脳と社会、そして学び

「自分たちの脳を知るのは社会を知ること」と言っている北澤氏ですが、「すべてにおいて完璧な脳はありません。男女だけではなくだれでも脳に違いがあり、どこかに得意、不得意がある。それが様々な才能、ダイナミックな社会につながっている。社会の根底には脳があります。よりよい社会を作るには自分の脳を知ることが大事だと思います」とまとめています。藤森氏はこの言葉を受けて「この言葉を『脳』という生理学的な表現ではなく、『特性』『個性』に置き換えてみると言い」と言っています。「子どもは、必ずどこかに得意・不得意があります。それが様々な才能、ダイナミックな社会につながっていきます。社会の根底を人それぞれの特性が支えています。よりよい社会をつくるには、我が子の特性を知り、それを生かすことが大事だと思います」と言い換えています。

 

「脳の特性によって得意・不得意があり、それがあるからこそ、ダイナミックな社会になる。」このことは子どもに限らず、人の集団というのはそういうものなのかもしれません。全員が同じ特性や同じ個性を持っているとおそらく人間や生物は生き残ってこれなかっただろうと思います。人間は集落をつくり、そこで知恵を出し合ったことで生き残ってこれたのです。そこには当然得手不得手があったでしょうし、補い合いながら社会を作ってきたことで人は生き残れてこれたのです。

 

また、藤森氏はジャーナリストでノンフィクション作家でもある立花隆さんが朝日新聞のエンターテイメント「どらく」でシニア世代が学ぶことの意義について話したことを紹介しています。そこでは「そもそも『学びたい』というのは人間の本能です。学びたい動物なのです。古代ギリシャの哲学者アリストテレスは〈人間は生まれながらにして知ることを欲している〉と『形而上学』の冒頭に書いています。人間だけじゃない。あらゆる生物にとって、〈知りたい〉は本能なのです」と言っています。そして、「生きていくということは、自分の周辺世界がどういうものなのかを学び続けることなのです。学ぶ意欲がなくなったら、生物は生きていけなくなるのです。人間の場合、学ぶ意欲がなくなった人は、死んだも同然の状態にあると言っていいんじゃないですか」と語っていたそうです。

 

子どもたちを見ていると「なんでも自分でしてみたい」という意欲がある様子がとても見られます。そして、お手伝いの行動は率先してやろうとします。その様子は意欲というものもあるのでしょうが、自分がどこまでできて、どこまでができないのかと試しているようにも見えます。こうやって、やってみたり、できなかったりする、トライ&エラーを繰り返すことで体験を通して学んでいるのです。「学ぶ意欲が亡くなった人は死んだも同然」というのは子どもたちを見ているとよくわかります。その反面、では保育環境の中でどういった環境を作ることがそれにつながるのかということも同時に感じるのです。保育の中で「心情・意欲・態度」ということはとても重要になってくる言葉ではあります。そして、そのためには「環境を通して」ということが重要と書かれています。「やってほしい」という大人の意見を子どもに押し付けるのは結果として子どもたちの意欲にはつながらないと言います。結局のところ、子どもたちの学ぼうとする意欲を信じ、大人は真心を持って接すること必要になってくるのでしょうね。あくまで子どもが主体であることが結果として本来の学びにつながるのだと思います。

新生児社会性

赤ちゃんは生まれてすぐの新生児でも、他の赤ちゃんの存在を意識し、微笑み合おうとします。生まれてすぐに歩くような動作をする原始歩行や新生児模倣という行為のように、それを「新生児社会性」と言ってもいい行為ではないかと藤森氏は言います。そして、それはヒトが社会を形成して生き抜いてきた種であり、遺伝子の中に社会を形成するものをもって生まれるからなのです。

 

しかし、他の行為同様、新生児社会性といったものはすぐにやめてしまいます。それはその後、意識して、心情、意欲をもってその行為を行うための準備をはじめるからです。そして、そのための環境が整っていれば、社会を意図して関係を構築しようとし始めます。ですから、私たちは子どもたちが社会性を獲得することができるような環境を用意しなければならないのです。それには決して、母子だけしか存在していないような家庭ではなく、広い社会での経験が必要になります。同時にその経験は、まだ権威からの影響を受けない、権威に依存しようとしない乳児期から必要だと思います。3歳からではすでに「先生」という権威を感じ始めているような気がするのです。

 

この権威を感じ始めるというのは、たとえば強いストレスを受ける環境下では、脳が後天的に獲得した倫理観や行動規範はすっかり剥げ落ち、無責任に環境や状況が求めるままの振る舞いに陥ってしまう危険性を持っているというのです。いじめから派閥抗争までこういったことは人の集まるところで必ず生じてしまう不幸な事態は、人間の脳の構造的な問題を根源に持っているというのです。そして、そのような状況において、加害者は虐待の意識が生まれにくく、被害者は声を上げにくいというのです。

 

こういった権威における行動抑制は後天的に獲得されていると言われています。そして、そこで獲得される行動規範はその個体が所属する文化的バックグラウンドの影響を強く受けるそうです。そのため、権威に依存しない乳児期から広い社会の中での経験というものが重要になるというのです。

