成熟か環境か

柳田国男や荻生徂徠のように日本においても、赤ちゃん研究はされてきました。日本においては赤ちゃんは神性なもとと見いだされ、特別な価値を与えられていた。と言われている一方で、乳幼児は疎外や無関心の対象でもあったとされています。乳幼児が阻害されるべき対象から保護すべき対象に代わったのも徳川綱吉の「生類憐みの令」によってからということが言われています。そして、日本においても、海外においても「無能な乳幼児」という考えがあったということを紹介しました。その後、様々な議論が出てくる中で、その見方は変わっていきます。

 

森口佑介氏の「おさなごころを科学するー進化する乳幼児観-」には19世紀後半頃、教育熱の高まりや医学の進歩により乳幼児教育が本格的に始まってきました。その研究は乳幼児の観察を数多くした「認知発達研究の父」とも呼ばれるピアジェの研究が中心になっていました。そして、乳幼児研究における方法論が議論され始めます。18世紀末にドイツの哲学者ディードリッヒ・ティーデマンの息子の観察記録がはじめに出てきました。その後。ヨーロッパの各地で教鞭をとっていた生理学者のウィリアム・プライヤーが学問における方法論の重要性を認識し、観察を科学的方法論にしたと言われています。しかし、その裏では様々な逸話の集積であった観察法を、科学的な方法論にすることにかなりの苦心をしたと言われています。

 

こういった観察法の確立によって、乳幼児の行動を明らかにしていきました。そして、20世紀初めにウィルヘルム・ブントがライプツィヒ大学に公式ゼミナールをはじめ、内観法を基に心理学は学問として第一歩を踏み出します。その中でも遺伝と環境の問題は学問としては始まったばかりで成熟を重視する考えと学習を議論する考えの対立があったといいます。米国の小児科医であり心理学者であったゲゼルはヒトの発達は遺伝的にプログラムされており、そのプログラムが発言し、準備状態になっていなければ、いくら訓練や経験を積んだところで意味がないという見解を出しています。それに対して、行動主義の代表的な心理学者であるワトソンなどはすべての行動は学習の賜物だとする考え方を持っていました。彼の著書で「行動主義の心理学」には「私に、健康で、いいからだをした1ダースの赤ん坊と、彼らを育てるための私自身の特殊な世界を与えたまえ。そうすれば、私はでたらめにそのうちの一人をとりその子を訓練して、私が選んだある専門家――医者、法律家、芸術家、大事業家(中略)――に、その子の祖先の才能、嗜好、傾向、能力、職業がどうだろうと、きっとしてみせよう」

 

この当時はまだまだ遺伝と環境は切り離されていた考えであり、それぞれの子どもにおいても、個体(子ども)と環境は切り離され、個体内の成熟か環境かのどちらか一方が独立して、知能や行動の発達に影響するという議論がされていました。そして、そのどちらの説も乳幼児は無能な存在であり、受動的な存在だとみなす立場に基づくものでした。

日本における子ども研究

これまでの子ども研究によって出てきた説は、ひとつは「生得説」。これはデカルトやアーノルド・ルーカス・ゲゼルらが唱えた説で、遺伝説(成熟優位説)とも言われています。発達の諸要因に関して、個体の発達は固体内の遺伝的素質によって規定されるという考え方です。つぎに「経験説」これはロックやジョン・ワトソンらが唱え、環境説(学習優位説)ともいわれています。発達の諸要因に関して、環境の影響が子どもの発達にとって決定的な力を持っているという考え方です。そして、「輻輳説」これはシュテルン、ルクセンブルガーらが唱えた説で、人間の発達の諸要因は遺伝的要因のみによるものでも、環境的要因のみによるものでもなく、両者の加算的な影響によるものであるという考え方です。そして、現在では、遺伝と環境の相互作用を重視する「相互作用説」が広く採用されています。この考えは「輻輳説」のように遺伝と環境の影響を切り分けて考えることできないとし、遺伝が環境に、環境が遺伝に影響を与え、相互作用する中で心の発達が生じるとしています。つまり最近の説では「遺伝なのか環境なのか」という問い自体が無意味になっており、どちらも影響し合いながら発達しているということなのです。

 

「生得説」から「経験説」、「輻輳説」、「相互作用」といった子ども研究を通して、数々の研究者が子どもの発達に対する説を見出してきたのですね。では、日本における乳幼児観はどうだったのでしょうか。柳田国男氏は日本の社会が7歳までの子どもに神性を見出し、特別な価値を与えていると指摘しました。それに対して、近世史学者の柴田純さんは「日本幼児史―こどもへのまなざし―」の中で、日本においては中世までは乳幼児は疎外や無関心の対象であり、保護するという考えが生じたのは近代に入ってから一部の知識のみで見られたものにすぎないと論じています。

