教師の変化

 

寺子屋における師匠(教師)は父母の間においても信頼を得て、子どもに対して、しっかりとした躾や人としての学びを教えることが求められるものしてありました。こういった通念から一般的に教育は金銭に代えがたいものであり、人の師たるものは弟子の成長のみを喜びとし、「人爵なきも天爵の重きを以て自ら任じる」というように、社会的な地位は与えられずとも「教える」という行為は点が与えた行為であるために、清貧に甘んじてその職務を遂行することを理想とする観念が近世には成立したと言います。自分の生活を質素にし切り詰めてでも、弟子に物を伝えることをなによりの価値をもって向き合うという姿は今の我々にとっても見習わなければいけない部分はあるように思います。

 

そして、このような教師観は近代にも継承され、聖職者としての教師像が定着していくのです。その後、教育のすべてが国家によって管理されていく明治期になると教師の権威は国家によって保障されていきます。しかし、庶民の教師に対する尊崇の念は消え去るものではなかったようです。

 

その後、時代は大きく変容を見せていきます。1945年(昭和二〇)教師は聖職者か労働者かという議論が盛んに行われるました。その議論の背景には日教組(日本教職員組合…1947年に結成された教職員の労働組合)と文部省(現在の文部科学省)の激しい対立がありました。やがて、国民経済が豊かになり、高学歴時代を迎えると、国民の関心事はそうした議論を越えて、激化する受験戦争に勝利するための学習を提供する教育を求めるようになったのです。

 

この時代から、福沢諭吉が始めた「授業料」が学びの対価として支払われることが当たり前になり、教師は教えることで利益を得て、学習者は学びによって利益を得るという教育を利益とした「売り買いの世界」へと変貌していったのです。

 

このことについて沖田氏はこう警鐘を鳴らしています「『教える』または『まなぶ』という行為が、単なる情報の移動にしかすぎなくなると、将来は人間が介在せずにコンピューターやテレビで行われる授受が主流になるかもしれません。しかし、教育の原点が『人との交わり』であるというのであれば、現代社会に生きる私たちの教育は明らかに寺子屋時代の子弟関係からはるかに退化したところに来てしまったということが出来る」と言っており、寺子屋の師弟関係に教育の原型を求めようとするのは教育の原点回帰への施行を意味していると言っています。

 

このことに関しては私も同感です。よく保育の中で職員に注意するときに「保育という『仕事』をするのではなく、我々は『保育』をしなければいけない」と話しています。保育や教育は仕事のように「こなす」ような職業ではないと思っています。毎年同じようなカリキュラムを繰り返し行うのが保育や教育はまさに「人との教え」を教えるということよりも「退化」した保育になっているように思います。これからの未来において、職業の半分はAIによって無くなると言われています。しかし、保育者は人との関わりが多い職業であり、そういった意味では無くならないと言われています。しかし、「これまでそうだったから」という「合理的にhow-toで行われる保育」であるとAIにとって代わられるかもしれません。事実、小学校の教員は無くなると言われています。本来の意味での「人との教え」という部分がこれからの時代いかに意味のあるものになるのか。こういった時代を通じた教育を学ぶことは教育の原点やあるべき姿を改めて見直す機会になります。

罰と責任

寺子屋の指導においては、厳しい指導もあり、体罰などの「教育的指導」というものもありました。現在の時代ではきっと問題になるでしょうね。では、どういった時にこういった罰というものが行われたのでしょうか。それは「不品行にして他人に妨害を加ふるもの」「怠惰にして学業未熟なるもの」「喧嘩争論するもの」「他人を欺き若しくは盗みするもの」という「罰」があげられています。いずれも子どもたちが成長したときに守るべき最低限度の社会性に最大の注意がむけられ、それを犯した時に罰が加えられていたようです。

 

これらの罪を犯したとき、最も軽いのは叱責または説諭です。つまり、「説教」ですね。次に「留置」です。これは放課後居残りを命じて習字等を課したりします。「補習」のようなものでしょうか。そして、「謹慎」これは師匠のかたわらで正座を命じました。ほかにも教場や便所などの掃除を命じることもありました。体罰としては、右手に線香、左手に水を満たした茶碗をもたせ正座をさせたり、竹竿で手足を打つ「鞭撻」(べんたつ)などがあります。しかし、師匠が手で子どもを殴打することはなく、ほとんどの場合、厚紙で扇子をつくり、打つ音に比べて痛みを感じさせないような工夫がされていたそうです。もし、手におえない子どもであれば、破門を命じて追放することもあったようです。

 

武家の子どもの教育においては体罰は好ましくはなかったようです。それは誇りを重んじる武家社会にあって、武士としての尊厳を否定するような体罰は、武士の尊厳を否定するものとして考えられました。こういった教育的指導としての「罰」は教育的意味をもつために、子どもと師匠との信頼関係において確立されていなければならないとされていました。

 

