲しみの表情を見ると、脳の中にある扁桃体問う部分が活性化されます。しかし、サイコパス傾向を持つ子どもは、平均的な子どものような反応的攻撃性を示さず、脅威を感じても食ってかかったりしません。いきなり冷淡に暴力をふるうというのです。彼らは赤ちゃんでさえ抱く他人への情緒的共感がないといえるとゴプニックは言います。しかし、それは他人を理解できないというというわけではありません。彼らは他人の願望や信念を言い当てる心の理論の課題はうまくやり遂げます。むしろ、この種の知識を利用し、人を巧みに操ろうとします。彼らができないのは、他人の恐怖や悲しみを取り込み、自分のものとして感じることが出来ないのです。そのため、普通の人ができる道徳的判断ができないのです。

 

こういったサイコパスの人間はある種の成功を収めるということも聞いたことがあります。冷淡で冷静な判断ができるからこそ、成功するケースもあるのです。海外サイト『The Conversation』にサイコパスに関する記事を掲載した、米エモニー大学のスコット・リリエンフェルト教授によるとサイコパスの人は「パッと見は大胆で魅力的だが、徹底的に不誠実で、冷淡、罪の意識に乏しく、衝動をうまく抑制できない」と定義されているといっています。そして、「冷血な人間や殺人鬼は、ほとんどいません。彼らの多くが、普通の人々に混ざって生活しており、他人を犠牲にするなど、自分の特色を生かして社会的成功を収めているのです」と話しています。

 

1940年 精神科医のハーヴェイ・クレックレーは「サイコパスの中には“普通の人間”の仮面をかぶり、感情的欠落や神経症的な部分を隠しながら、社会的に成功する者もいるだろう」とはなしていて、たとえば「凄腕のセールスマン」「街一番の美女と結婚する人」「政治的な成功者」を挙げたそうです。ある意味で、冷徹な判断を行わなければいけないといったときに躊躇なくできるということが特性としてあり、サイコパスの人はそういった特性を生かしたときに成功者としてなるというのでしょう。しかし、道徳的判断ができないということが凶悪な犯罪者を生むのも確かです。

 

ゴプニックは赤ちゃんは他人の恐怖や悲しみを自分の恐怖や悲しみとし、喜びも同様であり、少し成長すれば、他人の恐怖や悲しみを取り除こうとしたり、欲しいものを取ってあげようともします。このように相手の心情を理解するために、因果関係を理解することが重要になってくると言っています。

元々持っている道徳性

ゴプニックは赤ちゃんが利他的な行動をとることを自身の研究とフェリックスの研究を通して紹介していました。それと同時に幼い子どもにも純粋な道徳的判断ができるという事を示すために、ジュディス・スメタナの研究により示しています。彼女は2歳半の子どもに、日常生活の中の二種類の場面を示しました。その一つは、子どもたちが幼稚園のルールを守らないこと。たとえば、上着を決められた場所に置かない。お昼寝の時間におしゃべりをしているといったようなこと。それともう一つ、他の子どもにぶつ、からかう、おやつを盗むなどの身体的、心理的な危害を加えるものといった2つの場面を見せました。その後で、子どもたちにルールを破ることはどうして悪いのか。ルールを違反した子どもには罰が必要かと尋ねました。さらに、もしこういうルールがなかったら、あるいは、こういうルールの無い幼稚園でなら、同じことをしても良いのかと聞きました。先生がいいですよと言ったら、お昼寝の時間に喋ってもよかったり、他の子をぶってもいいのかと質問したのです。

 

すると、一番幼い子どもも含め、子どもたちはみな、ルール違反も他の子に危害を加えることも悪いことであると言ったのです。そのうえ、ルール違反よりも、他の子に危害を加えるほうがずっと悪いとも思っていたのです。ルールは変えられるし、よその幼稚園は同じルールではないかもしれないというのです。そして、どちらにしても、危害を加えるのは悪いことで、それはルールとは関係ないというのです。このことはどの幼稚園でもそれは同じだというのです。

 

これは仮定の話だけではなく、実際に起きた出来事についても、同じように子どもたちは判断しました。他の子に危害を加えることと、ルールを破ることとは違った反応をしたのです。これは実験をしたアメリカだけではなく、どの国でも子どもたちの反応は同じだったようです。そして、国だけではなく、親から虐待した子どもでも、他人を傷つけることは本質的に悪いことだと考えていたのです。そして、それが仮に実の親であっても、悪いことは悪いと判断しました。

 

ゴプニックはこのような判断が起きたのは他人への共感や利他的行動がごく早期から発達することと符合しているからだと言っています。子どもは1歳半から他人の痛みを自分の痛みのように感じ、和らげようとします。だから、この逆の行為である誰かを傷つける行為はどんなことをしてもよくないことだと分かっているのだというのです。

 

幼い子どもでも相手に危害を加えるということはいけないことであると分かっているのですね。この研究は2歳半の研究ということであり、これによると2歳半頃であれば、危害を加えることがいけないことであるということが分かっているという事になります。とするのであれば、2歳頃の子どもたちの関わりにおいて、叩くことや噛みつくということは意図してではなく、衝動的な行動であるのかもしれません。以前、DVを犯す人は叩こうと思っていなくて、気づけば手が出ているということを聞いたことがあります。自分が「叩いてやろう」と思わなくても、気づけば手が出ているというのは恐ろしいことですが、そういった衝動性によってではなく、冷静になるための心持が子どもにも重要な力になってくるのですね。この衝動性は非認知能力とも大きく関わってくるのだろうと思います。