その後

寺子屋は師匠より「人としての教え」を学び、「読み書き」を中心に学習していました。では、その後子どもたちは社会の中でどう育っていくのでしょうか。一般的な庶民の場合、ごく限られた上流階層に属する子弟を除き、一般庶民の子どもたちにとって、寺子屋後の上級学校は存在しなかったといいます。子どもたちは成長するにしたがい、集団生活の中で「大人」への成長過程を歩むことになります。農村でいえば、村落秩序の中で、若者宿や娘宿などの集団生活を通して学んでいきます。また、村落が主催する祭りなどのさまざまな行事への参加を通して、村落の構成員の一人として承認を受けます。これは農村地帯だけでなく、漁村においても大体同様の自治組織があり、村落共同体が一定の教育機能を果たしていた。このように農業や漁業などの労働の実務を通して見習いから一人前の働き手へと成長していくのです。そのため、労働の場が学校の機能を持っていたことが商人や職人の場合では比較的明瞭に理解できます。

 

まずは、寺子屋で4~5年間最低限度の「読み書き」を学び、早い子どもで十歳前後、だいたい十二~十三歳くらいから、商人の場合は丁稚奉公、職人の場合は年季奉公と呼ばれる徒弟教育の生活に入っていきます。商人の場合は、丁稚から始まり半人前をへて手代(てだい)へと進み、能力があれば二十五歳くらいで番頭に抜擢され、一~二年のお札奉公を経て、三十歳前に「暖簾分け」または「仕分け」と称して独り立ちしていきます。それによって、主人より屋号となにがしかの資本を譲り受けて自分の店を経営しました。丁稚に始まり段階を踏んで出世していくことは各商家によって異なり、必ずしもその呼称も一定していません。そして、商家における身分は様々あり、それらは単なる職種の相違ではなく、それぞれの身分に応じて髪型や服装などの厳しい区別がありました。

 

奉公人と一口に言っても、さまざまあり、将来自分の店を継ぐべき立場にある長男を修行に出して、一定期間商人としての教育を受けさせる「見習奉公」や、年季を定めずに丁稚から一人前の商人に成長するまで「住込奉公」を行い、能力があれば暖簾を分けられて独立した店を経営する「子飼奉公」などがあります。いかに優秀な子飼を育て上げるかは、その商家の繁栄につながるため、子飼の教育には商いに劣らないほどの力を注いだのです。

 

例えば越後三井家といった豪商で言えば、関西だけではなく江戸にまで支店を出していました。しかし、その場合、丁稚を採用する場合、現地の人間ではなく、国元でしかるべき身元保証のできる仲介者を経て採用しました。三井ではこういった丁稚を「子供」と呼んでいたのです。この段階では直接店に出て商いの実務に携わるのではなく、奥向きの日常的な仕事を通して商家の生活様式を習得し、商家の仕来り(しきたり)、礼儀・作法や言葉の使い方などの躾全般を学び、商人として必要な基礎知識を身につけることに努めたのです。半人前になると、ようやく店に出て実務につくのではあるが、この期間は商売の実際を学ぶ見習い期間であり、自分の裁量で自由に取引をすることはできませんでした。手代になって初めて取引業務に従事します。これであってもまだまだ一人前の独立した商人とはみなされませんでした。手代として数年間商いを経験し、能力があると認められれば番頭に抜擢されます。番頭までは商人としての見習い期間であり、盆・正月の里帰りの際に主人からなにがしかの小遣い銭を与えられるほかは原則として無給であったのです。

 

番頭からさらに独立しないでその商家の経営に携わる人は支配人と称され、主人の代わりに商いの実際の責任を負い、さらにほとんどの場合、その商家の奉公人教育の責任者でもありました。三井家の制度では、組頭までは原則として年功序列になっています。組頭までの段階では十二~十八年までを一応の目安としています。その後は厳しい業績主義が取られたのです。」

子どもの学習の競争

寺子屋では現在のように成績や試験というものを意識する必要がありませんでした。そのため、他人と成績を競うこともありませんでした。そのため、そこでは個人の興味と生まれ持った才能に任せて学ぶことになります。あるものは他人よりも学びの速度が速くなり、学ぶことに強い関心を抱くことにもつながります。しかし、だからといって寺子屋の学習で試験に類されたものや競争の原理は全くなかったかというと、決してそうではなかったようです。

 