このようにしてみると、「体罰」とはいえ、極端な殴打が当たり前のようにあったわけではないようです。現在において「体罰」は問題になることが多々あります。どうも最近の体罰のニュースを見ていると先生と子どもの信頼関係というよりは、先生の一方的な感情をぶつけているようにすら見えてきます。また、寺子屋においてでも殴打するといった体罰はあまり好まれなかったのですね。「ハリセン」が寺子屋での子どもに与える罰の中にあったというのも驚かされます。音のわりに痛みが少ないというのは「なるほど」と考えさせられました。それと同時に「破門」という手段が最終的にあるというのも大きな意味合いがあるのだろうと思います。

 

「破門」が行われるというのは最大級の罰であるというのが分かります。しかし、それが罰でありえるというのは、やはり子どもや親にとって寺子屋で勉強することが「自己責任」であるということが言えるのでしょう。最近ではこの生徒の「自己責任」という認識があまり強く言われていないような気がします。以前、旭川での中学生が自殺したニュースがありましたが、そこで校長は「加害者にも人生がある」というように被害者よりも加害者を守るような発言がありました。確かに「人権」という意味では考慮されなければいけないところはあるのはわかります。しかし、だからといって、「責任がない」とは言い切れないのではないかというのも感じます。義務教育や少年法、そのどれもが「加害者の子どもたちを守る」ということや「更生を望む」ものであるのはわかるのですが、そこにある「責任」はやはり伝えることも重要なことであるように思います。

 

そして、それは子ども自身が自身について感じて理解しなければいけないように思います。

教師と生徒

次に寺子屋の就学時期です。これには日本のそもそもの子どもへの考え方が色濃く影響していることを沖田さんは言っています。日本には子どもについて「7歳までは神の内」という言葉があるそうです。このころは今とは違い乳幼児の死亡率というのは非常に高かったと言われています。そのため、子どもがある程度自力で生きていける力を身につけるまでは、生きるも死ぬもすべて人間の力が及ばない「神の内」に委ねられているという考え方が支配的であったと沖田さんは言っています。これは欧米社会における「子どもは未熟な大人」という児童観とは異なるようで、ある一定の年齢に達するまで、なるべく人間の手を加えないで、子どもを自然の状態においてその成長を見守るという子ども観が日本にはあったのです。

 

現在も日本の各地にある祭りの中には子どもを中心としたお祭りが多く残っており、それは子どもが大人に比べて神に近い存在と考えられていたからです。子どもたちは成長するにしたがって、紙の領域から人間の領域へと近づいてくるのです。それを「小児は3歳で『髪置』、男子は5歳で『袴着』、女子は7歳で『帯解』」という年祝いの行事を通して成長の節目としました。これが現在で言う「七五三」の起源だと言われています。武家社会では男子は5歳で就学年令とする風習もあったが、この年祝いが終わる7~8歳頃が寺子屋の就学年令であったようです。

 

この頃の入門は、今のように金銭のよって教育関係を結ぶといった契約ではなく、あくまでも「子弟の礼」をもって教育関係が成立するという形態でした。その後、5~6年間、厳しい封建の世を生き抜く知識と智恵、人間関係に関する礼儀作法や生活習慣などを身につけていきます。

 

「七尺下がって師の影をふまず」というのは、寺子屋で用いられたテキストの一つである『童子教』の一節が紹介されていました。この一節を読んでどう感じるのでしょうか。沖田さんは「教育が納税・兵役とならんで国民の三大義務として国家の制度によってつくられ、国民に強制されてきたときに、国家の権威を背景に新たな『教師像』が形成された。しかし、これらの権威と、庶民の間で自然発生的に登場し、学ぶ側から作られた権威では大きく異なる」と言われています。

 

師匠つまり、当時の先生と生徒との関係は今のような形としての関係ではなく、あくまで師と弟子といった信頼関係のうえに確立されたものであったということが伺えます。そのため、当時の寺子屋によって師匠はひとりであり、視床の個性が寺子に大きな影響を及ぼしていたのです。例えば「筆小塚」などは、師匠が没したのち、その教えを受けた弟子たちが師匠を偲んでつくったものもありました。

 

このように現在の教育現場とは異なり、寺子屋における先生(師匠)と生徒(弟子)の関係は今の制度としての関係性とはまた違った関係性であったことがうかがえます。確かに「人としての教え」まで教えられる寺子屋においては、「先生」というもののあり方は大きく違っているでしょうね。

教育に価値

寺子屋は寺院教育から庶民の学習要求に基づいたものへ移行していき、その後に職業としての寺子屋が登場するようになります。それと共に師匠の「教え」に対する報酬としての「授業料」が定められてきます。初めの頃はこの「教えの報酬」といったものは「束脩(そくしゅう)」や「謝儀」といった、いわゆる「お礼」として差し出されたものでした。そこから「授業料」に変えた初めての人が、慶應義塾の創始者でもある福沢諭吉でした。

 

