教育の哲学

先日、熊本大学の苫野先生のご講演を聴く機会がありました。今回は幼稚園のある門真市の教職員フォーラムの中での講演でしたが、私としては改めて考えさせられる機会となったため、ここでまとめてみようと思います。

まず、苫野先生はさまざまな本を執筆されている哲学者・教育者であり、熊本大学での勤務だけでなく、経済産業省産業構造審議会委員など、さまざまな場でご活躍されています。そのため、話の前半は哲学の話でした。ここが特に私にとって興味深いところです。というのも、私が学ぶ藤森メソッド(見守る保育)の藤森先生もよく「保育は哲学で考えるべき」とおっしゃるからです。私もその考えに賛同しており、教育や保育においては「何のために行うのか」を考えて取り組むべきだと思っています。

最近では価値観も少しずつ変わってきているのだと思いますが、かつては「いい大学に入り、いい会社に就職すること」が理想とされ、それに伴い成績や学歴が重視されてきました。「頭がいい=勉強ができる」という考え方や、成績や学歴で人を判断する風潮があったように思います。もちろん、生きていく上で必要なステータスであるとは思いますが、だからといって「幸せか」と問われると、必ずしもそうではないように思います。

また、これからの社会では、AIの台頭や労働人口の減少、少子高齢化、海外からの労働者によるグローバル化など、これまでとは全く異なる状況が予想されます。こうした中で、旧態依然とした教育は遅れを伴うと考えられます。吹きこぼしや落ちこぼれ、若年の自殺者、引きこもり、不登校、SNSの問題といった課題がある一方で、自己肯定感や自尊感情の低さ、コミュニケーション能力の低下も指摘されます。いくら勉強ができて成績が良くても、さまざまな問題によって学校生活や社会生活で活躍できないことが多々起きています。

これまでのような、知識を暗記して覚える学びは、今後AIによって代替される可能性があります。実際、大学などでもAIが利用されることがあります。それを遠ざけるのではなく、今後は「どう使っていくか」が重要なスキルになってくるでしょう。そうなると、これまでの学習の価値観も大きく変わると思います。だからこそ、「なぜ保育が必要か」「なぜ教育が必要か」という本質を追求することが重要です。苫野先生は「哲学とはそもそも本質を考え抜き、それにまつわる問題について考えること」と話されていました。

では、良い保育や教育とはどのようなものでしょうか。苫野先生は、教育が変わる時代であったり、AIによって知識の習得が個人でも可能になったとしても、「公教育は絶対に必要だ」と話されていました。私もその考えに賛同しますが、その根拠はどこにあるのでしょうか。

何かを感じようとする人

SNSというものは、悪いとらわれ方をすることが多いですが、一方で非常に有用なツールでもあります。流れてくるリール動画も「切り抜き」として誤解を生むようなものもあれば、自己啓発のように名言を切り抜いたものも出てきます。割と私はそういった人の名言に感銘を受けることも多々あり、そのことをふと書いてみたくなりました。

 

その一つが何かの番組でイチロー選手が話していたことです。そのインタビューでイチロー選手は「よく言われるんです。『負けているチームにリーダーが必要じゃないか』と。もちろんいた方がいいです。でも、もっと大事なのは何かを感じようとする人がいるかです。優秀なリーダーがいても、それを見て何かを感じる人間が周りにいなかったら、何もならない。チームとして。たとえリーダーがいなくても、何かから何かを常に感じようとする姿勢のひとが集まった方が実はチームとしてはうまく機能する。そして、こいつが中心かなっていう人が出てくる。出てこなかったらそれまでです。安易にこいつをキャプテンかなとってやるとうまくいかないんですよ。残念ながらやりがちですけど。」という言葉でした。私もキャプテンであったり、この業界だと『主任』かと思うのですが、安易に上から決めるべきではないと思います。

 

これに近いことをダニエル・ゴールマン著の「EQ リーダーシップ」では「共鳴」と言う表し方をしています。「一人ひとりのメンバーが共感を形成し、目標に向かって心を一つにしたとき、チームには共鳴が起こる」と話しています。共鳴が起きると「チームが一つにまとまり、組織のために人々が結束するとき、そこに働いている人々が結びつけるのは、全員が共有する感情です。メンバーが互いに心を許しあってアイデアを共有し、学び合い、協調して決断をくだし、仕事を成し遂げていく。」と言っていました。まさにイチロー選手が話している言葉に近いことですね。

 