毎月一回、寺子屋の学習において、それまで学習してきた手本を復習する「小浚」(こさらい)と一年に一回同じく一年間学習してきた手本を暗唱や暗書する「大浚」(おおさらい)が行われました。そして、これが「おさらい」として現在にも言葉として残っています。しかし、このような制度は必ずしもすべての寺子屋で実施されたものではないようです。また、このような試験を通じて、進級するというのも、当時等級制といった制度を取っていなかった寺子屋においては、成績は必要とはされていませんでした。あったとしても、成績優秀者に筆や紙、書物といったものくらいの賞品はあったようですが、これくらいの子どもの素朴な競争意識以外に競争へ子どもを追い立てる客観的なシステムは存在しませんでした。あくまで、「小浚」や「大浚」は子どもたちを選別するものではなく、個々の到達度を見るという極めて教育的配慮の行き届いたものだったのです。

 

寺子屋では、子どもの競争意識を向上心へとつながる工夫が行われていました。その一つが「角力書き」(すもうがき)や「数習い」(かずならい)でした。「角力書」は相撲のように東西に分かれた子どもたちが、行司役の師匠の呼び出しとともに本当の相撲のように登場し、見合って席につき、決められた文字を書きそれを師匠が判定するような取り組みです。「数習い」は選考に火をつけて、それが燃え尽きるまでどれほど多くの文字を正確に書くかを競う行事でした。

 

ほかにも毎年4月と8月の2回行われる「席書」では当日、師匠は裃(かみしも)の礼装用の着物を身にまとい、寺子も身分に応じて羽織袴などをきて、席について決められた文字を書き、それを寺子屋の四方の壁に貼り付けてお互いに品評し合うというものでした。これは現在の小学校でも行われるものですが、競争というより、子どもたち自身の評価する能力とそれに伴う向上心を発達させるという教育的効果を発揮するものでした。

 

これに似た行事が「書初」です。これは今でも行われている通り、正月に一年の計にふさわしい言葉を選んで字を書くことです。また1月25日には「天神講」が行われていました。この天神講ですが、これは学神として信仰の対象ともなっている菅原道真を祭り、「奉納天満天神」と書いて、学業の成就を願いました。7月7日の「七夕祭り」も、文字の品評のような要素があり、寺子たちが五色の色紙で様々な形をつくり、そこに師匠の徳を讃える言葉を記すとともに、学業成就の願いも書き添えて竹の枝に結び、その下で遊戯をしたりして過ごすという者でした。

 

こういった行事は子どもの能力を評価することやその能力の向上心を発達させるという教育効果だけではなく、師匠との親睦をはかる意味合いもあったそうです。それと共に、文字学習だけではなく、文字の背後にある社会観や倫理観もしくは宗教観を養い、それらを共有する場でもあったのです。

 

教科書

寺子屋で使用されていたテキストは「往来物」と呼ばれ、もともとは一対の往復書簡(特定の2人の人物の間でやり取りされた書簡を収録されたもの)を定型化してテキストに編集したもので、最古のテキストは平安時代の貴族である藤原明衡の手紙文から構成された『明衡往来』(めいごうおうらい)(『雲州消息』とも称され、十一世紀の祭礼や年中行事などをしるしたもの)があります。他にも鎌倉期になると『十二月往来』のように各月往復の手紙を24通選んで編集したものなどがあり、ここには貴族の日常的な生活習慣や年中行事などが掲載されていて、武家社会やその他の階層に貴族文化を浸透させる大きな役割を果たしました。他にも『釈氏往来』といった平安末期から鎌倉期に成立した、僧侶が宮中での役割を体得するために使われたもので、近世には朝廷仏事の知識を得るテキストや、『貴理師端往来』(きりしたんおうらい)といった日本人キリシタンの、信仰生活の心構えが書かれていたものなどがある。

 

十四世紀から十五世紀にかけて、文字学習が貴族階級から武家階級、さらに上層の農民や商人へと広がるにつれて、従来の手紙文という形式をかりながら単語の習得に配慮した『庭訓往来』が登場します。この『庭訓往来』はこれまでの貴族社会の生活や行事などから離れ、武家社会から農業、職人、商人に関わる実用的な内容が盛り込まれるようになりました。このように学習対象者は武家から庶民に拡大していくのです。この『庭訓往来』は室町時代に成立したのですが、これが江戸時代の寺子屋に用いられたということは新しい生活に密着した実用的な学習内容によるところが大きいのです。その後、江戸時代になると様々な工夫がされ、こういったテキストは単なる文字学びのテキストといった意味だけではなく、生活辞典としての機能もあわせもった形で編集されるものになってきます。

 

このように発展してきた「往来物」ですが、江戸時代には寺子屋や庶民の家庭で用いられるテキストとなり、実用性と生活重視を基本として編纂され始めます。そこでは地域性や職業又は男女別の内容を持つおびただしい往来物が出版されました。農村地帯では『農業往来』や『田舎往来』といった農地や農具の利用や穀物の栽培・耕作に関する知識や農民としての心構えといったもの。商業地域では商業に必要な用語で始まる『商売往来』や問屋の商業活動に必要な知識が書かれた『問屋往来』。漁村用には漁業に要求される文字や知識の書かれた『浜辺小児教種』や『舟方往来』。大工職には『大工註文往来』、左官職の『左官職往来』などがあり、有名どころで言うと十返舎一九による『万福百工往来』があり、度量衡に用いる道具や大工道具の用法などが書かれていました。

