心の理論と学び

自分の心と他者の心を推測することといった「心の理論」はいつごろ獲得されるのでしょうか。先日のブログの中でも少し触れた部分なのですが、これまでは4~5歳児から自分と他者との関係がわかってくると考えられていました。これは「誤信念課題」といわれる方法によってわかってきました。それはどんな方法だったのでしょう。

 

例えば、男の子と女の子が部屋で一緒に遊んでいます。男の子がボールを籠の中に入れて部屋を出ます。男の子がいない間に残った女の子がボールを別の箱に移します。そして、この場面を被験者に見せて「男の子は最初にどこを探すと思いますか?」と聞きます。正解は初めに男の子がボールをいれた「籠」です。しかし、箱と答えてしまう場合は「心の理論」が得られていないということになります。この方法に対して、従来は4~5歳児は正しく答えられますが、それまでは他者が自分とは違う見解を持っていることを想像できないため、自分が知っている方を答えるといわれています。

 

しかし、この結論もどうやら違ってきているそうです。「3歳以下の子どもは心の理論をもたない」という定説を覆したのは2005年の科学雑誌「サイエンス」にある当時、イリノイ大学の大学院生であったクリス・オオニシらの論文であると藤森氏は言っています。赤ちゃんが数、引き算を理解しているという実験ですが、それによって月齢15カ月の赤ちゃんでも誤信念課題(他者の気持ちがわかる)ということがわかったそうです。こういった研究はまだまだ賛否両論であり、異論も多くあるそうです。しかし、このように様ざまな観点から「乳児が他者の行動を理解するメカニズム」を解明しようとしているのです。

 

人の真似をすること、模倣行動は社会行動の中でも最も重要な働きであると言われています。それは真似をすることで、試行錯誤なしで効率よく学ぶことができるのです。そして、ヒトの文化的な行動は「ヒトからヒトに伝えられてきたのである」ということもできるのではないかというのです。以前、民俗学の観点から子どもの文化を見ていても、大人の行動にとても興味のある子どもたちは様々なことに興味を持って模倣してみようとします。そして、その活動の中で、道具の使い方や食べ物の扱い、危険なモノへの対応などを学んでいきます。それはただ連合記憶のみに頼るやり方では、他者の行動を素早く真似ることはできないと言います。相手の行動とその文脈から行動の目的を推論し、同じ目的を達成するような自分の行動を生み出すことができたときに可能になります。それかまたは、相手の動きをあたかも自分の動きのように処理することによって、その行動に関わる一連の運動を体験し、学習することが可能になります。それが「目的論」や「シミュレーション論」というものです。

 

つまり、ただその物事を覚えるだけでは真似できないというのです。相手の意図がわかっていないと真似もうまくいかないのですね。勉強においても同じことが言えるのかもしれません。応用までできるようになろうと思うと、ただ覚えるだけでは応用はできません。何か目的がないとそこまで理解しようとする意欲は湧かないのかもしれません。「模倣から学ぶ」ということは結局のところ意欲が出やすい環境なのだと思います。社会脳は人間関係だけでなく、「学ぶ」という学習意欲にも影響するのだと思います。

脳の進化と遺伝子と環境と

生物の発達を考えるにあたって、それが生まれつきなのか、その後の環境によってなのかは大きなポイントになってきます。藤森氏は「保育の起源」の中で「私は、生まれながらに持っている遺伝子は、長い進化の過程でその種が生存し、子孫にその遺伝子をつないでいくように作られているのだと思います。」と言っています。たとえば、タンポポは花を咲き終えたら、綿毛になり種を風に乗せて飛ばします。この営みは遺伝子に組み込まれた活動です。しかし、その種が落ちる場所はどこに落ちるかわかりません。なぜなら、どの環境に落ちるかは遺伝子に組み込まれていないからです。落ちるところは子孫を残すには最適な場所ではないかもしれません。しかし、10本のタンポポから10本以下しか増えなければその種は滅びてしまいます。そのため、ばらまく種の数やそのリスクを計算して種を多くし、風に効率的に乗って遠くに飛ぶように進化していきます。つまり、環境要因のリスクを減らすために進化発達するということは環境も無縁ではないのです。また、環境によってその数では対応できない状況が起こることがあります。そのときには落ちた環境に適応できるような能力を次第に獲得していきます。それは長い進化の過程の中で行われていくだけではなく、その時々にも適応できる遺伝子も兼ね備えていて、その環境ともとからの遺伝子との相互関係によって変化させていくのです。藤森氏は「それはまさに『柔軟性』であり『遊び心』であると思っている」と言っています。