 

乳児期の期間、赤ちゃんはまだまだ「何もできない存在」ということが言われ続けています。しかし、実際の現場の赤ちゃんを見ていても、目を合わせると笑いますし、他児が遊んでいるのを見ている中で、模倣することや試してみる活動を行っています。そこには確かに社会があります。乳児期の権威に依存しない期間のうちに行う社会的な関わりが今の少子高齢化社会ではこういった環境が作れなくなっているのです。子どもの社会性は赤ちゃんから始まっているということを意識していかなければいけませんね。

社会脳と幸せ

藤森平司氏は脳科学者 藤井直敬の著書「ソーシャルブレインズ入門―〈社会脳〉って何だろう」の中で、「ソーシャルブレインズ研究は人を幸せにするか?」という章を紹介しています。そこには「がっかりさせてしまうかもしれませんが、脳科学が私たち個人を直接幸せにすることはできません。お金や社会的地位がヒトを幸せにできないように、脳科学の知見が私たちを変えることはありません」と言っています。

 

そして、このような例を出しています。「たとえば、記憶力を増大させる秘訣を教わったとしても、受験生でもない限りそれを生かすことはできませんし、そもそもいまどき、大量の知識を覚えるために時間を使うくらいなら、その時間を他のことに使って、困ったときには携帯で検索すればよいからです。」実際に社会に出てからの記憶力というものはそれほど重要ではないように思います。携帯やスマートフォンといったツールが出てきている中、それらで検索するほうがよほど大量な情報が手に入りますし、より正確です。そして、こういった考え方はこれ下の教育に対してある示唆をしているようだと藤森氏は言います。

 

また、こんな観点からの指摘もあると言っています。「もし脳科学が天才を作る秘密を明らかにするとしたら、そのおかげで天才になった人やその家族は幸せになるのでしょうか?天才の障害やその家族の話を見聞きするにつけ、あまりそうとも思えません。どうも個人の幸せは、そのような目に見える卓越した能力とは関係ないように思いえるのです」彼のいう言葉は脳科学における研究が個人を直接幸せにするかというだけではなく、私たちが何のために学問をするのか?なぜ、子どもたちに勉強を強いるのか?ということを問うている気がすると藤森氏は言います。そして、脳科学の研究は、私たちが普段何の疑問も持たずに漠然ととらえている人間の倫理というものも、かなりつかみどころのないもののようです。と言っています。

 

脳科学の研究を見ていく中で、今の保育と照らし合わせていくと、教育のあり方の様々な矛盾点を感じます。教育の中心となる目的は「社会に向けた資質を備えた人材の育成」にあり、その「社会に向けた資質」というものが果たして「学校の成績」とイコールなのでしょうか。幸せと成績はイコールなのでしょうか。幸せや社会というものはもしかしたら他のところにあるのかもしえれません。脳科学の研究を通して見るとヒトの本来の能力や本質的な部分が見えてきます。すべては社会でよりよく生きるために脳が進化してきたことを見ると、その脳の発達をどのように保障してあげることができるのか、子どもの環境としてどう用意することができるのか考える視点になります。

社会脳と規模

自己と他者を結ぶきずなとしての社会意識がどのように脳内に表現されているのかを探る気の遠くなる作業は、始まったばかりであると藤森平司氏は著書「保育の起源」で書いています。社会脳を研究する認定脳科学者・苧坂直行(おさかなおゆき)氏の著書「社会脳科学の展望―脳から社会を見る―」の一説には「脳というわずか1リットル半の小宇宙には、銀河系の星の数に匹敵するほどの膨大な数のニューロンがネットワークを形成し、相互に協調あるいは抑制し合いながら、さまざまな社会的意識を生み出しているが、その脳内表現についてはほとんどわかっていない」と言っています。

 

脳の研究は20世紀後半から現代にいたるまで、その研究を加速させてきましたが、それは主として「生物脳(バイオロジカル・ブレイン)」の軸に沿った研究であった。つまり、脳がどのような機能があるのかということを研究することが大半だったということです。しかし、21世紀初頭から現在に至る10年間で、研究の潮流は人を対象とした「社会脳(ソシアル・ブレイン)」あるいは社会神経科学を軸とする研究にコペルニクス的転回を遂げてきているというのです。

 

そして、社会脳の中核となるコンセプトは心の志向性(intentionality)にあるようです。志向性とは心の作用を目標に向けて方向づけるものであり、社会の中の自己と他者をつなぐきずなの基盤ともなる。つまり、この志向性がなければ人は人と関わることがかなわないという機能のことです。人類の進化とともに社会脳は、その中心的な担い手である新皮質(特に前頭葉)のサイズを拡大してきました。霊長類では群れの社会集団のサイズが脳の新皮質の比率と比例すると言われるが、中でも人の比率は最も大きく、安定した社会的つながりを維持できる社会成員もおよそ150名になると言われているのが2003年のダンバー氏の論文で言われています。

 