 

このように実に庶民の生活に密着したものであり、こういった職業のほかに地理や地誌に関するもの、たとえば日本全国の字名・村名・町名・国名といったものが書かれた『国尽』があり、有名なものと言えば滝沢馬琴の「国尽女文書」がある。他にも、江戸・京都・大坂をそれぞれ書いた『江戸往来』、『都名往来』『浪速往来』、これらはいずれも三都の諸行事や特質が庶民の目線で書かれています。また、東海道五十三次を主題として、七五調の「文字鎖」でつないだ『都路往来』などもあり、こういった往来物を基本とした多様な往来物が各地で編纂され敢行されました。庶民経済の成立と発展と共に、職業の多様化と都市間の人と物の移動が往来物の刊行を促し、各地の情報が往来物を通して学習されたのです。

 

これらを見ていると往来物というのは何も寺子屋だけではなく、庶民の中でも活用されていたのが分かります。そして、この往来物を子どもたちの生活を前提に編纂して、子どもの興味と関心を引き付けるための最大の努力と工夫をしたうえでテキストと活用し、子どもたちは自分のまわりにある社会を理解し、将来の職業について学んでいたのだと言います。

 

現在の教科書と往来物との大きな違いは庶民が「知りたいもの」または「知らせたい」内容を自分たちで編纂しているところが大きく違うと沖田氏は言います。そして、あくまで生活に根差した生活中心主義と実用主義を貫いているというのです。明治期においても「開化消息往来」や「世界国尽」といった往来物など多く編纂されたそうですが、文部省が学校教科書を検定から国定へと規制力を高めるにしたがって、無くなっていったそうです。

今と過去

近年では「落ちこぼれ」と言われる子どもたちが問題になっていると沖田氏は言っています。確かに「ケーキの切れない非行少年」の著書を書いた宮口氏も、「境界知能」と言われる子どもたちが学校の中で勉強についていけず、非行に走っているということを紹介していました。では、寺子屋ではどうだったのでしょうか。沖田氏は寺子屋は「落ちこぼれ」といった問題が起きにくい学習形態をとっていたといっています。それはどういったところからそう見えてくるのでしょうか。

 

沖田氏はその理由は教場の机の配置がそれを物語っているといっています。寺子屋で使用された机は一般に天神机といい、男机と女机に分かれ、さらに寸法によって大・中・小に分かれていたといいます。大机は高さ八寸(24㎝)、幅四尺五寸(136㎝)、奥行一尺五寸(45㎝)で、小机は高さ八寸、幅二尺五寸(75㎝)、奥行一尺(30㎝)となっています。女机だと大・中・小の奥行は男机の大・中・小と同じで、幅は男机の小と同じ、高さは男机よりも一寸低い七寸(21㎝)となっています。そこに両袖には筆が落ちないように「筆反し」が施されています。そして、寺子屋は多くは床が板敷なので、庶民でも高い階層の子弟の場合、座布団などの敷物を用いていた。そういった場合、一般的な机よりも五分(1,5㎝)ほど高い机を使っていたようです。

 

渡部崋山(一七九三~一八四一)の「一掃百態」などには、当時の寺子屋の勉強している情景が得がかられていますが、そこでは、今の時代のように、教師が生徒の前に立ち、生徒が列をなして対面しているということはありませんでした。基本的には子どもたち同士がそれぞれの天神机を子ども同士対面にして座り、師匠は全員の寺子が見通せる場に位置しているのが一般的であったのです。つまり、寺子屋では今日見られる「一斉授業」の形を取っていなかったのです。

 

この一斉授業つまり、教師が黒板を用いて、教科書を使い、教室の生徒全員に教えるという授業形態はこの頃は行われていなかったのです。この授業形態は明治になってから、欧米の教授法として導入されてきます。さらに、この一斉授業の形態であると、等級別にクラスが編成され、能力別にクラスを編成されることは非常に効率的な方法であった。しかし、その反面、学問や教育の中で、経済効率を追求するようになると、学問や教育から人間形成の要素が希薄になり、社会や経済に還元できる知識や情報の獲得という実学的観点だけが肥大化してくる。つまり、本質となる「人間形成」や「人格形成」の育成というよりも、情報伝達の効率化が優先されているのではないかというのです。沖田氏は寺子屋の学習形態を見ることは、今日の教育形態の短所に気づかされるというのです。

 