 

「社会脳の発達」を書かれた千住氏はこのあたりのことを脳科学の観点からこう考えています。「『脳機能は局在する』『脳機能の局在は経験によって変化する』という発見は、現在の根幹をなしています。一見矛盾するこの知見は、脳機能の局在が脳の構造発達と環境からの入力との相互作用によって創発するという、相互作用説によってうまく説明できます」そして、その相互作用説に基づくのであれば、「脳の発達だけでも社会環境だけでもなく、その両者が発達の過程でどのような相互作用を見せるのかを、丁寧に追いかける必要があります。そのためには発達初期である乳児期から、ヒトの発達の過程を直接研究対象とする必要がある」と言っています。タンポポと同じように人間の脳の発達においても、そもそも脳の中にある遺伝子やその機能と社会環境との相互作用によって発達進化しているということが言えるのではないかと言っています。そして、そのために乳児期から発達する過程を直接見ていく必要があるといっています。

 

しかし、その研究では次のような課題を考えていると千住氏は言っています。「社会行動や社会的認知の脳神経基盤を発達認識神経学の手法を用いて探る、「発達社会神経科学」とでも呼ぶべきかもしれないこの研究方略は、言葉を話さず、運動能力や注意の持続、体力などに大きな制限のある赤ちゃんを対象に、どうすれば認知や脳機能を計測できるか、という技術的な因果を避けては通れない」と言っています。このことに対して藤森氏は「このような研究に対して現場(保育現場)の立場からすると、『臨床保育学』という視点を持つべきだ」と言っています。そうしたうえで「そうはいっても、最近の技術革新により、乳幼児期の行動や脳機能を無理なく測定することは格段に容易になり、体系的に進めることが可能になってきているようです。特に、乳幼児や児童を対象とし、彼らが直面する社会的な環境への適応について、脳科学の手法を直接用いた研究を行うことにより、新しく刺激的な知見を次々と獲得しつつあるようです」と言っています。

 

これまでの内容を見ても、かなり具体的に脳がどのような作用をして、社会性を発達させているのかということがわかってきているように思います。そして、そのことに対して保育や教育というのは無縁ではなく、この研究で解明されていることはまさに保育現場で普段から子どもたちの脳の中で行われているということを忘れてはいけないのです。そして、それほど重要な部分に関わっているということを改めて考えていかなければいけませんね。

脳の大きさと発達

社会脳がヒトの脳にはあり、ミラーニューロンによって相手の行動を自分の行動のように感じることができるようになっているというのが解明されてきました。しかし、まだまだ人間の脳は解明されていない未知の部分がたくさんあるようです。そんな中、「人の脳の発達にチームワークが大きく影響している」というのがAFP通信の記事で出ました。それはアイルランドと英国のスコットランドの研究チームが出した「人類は仲間とのチームワークを通じて脳を大きく発達させてきた」というものです。

 

研究チームはコンピューターを用いて、社会生活における困難な状況に応じて神経回路網を発達させる人間の脳についてのシュミレーション実験を行いました。いくつかのシナリオの中で利己的な選択をしたほうが自分の得になるようなシナリオでしたが、この実験を通して「脳が発達するほど他者との協力を選択する」といった結果が導きだされたそうです。