 

江戸時代の儒学者 荻生徂徠(おぎゅうそらい)の言葉に「7歳以下は知も力もなき」というものがあるそうですが、その考えがロックの「無能な乳幼児」といった考え方に通じるところは面白いですね。荻生徂徠とロックは同時代の人だそうなので、その時代では、さまざまな文化で乳幼児は無能だという考えが一般的だったようです。また、疎外された存在であることと併せて、古代から近世に至るまで、捨て子は非常に多かったとされています。柴田さんによれば、江戸時代に入り、疎外される対象であった幼児が保護すべき対象に変化していったようです。政治的な要因としては、江戸幕府第5将軍 徳川綱吉の「生類憐みの令」と、その法令のうちのひとつである「捨子禁令」によって捨て子が禁じられたこと。社会的には、庶民においても継続性のある家制度が確立し、子どもを「子宝」と見て、教育する対象として捉えるようになったことをあげています。

 

日本において、乳幼児は神聖なものとしてみなされていたのか、それとも無関心の対象であったのかは、それほど簡単に決着がつくような問題ではないと思いますが、古く万葉集においても子どもを慈しむ歌があるように、古代や中世の人間のすべてが乳幼児を疎外していたわけではないのでしょう。

 

時代においてもやはり「子どもは無能」と思われていたということはどの地域でも一度は議論の中に出てくることなのですね。しかも、だいたい同じような時期にこういった議論が出てきたというのは社会情勢的なものも含まれているのでしょうか。こういった子ども研究の変遷を見ていくことで見えてくるものがあります。そして、こういった流れの中から、日本でも子どもの見方が変わってくることになります。それはどういった変化なのでしょうか。

子どもと進化論

子ども研究の始まりが「知識はいつから持つようになった」のかという純粋な疑問から出てきたことから始まっているというのを前回紹介しました。そして、そこから赤ちゃんは何も知らない状態から生まれるという「白紙説」と生まれながらにして観念や知識をもっているとする「生得説」の議論が行われていました。そういった時代を経て、乳幼児観や発達心理学に大きな影響を与えた人物がいました。それがチャールズ・ロバート・ダーウィンです。

 

その著書「進化論」には「生物にはさまざまな個体差があり、環境に適応できる個体は存在すること、生存した個体はその形質を遺伝によって子孫に残すこと」という考え方を出したのです。つまり、環境に適応するように進化し、適応した姿を維持するために遺伝子を残し伝えていくといった生物の「進化」を見出したのです。この考えは遺伝的要因の重要性を示唆することになり、ジークムント・フロイトやジャン・ピアジェ、ジェームス・マーク・ボードウィンといった、心理学の偉大な先人たちに大きな影響を与えています。

 

「進化論」以前にもっとも主流だった世界観が「神が生命を創り出した」という創造論でした。しかし、これはヒトと他の動物との間の非連続性を強調するものでした。人は他の動物から進化したものではないという考えかたですね。進化論によって他の動物との連続性が科学的な視点から理解されると、ヒトも他の動物との連続性からヒトの個体発生について考えるといった空気が出来上がってきたのです。

 

「進化論」が発達心理学に与えた影響は「個体発生は系統発生を短縮した形で繰り返す」という生物学者エルンスト・ハインリッヒ・ヘッケルの生物発生原則(反復説)に典型的に見られます。ある個体が個体発生の中で遭遇する次の段階は、その祖先が系統発生の発展過程において通過した生体の段階を反復するという考え方です。つまり、個体発生(子どもが生まれる)中で、祖先の系統発生(過去の進化でたどってきた動きなど)は発達過程の中で見えることができ、これまでの進化の過程を学びなおしているというのです。ダーウィンも個体発生と系統発生の間に関連があると考えていて、それは彼の「先祖返り」に関する議論に見られるそうです。先祖返りとは「生物が進化の過程で失った形質が子孫にある個体に偶然に出現する」とされています。ダーウィンはある形質の発達が阻害された場合に、その形質は当該の生物が別の種と枝分かれする前の共通祖先が持つ形質に類似することがあると説いたのです。常に生物は環境によって適応しており、過去の進化の中で培った能力を使って、共通先祖である形質に似てくるというのですね。確かにチンパンジーと人間を比べても系統は同じでも、環境において違った発達をしているのがわかりますし、その反面、似ているところを見出すこともできます。

 