そこで重要になってくるのが「共感」というものです。イチロー選手の表し方でいうと「何かを感じる人」という表現になるのでしょう。藤森メソッド(見守る保育)の『保育の起源』では「『子どもにとって善い』と思って職員は保育をしているのを信じること。そして、その気持ちにリーダーは共感して、その気持ちを実現していくための方法を、理念に戻ってもう一度、一緒に考えることが重要です。」とありました。

 

たとえ、「これは・・」と思う提案があっても、それを『子供のために行おう』としていることは信じる視点は大切です。その上で、未熟な部分を『足していく』といった理念を通してその活動をより豊かにできる方法をともに考えることが重要なのでしょう。単純に『善い悪い』をジャッジするのではなく、足りないところを気づかせたり、よくしていくことが、共鳴を起こせるリーダーです。言葉にすると簡単ですが、なかなか難しく、私はまだそういったマインドコンロールするのが難しいです。ただ、イチロー選手の動画を見ると改めてリーダーシップを考えさせられました。

ドーパミンとADHD

運動がストレスだけではなく、集中力にも影響するのがわかったのですが、ここで面白いことが書かれています。運動と幸せホルモンとよく言われる「ドーパミン」との関係です。運動をすると人の体にいい影響がでるというのはこれまでの話の中でもありましたが、それに「ドーパミン」が大きく関わっているそうです。ドーパミンは脳の細胞から細胞へと情報を伝える「神経伝達物質」の一つです。おいしいものを食べたり、社会と交流したり、運動や性行為などをすると、脳の側坐核といわれる脳の様々な領域とつながっている細胞の集まっているところからドーパミンの分泌量が増えるといわれています。ドーパミンの分泌量が増えることで、ポジティブな気分になり、人はその行動を繰り返したくなります。

 

なぜ、そういったことを脳が催促するのかというと、それはヒトの進化に関係しており、進化上そういった行為が生存確率をあげ、遺伝子を次の世代へつながることになるからだと言われています。ヒトの体とはいえ、一つの生物であり、次の世代へ遺伝子をつなげるという生物学的欲動を起こしているというのは何やら不思議な気になります。しかし、人間としての特徴である社会性や食事、性行為などは生存戦略としてわかるのですが、なぜ、運動が入るのでしょうか。それは我々の先祖が狩猟や住処を探すときに走っていたためだと考えられているそうです。これも生き延びていくために必要な行動であり、そのために脳が報酬を与えるドーパミンが分泌されるのだと言われているそうです。走ることや運動することは今の時代では割とトレーニングであったり、ダイエットであったりと「負荷」をかけるように考えられていますが、そもそもは生存の可能性を増やすためのものです。だからこそ、その「報酬」であったり、「ご褒美」を脳はくれるということなのでしょう。そして、それによって体が強くなることで、生存、または遺伝子を残す行動に向かわせるのですね。

 

また、この側坐核は集中することにも関わります。面白いのは集中している時はどういうときでしょうか。ほとんどがその物事が楽しんでいるときではないでしょうか。脳は今行っている活動が続ける価値があるかどうかを判断し、情報を絶えずほかの領域に伝えています。もっと言うと集中している(刺激を受けている)状態の時にはドーパミンが分泌されている時です。逆に集中していないとき、注意が散漫なときはドーパミンの分泌は抑えられ、ほかのドーパミンが放出されそうなものに目がいってしまい注意力が散漫になるのです。よくSNSで様々な情報を見ていると気づいたら時間が過ぎていたというのもこれに当たりますね。このように人の頭の中でドーパミンはより刺激的なものを貪欲に追い求めていると言います。それが結果として以前紹介したスマホ認知症ような症状も出ることを示唆しています。スマホは情報があふれ出る機器です。止めどなくあふれる情報を貪欲に脳はほしがり、ドーパミンを放出し、次に次に情報を求めます。この刺激性が時間を忘れるほどの集中力を生んでいるのでしょう。

 

この集中できない状態というのを考えた場合、「ADHD」の人にはどうなのでしょうか。ADHDの人は先ほど紹介した側坐核からでるドーパミンの受容体が少ないために、活発に働かないことから起きることがあるそうです。そのため、報酬中枢を活発に働かすために、より大きな刺激を求めることで注意散漫になったり、多動の傾向が起きるのです。

 

このようにADHDの子どもたちのことを考えてみると、なぜ注意散漫になるのか、逆にそういった子どもでも、どういった環境にしてあげると座ってられるのかがわかるような気がします。

