麴町中学校の工藤氏は宿題の全廃を行っていますが、宿題の意義を見直すと果たして宿題自体が必要なものなのか、教員自体が子どもたちを評価するための尺度というのも珍しくない中でそれでいいのかと言っています。そして、宿題をするために机に座っていることに保護者は安心するが、本当に大切なのは「勉強時間よりも勉強の中身」であり、自律的に学ぶ経験を積まないと決して工夫して仕事ができる人にはならないと言います。そして、「もっといえば、私は学校でしっかりと勉強をして、家では、好きな音楽を聴いたり、本を読んだり、スポーツをしたり、あるいは、ぼんやりと思索する時間のほうがよほど有意義だと思っています。そうした時間の中で、自分自身の内面や思考が整理され、大切なことにきづいたり、思いついたりすることはたくさんあるに違いありません」とあります。
宿題を全廃したことに一番喜んだのは受験を控えた3年生だそうです。それは「負担が減った」のではなく、自分には重要ではない非効率な作業から解放されたからであり、自分の時間を自分の考えで使えることの大切さを生徒たちは敏感に感じ取ったのではないかというのです。もしそうなのであれば、教員の望んでやらせようとしていることはまったくもって生徒たちのニーズとはミスマッチしているということになるのでしょう。そのうえで、もしそれでも宿題を出したい教員がいたら、生徒たちに「すでに十分にできる問題はやらせちゃだめだよ。よくわからない問題に頑張ってトライしてくるんだよ」と伝えるべきだというのです。それは学習は「できない問題」を「できるよう」にするプロセスでないと意味がないからなのです。そして、何より重要なのは「学校の中で学習してきたことを理解できるようにすることであり、生徒が主体的に学ぼうとする仕組みを整えることです。そのために自ら自律的に学ぶ姿勢を奪わないようにしなければいけないのです。
保育をする上で様々な活動を行っていきますが、そのとき保育者は「今、子どもたちはどんなものに興味があるのだろうか?」「子どもたちにとってこれから提案する活動を楽しんでくれるだろうか?」いつも自問自答しながら子どもたちと向き合っているのですが、それが一本道であると結局「させなければできない子」を産んでしまう危険性があります。しかし、その中でもやはり先生がおしえなければいけないことは多くあります。だからこそ、選択する自由の幅は必要なのだと改めて思います。子どもたちのやってみたいと自分から主体的に思えるように近づける活動が求められていくのだと思います。そして、それは社会につながる力になるのは間違いないように思います。
2019年8月10日 5:01 PM |
カテゴリー:教育 |
投稿者名:Tomoki Murahashi
麴町中学校でははじめ工藤氏が校長で赴任した当時、宿題の多さに驚いたそうです。そして、その後、段階的に宿題を無くしていき、4年を迎えるころに「全廃」に至りました。
当初は宿題の全廃には一部疑問を持ち、抵抗感を出す教員もいたそうです。そう言った教員の方に工藤氏は「批判や誤解を恐れずに言えば、教員が宿題を出すのは子どもたちの『関心・意欲・態度』を測り、評価(通知表)の資料とするためではないですか。もっと私たちは専門性を発揮しないといけない」と説明したそうです。そして、この問題には一つの流れがあるといい。そもそも「評価」が、かつての相対評価から絶対評価へと変わっており、その中で「関心・意欲・態度」という観点別評価を行うようになっています。通知表には、学習の理解度・到達度だけではなく、学習に対する「関心・意欲・態度」は目に見えない尺度だけに、評価するのが難しいものです。そのため、宿題の提出量や授業中の挙手回数などをカウントし、それを評価に活用していることは珍しくありません。
本来であれば、そうした数字に頼らず、子どもの成長や可能性を読み取るのが専門職たる教師の役割です。と言っています。そして、宿題のために学習机に向かうことで保護者は安心はするが、本当に大切なのは勉強時間よりも勉強内容であり、自律的に学ぶ経験をつけないと、決して工夫して仕事をする人にはならないと言っています。
「関心・意欲・態度」は保育においては「心情・意欲・態度」です。その本質を知ると決してその活動そのものに意図はないのです。「その活動で何を意図するか」のほうが大切なのです。中学校でこのことを行うのはとても容易なことではなかったのですが、多様な社会の中で生きていくためには、その中心となる意図をシンプルに考えることはとても必要とされているように感じます。やはり意図や理念、先の見通しといったものを意識することは大切です。
2019年8月9日 5:00 PM |
カテゴリー:乳幼児教育, 教育 |
投稿者名:Tomoki Murahashi