彼はわが子の観察日記をもとに著した「一人の子どもの伝記的素描」を「いくつかの能力の発達時期は、子どもによって、それぞれかなり異なるだろうと思っている」と個人差の問題から始めています。この中でダーウィンは乳児のさまざまな側面について記述しています。

運動面では生後数日間に見られる息子の反射行動を書きとどめ、「まばたき」が生理的なものであると断じています。感覚・知覚能力については「彼はすでに生後9日目にはろうそくを注視した」と述べ、視覚や聴覚は比較的早期から原初的には機能していることを示唆しています。それに対し、観念や推論、記憶などの認知的な能力や道徳観上は、比較的発達が遅いことも認めています。しかし、かれもまだまだ全体的には乳幼児の知的能力は低いものだと考えていたようです。

 

ダーウィンが出てくることによって、かなり根拠や理論的な子ども研究が見られてきたのですね。初めは哲学的なところから始まった子ども研究が次は思想的になり、進化論につながっていくことで、子どもの見方は多角的な議論がされてきたのですね。そして、20世紀初頭になるとIQ(知能指数)という概念が生まれてきます。この概念を作った心理学者ウィリアム・シュテルンらによって新しい考え方が開かれていきました。心の特性が遺伝的に決まっているのか、環境によって決まるのかという問題です。これが「輻輳節(ふくそうせつ)」です。

子ども研究の始まり

「人が知識を持ち、その知識はどこからくるのか」ということは、ギリシア哲学の時代から問題にされていました。プラトンは「学ぶということは、以前から持っているその概念、そして、生まれるときに忘れてしまうその概念を想起することにほかならない」という「想起説」を説いています。近代では「生まれながらにしてある概念や知識を備えている」と考える生得主義の代表がフランスの哲学者ルネ・デカルトです。

 

それに対応して、経験主義の代表は、ジョン・ロック。フランシス・ベーコンに端を発するイギリス経験主義の確立者とされるロックは「人間知性論」において、知識の起源を求め、生得的な心のあり方を強く否定し、乳幼児を「白紙」だとみなしていました。彼の「タブラ・ラサ」という言葉が有名で「拭われた石板」という意味です。つまり、何も書かれていない書板の意味で、ロックは「人間知識論」の草稿でこの語を用い、「人間知識論」では「白紙(white paper)」という語を用いました。彼は「子どもがこの世に生まれたばかりの状態を注意深く考察する者は、子どもが将来の知識の材料になるような観念を多量に蓄えていると思う理由を全く持たないだろう。子どもはそうした概念をだんだんに備えるようになるのである」と述べています。ロックは乳児を白紙の状態と捉え、知覚の始まりは観念の始まりであり、知覚経験が不足している乳幼児は、観念も不足していると考えました。乳幼児を、知識や思考、観念の不足した無能な存在だとみなしていたのです。

 

一方で、フランスの哲学者であり、教育思想家であるジャン=ジャック・ルソーの子どもに対する見方はかなり違っており、かれは子どもを植物に例えました。植物はアスファルトの上にぽつんと置かれていたら、枯れてしまいます。成長のために水や土などが欠かせません。そうはいっても、水をやりすぎても、植物は枯れてしまうというのです。ルソーは「子どもは素晴らしい力を秘めた存在ですが、教育なしでは堕落した存在になり、教育のし過ぎでも堕落してしまう」と言います。このころ彼はヨーロッパで蔓延していた管理的な教育方法や過剰なまでの早期教育について反感を抱いていました。彼にとって子どもは自分で生き抜く生命力を持った存在で、教師や周りの大人がしなければならないのは、その成長を見守ることだというのです。

 

その意味ではルソーは生得性を強調した立場であるみなされることがあると言えます。しかし、彼は生得性を強調する一方で、乳幼児に知識や観念があるとはみなしていなかったようです。ある架空の子どもの成長記録として書かれた彼の主著「エミール」の中で、「私たちは学ぶ能力があるものとして生まれる。しかし、生まれたばかりの時は何一つ知らない。何一つ認識しない。不完全な、半ば形作られた器官のうちに閉じ込められている魂は、自己が存在するという意識さえ持たない。生まれたばかりの子どもの運動や叫び声は純粋に機械的なもので、認識と意志を欠いている」と書いています。彼のこういった成長をテーマとしたこの著書は、後世に大きな影響を与えます。

 

