論理的推論とルール

3歳の子どもでも他人に危害を加えてはいけないことも、ルールを守らなければいけないこともわかっているようです。そして、さらに、この2つはルールは変更が聞くが、危害を加えることは本質的にいけないことといったように、この二つが性質の違うものだということも理解しているのです。また、ルールの基本的構造も理解していて、ルールには義務と禁止と許可といった大きな構造も理解していると前回紹介しました。

 

また、ゴプニックは子どもには論理よりもルールの方がスッと頭にはいると言っています。論理的推論というは「PならばQである」といった基本的な理屈が分かっていないとできません。これに対して、ゴプニックはある実験を示しています。

 

ジェーンという女の子が「私は外に出たら(P)、帽子をかぶります(Q)」といったという想定で子どもに次の4枚の絵を見せます。

➀ジェーンは外に出ていて、帽子をかぶっている(Pであり、Qである)

➁ジェーンは外に出ているのに、帽子をかぶっていない(Pであるが、Qではない)

③ジェーンは家の中にいて、帽子をかぶっている(Pではないが、Qである)

④ジェーンは家の中にいて、帽子をかぶっていない(Pでなく、Qでもない)

といったものを示して、子どもに「ジェーンが言ったことを守っていない」のはどれ?と質問します。この問題を論理的に考えると正解は(2)であることが分かります。ところが子どもはこの種の推論を行うことが苦手なことが多く、あてずっぽうに絵を選んでしまう傾向があるのです。

 

しかし、この実験には続きがあります。この質問をルールから考えさせると正解率は上がったようです。ジェーンが母親から「お外では帽子をかぶらなくちゃいけません」と言われたという想定で、子どもにさっきと同じ4枚の絵を見せ、「ジェーンが言いつけを守っていない」絵を選ばせました。このやり方であると3歳児でもどれがルールを守っていない絵なのかをよく判別できたのです。

 

どちらにおいても、同じ正解を求める内容ですが、明らかに結果に違いがありました。ただ、確かに前者の「こういった場合はこうである」という論理的な推論を求められるよりも、「これはだめ」とはっきりと言われた方が「そういうもの」という一つの考える視点ができる分理解しやすいように思います。

 

このことは保育においても、よく見かけますね。子どもたちに「こうなったときはどうなる?」と問いかけたとき先生は思い描く「答え」を持っています。しかし、子どもたちはこういった推論から答えを導き出すのは難しく結果、大人の誘導尋問のように答えに誘導しますが、もしかすると子どもはもっと単純に言葉を伝えたほうが理解しやすいのだろうということがよくわかります。こういった実験から導き出される保育のやり取りからよく考えることの重要性を考えさせられます。

乳児のルール

では、赤ちゃんにとっての「ルール」とはどういったものなのでしょうか。模倣の研究から見ると赤ちゃんはルールを自然と覚えることが分かっています。1歳半の子には「過剰模倣」まで見られるとゴプニックは言っています。この「過剰模倣」とは、不必要に手の込んだ動作まで、そっくり真似をしてしまうというものです。たとえば、赤ちゃんの前で大人が3回回って、つまみを2回ひねり、それからレバーを押して機械を作動させたとします。すると赤ちゃんは、この過剰な動きと操作をそっくり真似をします。これに対して、チンパンジーはこの点もっと合理的で、手の込んだ動作をすっ飛ばし、真っ先にレバーを押します。ルールを守るという人間的な行動の基盤になるのは、この赤ちゃんに見られたような模倣の衝動であることが言えるというのです。つまり、ルールを守っているという行動の意味を考えて行動するというのではなく、とにかくここでは「そうすること」になっているからだというのです。

 

3歳になると、このルールの理解はもっと洗練されていきます。スメタナの研究では、子どもは他人に危害を加えてはいけないことも、ルールを守らなければいけないことも分かっていました。さらに、この二つのこと(危害を加えることと、ルールを守ること)は違う性質のものだということも理解していました。ルールのほうは変更が聞くということです。それでも現にあるルールは守らなければいけないということも分かっています。

 

このように子どもたちはルールの基本構造も理解しています。そして、ルールには義務と禁止があるということも理解しています。なにか特定のことが禁止されているのなら、それをしてはいけません。特定のことが許可されているなら、それをするかどうかは、別の理由で決めることができます。

 

たとえば、「お菓子を食べる前は手を洗わなくてはいけない」これは義務ですね。「ミルクの中に泡を立ててはダメ」これは禁止です。「お昼寝の後、ブランコで遊びたければ、遊んでも構わない」これは特定のことが許可されるが、それをするかどうかは別の「自分が遊びたいかどうか」といった理由の動機があります。

 