麴町中学校では現在宿題の全廃が行われているのですが、そのプロセスは工藤氏が純粋の子どもたちの様子を見て感じたところから始まります。そもそも宿題の目的は多くの学校関係者や保護者にとって「子どもの学力を高めること」「学習習慣をつけるもの」と答える人が多いと思われますが、ではその目的は達成されているでしょうか。というのです。そして、生徒の実態を思い浮かべてみると、勉強ができる子はすでに解ける問題から、あっという間に片づけてしまい。勉強が苦手やわからない子は解ける問題だけ解き、解けない問題はそのままにして翌日、提出することが多くなります。
本来の「学力を高めること」や「学習習慣(自ら学習に向かう力)」をつけるためには、自分が「分からない」問題を「分かる」ようにするプロセスが必要ですが、宿題にはそれが欠けているのです。わかる子どもには無駄な作業で、分からない子には重荷になっているというのです。そして、教師は宿題を出すのであれば「分からないところをやっておいで」と声を掛けなければそもそもの宿題の目的は達成できないのです。
工藤氏は「分からない」ことが「分かる」ようになるためには2つの作業が必要と言っています。一つは分からないことを聞いたり、調べたりすること。二つ目はそれを繰り返すことで定着させることです。そして、定着させるためには書き写したり、読んだり、集中して聞いたり、何かと何かを関連付けて覚えたりなどの方法があります。何より大切なのは自分の特性に合った方法を見つけることであると言います。
保育の中での活動で考えてみると、同じような状況はよくあります。子どもが作品を作っている中、やりたくなかったり、苦手な子どもがいたときにその子にどう介入するかはとても難しい問題です。以前、私が実習生だったころ、責任実習の折り紙でどうしてもやりたくない子がいました。泣き叫びながら嫌がるのですが、先生は何とか声を掛けるように言われたので、その子につきながら、ほとんど私が作り、その子は折り紙に触る程度でした。結果、全員折り紙は作ったのですが、その後その活動はやりたかった子はいいが、その泣いていた子に対しては一体どういった学びになったのだろうかと疑問に思いました。ともすれば、もしかしたら、得意な子はつまらなかったかもしれません。結果、その活動は苦手な子には重荷になってしまっていました。しかし、その活動はその子にとってはあまり意味のなさないものになっていたように思います。そして、その時に、同じクラスでも「やりたい子」と「そうではない子」がいたり、「得意な子」「苦手な子」がいるということを感じましたし、1本道の活動はこういった子どもが出てくるということを感じました。
現在、「選択制」で制作をするようになりましたが、それは麴町中学校の宿題の取り組みと同じような発想だと改めて感じます。そして、自由遊びは活動の中で行ったことをよりふかく遊び込める瞬間じゃないかと思っています。そして、それが意欲につながっていくのではないかと感じます。制作活動をすることだけではなく、その後の自由遊びも同時に大切であるということが分かります。そのための環境であり、幼児は特に幅が広い保育や環境を作ることが求められるということがよくわかりますし、乳幼児においても、中学生においても人が学ぶことのプロセスはそれほど大きく変わらないということを感じます。
2019年8月8日 5:00 PM |
カテゴリー:教育 |
投稿者名:Tomoki Murahashi
保育を行っていても、いつの間にか始めは子どもたちがやりたいものややってみたいものから始まった活動や作品作りでも、それがいつのまにか「去年やっていたから」とかいつしかそれが「伝統」という形をなしていくことがあります。そうなってくるとそのもの自体が「やらなければいけないこと」になってきます。
こういったことに対して工藤氏は著書「学校の当たり前をやめた」の中で現在の教育において「手とり足取り丁寧に教え、壁に当たれば過ぎに手を差し伸べる。喧嘩や対立がおきれば、担任が仲裁にはいり、仲直りまで仲介する。そうして手厚く育て挙げられた子どもたちは、自ら考え、判断、決定、行動できず、「自律」できないまま、大人になっていきます。」と言っています。
それは結果として大人になってから、何か壁にぶつかると「会社がわるい」「国が悪い」と誰かのせいにするような大人になると言っています。そして、それは学校教育の根本に問題があり、それが「手段が目的化」してしまっているからだと言っています。