子どもの研究はそもそも、「人がどのように知識をつけていくのか」というところから端を発しているのですね。現在では脳科学が発展してくることで白紙論が否定されてきていますが、この議論の始まりでは白紙論ではなかったのですね。そして、様々な説の下、白紙論が出始め、管理的な教育方法や早期教育が出る中で、ルソーのようなアンチテーゼを出す人が出てくるというように、常にその考えは紆余曲折しているということがわかります。そして、白紙論か生得論かという議論の時代を経て、また新たに乳幼児観や発達心理学に影響を与える論調が出てきます。

学ぶプロセス

東洋経済オンラインの2019年10月10日の記事にこんなことが書かれていました。「『子どもが嫌がる勉強』を続けさせる親の大問題」この記事を書いた 教育デザインラボ代表理事、都留文化大学特任教授 石田勝紀さんが書かれたコラムです。そこで書かれた内容には考えさせられるものがあります。

 

今回の内容は石田氏が相談者の相談を基に書かれています。そこには「自分の娘が、3歳から塾で3教科習っていますが、小学校一年生になって塾を嫌がるようになった。」という相談がありました。そこでは塾に通う子どもがだんだんと英語や算数が難しくなってきており、わからないところが出てきていることや宿題の量が多いこと、苦手な算数はとくに苦手であり苦戦し、これからどうしたらいいのかということに悩んでいる相談です。

 

このように石田氏に全国から勉強量に対する相談がよく寄せられてくるそうです。そして、そのなかでも「多くの人が子どもたちの勉強量が少なくて困っている」という相談が多いそうです。その結果、塾や学校に「もっと宿題を出してください」という人も少なくはないようです。しかし、その一方で、学校や塾の宿題の量が多く、子どもたちが塾に行くのを嫌がること勉強が嫌いになっているという相談も同時にあるようです。つまり、実際の子どもの学力水準と学校や塾から出される勉強量があっていないことで、子どものキャパシティーを超えてしまうことがあるのではないかというのです。

 

しかし、石田氏は問題の本質は「嫌になった原因は塾や学校のやり方にある」のではないと言っています。その本質は「子どもが嫌がり続けているのに、親はなぜそれをまだ続けさせるのか」にあると言っています。特に今回の相談は学校ではなく、塾の話です。そのため、合わないならやめるという選択も取れ、親に選択権があるのです。そして、問題の根本が親のある心理状態に問題があるのではないかというのです。

 

石田氏は「子どもが嫌がっているのに、親が継続させようとするのはなぜなのでしょうか?」と質問をすると次のような回答がだいたい返ってくるのではないでしょうかと言います。例えば、「根気強い子にならないのではないか心配」「勉強ができなくなるのが心配」「子どもの将来が心配」といったものです。しかし、これらは本当の理由ではなく、次のことが本音の理由だったりするというのです。それは「子どもがやるべきことをやらない人間になっていくと、親である自分が困るから」ということであり、その本質には「子どものためではなく、親が自分の心を安定させたいからということ」が背景にある可能性があり、実際それが実像ということが少なくないそうです。そのため、空回りしている自分に気づくのが大切であると言います。自分の心の安定は、子どもを使うのではなく、自分で自分を安定させていく方が良いということに気づかなければいけないと言います。子どもの教育に一生懸命になるがゆえに空回りになっている自分に気づくことで正しい判断ができるようになるのです。

 

そして、「人が伸びていく原則」を紹介しています。それは「人財」育成の原則と石田氏は呼んでいるそうですが、それは「良い部分をさらに伸ばしていく」ということです。「苦手な科目に時間を使いなさい」といった状態で行うと、勉強に対するイメージはさらに悪化する可能性があるというのです。それよりは好きな科目に時間を使うことで、勉強に対する心の状態を安定させるようにするというのです。そして、それを続けることで、他教科にも自信を取り戻し、できない領域を自己修正していくようになると言います。無理に勉強量を増やすのではなく「やっていて楽しい」「面白い」と思える心を作っていくことが大切だというのです。

 

今回は親と子どもにおいての話でしたが、私は「保育者と園児」に置き換えることもできれば、「管理者と職員」にも言えますし、「上司と部下」といった構図においても同じことが言えるのではないかと思うのです。私は「無いとこねだりではなく、あるとこ探しをしよう」というのを心掛ける必要があると思います。石田氏の言う原則と似ているところがありますね。大人も子どもも、やはり意欲や自信というものが原動力になりますし、自信があるからこそ、意欲にもつながっていくのだと思います。そして、そのためには、当人自身が当事者意識を持つ必要があり、自分で行動したことが成功するから達成感につながるのです。人はそうして、学ぶことに貪欲になっていくのだろうと思います。そして、そのプロセスは大人も子どもも変わらないと思います。そして、そういった環境を作ることがなによりも重要なのです。