こういった構造は割と自然と保育の中でも繰り広げられていることが多いですね。特に幼児に至っては子どもの気持ちに寄り添い会話をしようと思えば思うほど、この手のルールを理解させることが多くなります。そして、「選択」させることは一番最後の「特定のことが許可されるが、それをするかどうかは自分次第」といったところにあるように思います。そういった意味では人はどのような状況であれ、一定のルールの中にいるということが分かります。では、こういったことはいつぐらいから始まると研究されているのでしょうか。それはヘンリー・ウェルマンの「CHILDES」で子どもの会話の研究により、明らかになっています。

ルールの必要性

ルールがあることで人間社会において様々な利点を与えてくれます。しかし、なぜ人はルールを守るのでしょうか。ゴプニックは人間がルールを守るということは「人間の生得的な性質といっていいのかもしれません」と言っています。つまり、人がルールを守ることは人間の元々持ったものであるというのです。ゴプニックも言っていますが、確かに人間がルールを守るというのはこれといったご褒美はないものもありますし、恣意的で合理性に欠けるルールもあるのです。たとえば、特定の場面でどう振る舞うべきかを決めたルール、校則や交通ルール、人との付き合いの中でのいわゆる「空気感」、「今日は○○する」といったことに自然とそのルールに従います。「郷に入っては郷に従え」というのは必然的にルールに従うことになっているのです。しかし、その本質としては別に無理に従う必要は本来はないのです。

 

このようにルールをつくり、みんなが守るということは、道徳的に適切な反応を広めるにはとても有効な方法だとゴプニックは言います。「人をぶつことは悪いこと、困っている人を助けることは正しいこと、という基本的な道徳なら直感でも十分に分かり、幼児ですら理解しているようです。けれども、私たちが生活の中でぶつかる問題は複雑で微妙なものが多く、集団の利害が絡むと判断はさらに難しくなる」と言うのです。確かにこう考えると、それぞれの道徳的判断だけでは採択されるだけでは解決しないものは多くなってくるように思います。つまりは、様々な社会の中での問題を解決するには何十人、何百人、何百万人といった大勢の行動を調整しなければならないのです。それを可能にするのはルールだというのです。集団の利益のために互いの行動を調整する能力を人間がもつことは進化上のとても大きな利点になるのです。

 

そのため、ルールというものは度々変わることもありますね。今の日本の憲法でも改正が行われるかどうかといったことがよく争点に上がっていきます。時代によって求められるルールが変わっていたり、国が違うだけでもルールが変わっていきます。人が人を思いやることや難しい問題をみんなが納得した形で解決する方法、それがルールになるのだと思います。確かに、そう考えるとルールを作ることは、「道徳的に適切な反応を広める」ことに利点があるということが分かります。

 

では、赤ちゃんはそういったルールをどのように獲得していくのでしょうか。そこには赤ちゃんの持っているある特徴がルールを覚えるのに役に立っているようです。そして、それこそが生得的というところにもつながるところのように思います。

ルールの理解

自園のこども園の理念は「自由と規律」という理念の下、保育を行っています。それは生きていく中でただ能力が高くてもそれを生かさせる力がないと社会にとって活躍できる人間にはならないということが基本理念にあり、「自由」といってもなんでもしてもいいというわけではなく、そこには必ず「規律」というルールがある。それは大きいものは「法律」や「ルール」、小さいもので言うと「相手との空気感」というものも一種の規律であると思っています。そういったある種の制約が社会には存在し、その中でいかに自己発揮できるか、つまりは社会性が重要になってくると考えています。

 

では、この「ルール」ということに対して赤ちゃんはどのように獲得していくのでしょうか。ゴプニックは「ルールを守る」ことと「道徳」との関係を話しています。赤ちゃんは「自分が身に付けた理論をもとに世界のさまざまな可能性を思い描き、世界を変えるために働きかけてます」とこれまでにも話されていました。その中で共感をもとに母親を中心に利他的な行動を行い、そこに道徳的な判断の輪を広げていくと言います。

 

赤ちゃんは自分の世界を広げていく中で、理解と変革を行います。その中で、自分が身に付けた理論をもとに世界の様々な可能性を思い描き、世界を変えるために働きかけます。その変革のために反実仮想では様々な選択が迫られます。自分が何をしたいのか、どんな世界を実現したいのか。どんな人になりたいのか。そういった選択の中で、「より良い選択とは何か?」「悪い選択とはなにか?」と考えることは、ある意味で自分は何をすべきかという道徳的判断、道徳的推論と似ている推論を行います。このような推論は「規範的」推論というものです。つまり「ルール」というものを捉えるための推論です。

 