「例えば国が示す学習指導要領は、大綱的基準にすぎないのですが、多くの教員はこれを「絶対的基準」と考えがちです。その実、学習指導要領を読み込んでいるわけでもなく、教科書に従って授業をしている教員が大半である。つまり、子どもたちに必要な力をつけるための「手段」であるはずの学習指導要領が「目的」となり、消化してこなす対象となってしまっているのである。」というのです。そして、工藤氏は「目的と手段を見直し、学校をリデザインするといった改革を始めます。それは「目的の本質を見極め、適切な手段を考え抜いてきたことを長い教員生活の中で感じてこられたからであるのです。そして「学校教育は多くの法令等で規定され、廃止することができない部分もあるが、大半の部分は、法令よりも「慣例」によって動いているだけで、校長が覚悟をもって、自らの学校が置かれてた立場で何が必要かを真剣に考え抜くことができればいくらでも工夫できる。」というかんがえのもの教育内容を変化させているそうです。
これらの話を聞いていてもすべては生徒が「社会の中でよりよく生きていけるようにする」ことが意識されているのを感じます。私は保育をしているうえで、上記の工藤氏の話は学習指導要領を幼稚園教育要領や保育所保育指針、幼保連携型こども園教育・保育要領に置き換えれると思っています。そして、常々「理念なき教育はない」とも思っていますし、理念は学校ではなく、社会を見据えたものでなければいけないと思っています。そして、目的があるからこそ手段を行使します。手段だけがあって目的がないのは、英語が喋れても、喋る機会がないのと変わらないのではないかと思います。いくら勉強ができてもそれを生かせなければいけません。特に乳幼児教育は成績がないだけによりその本質を見つめなければいけないのではないかと感じています。
2019年8月7日 5:00 PM |
カテゴリー:乳幼児教育, 教育 |
投稿者名:Tomoki Murahashi
工藤勇一 氏の著書「学校の当たり前をやめた。」という本を読んでいますが、そこで言われていることが今注目されています。何が注目されているのかというとそのが1つは取り組みがこれまでにないもので「服装頭髪指導を行わない」「宿題を出さない」「中間、期末テストの廃止」「固定担任制の廃止」と言ったことです。これまでの当たり前に行われていた学校教育の行い方とは真逆であり、むしろ、今まで大事だと言われたことと真逆なことが行われています。しかし、その内容をよく見てみれば、今の保育と共通することがたくさんあり、とても考えさせられます。
なによりもその取り組みもさることながら、この取り組みに至るまでの考えが非常に見守る保育に似ているのです。それは「目標と目的を取り違えないこと」「上位目標を忘れない」「自律のための教育を大切にする」ということです。こうしたいくつかの基本的な考え方を大切にして多くの「当たり前」とされてきたことについて見直してきたと千代田区立麴町中学校校長の工藤勇一氏は言います。
特に「目的と手段ー学校とはなんのためにあるのか」ということに関しては強く問題提起しています。多くの学校では宿題や定期考査に向けて、学習に励んでいます。そして、教育は学習指導要領に基づき、一人一人の学力を伸ばそうと、手厚い指導を行っています。教室には「みんな仲良く」などの目標が掲げられ、学級担任の指導のもと、「和」を重んじた学級経営が行われています。しかし、この当たり前のような学校のようすでさえ、工藤氏は疑問を持たれています。というのも、工藤氏は「学校はなんのためにあるのか」それは、「学校は子どもたちが社会の中でよりよく生きていけるようにする」ためにあると考えています」というのです。続けて「そのためには子どもたちは「自ら考え、自ら判断し、自ら決定し、自ら行動する資質」すなわち「自律」する力を身につけさせていく必要があります。社会がますます目まぐるしく変化する今だからこそ、私はこの「教育の原点」に立ち返らないといけないと考えています。」と言っています。
このことは保育をしていても同じように感じます。保育に置き換えていくと多くの幼稚園や保育園では先生が設定する作品作りや活動を行って、時に自由な遊びをしながら遊んでいます。そして、小学校に向けて5歳児は文字の練習や園によっては英語の始まりなども行っていますが、私は乳幼児も工藤氏が言うことと同じように「社会の中でよりよく生きていけるようにする」ということに関しては同じ目標であると考えています。そして、「自ら考え、自ら判断し、自ら決定し、自ら行動する資質」すなわち「自律」する力を身につける。ということに関しても全く同じであり、学校教育においても乳幼児教育に関しても「教育の原点」とは同じ目標であると感じています。そして、今後の子どもたちが生きていくであろう未来の社会に向かうためには「教育の原点」に返らなければいけないというのは乳幼児教育からなのだと思います。
そして、工藤氏は「学校をリ・デザイン」していくと言っていますが、それはどのようなことを言うのでしょうか。
2019年8月6日 5:00 PM |
カテゴリー:乳幼児教育, 教育 |
投稿者名:Tomoki Murahashi
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