運動と集中力

集中力についても、運動は少なからず大きな影響を与えると言えるようです。集中力を調べる際、「選択的注意」を調べるエリクセン・フランカー課題が行われました。選択的注意というのはたとえば、喫茶店で人と話している時を想像するとわかりやすいように思います。騒がしい喫茶店で話をしていても、相手の声が聞こえると思います。それは騒がしい喫茶店の音を人は遮断し、相手の声に集中しているからでいる芸当です。これができないと、いろいろな音に反応してしまい、相手の声が聞こえなかったり集中できなかったりします。ADHDの人は割とそういった状態にあるようです。いろいろなところが気になってしまい、集中できないのです。

 

このように、この「選択的注意」をするテストをする中で、被験者が運動をすると選択的注意力と集中力が改善したようです。MRIを通してテストを受けている時に脳を観察していると、頭頂葉と前頭葉が活発に動いていたことがわかりました。この領域は意識を集中し、その状態を維持する機能を司る部分です。なお、このテストを行う際、健康状況も調べたのですが、健康状態が万全な人の方がテストもうまくこなせ、選択的注意力が優れていたことがわかりました。では、「健康な人が選択的注意力が高い」というと、必ずしもそうとはいえないようです。なぜなら、それは運動によって体調が改善して集中力が高まったというより、もともと集中力が高い人がたまたま運動を楽しむ傾向にあり、そのため健康だった傾向があるともいえるからです。

 

そのため、今度は新たな被験者を通して、運動により健康になったことで選択的周囲力が改善するか調べることが始まりました。1つのグループはウォーキングを行い、2つめはヨガやストレッチといった心拍数が増えない負荷のかからない運動を行います。どちらのグループの同じ活動頻度と時間をもうけ半年間続けました。その後、選択低注意力を改善しているか、エリクセン・フランカー課題を行いました。するとウォーキングのグループはテスト課題をうまくこなし、選択的注意力が改善し、前頭葉と頭頂葉が活発化しました。この傾向はウォーキングのグループで見られたのです。つまり、習慣的にウォーキングのような簡単な活動を半年続けるだけで、脳が変わり、選択的注意力が高まるということ証明されたのです。

 

運動は体を健康的にしてくれることやストレスをコントロールするだけではなく、脳の機能にまで影響がみられるのです。注意力が改善したのも、運動によって前頭葉の細胞同士のつながりの数が増えたことが考えられるようです。そのため、情報量が多いような環境になったときに脳が集中力の機能を発揮し、周囲の不要な情報を的確にふるいにかけたというのです。この研究によって、研究チームは「脳の働きが活発になると可塑性が促進され、周囲の環境に対処する注意能力も高まる」という結果に確固たる結論をもったそうです。

誰のためにあるのか

ここ最近の運動のストレスコントロールや性教育について考えると、共通していることがいずれも主体は大人が「つけてあげる」ものではなく、「本人が身につく」ことにあります。大人ができることは、環境を整えることに限られる場合が多いのだと思います。

 

運動でいえば、「遊びから生まれる運動」と、大人がルールを守らせる運動では、運動量に違いがあります。大人は決まったことを行わせがちですが、純粋な運動量という観点では、遊びの方がより多くの効果をもたらすこともあります。性教育においても同様です。「男女を分ける」「一緒にさせない」ということが目的になりがちですが、本来の目的は「性差を知ること」や「相手がいやなことをしないこと」を理解しすることに大きな意味があると思います。

 

つまり、どこに主体があるのか、誰のための行為なのかをよく考える必要があります。必ずしも大人がよかれと思って教育指導を行うことが、子どもの成長に好影響を与えるとは限らず、場合によっては「いらぬお節介」となることも理解しておく必要があります。

 

たとえば、性教育で「男女一緒にするのはどうか」という質問があります。しかし「男女を分ける」という前提自体、ジェンダーフリーの観点からはバイアスがかかっており、場合によっては差別的ともいえます。また、男性同士が苦手な男性がいるかもしれません。多様性が広く複雑になるほど、大人が枠組みを作ることは難しくなります。そのような世界で生きる今の子どもたちは、私たち大人よりも柔軟な意識を求められるでしょう。既存の意識で子どもたちを縛ることは、将来の障壁を作ることにもなりかねません。

 

だからこそ、大人は選択肢や環境を用意するなど、間接的な関わりの質が重要になってくるように思います。子ども自身が考え、進む道を選べるよう、大人がじっくり待つことが求められます。根気のいることですし、子どもを信じることは心配にもなります。人を信じることの難しさは、自分自身もまだまだ学ぶところがありますが、保育においてはこの点をよく考えていきたいと思います。