 

「ヒト科の祖先と比べ、なぜ現生人類ホモ・サピエンスの脳は大きくなったのか」という疑問は長らく、科学者らの間で謎のままでした。しかし、この研究チームの論文でも社会的交流に脳の大きくなった理由が隠されているという結果が出ていました。このチームでは「生き残るために欠かせないのが他者との協力。そこで、多様で複雑な〈社会〉に対処していくためには脳を発達させる必要があった」と見ています。

 

この論文の共著者であるアイルランドのダブリン大学トリニティカレッジのルーク・マクリナーはAFP通信の取材に「グループ内において他人同士が協力することはよくあるが、これには認識力が要求される。誰が自分に対してなにをしていて、それにどのように対応すべきか常に頭を働かせておく必要があるからだ」と語っています。そして、それと同時にグループ作業では相互関係を計算するときに「もしも共同作業で私がずるをしたらあなたはその次の時には『あいつはこの間ずるをしたから、もう協力しないぞ』と考えるだろう。つまり基本的に今後も相手の協力を得たければ、自分も協力せざるを得ないということだ」と指摘しています。さらに、チームワークと脳の力は相乗効果で高め合う関係にあり、より強力的な社会へ移行するにつれ、複雑多様な社会が脳の発達も促進していったのではないか推測しています。そして、「一度、知性が高レベルで発達を始めると、協力行為もより高いレベルで進歩する」と話しています。

 

つまり、ヒトの関わりの中で「競争」から「協力」に移行していったといい。脳の知性が高レベルに達していくとまた、その競争は複雑になり、それに対応して強固な社会が作られ、協力関係もより深くなっていくといったように、様々な事象や状況の中で対応していくうちに脳の発達につながってきたというのです。しかし、面白いのがこういった様々な状況で争いもあったでしょうが、最終的に工夫し協力するための方針をもって、社会を大きくしていったという方策をヒトはとったということです。もし、そのときに利己的な行動ばかりをとっていると人はすでに滅んでいたのでしょうね。自然と協力関係を築いていく中で、各々の「責任」があったということなのでしょう。そして、その責任が「ルール」を作り、社会の中で「掟」となり、その集団がより大きくなっていったのだと思います。こういった生存戦略も脳の発達を通して見るとまた違った見え方がします。そして、本来のヒトも見えてきます。

反射から運動へ

身体と脳の機能は大きく関係していると言います。五感を通して得た情報を知覚し、身体運動との相互のやり取りによって認知能力が増していくというのが言われています。そして、その運動には2通りあるそうです。そして、この2通りの運動の移行が、発達に影響を及ぼしそのスムーズな移行が保育の大切な課題になってくると言います。

 

赤ちゃん特有の運動に「原始反射」という行動があります。この反射は、新生児や乳児に見られる、外からの刺激に対して意識の関与なしに起こる「無意識の運動」です。これは「不随意筋」と呼ばれる筋力の作用です。赤ちゃんの手を指で触れると握ります。それは意図して握り返しているわけではなく、「把握反射」と呼ばれる無意識の運動です。また、抱き上げると歩こうとするかのように足を前に出しますが、これは「原始歩行」というこれも無意識の運動です。

 

胎児期の脳幹や脊髄の成長とともに原始反射が始まり、大脳の機能が進むことで生後しばらくすると自然に消えていき、代わりに本人の意思によって手足を動かす「随意筋」が出現するのです。この移行は赤ちゃんの経験の積み重ねによって進んでいきます。たまたま、クレヨンを持って描いた線や丸を、描くことを繰り返すことで、次第に自分の意志で描くことができるようになってくるのです。このときには、経験が大切であると同時に、「自発的な運動」が重要になるのです。

 

