昔の学び

柳田国男氏の「こども風土記」には昔の子どもたちの生き生きとした様子が書かれています。本の中には子どもたちの遊びの様子から、子どもたちが大人から見てどのように育てられたのか、面白い視点で書かれています。

 

その中で、子どもたちの遊戯の考案や伝承について書かれているのですが、昔の親たちは子どもたちに遊戯の考案や伝承はまるで行っていなかったと言います。しかし、それが子どもたちを寂しくさせることもなく、元気に精いっぱい遊んで大きくなっていたことは、不審に思うことがないと言われ、前代の児童文化は今とよっぽど違うと言っています。そして、その特徴は三つあると言います。

 

一つは小学校などの年齢別制度と比べて、年上の子どもが世話を焼く場合が多かった。

子どもたちは年上の子どもとの関りによって自分たちの成長を意識し、悦んでその任務に服したのみならず、一方小さい方でも早くその仲間に加わろうととして意気込んでいたといいます。そして、この心理は今日ではもう衰えかけているが、これが古い日本の遊戯法を引き継ぎやすく、また忘れがたくした一つの力であって、おかげでいろいろの珍しものの伝わっていることを大人も感謝していると柳田氏は言います。

 

今の子どもたちも異年齢で過ごしていると様々なやりとりを見せてくれます。世話をする子どもたちもいれば、対等に話す子ども同士の関係性もあります。しかし、そこにはしっかりと子どもたちの社会があり、やり取りを学んでいます。なによりも、自信がない子どもほど、世話を焼くのが上手であるのを見ていると、異年齢での関りの中で、自分なりに自分を生かす場所を見つけているように見えます。そして、それだけではなく、年長児のこどもの遊びを見ている子どもたちが自然と真似をしている様子を見ることがあります。

 

人が学ぶといったプロセスにおいて「模倣」というものはとても重要なものです。「教育」というとどうしても「大人からこどもにむけて」を想像しますが、それ以上に子ども同士のやりとりにこそ、学びが多くあります。柳田氏は「衰えかけている」と表現していますが、そうではなく「そういった環境が無くなってきている」というのが適しているように思います。元々持っている力を引き出せない環境があるのかもしれません。大人が教えるよりも、子ども同士が刺激しながら学び合う姿にこそ、これからの社会の力を感じます。

民族性の今と昔

「日本人にとっての未来は子供であった。」と以前、宮本常一氏の紹介の中で日本の子ども観で話が出ていましたが、宮本氏は日本は子どもを大切にする気風が一般的にあり、「子供本位」であるということを「日本の子ども達」の中で紹介しているとあります。

 

その著書の中で宮本氏は「子供本位家族呼称」ということに着目しています。「日本の部落社会では、人を呼ぶのに、その姓や屋号をいうこともあり、また、名を呼ぶこともあるが、それ以外にその家の小さい子どもを中心にして呼ぶ呼び方がある。たとえば幸一という子どもができるとすると、その父は、それまではただの名前だけでよばれるか、名字のみを呼ばれていたのだが、「幸一のお父さん」と一般に呼ばれるようになる。」つまり、家庭内にも外にも子どもを中心として名前を呼ぶ呼び方があると言います。こういった日常の中で何気なく口にしている話し方一つとっても、日本では子どもを中心にしている文化というのが見えてきます。

 

もちろん、そうは言っても、貧しさのあまり家の犠牲にされていた子どもたちが大勢いたことも確かです。貧しさのために子どもを売り、工場などで働かせていました。明治~大正にかけての工場にはたいてい少年工がいたと宮本氏は言います。しかし、宮本氏はこうも書いています「いちがいに子どもが大切にされていたとはいえないが、本質的には子どもは大切にされるべきものとの考え方はあった。お互いにわかっておりつつ、虐待される子どもの多かったことに、人々の目ざめのおくれや、社会全体の貧しさからくる社会悪が見られるのである。さて、もともと子どもが神聖視され、尊ばれたものであることは、子どもと祭り行事の関係を見てゆくとあきらかになる」このことをうけ、藤森氏は「子供への虐待が後を絶ちませんが、どうも、最近の子供虐待は当時の虐待とは少し違うようですね。」と言っています。

 