これは私も同様に感じることです。今の学習形態で求められている「主体性」や「自発性」、「人格形成」といったものは実は今の教育形態では育てにくいということが見えてきます。一斉授業による能力の区分や等級を分けるというのは情報の伝達の効率化としては効率がいいのでしょうが、結局ヒトをロボットのように情報を取り入れることが目的になってしまうところがあるのでしょう。つまり、これからの時代においてAIやロボットが人間の仕事の代替を行っていく中において、今後、このような一斉授業で培われた能力というのは意味のなさないものに成ってしまうかもしれません。人間形成や人格形成といった本質的なものを育てることにおいて、過去の寺子屋などの学習体系を知ることはとても有意義なことであると感じます。

寺子屋の実態

寺子屋の学習形態は今のように国が管理するというものではなく、経営者によって多種多様であったそうです。江戸時代の寺子屋教育では、毎日の課業は「7ツ習ヒ」と称して、「五ツ時」(現在の午前七時半ごろ)から「八ツ時」(現在の午後二時半ごろ)までの七時間ほどが当てられました。そして、寺子屋から帰宅する下校時間を「御八ツ」と称して、子どもたちが空腹のまま帰宅して、夕食までの間に間食をとることになり、これが「おやつ」と呼ぶ習わしとなったそうです。しかし、すべての寺子屋が「八ツ時」まで授業をしたわけではないと言います。午後からは女性であれば琴や三絃(三味線)、裁縫などを師匠について学ぶこともありました。男子の場合は午前中の「手習い」つまり読み書きのほかに、午後からそろばんの教授を行うといった寺子屋もあったようです。そのほかにも、農村地帯の寺子屋では、農繁期になると「朝習い」と称して、早朝や夜に手習いの時間を当てたところもあったようです。

 

このように寺子屋のある地域の環境によっても、学習の時間は違っていたり、それは休日もまちまちでありました。基本的に休日は毎月の朔日(1日)と「五の日」(五日・十五日・二十五日)に、または六日に一度の割合で休日を設けていました。このほかにも五節句などの伝統的な祝日も寺子屋の休業日とされていて、これらの休業日を差し引くと、少ないところで二五~六十日、多いところで三〇〇日が寺子屋の授業日数であったということになります。

 

寺子屋の学習風景に関して、高井浩氏の「天保期、少年少女の教養形成過程の研究」には上州桐生で買次商を営む田村林兵衛の妻田村梶子が文化十二年(一八一五)に開業した「松声堂」に入門した八歳の姉のいとと四歳下の弟の元次郎をとおして書いています。そこでは100名ほどの八、九歳~十三、四歳までの男女を共学で教授していました。

 

ここでは入学のことを「登山」とよび、まだ寺院教育が残っているような寺子屋です。学習の中心は「手習い」であり、和歌や和文なども教授されていた。また、いとは女性であったこともあり、行儀作法のしつけがとりわけ厳格であったことが記されてあります。また、いとの生家に残されていたテキストを見ると、それらはいずれも師匠の梶子が筆写したものであったそうです。地方の寺子屋では、必ずしもテキストがそのまま教えられていたわけではなく、寺子の生活環境に応じて、師匠がテキストを編纂していたようです。

 

いとの弟の元次郎は九歳になった天保七年(一八三六)二月に松声堂に登山しました。登山日には親子ともども晴着を身にまとい、師匠の前にでて束脩(金や飲食物)を差し出し、入門の儀式を行いました。そして、その時、師匠直筆の「いろはにほへと」の四八文字が書かれた大判の折手本を与えられるのです。このとき使われていたテキストのリストを見ていくと「古今和歌集」を除いて、そのほとんどが生活中心の実用性を重んじたものでありました。

 

また、元次郎は入門した年の十月に素読塾にも入門します。そこでは漢詩文や四書(論語・孟子・大学・中庸)を学んでいました。これは元次郎が上州桐生の裕福な商家に生まれ、一定の社会階層の師弟には、寺子屋で学ぶ実用的な学習だけではなく、それを支える教養の習得にまで務めていたことが分かります。

 

まさに、その子どもの将来に向けて、それぞれにあった教育を行っているのです。このことについて沖田氏は「近年、学校での学習についていけないいわゆる『落ちこぼれ』と称される子どもたちが問題になっている。『落ちこぼれ』か『落ちこぼし』かは議論の分かれるところであるが、いつの時代にも、子どもたちの学習の発達度の違いと、能力の差異は当然存在したと考えられる」と言っています。

 

「落ちこぼれ」という言葉は非常に問題になりますし、やはりこの言葉を見ると「ケーキの切れない非行少年」の書籍を思い出します。寺子屋は学問を教えるところですが、その学問のあり方は常に社会に向けたものという明確な目標がはっきりしているように思います。このように見ていると、今求められている「多様性」というのはこの時代には保障されていたのだろうということが見えてきます。