運動と脳の機能の関連性は大きいのですね。乳児の子どもは特に反射行動から自分の意志で手足を動かすようになります。初めはつかむ活動であったのが、指先を使った微細運動を行うようになり、どんどんその指先の機能は細かくなっていきます。そこで大切なのはいかに必要な時に必要な活動ができるのか、つまり「やりたいときにできるような環境」を作ることができるかということです。「~歳児だからこういった環境」といった大人の先入観だけでは「自発的な運動」の機会を失してしまうかもしれません。そのため、意欲がある瞬間を見通して用意をする目線が重要になってきます。また、その意欲を引き出すためには他児の影響も少なくはないでしょう。人は少し先の発達の子どもをモデルにして意欲を持つと言います。意欲を持ち行動をしていく中で、経験を積み重ね、自分の意志で動かすことを覚えていくのであれば、大人が誘導し、その動きを促すよりも他児と関わりモデルを示し、自らやろうとする機会を増やす方がより自発的な運動をする機会につながるのではないかと思います。だからこそ、乳児の食事の環境はお互いを見合う活動が増えるような環境作りを作っています。

 

一つ一つこういった理論を参考にしながら環境を作ることで、より発達にあった環境に近づくのではないかと思います。しかし、その根底には「子どもの自発性」や「主体性」をしっかりと捉え認めていかなければできないように思います。そのために、「子どもはどのように発達するのか」「生きる力」とはどういった力なのかを知らなければいけません。そして、それはこれからの社会を見通したうえで本当に必要な力なのか、その生きる力として優先順位が高いのかをしっかりと見極めていかなければいけないのだと思います。

運動って?

人間は、他者を通して自分を理解すると言われています。そして、自分を評価する他者が多様であればあるほど、自分というものが見えてきます。母親からだけの評価では、社会に出てから他者から違う評価を受けたときに、心に打撃を受けてしまい、自分のうちに閉じこもってしまうことになりかねないと言います。そのため、異年齢の中での育ちはとても重要なようです。そして、人は人とコミュニケーションするときには必ずしも言語によらないことがわかっています。しかし、言語によるコミュニケーションにしても、非言語によるコミュニケーションにしても、人間は五感を使って外からの刺激を感じ、その情報を脳に送り、その刺激を理解し、判断するという行為を行っています。そして、その情報を整理し保存しておくことで、お互いの意味の合意ができ、次回の会話が成り立っていくと藤森氏は言います。

 

そのため5つの感覚で構成されている五感はあくまで入り口であり、刺激を受けることで外界にある事物や事象を意味あるものとして対象になったときに、五感で感じたものが「知覚」になります。つまり、発達は「自分から環境に働きかけること」が必要になってきます。「脳の地図は体との関連でできてくる」と言われることがあり、生まれ持った体や環境に応じて、また体の使い方の習熟・開発に応じて脳は「自己組織的」に体を作り上げていくということと言えます。そして、この体の使い方を「運動」と言うと言っています。

 

このことを考えると「運動」は走ることやボールを投げること、野球やサッカーといった競技をすること、健康や身体を鍛えることを指すことが多いですが、「運動」は「体が動く」こと自体を指すとするならば、少し違ってきます。たとえば、赤ちゃんが音のする方に目を向けたり、動くものを目で追う行為は、視覚、聴覚を使って感じた知覚を、運動によって認知しているのです。この一連の動作を運動と言い、身体が高機能でないと脳機能も高機能にならないのです。しかし、実際のところ、人間は脳のほんの一部しか使っていないといわれています。しかし、それは将来予期せぬ環境に出会った時に、スムーズに対応できるための一種の「余裕」ともいわれ、また、使いこなされている脳の能力のリミッターは脳ではなく、体にあると言われています。人は感覚によって得られた情報を知覚し、身体運動との相互のやり取りによって認知能力が増していくというのです。

 

つまり、「運動」には一般的な運動と五感や知覚をもとに運動によって知覚していくといった運動があるということです。そして、この後者の運動には大きく2通りあると言われているそうです。