虐待は保育の仕事をしていると決して遠い話ではなく、実に身近にある話です。私の感覚であると、「体罰」は今よりも昔のほうがずっとあったと思います。体罰は当然してはいけません。子どもたちのモデルとなるためにはそれよりも対話や会話での解決がより社会では必要になってきますので、暴力で問題は解決しないということを伝えなければいけません。ただ、昔と今とを比べると「日本人にとっての未来は子供であった。」という感覚は違ってきているようにも思います。親の思ったように子どもを育てるということは果たして未来につながるのだろうか。今の社会は物が豊かになり、便利になっています。しかし、日本の子ども達の貧困が問題にもなっています。便利でモノがあふれているのに貧困といった矛盾の裏にはもっと重要なものが隠れているように感じます。

人形文化

宮本は人形にも注目しています。「近頃、都会の玩具店や、土産店にたくさん並べて、人気のあるこけしは、もともと東北地方の木地師たちがつくって温泉地の土産として売ったものである。木地師たちは椀や盆を作るのがその主業であったが、その余った木屑で、人形をつくったのである。コケシというのは、木屑を意味する言葉のようであり、西日本にもあった。つまりロクロをつかって木地ものをつくるところでは、そうした人形を子どもたちのためにつくる風習があったのであろう。その人形をオボコともネブリコともいっている」

 

日本における「人形」というものを考えると一番にコケシが出てきます。このことを受けて藤森氏は「子どものころ、コケシは旅行のお土産の定番で、家には日本各地の大小さまざまなこけしがケースの中に所狭しと並べられていました。そして、その形は、顔が少しずつ違っていました。今の子どもたちは(コケシではなく)人形をもって遊ぶことが多いようです。子どもが人形をもって遊ぶというのは世界共通なのでしょうか。ドイツでも人気です。」と言っています。

 

柳田国男氏の「こども風土記」には「買うて与える玩具、これが現今の玩具流行のもとで、形には奇抜なモノがおおく、小児の想像力を養うには十分であったが、いかんせん、そういう喜びを味わう折が以前は極めて少なかったのである」つまり買い与える玩具の一つが「おみやげ」だったのですね。そして、「あんなオシャブリのような小さな玩具でも、やはり最初は、御宮笥(おみやげ)であり、すなわち日本人の信仰からうまれて、発達したものだったということである。」とあります。そして、コケシもその一つであったのでしょう。

 

この人形の信仰について、宮本氏は「もともと人形は神の依代(よりしろ)としてつくられたり、人間の災厄をはらうときに用いる。形代としてつくられたのが起源であろうが、こういうものが子どものモチアソビになっていた歴史は極めて古いと思われ、ヒイナ遊びのごときは、平安時代以来の文献にしばしば見えるところであり、それが3月3日に行われるもとは決まっていなかった。そして、今日ではヒイナ遊びとよばず、ヒナ祭りというようになってしまって、モチアソビとは違ったものにまでなっている」元々のお雛様も子どもたちのモチアソビやネブリコといった弄びものから始まったのが、いつのまにか高価になり、見るだけのものになってきたのですね。

民俗学から見る玩具

宮本氏の著書「日本の子供達」には玩具に関するこんな記述もあります。「子どもの成長にともなって、耳からだけでなく、目や動作を通じての教育が行われる。その中で重要な役割をはたしたものは、オモチャである。オモチャはモチアソビという言葉に敬語のオがつき、語尾が省略されてできたことばであり、田舎ではいまもモチアソビとか、モチヤソビとか言っているところがある。そして、内容的には、大人の用具模型、または子どもたちのみの遊び用具をオモチャと言ってる」そして、「そのはじめのモチアソビは、きわめて素朴なもので、親たちが作って与えたもののほかに、子どもたち自身で作ったものも少なくなかった」とあります。

 

このことを藤森平司氏は「大人の用具の模型・親たちが作って与えたものというのは、例えば、おひなさまのような、生活に根差した伝承文化から生まれたものだったでしょう。対して子どもが作り出すものはどんなものだったのでしょうか?おそらくそれは、その時期の子どもが興味あるもの・その時期の(それを作った子自身の)発達を促すものであったのではないかと思います。それは身の回りのものから工夫して手作りされたとても素朴なモノでした。しかし、作り手(使い手)のその時期の発達を促す重要な役割を果たしてきたのです。」と言われています。