この規範的推論には重い道徳的義務(子どもの幸せのためには自分を規制にしなければならない)、簡単な損得判断(クレジットカードは利子が一番安いものを選ぶべし)、周りの人を不快にさせないエチケット(フォークは左側に置くこと)といったところまで、さまざまなレベルがあります。因果的推論がこれをしたら「どうなるか」を考えるものに対し、規範的推論は何を「しなくてはならないか」を判断するものであると言います。つまり、規範的推論はルールを中心に考えられます。

 

これがこれまでの因果的推論とは大きく違うところです。因果的推論では反実仮想をもとに、未来を予測し、それに合わせた複雑な選択肢の中から、行動を選択します。それに比べると、規範的推論には従うべきルールがあるので判断はずっと楽になります。これには様々な利点があり、たとえば、現在の判断と、過去や未来の判断との矛盾も避けられます。ルールに従うので、何をしようかと悩むことは無くなるからです。また、ルールがあることで自分のすることを他人に合わせることも簡単になります。みんなに共通のルールがあると、お互いのすることの予測がつき、自分もそれに合わせていれば安心につながるからです。他にも、皆が同じことをすること事態に大きな意味がある場合もあります。たとえば、交通ルールです。道は本質的にどこを通ってもいいはずですが、信号や車が通るのがどちら側かを決めることで危険は減りますし、安心して道を歩くこともできます。

 

このように規範的推論は因果的推論とは違い、人が様々な選択をすることを容易にすることができます。そして、社会においてこういったルールを理解することは非常に重要なスキルでもありますし、今の社会においてもこういった規律規範というものは重視されます。では、なぜ、人はこういったルールを守るのでしょうか。

道徳観を持つ

次にゴプニックは「人との共通点を持つ人だけに配慮するというのは、道徳的にどうなのでしょう?」と問題提起をしています。戦争時代においても、たとえば、ゲルマン民族であったり、十字軍であったり、ナチスであったり、今ではウィグル問題などでも同様に、歴史的に見ると異民族の虐殺や宗教の違いによる戦争はやはり共通点を持つ人への配慮の裏にある意識から出てきたものであるように思います。つまり、自分とは違うアイデンティティがあることで道徳的配慮がその内集団の中で行われ、それが相手を弾圧する理由になってしまうのです。勧善懲悪はないと人はわかっているのに、どこかで「自分たちは正義」と当てはめようとしています。これは道徳的といえるのでしょうか。

 

一方で、自分たちの道徳生活においては特定の対象としたものであることを指摘する人もいるようです。それは、例えば家族等がそれにあたります。確かに家族などを考えると、いくら見ず知らずの人であっても、自分の子どもや親を優先に守り、幸せにすることに特別に重い責任を感じます。社会構造における民主主義も国における義務としてありますが、マクロに見ていくとそれは結果として自分のためであったり、自分の家族のためであったりもします。結局のところ国家というのはそういった、個々の道徳観念から起きているのではないかというのです。

 

しかし、道徳的配慮の対象が着実に拡大されてきているのも確かです。日本ではまだまだ進んでいるとはいえませんが、たとえば、ゲイやレズビアンにも、完全な道徳的な地位を認める方向への発展が世界的にも進んでいますし、人種への差別の撤廃など、国際的に人権運動というのは進んでいます。さらに、動物にも道徳的地位を認めるべきだという運動もあるほどです。これは自分とは共通点もないものにまで道徳的配慮がされていると言えます。

 

なかなか、道徳的配慮といっても、難しいものです。最近ではSNSの問題が日常的になり、「炎上」という言葉もいたるところで目にします。それも「自分の考えとは違う」ということや「自分の価値観とは違っている」というやはり共通点における排他的な考えが道徳的配慮を狂わせているように思います。行き過ぎたお節介の先に正にこういったネガティブな要素を起こっているように思います。元を正すととくに宗教戦争においては「浄化」といった考えが根底にありこれはある意味で「お節介」な大義名分なように感じます。

 

なにをもって道徳といえるのでしょうか。道徳的な配慮とは誰を対象にしているのか。

古典的な道徳哲学では、功利主義か義務論かを以前紹介しましたが、ここで出てくる道徳的配慮は普遍的でなければならないと考えられてきました。つまり、どちらもすべての人が対象になります。

 

共通点といった特定の人ではない道徳的な配慮と家族などの特定の人への道徳的な配慮。「親子が互いを思いやるのに特別な努力入りませんですが、隣人を思いやるのは時に難しく、知らない人を思いやるのはもっと難しく、自分と違うグループの青シャツの子を思いやるのは一番難しいことなのです。」とゴプニックは言っています。道徳の輪を広げていくというのはとても難しいことです。最近ではポピュリズムという言葉にもあるように特定方向の道徳がまかり通っている時代になっているように思います。そんな時代に、どういった保育をしていく必要があるのか、そのために赤ちゃんが道徳観を得るメカニズムを知ることは大切なことであるように思います。