福沢諭吉は「学問は個人が『身を立てる財本』であるから、受益者負担の原則で、等価としての授業料を支払うのは当然であるという」論理からはじめたそうです。しかし、寺子屋は職業として成立していながらも、「教え」が単なる文字の読み書き技術の授受にとどまらず、「人としての学び」の伝統が学び手の側に存在しました。そのため、お礼としての「束脩」や「謝儀」は基本的には「心付け」の意味あいが強く、僧侶へのお布施に近いものがあったと考えられます。

 

「謝儀」の形態は、都市や農村によって異なっており、地域によっては金納よりも物納という方法を取ることもあったようです。物納の場合、平均してみると月に米一升というのが一般的だったそうです。また、個々の寺子が負担する形態のほかに、地域が共同で師匠を雇い入れ、寺子屋の経費を負担するところも少なくはなかった。こうなると寺子屋も公立学校に近い郷学の性格を帯びてきます。明治2年(1869年)には64項の小学校を創設した京都では、竈銭と称して、町組の一家を構える家々から通学児童のあるなしに関わらず、出勤して学校の経営にあてていることもあるように、寺子屋は地域共同体とも強いつながりをもっていたことが伺えます。

 

寺子屋は庶民の地域の中から教育形態として、徐々に形になってきたのです。そして、そこに今度は「授業料」という勉強や学習に「価値」を求めるようになってきたということが分かります。日本においてこういった知識を「価値あるもの」と認識されてきた過程の中に寺子屋の文化というものは非常に大きな影響があったのでしょう。

 

徐々に現在の「学校」に近い形態になってきました。「教育」にはいかに価値があり、必要なことであるのかが明確になってきたように思います。もちろん、現在においても「教育に価値がない」という人はいないでしょう。しかし、「なぜ教育が必要か」と問われたときに答えに窮する人も多いと思います。寺子屋の文化においては、その習う必要性や楽しさといったものが、いまよりも貪欲にあったのだろうことは感じるところがあります。

寺子屋

寺子屋とは「寺小屋」とも記されることがあります。通説によると生徒を意味する「寺子」を集める職業「屋」が近世の寺子屋の原義で、主としては関西で使用された呼称と理解されています。その一方で、寺小屋は文字通り「寺」の「小屋」であり、近世の寺子屋とは区別されて使用されています。しかし、実際のところ、近世の史料を見ると、厳格な区別はないようです。ましてや、そもそも、研究者の中では、寺子屋という呼称自体、妥当かどうかといった議論も出ているようです。

 

文献上では、「寺子」という名称が初めて出てくるのは大阪の書肆(書店)が元禄8年(1695年)に刊行した笹山梅庵の『寺子制誨式目』(てらこせいかいのしきもく)であるとされています。それ以降、「寺子往来」(正徳四年〈1714年〉)や「寺子宝鑑」(享保十四年〈1729年〉)のように「寺子」という名称を用いたテキストが刊行されています。

 

大阪の私塾懐徳堂(かいとくどう)の儒者である中井竹山が松平定信に献上した『草茅危言』(そうぼうきげん)(寛政元年〈1789年〉)の中で、当時の庶民の風俗があらわされており、「村学蒙師」(そんがくもうし)と呼ばれる人が読み書きを教えていたようです。またその村学蒙師は学問に精通した知識人というよりも、子どもに物を教える程度の学力を持った人であったようです。さらにこの時期において、寺院教育は世俗化され無関係になっていたにも関わらず、寺院教育の名称が継承されたと述べられています。これに対し、寺子屋研究の開拓者でもある石川謙はこうした用語そのものが中世寺院教育が一直線の路線を伝って、近世の寺子屋につながったかのような誤解を与えていると言っています。そのため「寺屋、寺子、寺入り」といったこの頃の用語は近世中期に登場する寺子屋特有のものと断定しました。このように、寺院教育の流れがあるという説も、途切れているという説もあるのですが、この頃、中世寺院教育の世俗化は進み、寺院とは全く無関係な形態にまで展開したのが、近世中期の寺子屋の特徴になります。

 

明治の中期に文部省が旧藩時代の全国の藩校・郷校・寺子屋の調査をしました。それに基づいた「日本教育史資料」によると、寺子屋の総数は1万5000あまりあったと記録されています。そして、その開設は十九世紀に入って急激に増加していたようです。しかし、その後、近世の町史や県史といったものを改めて編集しまとめていくと寺子屋の総数は大幅に書き換えられ、実際にはこの倍近い寺子屋が存在していたと推定されています。また、これを人口比率から見てみると、現在の小学校の数に匹敵するほど、その数は増えていたようです。

 

子どもの人口比から見ると現在の小学校の数と同じというのも、面白いですね。また、この頃の子どもたちに勉強を教えていたのは今のように正式な資格をもった知識人というよりも、子どもにものを教えることが出来るくらい程度のものであったというのも、面白いですね。まさに、まだこの頃は生活において必要に応じた知識を教えるという実践的な教育が求められたものが教えの中に多くあったのだろうことが見えてきます。