 

幼稚園や保育園の現場においても、こういったオモチャというものは置かれていますし、子どもたち自ら作っています。当然その手法や発想は発達によってさまざまな色が出てきていますが、こういった創造するプロセスこそが子どもたちにとって重要な役割をもっていたということがわかります。

 

また、柳田国男氏の「こども風土記」には「モチヤソビの語にオを付けたものに違いない。」としたうえで「その弄び(もてあそび)ものを土地によっては、テムズリともワルサモノともいって、これだけは実は母や姉の喜ばぬ玩具であった。もっともふつうに使われるのは物差しとか箆(へら)の類、時としては鋏や針などまで持ち出す子があって、危ないばかりか、無くしたり損じたりするので、どこに家でもそれを警戒した」とあります。つまり、子どもたちが家にあるものを玩具にしていて、それを無くすために代わりのものを渡したものがおもちゃの起源でもあると言っています。そうした、小さな籠や箒などを与えてもらうことで、成人と同格になったと思ってそれを喜んでいたようです。ここにも「模倣-工夫―創造」が隠れていますね。このように子どもたちが大人と同じものを使ったり、手伝ったりすることを喜ぶ姿は保育の中でもあります。そこからオモチャは生まれてきたのですね。

日本人観

ジャレド・ダイアモンド氏は著者の中で伝統的社会の紹介をしていき、その中伝統的社会で行われて育児方法を取り入れるように提案していました。では、日本の子ども観というものはどういったものがあったのでしょうか。

 

藤森平司氏の著書「保育の起源」の中に、日本の子どもに関する民族学的研究者の宮本常一氏の著書「日本の子どもたち」を紹介しています。そして、この本の「はしがき」には「古い時代から日本の国民は貧しかった。中背の終わり頃、日本を訪れたキリシタンのパードレたちもそのことを書いている。しかし、人々はその貧しさによごれまいとして、心だけは高く清いものにしようと努力した。戦国騒乱の世の中でありつつ庶民はうそをつかず、ものを盗まないと異邦人たちは感嘆して書いてある」と日本のすばらしさを書いています。この表現はおそらく近代まで日本を訪れた外国人の日本人観の要約といっていいでしょうと藤森氏は言います。

 

そして、日本の子ども観については宮本氏は「子どもたちのしつけの中で重要視されたのは、この清潔にして貧乏にまけない意欲であった。だから貧乏さえが魅力だった。」「日本人にとっての未来は子供であった。自らの志がおこなえなければ、子供に具現してもらおうとする意欲があった。子どもたちにも、またけなげな心構えと努力があった」「子どもたちも過去から現在へ一貫して模倣―工夫―創造を、そのあそびやまつりや、仕事の中に繰り返しつつ成長しているのであって、しかしそれが親と子どものつながり、大人と子どものつながり、子ども同士のつながり、学校と子どものつながりなどによって、子ども自身が人格として形成されていく。このような関連を環境と名づけるのであれば、ただ、組織的でなかったために、不幸なものが周囲にはみ出しがちだったし、学校と一般社会の融合に長い年月を要した」と宮崎氏は言っています。

 

外国人の日本人観においても、日本の子ども観においても、日本人は貧しくとも心だけは高く清いものにしようと努力することや清潔にして貧乏にまけない意欲といったように志高く生きようとした力強い生命力がある民族性がそこにはあったのですね。藤森氏は子ども観の紹介の中で「子どもを思う親の心は今でも変わりません。しかし、未来を見る力、何が子どもにとって必要なのかを見る力が衰えてきた気がします」と言っています。確かに、この頃に比べ、今の時代が「未来はこども」といったような言葉は聞いても、環境が果たして、そうなっているのかと考えてしまいます。

 

そして、様々な人との関わりのなかで成長し人格が形成されていくといった中で、「模倣―工夫―創造」というプロセスの大切さを宮本氏は言っています。この学びのプロセスが教育現場でどのように実現していかなければいけないのか、それが実現できるような環境や活動とはどういったものであるべきなのか。日本の「そもそも」から学ぶことは多いですね。