つまり、人が全員とつながりまんべんなく関わることができる集団は150人くらいの集団であり、これくらいの大きさまでは安定したつながりを持つことができるというのです。それ以上になると、顔は知っているけれど、関わったりすることが無かったりという人が出てくるというのです。このことを考えると大規模園では集団の作りかたを考えていかなえければいけません。また、少なくとも、よく3人寄れば文殊の知恵というように、この程度の集団成員に達すれば新しい創発的アイデアも生まれやすく、新たな環境への適応も可能になり、社会の複雑化にも対応できるようになると言います。人はこうやって他者と集団をつくる中でアイデアを出し合い、様々な環境の中で生存戦略を駆使してきたのでしょう。

 

そういった脳の進化の中、社会脳は個々のヒトの発達のなかでも形成されていくと言っています。たとえば、幼児は個人差はあるものの、およそ4歳以降に他者の心を理解するための「心の理論(theory of mind)」を持つことができるようになると言われています。これはこの年齢以降に成熟してゆく社会脳の成熟とかかわりがあるといわれています。他者の心を理解したり、他者と共感するためには、他者の意図の推定ができることが必要であるが、このような能力はやはりこの時期に始まる前頭葉の機能的成熟がかかわるのである。志向的意識やワーキングメモリがはたらき始める時期とも一致するのである。オキシトシンやエンドルフィンなどの分泌性ホルモンも共感を育む脳の成熟を助け、社会的なきずなを強めたり、安心感をもたらすことで社会脳と関わるということがわかってきた。

 

ヒトの集団の中で一番効率のいい集団の人数ということも分かってきているということは実に考えさせられます。特に子ども集団においても、海外ではもっと少人数で行っているところもあれば、日本のように1クラス30人ほどの集団を作っていることもあります。子どもと集団はよく議論にも上がってきます。脳科学を通して見ていくことで、集団の人数や見え方も少し変わってきますね。そして、集団と社会脳の成熟。集団を作るにあたっても、心の理論というものは非常に重要な要素となってきます。4歳ごろに前頭葉の成熟が起きるとあります。それまでにどういった環境で保育をしたらいいのかと考えます。ただ、言えるのは成熟したからできるようになるのではなく、経験があるからこそ成熟していくのであるということは忘れてはいけないのでしょう。つまり、それまでの子どもの経験というものは非常に重要になってくるのだと思います。

シナプスから社会

脳が進化を起こし、脳幹から大脳辺縁系、そして、大脳新皮質ができ、人はより複雑な能力を持つことができる動物に進化していきます。このように脳は進化の中でも様々な機能をつけていきます。科学雑誌「ニュートン」で「脳研究の今」という特集の中で「成長する子どもの脳では何が起きているか?」という記事を藤森氏は紹介しています。この研究は成長期の脳の中で起きる神経細胞のネットワークの変化について研究されており、その仕組みの解明が脳の発達障害の原因解明につながると言われています。

 

脳の神経細胞のネットワークとは神経回路と呼ばれるものですが、このつなぎ目を「シナプス」と言います。そのシナプスの数は、年とともに増えていくのではなく、1~3歳前後までは急激に増えていくのですが、その後は徐々に減っていくということが1970年代にはわかっていました。神経細胞はとりあえず最初は広く手をつないでおき、あとで不要な手を離すという戦略をとっているためと言われています。「多めに作って後で減らす」方式のほうが、「必要に応じて増やす」方式よりも、周囲の状況の変化に敏感に対応することができるからだというのです。

 

私の小さい頃は「脳の皺を増やしていかないと」ということがまことしやかに言われていましたが、どうやらそうではなく、あるものを減らしていくことで人は状況に応じた対応ができるのですね。ここでは乳幼児の手指運動が例に出されています。乳幼児が細かく指を動かせないのは指を動かす神経細胞のネットワークが広くつながり合っているためで、成長とともに不要な回路が無くなり、必要な回路だけが残ることで細かい指の動きができるようになるというのです。しかも、具体的な動きだけではなく、神経細胞自体の性質にも巧みな変化が起きているということがわかってきたそうです。

 

霊長類における脳の進化は集団生活に伴う社会関係の認知の必要性によって促されたと考えています。脳は体重の2%の重さしかないにもかかわらずに、約20%のエネルギーを消費するような、非常にコストの高い器官です。そのため、それほどのエネルギーを使うだけの見返りがなくてはなりません。霊長類の種間比較研究によると、新皮質のサイズと相関があった要因は、唯一、集団グループサイズだけだったそうです。つまり、集団が大きさによって大脳新皮質の大きさも変わるということです。

 

大きな群れの中で順位関係や親和関係を理解し、他者をうまく社会的に操作することが、生存や繁殖において重要です。さらに相手が何かを欲し、何をしようとしているかと心を読むことといった手の内を読み合うことも出てきます。こういった相手の行動への共感や予測が、人間の知性の進化をいっそう加速させてきたと言われています。

 

社会を作ることが脳を大きくすることにつながっているというはこれまでにも話に出てきましたが、社会とヒトというのは切っても切れない関係どころか、本質と言っても過言ではない重要な意味合いを持つということがわかります。「社会の一員とした資質を持つ」と言われるのは1脳の機能から見ても当然なことなのですね。